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モンスターのご主人様 作者:ショコラ・ミント/日暮 眠都

2章.モンスターを率いる者

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19. 眷属として、ご主人様として

帰国しました。
   19


 樹海の犠牲者たちの弔いを終え、おれたちは地上へと帰還した。
 解放感を覚えたのは、閉鎖空間にいたことばかりが理由ではないのだろう。先程までいた地下霊廟の空気には独特の質量があったように思う。

「このあとですが、孝弘殿と美穂殿は訓練に合流されるつもりでしたか?」

 地上に出てきて、さあこれで解散だろうかと思ったのだが、そこでシランから提案があった。

「先程団長から聞いたのですが、他の勇者様方はそろそろ訓練を切り上げるそうです。そこで……その、わたしの事情に付き合っていただいたことで機会を逃したのですから、僭越ながらわたしが剣術や槍術についてお教えしようかと思うのですが、いかがでしょう?」

 正直、悪くない申し出だった。
 これまでおれがやってきたガーベラとの訓練は、戦闘に体を慣らすという意味では非常に有意義なものだった。しかし一点だけ、武器の扱いについて問題があった。
 ガーベラは優れた戦闘者ではあるものの、小細工なしで圧倒的な戦闘能力を誇るために武術の心得がない。修得していないものを教えることは当然できず、一方でおれのような弱い人間が仲間たちの足を引っ張らないだけの戦闘能力を手に入れるためには、武術という名の小細工は絶対的に必要なものだった。
 そういう意味で、シランの提案は悪いものではない。
 短い付き合いだが、シランの性格はある程度わかっている。『勇者』に対して……いいや、相手がたとえそうでなかったところで、『自分に指導が行えるだけの能力がある』と判断しなければ、誠実な彼女がこの手の申し出をすることはないだろう。すなわち、最低限他の転移者たちが受けている以上の指導が見込めるということだ。
 どうせシランにはおれが魔力が扱えることは悟られてしまったのだし、いまとなっては、訓練によってそれが露呈することを恐れる理由はない。その場に他の転移者はいないということだから、気だって楽だ。また、どのようなかたちであれ一度でも訓練をしていれば、これから先の訓練への不参加に言い訳が立つだろうという打算もあった。
 リリィに目配せをしたおれは、彼女の頷きを確認してシランへと向き直った。

「じゃあ、頼めるか」
「はい」

 頷くシランは嬉しげに笑う。そうしていると謹厳な雰囲気も薄れ、年頃の少女らしい華やいだ部分が表に出てくる。多少なり打ち解けてくれているところがあるのかもしれない。
 そこに、泣き腫らした顔を洗って恥ずかしげなケイが戻ってきて、おれたちは揃って練兵場に移動した。
 そこで少し計算が狂った。転移者たちが引き払ったあとの練兵場では、兵士たちの通常の訓練が行われていたのだ。
 無理を言えばおれたちのためにスペースを作ってもらうことも可能だっただろうが、勇者としての強権を発動させるのも気が引ける。どうせおれたちだけなのだし、それほど広いスペースは必要ない。おれたちはもっと狭い部屋に案内してもらうことにして、そこでシランから武術の手ほどきを受けた。
 といっても、一日程度でできることは限られている。今日は剣の振り方を教わるくらいで終わってしまった。
 それでも打ち込みの際の体重の移動から刃筋の立て方まで学ぶべきことは多かった。特にシランの教え方がよかったのもあるのだろう。実践できるまでには、まだまだ時間がかかるだろうが。
 ちなみにリリィは早いうちに訓練を切り上げて見学に回っていた。
 これは別にサボっているわけではなく、モンスターである彼女の異様な体力を勘繰られることのないようにするためだった。
 実際、流れている汗の種類が変わるような一幕もあった。

「孝弘殿の魔力の扱いは、独特のものがありますね」

 体を動かしていたことで火照っていた顔面から、一気に血の気がひいた。
 おれの魔力の扱いはガーベラ――ハイ・モンスターである白いアラクネに習ったものだ。そもそも、ガーベラ他の眷族から魔力を受け取っているので、魔力の質自体がふつうの人間とはちょっと違っている可能性もあった。それを、まさか悟られてしまうとは。

「そんなことがわかるのか」
「これは精霊使いの特徴です。魔力の扱いに秀でていなければ、精霊と交感することは叶いませんから」

 大概、エルフというのもチートな気がした。
 だからこそ、彼らは迫害を受けたのかもしれないが。

「おれは独学だったからな。シランが知っているふつうの兵士とは、魔力の扱いが違うこともあるのかもしれない」
「いえ。たとえ独学だったとしても、ふつう、そんなふうに魔力は流れないはずです」
「……そ、そうか。だったら、そうだ。おれが転移者だからじゃないか。おれはもともと、この世界の人間ではないわけだし」
「なるほど。確かにそうかもしれません。勇者様なら、なにがあっても不思議ではありませんか」

 こんな一幕はあったものの、それ以外は特に問題なく充実した時間を過ごすことができた。
 結局、おれは夕方までぶっ通しで訓練を続けていた。
 窓のない部屋だったこともあり、気付いたら夕方になっていたのだ。
 夕食を食べ損ねてしまったおれたちのために、シランは夕食をおれたちの部屋へと運ぶ手配をし、ケイは訓練を終えたおれのために飲み水や汗を拭う布を準備してくれた。
 リリィは訓練を終えたおれの汗を拭ったりなんなりと世話を焼いて楽しげだった。護衛でもある彼女はずっとおれの訓練風景を見守っていたのだが、退屈しそうなそんな時間もずっと楽しげにしていた。

「なぁに?」
「……いや」

 じっと見ていると、気付いたリリィがこちらを向く。おれは首を横に振った。
 楽しげにしている彼女の姿が見られるのは、おれにとっても嬉しいことだ。おれは鼻歌まじりに世話を焼くリリィの好きにさせておくことにしたのだった。

   ***

 夕食の手配を終えて戻ってきたシランに礼を言い、おれはリリィと連れ立って部屋に戻ってきた。
 ケイが部屋に持ってきてくれた湯で体を清め、ジャージに着替えてから、運ばれてきた夕食を摂った。

 今日一日、窮屈な思いをさせていたあやめたちの相手もしてやらなければならない。
 直球で愛くるしいあやめも、見た目は奇妙なアサリナも、おれにとっては可愛い仲間だ。じゃれつかれるだけで癒される。甘噛みされ、鼻面を押しつけられ、巻きつかれる。ひょっとすると、おれのほうが彼女たちに相手をしてもらっているのかもしれない。そう思えるくらいに、それは気の休まる時間だった。
 それだけ、おれが疲れていたということでもあったが。

 しばらくあやめたちと戯れたあとで、おれはベッドに寝転がった。自然と重い吐息が漏れた。
 今日は体を動かしたから……というだけではない。精神的な疲れがあった。
 この砦にやってきてからこのかた、部屋にいるとき以外は常に気を張り詰めている。そういうと、モンスターの襲撃を警戒し続けていた樹海にいたときと同じようにも思えるが、おれの感覚的にはこちらのほうが大変だった。
 眷族以外のモンスターはおれの姿を見かければすぐに襲いかかってくる。白か黒か。樹海にいるときは、ある意味で対応については楽なものだった。
 けれど、人間はそうではない。言うなれば、彼らは灰色だ。すれ違う人間の全てを警戒しなければならず、それでいてこちらからの攻撃は許されないのだからたまらない。
 今日は一日中砦で過ごしたので、疲労も相応に蓄積していた。
 骨折り損のくたびれ儲けというわけではないことだけが幸いか。ここにやってきたことで知ることができたことは多い。その一方で問題が解決する兆しはまるでないのは頭を抱えるところだった。知れば知るほど、困難な状況が浮き彫りになるかのようでさえある。
 これから今日一日を振り返って、リリィと話し合わないといけない。それはわかっている。けれど、天井を見上げていると次第に意識が遠ざかっていって――……

「……あ、ご主人様、起きたの?」

 ――何時の間にか、寝ていたらしい。額を押さえておれはちいさく呻き声をあげた。

「……どれくらい、寝ていた?」
「それほど長い時間じゃないよ。いま、夜半を過ぎた頃じゃないかな」

 正面には横向きのリリィの顔がある。彼女はふとももの上に置いたおれの頭を抱くようにしてベッドに座りこんでいた。
 言い換えると、おれはベッドの上でリリィに膝枕をされていた。距離が近い。女の子の甘い匂いが強く香った。
 もう一方のベッドではあやめがまるくなって寝息を立てている。アサリナはおれたちが会話を始めたことを察して、ひょこひょこと頭部を揺らしてこちらの様子をうかがっていた。

「リリィ?」

 そして、リリィ。
 彼女は膝枕をした体勢で、こちらを真剣な眼差しで見詰めていた。様子がおかしい。

「……なにかあったのか?」
「ううん」

 リリィは静かに首を振る。実際、くぅくぅとあやめの寝息が響く部屋は平穏そのものだ。とすると、なにかあったのはいまではないのか。
 おれは咄嗟に今日一日あったことを思い返した。しかし、リリィにこんな目をさせるような出来事を見付けることはできなかった。
 むしろリリィは今日ずっと上機嫌だったように思う。
 幹彦と雑談をしていたときも、シランと訓練をしていたときも、楽しげにおれのことを眺めていた。
 いまから考えてみれば、ちょっと奇妙に思えるくらいに、彼女は機嫌よくしていたはずなのだ。

「ご主人様」

 おれのことを呼んだリリィは、整った容貌に笑みを浮かべる。
 砂糖菓子みたいに甘い少女の微笑み。だが、おれの目には何故だかそれが、彼女が抱え込んでいるものを隠すために浮かべているもののように見えた。

「ねえ、ご主人様。これから先どうするのかってことだけどね。提案があるの」

 おれがなにか尋ねる前に、リリィがいう。唐突に振られた話題に戸惑いつつも、おれは問い掛けた。

「なにか思いついたことがあるのか」

 おれの能力を隠した上で通訳の魔石を入手して使用方法を習得し、この砦を出る。そして何処かの集落から物資調達ルートを構築し、加藤さんの保護先を見付ける。
 昼頃に話をしたことだが難易度は高く、現状、おれ自身にうまい考えはない。

「うん。考えた案はふたつ」
「ふたつも?」

 驚くおれに笑顔のリリィは頷いて、頬に手を伸ばした。
 掌が頬をさする。パスを通じて彼女の感情が伝わってくる。
 ……感じられたのは決意の意思だ。笑顔の下で、リリィはなにかを覚悟している。強く固く、譲らぬ意思が感じ取れる。それはおれを不安な気持ちにさせた。
 さざなみひとつない湖面のように穏やかで、だからこそ、胸の裡に秘めた決意が察せられる声色で、リリィはその提案を口にした。

「ひとつはわたしたちとお別れすること」
「……」
「モンスターに心を与えて率いる力なんてなかったことにするの。そうすれば、ご主人様はなんの問題もなく、他の転移者のみんなと一緒にこの世界で穏やかに生きていけるよ」

 そういうリリィの眼差しは、あくまで静かなものだった。

「他の転移者たちは、いまは勇者として生きていこうとしてるけど、いつかはそうではない生き方を選択する人たちも出てくると思うの。全員が首尾よく自分の力に目覚めるとも限らないし、そうでなくても、足並みをずっと揃えてはいられないでしょ。そういう人たちと、ご主人様は行動をともにすればいい」

 現状、チリア砦にやってきた十文字、渡辺、飯野という三人の探索隊メンバーは、うまく集団をまとめているように見える。
 だが、リリィのいう通り、いつまでもそうであるとは限らない。たとえば坂上だが、探索隊と言い合っていた今朝のあの態度を見る限り、仲間の輪を外れるのは時間の問題のように思える。
 そうでなくても、戦うことに嫌気がさす者はいるだろう。反抗的かどうかは、この際、たいした問題ではない。いまは危難に際しての日本人的な連帯感や、ある種の現実逃避、場の雰囲気に流されてはいるものの、転移してきた学生たちは現代日本で生まれ育ち、その価値観を抱えたままでいるのだ。静かに暮らすことを望む者は、すぐにでも出てくるに違いなかった。

 ここまでなら、リリィのいうことも理解できる。しかし、それを踏まえて彼女が口にした提案については、まったく話が別だった。
 到底頷けるような話じゃない。検討以前の問題だった。おれはみんなと一緒に生きていきたいのに、眷族を見捨てるような選択をするなんてできるはずもなかった。
 しかし、そんなおれの考えを一番よく理解してくれているのが、目の前のリリィのはずなのだ。
 わからない。リリィがどうしてこんなことを言い出したのか。彼女にはおれの返答なんてわかり切っているはずなのに……

「わたしはご主人様の返答が聞きたいの。お願い。答えて」

 リリィの囁き声が耳朶を舐める。

 なにを考えているのだろうか。
 なにも考えていないということはないのだろう。
 彼女のことは信頼している。それこそ、この世界の誰よりも。
 なにか考えがあるからリリィはこの提案を口にしているのだ。なら、おれがここで答えることには、なんらかの意味があるに違いない。
 それになにより、おれの頬を包み込んだ掌を通じて感じられた彼女の心が、おれの言葉を求めているのがわかるのだ。
 だったら、それに応えることに躊躇いを抱く余地はない。

「その提案は受け入れられない。そんなことは考えられない」

 言いながら、おれからもリリィの頬に片手を伸ばした。
 やわらかい。あたたかい。愛おしい。
 この指先の感触とぬくもりが大事なのだと、失われてくれるなと、心の底からおれは思うし、それを隠すつもりもない。

「おれはお前たちを手放すつもりはない。なにがあろうと絶対に」

 言葉と表情と、それにパスを通じて伝わる感情。すべて余さず伝わったはずだ。
 それが証拠に、リリィは本当に幸せそうに微笑んだ。

「ありがと、ご主人様。わがままを言ってごめんね。その言葉が聞きたかったの」

 そういえばリリィは『返答を聞きたい』と言っていた。言わなくてもわかることを、それでも言葉にしてほしい。これは、そういうことだったのか。

「うん。お陰でわたしも、やっと覚悟が決められた」

 覚悟という単語をリリィは口にした。この分だと、さっきおれが感じたあれは、おれと別れることに対するものではなかったらしい。
 思い返せば、提案はふたつあると言っていた。とするときっと、いまのやりとりはそのふたつ目を口にするために必要な覚悟を固めるための、ある種の儀式のようなものだったのだろう。

「聞かせてもらえるか。リリィのその提案というのを」
「うん。といっても、別に突飛な発想があるわけじゃないの。というより、そんなのあるはずがないんだよ。こんなこと、ご主人様も頭の何処かでは、薄々気付いてるんじゃないかと思うんだけどさ」

 リリィは微笑みを少し苦いものに変えた。

「わたしたちが抱えている問題を、わたしたちだけでどうにかするのって、はっきり言って不可能だよね」
「……それは」
「特に翻訳の魔石の入手と使用方法の習得。このあたりを、わたしたちの事情を全部伏せておきながら、不審のひとつも抱かれずにどうにかしようっていうのは、あんまりに難易度が高過ぎるよ」
「……」

 反論することはできなかった。
 実際、そのうち良い考えが思い浮かぶかもしれないと言いながらも、アテのひとつもあったわけではないのだ。うすうす気づいていたのではないかと言われてしまえば、それを否定することはできなかった。
 だが、だったらおれはどうすればいいのだろうか。
 おれたちだけではどうしようもない。手詰まりだ。
 なら、おれは一体どうしたらいい?

 ……そんなの答えは決まっていた。

「協力者を作ればいい、か?」
「そういうこと」

 おれが答えに辿り着くことを予想していたのか、リリィはすぐに頷いた。

「ある程度の事情を話して協力を求めるの。言えないところは言えないでいいと思う。たとえば、そう……この砦を出て行こうと思っていること、それを他の誰かに知られたくないこと。このあたりくらいは言ってもいいんじゃないかな」

 それは、とてもまっとうな提案だった。
 これまでのおれたちは、仲間同士で協力し合って、外敵であるモンスターに立ち向かえばそれでよかった。眷族か敵か。構造は至ってシンプルで、難易度を度外視すれば対応自体は戦闘一択の、ある意味で楽なものだった。
 しかし、ここは樹海のなかではない。人間の領域なのだ。これまでのようにはいかないのは、当たり前のことだった。
 こうしたことは全部、これまでも認識していたことだった。
 それなのに『協力者を作る』という選択肢をこれまで考慮に入れなかったのは、おれ自身の人間不信に根ざすところが大きい。
 だが、ここで思考停止してしまっていては駄目だろう。

 確かに人間は裏切る生き物だ。あのコロニーの惨状がそれを証明している。あれは人間の愚かしさによって起こった惨劇だった。
 しかしだ。全ての人間がそうであるわけではない。
 たとえば、加藤真菜。彼女はおれのことを助けてくれた。自分がおれに疑われていることを知ってもなお。ローズの友人である彼女の存在こそが、この世がただ裏切りに満ちたものではないことのひとつの証明だった。
 この世界に生きる全ての人間が、あらゆる信頼を裏切るわけではない。それは以前のおれでは認められなかったかもしれない、当たり前の事実だった。
 いまのおれは、リリィの提案を妥当なものだと受け止められる。おれたちだけで事態が打開できない以上、協力者の存在は必要不可欠のものだ。
 もちろん、裏切られる可能性はある。
 だから集団を率いるリーダーとしておれがすべきことは、目の前にいる人間を見極めることだ。
 それができないのなら、おれは樹海を出るべきではなかった。ゆっくりと忍び寄ってくる破滅の音を聞きながら、静かに短い余生を暮らすべきだったのだ。

 ……そう。わかっているのだ。理性では。
 感情も同じくらいにすんなりと納得してくれたなら、誰にとっても人生はもっと簡単なものだろうに。

 秘密を打ち明ける協力者を作るということは、大なり小なり他人を信じるということに他ならない。
 それを思うだけで、ぞわぞわと嫌なものが背筋を這い上がってくる。
 鼻孔を鉄の臭いが埋め、視界に炎がちらつき、全身に痛みが蘇り、いびつな笑みが脳髄を侵していく。
 心が渇く。全身の肉が腐る気持ちがする。ぐらぐらと頭が揺れる感覚に、おれは奥歯を噛みしめた。
 これに屈して思考を停止するのは単なる甘えだ。リーダーとして、おれは責任を全うしなければならない。その必要があるのなら、おれは忌まわしいこの記憶を乗り越えなければならないのだ。

 ……だけど、果たしておれにそれができるだろうか。
 心の病気。トラウマ。幹彦に語ることさえしなかった裏切りと死の真相が心に残した膿んだ傷。
 言葉にしてしまえば陳腐だが、ヘドロのように精神にまとわりつくこの呪いは、そう簡単に解けるようなものではない。
 おれのような弱い人間がこれを乗り越えるためには、なにかが必要で――

「大丈夫だよ」

 ――不意に視界を塞がれた。
 頬に触れていた手を動かして、リリィが掌でおれの目の辺りを覆ったのだ。
 暗闇に塞がれたおれの耳に、普段よりいっそう甘く響く声が染み渡る。

「あの洞窟で、わたしに逢ったときのことを覚えてる?」
「……ああ。覚えてるよ。忘れるはずがない」

 唐突な問いかけに少し戸惑ったものの、おれはすぐに答えを返した。
 絶望とともに一度は生存を諦めかけたおれにとって、リリィの存在がどれだけ救いだったことか。あのときのことを忘れるなんてことは、それこそ死ぬまで有り得ないだろう。

「わたしにとっても、あれは大事な思い出なの。わたしの生まれた最初の記憶。あのとき、ご主人様は『誰か助けて』って心の底から願ってた。その声を聞いて、望まれて、リリィって名付けられたこの『わたし』は、この世界に初めて生を受けた……」

 まるで大切な宝物を抱きしめるように切なげな声でリリィは思い出を語り……続く言葉を舌に乗せた。

「だけど、気を失う前のご主人様が『助けて』って願ったのは、モンスターだったわたしに対してじゃないよね。まさかモンスターが自分のことを助けてくれるなんて、あの時点でのご主人様が思うはずないんだから。それじゃあ、ご主人様が助けを求めていた相手はなんなのか……」

 そんなの決まってるよね、とリリィが微笑む気配。
 視線が塞がれているおれには、彼女の笑顔が見えない。
 彼女が本当に笑っているのかどうか確認することさえできなかった。

「ご主人様は人間なんて信じられないって言いながら、最後の一線で他人を信じてた。だったら、それがご主人様にとっての真実だとわたしは思う」
「おれにとっての真実……?」
「うん。そんなご主人様だからこそ、いまここにいるわたしたちが生まれたの。だから、大丈夫なんだよ」

 そういうリリィの声がほんの少し震えていることにおれは気付く。

「鐘木くんと話してるときも、シランさんと訓練をしているときも、ご主人様はとても楽しそうだったもの。見ててわたしまで嬉しくなっちゃった」
「リリィ……?」
「加藤さんのことを受け入れることにしたあと、ご主人様はあの子に優しかった。ここに来る前にあの子が倒れちゃったときだって、そうだよ。なんの躊躇もなくあの子のことを気遣ってあげてたことに、自分では気付いていないかもしれないけど……」

 リリィはおれの目の上から掌をどけた。

「もうご主人様の傷は癒えかけてる。あとは、なにか切っ掛けのひとつでもあれば、ご主人様は前に進めるはずだよ」

 視界がひらける。そこには、おれにとって誰より愛しい少女の笑顔がある。
 だけど、最初から最後まで笑顔のままでいたのなら、彼女がおれの視界を遮る理由はないのだ。

「ごめんね、ご主人様」

 リリィはやや視線を伏せ気味にした。

「もっと早く、わたしはご主人様にこれを言ってあげるべきだった。不安だったの。ご主人様が人間と和解してしまうのが。ひょっとしたら、わたしたち眷属がご主人様の傍にいられなくなる日が来るんじゃないかって」

 リリィが抱えていた不安をおれが聞かされたのは、これが初めてのことだった。
 それでも、口元には薄く笑みを浮かべながら眉を下げたリリィの憂い顔を見上げていれば、それがこれまでずっと長い間、彼女の心を苛んでいた不安だということはわかった。

「おれがリリィたちを見捨てるなんてことあるはずないだろ」
「うん。それはわかってる。……だけど、不安だったの」

 本当に大切なものだからこそ不安になる。それはつまり、彼女がおれに向けてくれている慕情の証明でもあった。

「わたしがご主人様の傍にいられるのは、あのとき、あのタイミングで、ご主人様に出会えたから。だけど、さっきも言った通り、あの時点でのご主人様がモンスターであるわたしに助けを求めるはずがなくて……だから、そこは本来は別の人がいるべき場所だったんじゃないかって、そんな思いがずっとあったの。わたしは何処までいっても偽物でしかなくて、ご主人様が助けを求めたモノの精巧な紛い物でしかないんじゃないかって……」

 リリィの言っていることは、まったくの的外れというわけでもなかった。
 たとえばの話だが、おれのことを助けたのがリリィではなくて他の誰か、人間だったとしよう。
 おれは絶体絶命の危機を救ってくれた彼、ないしは彼女に絶大な信頼を寄せたことだろう。絶望の淵から救い上げてくれたことには、それだけの意味がある。実際、よく似た境遇にある幹彦は騎士団団長に思慕の念を寄せている。なにかが違っていれば、おれたちの立場は入れ替わっていたのではないかと思ったことも否定はできない。

 もちろん、こんなのはなんの意味もない仮定だ。
 現実におれのことを助けてくれたのは、ここにいるリリィなのだ。それだけが事実で、それだけがおれにとっては大事なことだった。
 ただ、リリィにとってはそれでは片付けられないのだろう。『そう考えられる』というだけで、もうそれは負い目なのだ。そして負い目は『本来そこには自分がいるはずはなかった』という思考を生む。それが彼女の不安の源泉だった。

 たとえば彼女が人間であったのなら、この手の不安は生まれなかった。
 おれは人間で、リリィはモンスター。それでもおれはリリィのことを愛しているし、リリィもおれのことを慕ってくれている。
 だけど、やはりおれたちは違う生き物なのだ。なんらかのかたちで不安が生まれることは、ある種の必然でもあったのかもしれない。

「これまで言ってあげられなくて、ごめんなさい」
「……謝らないでくれ、リリィ」

 おれは首を横に振った。

「大事なのは黙っていたことじゃない。本当に必要なこのときに、それを言葉にして伝えてくれたことだろ」
「ご主人様……」
「リリィはこうしていま、不安を押し殺してでもおれのことを励ましてくれた。ここはおれが礼をいうべき場面であって、お前が謝るところじゃない」

 リリィは自分のなかの不安と戦っている。戦って、打ち勝って、必要な言葉をおれに与えてくれたのだ。礼を口にすることこそあれ、文句をいうような場面では決してない。

「リリィは強いな」
「……ううん。そんなことないよ」

 亜麻色の髪を揺らして、リリィはおれの賞賛を否定した。
 おれの瞳を覗き込んで、彼女はそっと秘め事を打ち明けるような口調で言った。

「わたしがこうして自分のなかの不安を打ち明けられるようになったのは、ご主人様がわたしのことを頼りにしてくれているからなんだよ?」
「……あ」

 いつか見たリリィの涙を、おれは思い出していた。『一人で抱え込まないで』、『頼りにしてほしい』と泣いたリリィのお陰でおれは、主として眷族である彼女たちとどう向き合うべきかを知り、それから彼女たちを頼るようになったのだ。
 それがいまのリリィを支えている。
 力になれた事実を自分自身の力に変えて、リリィは微笑みを浮かべている。それこそが眷族としての彼女の在り方なのだと誇らしげに。

 そんな彼女に見蕩れていたおれは、ふと自分を縛り付けていたものが、随分と力を失くしていることに気付いた。
 記憶のなかにこびりついた、狂気に駆られて歪んだ笑み。
 不安と戦う少女がそれでも浮かべてみせた、いま目の前にある力強い微笑み。
 そのどちらがおれにとって大きいものなのかなんてこと、わざわざ天秤に掛けるまでもないことだ。
 つまりはおれもリリィと同じだった。いまのおれにとって一番大事なことは、彼女たちにとってのご主人様であることなのだ。
 眷族である彼女が頑張っているのに、主であるおれが不甲斐ないことでどうするのか。その想いが、おれという存在に一本の芯を通してくれる。彼女の存在が、弱いおれを支えてくれている。
 あの洞窟でリリィに逢えて本当によかった。
 そう思った途端、目の前の少女に対する愛おしさが弾けた。

「リリィ」

 おれは気付けばリリィの頬に当てていた手を伸ばして、彼女の後頭部を引き寄せていた。
 やや無理のある体勢だったが、リリィは従順に、むしろおれが抱き寄せるまでもなく自分から顔を寄せてきた。
 唇の輪郭を合わせるように触れ合っていく。徐々に行為が深くなる。
 この胸のなかの想いを伝えたい。一心に願えばそれは叶った。想いが溶け合い、互いの境界が曖昧になる。

「……ご主人様」

 息継ぎの合間の愛おしげな呼びかけが、最後に残った理性を痺れさせる。真っ赤な舌先でちろりと唇を舐めたリリィが、蕩け切った視線をほんの一瞬だけわきに逸らした。

「ごめんね、アサリナ。一晩だけご主人様を独り占めさせてちょうだい?」

 その視線を追うと、何時の間にかスライムの体組織へと戻っていたリリィの片腕から、何本もの触手が伸びていた。
 触手はアサリナの蔓状の体に巻きつき、彼女を優しく左手の甲に押し込める。その一部は壁にも長く伸びて、そこにある照明を落とした。

 再び暗闇のなか、吐息が近づき混ざり合う。
 そこから先は、互いをただ想い合うだけでよかった。
◆リリィの不安については、第1章の14話あたりの回収。
さりげに主人公のこの問題についてリリィが関わるのは、ガーベラ(2章3話)、ローズ(2章12話)に続いて、最後だったりします。

◆帰国しました、について。
ま、前話のあらすじが思いつかなかったんじゃないんだからねっ。
ただ、『幼女ぼろ泣き』って書いてから、あれ? 十歳前後って幼女? 『幼女戦記』とか八歳からだし、ううーん……とか思ってやめただけなんだからっ。
厳密な定義はないみたいですが(幼児のほうはあるけど)、何歳までがイメージなんですかね。いや。全然物語に関係ないんですけど。

◆次回更新は5月31(土曜日)を予定しています。色々立て込んでるのですが、最低限、週末更新は維持したいと思います。
次回、ローズ回です。
+注意+
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