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モンスターのご主人様  作者: ショコラ・ミント/日暮 眠都
6章.人形少女の恋路
179/321

17. 輝ける勇者

前話のあらすじ


韋駄天の奮戦と仲間との再会

偽勇者と間違えられたはずの元仲間を助けた飯野だったが……?

   17



 魔力が存在するこの世界では、想いが現実に影響を及ぼす。


 ある一定以上の強い想い、魂の底からの願いを抱いたとき、転移者は固有の能力を発現する。

 固有の能力は基本的にひとりにひとつ、願いに基づいて形成された、他にはない独自のものだ。


 しかし、探索隊で『ウォーリア』と呼ばれる者については、話が違っている。


 彼らは固有の能力を持つことなく、戦闘に極めて優れた適性を示すという共通点を持っている。


 かつて工藤陸は、その在り方を『成り損ない』と評した。

 なぜなら、それは願いにより得られた力ではなく、根拠のない確信によるものだからだ。


 ――根拠のない確信もまた、無意識下の強い想いには違いありません。『こんな世界に来たんだから、自分はやっぱり特別だったんじゃないか』『そうであってほしい』『いや、そうだ』『そうに違いない』とね。それが彼らの超人的な力の根源であり、想いの伴わない虚ろな力の所以でもあります。


 もっとも、そうした共通点を除けば、個々人の性質は違っている。


「朝日はどうも、じれったいところがあるんだよなあ」


 河津朝日にそう言ったのは、探索隊のリーダー中嶋小次郎だった。


 それがどういった場面だったのか、朝日は覚えていない。

 他愛のない雑談の一幕だったからだろう。


「目的を見据えて、真剣に考えて、物事を決断して、果断に動く。まあ朝日に限らずなんだが、なんつーかこう、もっと情熱を持とうぜ。そうすれば、きっともっと楽しくなるよ」


 中嶋小次郎には、たまにこんなふうにお説教くさくなるところがあった。


 彼の仲間思いな一面が表れた言葉ではあるものの、どうにも暑苦しいことは否めない。


 尊敬を集めるリーダーの、愛すべき欠点。

 そうした場面に行き遭うと、探索隊のメンバーは苦笑していたものだった。


 ああまた言っているなと、そのときの朝日も思った。


 その反面で、その言葉を忘れなかったのは、腑に落ちたからかもしれない。


 河津朝日という人間には、どうにも流されやすいところがあった。

 それをなんとなく自覚もしていた。


 そうした自分の性質を言い当てられたと感じたのだ。

 よく見ているものだなと感心した。


 ただ、だからといって、そんな自分を変えようともしなかった。


 変わろうとしなかったのではなく、変わろうという発想がそもそもなかった。


 朝日が帝国南部の小貴族領に向かうことになったのも、そうした性質のためだった。


 なにせ彼が探索隊を離れたのは、ただ仲の良い友人ふたりに誘われたというのが理由だったのだ。


 そこに彼自身の強い意志はなかった。


 困っている人を助けなきゃという正義感と、自分たちの活躍に対する大きな期待があった。

 これに関しては朝日だけではなく、他のふたりもそんな調子だった。


 気楽な旅だった。


 勇者である彼らは、立ち寄った村々で歓待を受けた。


 村に近付くモンスターを軽く蹴散らしてやるだけで歓声があがった。


 そのへんをちょっと歩き回って、倒したモンスターを引きずって帰ってくれば、勇者様、勇者様と崇められた。


 英雄になるのなんて、簡単なことだった。


 ただ、ほんの少しだけ朝日が他のふたりと違うところがあったとすれば、ふと目を向けてしまったことだろう。


 ――親の顔を知らない子供がいた。

 ――恋人の死を嘆く女がいた。

 ――家族をみんな喪って、ひとり生きる老人がいた。


 遠征隊のひとりとして辿り着いたエベヌス砦で、勇者の話を聞いてやってきた貴族たちから、モンスターに脅かされる領民のことは聞いていた。


 だから、知っているつもりだった。


 それが、つもりでしかなかったことを悟った。


 変な話だが、朝日は実際に村人たちと接することで、彼らが自分と同じ大地に生きていることに気付いたのだった。


 彼は想像力が足りなかったが、目の前にいる人々に共感しないほど、感性の枯れた子供でもなかった。


 彼らの悲しみが心に響いた。

 苦しみに感情移入した。


 なんとかしなければいけないと、自然と思った。


「おお、勇者様! 勇者様だ!」

「わたしたちをお助けください!」

「怯えることのない生活を!」

「どうか、勇者様!」


 目の前に助けを求める人がいる。


 自分には、簡単に英雄になれるだけの力がある。

 だったら、どうするべきなのか。


 どうしたいのか。


 ――朝日はどうも、じれったいところがあるんだよなあ。


 そんなとき、リーダーの言葉を思い出した。


 ――まあ朝日に限らずなんだが、なんつーかこう、もっと情熱を持とうぜ。そうすれば、きっともっと楽しくなるよ。


 ああ、これが『そういうこと』なのだと、朝日は悟ったのだ。


 だから――


「――それじゃあ、そろそろ行こうぜ」


 ここまで一緒にやってきた友人、樹佑汰と籾井義広のふたりに、朝日は声をかけた。


「おーぅ」


 意気込む朝日に比べると、いかにも気楽そうな声が返った。


「つっても、あんまりテンション上がんねえけどなぁ」

「違いない」


 ふたりはけらけらと笑っている。

 朝日とは違って、彼らはあまり村人たちの窮状に関心を示していなかった。


 もっとも、それはそれで良かった。


「まあでも、頼まれたなら仕方ねえよな」

「だな」


 結局のところ、彼らは彼らで乗り気だったのだ。


 勇者として求められることに文句なんてなかった。


 ふたりして上機嫌に、友人をからかいさえしてみせるくらいだった。


「にしても、朝日は最近やる気じゃん。前の村でもそうだったし」

「モンスターを倒しに、真っ先に出て行くんだもんなぁ」

「こりゃ、そのうち嵐でも来るんじゃね」

「げぇ。このタイミングで雨とか笑えねー。ずぶぬれは勘弁してくれよ、朝日」

「……知るか」


 などと不貞腐れてみせたものの、朝日は自分のやる気を否定しなかった。


 彼らの指摘は事実だったからだ。


 胸のなかに、これまで感じたことのない熱があった。

 それが自分を突き動かしているのを感じていた。


 慣れない感覚だけれど、悪いものではなかった。


「行くぞ」


 朝日たちが借りている家を出ると、村人たちが揃って出迎えた。


 空気が熱い。

 期待と希望が空間に満ちていた。


 この場の誰もが確信していた。


 いまこのときこそが、いずれ伝説に語られる一節なのだと。


 周りを囲む村人たちからなにを求められているのか、朝日は自然と察することができた。

 だから、求められるがままに応えた。


 腰の剣を抜くと、その切っ先を天に掲げたのだ。


「待っていろ!」


 胸のなかの熱を吐き出すように、高らかに宣言した。


「おれたちが今日! みんなを脅かすモンスターを討伐する!」


 村人たちは熱狂的な歓声をあげて、彼らの英雄を祝した。


 脳裏には、これまでの苦しみが思い出されていた。

 失われた者を思えば、涙が流れた。


 けれど、それもここまでだ。


 輝ける未来を与えてくれる存在を、彼らは声を嗄らして称えた。


 伝説で語られる存在が、彼らの望みを叶えるのだ。


   ***


 これが、ひとりの少年にまつわる成長の経緯だ。


 人生をなんとなく生きてきた少年には、熱意と呼べるものがなかった。


 困窮する人々を見て、少年は生まれて初めて、自分になにかできないかと感じた。


 だから助けを求められたとき、それに応えて動き出すことに躊躇いはなかった。


 美しい成長の様。

 熱い少年の決意。


 ……だからこそ、その結末はあまりに惨かった。


「な、なにが……!?」


 息を切らして、朝日は走っていた。


「どうして……!?」


 疲労のために足がもつれがちになり、恐怖がさらに四肢を縛る。

 何度も無様に転んでは、地面を掻いて立ち上がって、また走る。


 利き腕はだらんと下がり、指先からは血が滴っている。


 まだ村を出てから半日も経っていない。

 だというのに、華やかな勇者の輝きなんて、もはやどこにもありはしなかった。


 あまりにも無残だった。

 いったい、どんな悪意に襲われたら、こんなふうになり果ててしまうのだろうか。


 モンスターを操って人を滅ぼさんとする魔王の手先か。

 あるいは、第三の知られざる悪逆の徒に襲われたのか。


 ……いいや、そのどちらでもなかった。


 むしろ、そうであったのなら、いくらかは救われただろう。


「こんなっ、こんなはずじゃあ……っ!」


 朝日の顔に強く表れていたのは、後悔の色だった。


 過去の自分の行いを悔いる表情だった。

 そこに他者の介在する余地はなかった。


 ただただ、彼は自分の決断を呪っていた。


 そして、残酷な話だが、そうなることはある種の必然でもあったのだ。


 だって、中嶋小次郎はちゃんと言っていた。

 自分のことを想ってかけられた言葉を、朝日はきちんと覚えておくべきだった。


 ――目的を見据えて、真剣に考えて、物事を決断して、そのうえで果断に動く。まあ朝日に限らずなんだが、なんつーかこう、もっと情熱を持とうぜ。そうすれば、きっともっと楽しくなるよ。


 この言葉をきちんと思い出せば、朝日も気付けたかもしれない。


 確かに、朝日は自分の裡に灯った熱意に突き動かされて、村人たちの助けを求める声に応えることを決めたのだろう。

 けれど、それはただ応えただけだった。


 そこに彼自身の考えはなかった。

 意志はなく、ただ突き動かされただけだった。


 だったら、それはただ流されているのと、なにが違うというのだろうか。


 せめてもう少し考えていれば、なにか違ったかもしれないのに。


 村人たちが願ったこと。

 河津朝日の後悔の原因。


 それは、近隣の昏き森に棲むモンスターの討伐だった。


   ***


 同情の余地があるとすれば、河津朝日が『知らなかったこと』だろう。


 彼には、知る機会がなかった。


 自分たちが持つ力が、一騎当千と評されることの意味も。

 伝説のなかで、常に勇者の戦いに騎士が随伴している理由も。


 真島孝弘がシランと旅をすることで、あるいは、飯野優奈が騎士団と行動をともにすることで得た知識を、彼はなにひとつ知らなかった。


 そのうえで、なにも考えずに、ただ求めるがままに振る舞った。


 それが悲劇の原因だった。


 近隣に昏き森が存在する村は、常にモンスターの被害に悩まされてきた。

 自分たちの生活の安全のために、願うことは決まりきっていた。


 過去の勇者がいくつもの昏き森を攻略してきたことを、村人たちは知っていた。

 目の前の勇者にもできると思うのは自然なことだった。


 朝日たちも、自分たちならできると踏んだ。

 彼らにとって、モンスターを蹴散らすなんていとも容易いことだったからだ。


 しかし、それは勘違いだ。


 勇者は他を隔絶した力を持つが、絶対無敵の存在ではない。


 一騎当千の力など、千人集まれば相殺される。

 相手がモンスターの群れであっても、当然、この理屈は変わらない。


 だからこそ、勇者には騎士が随伴する。

 他と隔絶した存在が喪われないように、脇を固めるのだ。


 昏き森の攻略ともなれば、そのうえでも慎重に慎重を期す。


 もっとも、そんなことをただの村人が知っているわけがない。

 彼らにとって、勇者とは絶対の存在なのだから。


 それに、実際、一対一ならモンスターを軽く蹴散らす姿を見てもいる。

 自分たちとはあまりにも強さの桁が違い過ぎて、それがどこまで通用するものなのか測ることなんてできやしないのだ。


 そんな彼らができると言ったからと、求めるがままに振る舞えば、どうなるかは火を見るより明らかだろう。


 昏き森に挑んだ河津朝日たち三人は、当然のごとく敗走した。

 無様極まりない惨敗だった。


 もっとも、それだけで済んだのなら、まだましだっただろう。


 三人の行動は、地獄の釜を開けたのだ。


 状況として一番よく似ているのは、五百年前にあった樹海深部への勇者の遠征だろう。


 モンスターは人を襲う。

 生息数の極端に多い場所では、戦ううちにその喧騒を聞きつけて新手が現れてしまう。


 もしも処理速度が足りなければ、どんどん数は膨れ上がり、手が付けられない雪崩と化す。


 手遅れになったあとで逃げたところで、雪崩はとまらない。

 膨れ上がり、溢れ出し、すべてを押し流してしまう。


 こうなっては、もはやどうすることもできない。

 自分だけでも生き残れるように必死になるだけだ。


 そうして、樹佑汰と籾井義広は逃げ延びた。


「ど、どうにかなったな……」


 昏き森から溢れ出したモンスターの波に巻き込まれたふたりは、ぎりぎりのところで生き延びていた。


 樹佑汰は右肩に、籾井義弘は背中に大きな怪我をしているものの、ウォーリアの強靭な肉体なら命にかかわるほどではない。


 籾井義弘は安堵の吐息をついた。


「死ぬかと思った……」

「馬鹿。死んで堪るか。にしても、ああ、くそっ。痛い」


 肩を押さえて現状を罵る樹佑汰に、籾井義弘がふと気付いた様子で尋ねた。


「そういや、朝日はどうした?」

「知らねぇよ、くそっ。村が危ないって言って、途中でどっか行っちまった」

「村が……?」


 籾井義弘は疲れ切った顔を強張らせた。


 昏き森からモンスターが溢れ出した以上、近隣にある村に被害があるのは火を見るより明らかだ。

 今更になって状況に気付いたあたり、完全に村のことは頭から抜け落ちていたらしい。


「それは……まずいんじゃないか」

「じゃあ、どうするよ」


 樹佑汰が尋ねると、籾井義弘は口を噤んだ。


「助けに行くか? 死ぬかもしれないのに?」

「それは……」

「おれはごめんだ」


 いま、村に戻ることの危険性はふたりともが理解していた。


 ひょっとすると、うまく防壁を利用することができれば、村を守ることはできるかもしれない。

 けれど、村諸共に呑み込まれる可能性のほうがずっと高いだろう。


 そうなれば、もうふたりは動けなかった。


 彼らはこれまで、基本的には善意に従って行動してきた。

 何度もモンスターを倒して、いくつかの村の安全に寄与した。


 けれど、それは自分に危険のない範囲でのことでしかなかった。


 こうした点で、たとえば飯野優奈とはまったく違っていた。


 もちろん、それ自体は責められるようなことではない。

 彼らの善意に救われた者はいるのだから。


 とはいえ、この場面では話は別だ。

 彼らのそうしたスタンスは、無責任さとして現れてしまっていた。


「あんなことになるなんて知らなかった。おれたちのせいじゃない」

「そ、そうだな。仕方がない……仕方がないことだったんだ」


 彼らが村を見捨てることに決めるまで、わずかな時間しか必要としなかった。


 それだけ追い詰められていたとも言える。


「というか、おれらだってまだ安全じゃない」


 石のように強張った顔をして、樹佑汰はふらふらと立ち上がった。


「いつモンスターが現れるかわかったもんじゃない。なるべく遠くまで離れないと……」

「その必要はないよ」


 そのとき、第三者の声が彼らの会話に割り込んだ。


 まさかこの場面で声をかけられるとは思わない。

 ふたりはびくりと竦んだ。


「誰だ!」


 疚しいことがあればこそ、反応は大きなものになった。


 ふたりともすでに武器を失っていたが、協力すればモンスターの一匹くらいなら倒せる。


 身構えた彼らの前に、少年は姿を現した。


「ぼくだよ。渡辺芳樹だ」

「渡辺!?」


 小柄な少年に笑みを向けられて、樹佑汰は驚きの声をあげた。


 渡辺芳樹は『韋駄天』飯野優奈、十文字達也と一緒にチリア砦に向かった探索隊メンバーだ。


 樹佑汰は割と渡辺芳樹と仲が良かった。

 だからこそ、戸惑った。


「お、お前、チリア砦で死んだって……」

「……誰がそんなこと言ってるんだい? この通り、ぴんぴんしてるよ」


 半眼になって、少年は肩をすくめた。


 その仕草は、まさに彼らの知る渡辺芳樹だった。


 聞いていた話と現実との齟齬に混乱するふたりに対して、真剣な眼差しが向けられた。


「そんなことより、まずいことになってるんだよね」


 うしろめたいことのあるふたりはびくりとした。


 もっとも、さいわいなことに、それ以上この話が深く掘り下げられることはなかった。

 それどころか、彼らは望む言葉を得たのだった。


「助けに来たよ。探索隊のみんなも一緒だ」

「ほ、本当か!?」

「うん。だから、もう大丈夫さ」


 夢のような話だった。


 思わず耳を疑ったが、聞いた事実は消えはしない。

 ふたりは顔を見合わせて、わっと喜んだ。


「あ、ありがとう、渡辺!」


 樹佑汰に至っては、思わぬ救世主に駆け寄ると、感動のあまりその手を握り締めたくらいだった。


 にこりと笑顔が返された。


「なに。気にすることはないさ。ぼくたちは仲間だろ?」


 探索隊時代、渡辺芳樹がたまに見せていた得意げな笑顔が、これほどまでに輝いて見えたことはなかった。


「礼をする必要なんてない。それよりも……」


 その笑顔が怪訝そうな表情に変わり、視線があたりを見回した。


「あとひとりいるって聞いてたんだけど」

「あ、ああ。朝日のことだな。あいつとは途中で逸れたんだ。多分、村のほうに行ったんだと思う。ただ、無事かどうかは……」

「そっか。残念だね」

「だ、だけど、まだ死んだって決まったわけじゃないぞ」


 溜め息混じりの言葉を聞くと、樹佑汰は声を高くした。

 危険を脱したことで、ようやく友人の安否を気にすることを思い出したのだ。


「あいつのことも助けてやらねえと。無事でいてくれれば良いんだけどな……」

「ああいや。そういうことじゃなくってさ」


 今更ながら安否を気にする言葉を口にする樹佑汰に向けられたのは、否定の言葉だった。


「は? それってどういう……?」


 樹佑汰は怪訝そうな顔をした。


 直後、その表情が硬直した。


「だって、ひとり逃しちゃったわけだろう?」


 無防備なその喉に、ナイフが走ったからだった。


 その持ち手である目の前の少年を見上げて、樹佑汰は喉を押さえた。


「か……はっ」


 おびただしい量の赤色が、押さえた指の間から噴き出していた。

 堪らずに膝をついた。


「野、郎……」


 抵抗しようとしたのかもしれない。

 常人なら即座に絶命しただろう重傷で、動けたことはすさまじい。


 しかし、その身に遠方から飛んできた影絵の剣が突き立った。

 弱った樹佑汰には、その攻撃を避けることができなかった。


 命を失った体が、ごろりと地面に転がった。


「……え?」


 籾井義弘が呆気にとられた様子で目を見開いた。


 状況を理解できないのだ。


「な……なにを、渡辺」

「いやいや。冷静に考えてみようよ。こんな都合の良い展開、あるはずがないよね」


 笑顔で残酷な事実を告げて、『渡辺芳樹』の姿が影に変わった。


 籾井義弘は唖然として、目の前の光景を見詰めた。


「……ドッペル・ゲンガー? ま、まさか……」

「正解です」


 声は背後から聞こえた。


 油の切れた機械のようなぎこちなさで、籾井義弘は声のしたほうを向いた。

 そこに、配下のモンスターを引き連れた少年の姿があった。


「工藤陸……」


 籾井義弘は探索隊を出る前に、チリア砦襲撃の犯人である工藤陸の話を聞いていた。


 だから、目の前の少年がどういった存在であるのか理解できた。


 ……できてしまった、というべきかもしれない。


 硝子玉よりも無機質な目を見た瞬間、喉が干上がった。

 こんなものを、籾井義弘はこれまで見たことがなかった。


「まったく。たいした勇者様だ。自分たちのせいで滅びようとしている村を見捨てて、無責任に逃げ出そうというんですから」


 恐怖と絶望とで凍り付いた籾井義弘に、工藤陸は語りかけた。


 淡々とした調子で、丁寧な物腰だった。

 それでいて、静かな声の下には、おぞましいほどの怨念が渦を巻いているのだった。


「ま、待ってくれ!」


 さすがにこの状況で、都合の良い楽観ができるはずもない。

 籾井義弘は喚き立てた。


「じ、事故! そう、事故みたいなものだったんだ。悪意はなかった! 本当だ!」

「知っていますよ。あなたに悪意はなかった。あなたは分不相応な力を得ただけの、愚かで弱い、どこにでもいるただの人間です」


 籾井義弘の訴えを、工藤陸は否定しなかった。


 かといって、決まりきった結末がそれで覆るわけでもなかったけれど。


「だからこそ、あなたたちは悪質だ」


 そもそも、工藤陸はひとつの村が滅びに瀕していることを責めているわけではなかったのだ。


「普段は善人ぶるくせに、いざとなれば醜い本性をさらけ出す。自分のためになら、他人を犠牲にして恥じることはない。弱くて、愚かで、凡庸で、だからこそ、なにより悪質だ」


 抑えきれないどす黒いものが、どろどろと顔を覗かせた。


 怒りよりも荒々しく、絶望よりもなお暗い。


 その感情に名前を付けることは、きっと人間にはできない。

 なぜならそれは、人の弱さと愚かさが生み出した悪性に踏み躙られて、人道を外れた魔王だけが持ちえる感情だから。


「……ああ。やはり、あなたたちは醜い」


 英雄になり損ねた少年の絶望の呻き声を聞きながら、魔王は貼り付いたような笑顔で死を告げた。


「ぼくはただ、その醜悪さが許せない」


◆お待たせしました。


偽勇者事件の真相と、『魔軍の王』工藤陸の暗躍でした。


もう一回更新します。

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