14. 思わぬ伏兵
◆前話のあらすじ:
いつからすべての眷属が主人公に友好的だと錯覚していt(ry
◆主人公サイドの前に、残されたリリィたちの話をはさみます。
14 ~リリィ視点~
「なんてこと……」
わたしは呆然と立ち尽くしていた。
目の前で起きてしまったことを、受け止められずにいたのだ。
今夜、わたしたちを襲った事件は、あまりにも目まぐるしいものだった。
現れた三体のファイア・ファング。
彼らに対して力を合わせて立ち向かおうとした矢先に襲いかかってきた、明らかに格の違うもう一体のモンスター……
大きな蜘蛛の上に女の化け物が生えた醜悪な造形をしたそのモンスターは、コロニーではアラクネと呼ばれているものだった。
わたし自身もスライムとして森をさまよっていた時期に、一度ならず見たことがあった。
しかし、わたしたちの前に現れた個体は、これまでわたしが見てきたものとは存在する次元が違っていた。
――美しくも妖しい、白い蜘蛛。
思い出すだけでも、身の毛がよだつ思いがする。
現れた白いアラクネは、まず二体のファイア・ファングを一瞬のうちに殺してみせた。
そして、呆然としているわたしたちの意識の隙をついて、ご主人様を糸で引き寄せて捕縛した。
その時、わたしはファイア・ファングを迎撃するためにご主人様からはやや離れたところにいたので、完全に出遅れてしまっていた。
代わりにローズが即座に反応してくれた。
しかし、彼女はアラクネに一息に距離を詰められると、前肢の一突きで呆気なく吹き飛ばされてしまった。
アラクネは蜘蛛糸という特殊な攻撃手段を持つが、その反面で、どちらかといえば単純な近接戦闘は苦手なはずだ。
なのに、あのローズがたったの一撃でやられてしまったのだ。
本来のアラクネはあれほど強大なモンスターではない。
あれが戦慄すべき力を持つ、例外的なモンスターであることは、もはや疑いようのないことだった。
あのまま戦っていれば、わたしたちは全滅させられていただろう。
そうならなかったのは、単に白いアラクネがわたしたちなど眼中になかったからだ。
ローズを一撃のもとに下すと、白いアラクネは既に目的は達したとばかりにその場を離脱した。……ご主人様を連れて。
勿論、わたしもすぐにあとを追おうとした。
しかし、白いアラクネは、追跡するわたしに蜘蛛糸による妨害を仕掛けてきたのだ。
蜘蛛という『待ち構える』ことに特化した生き物の性質を持つアラクネ相手に、追撃戦を挑むのはあまりにも不利だった。
魔法を使うことが出来れば、まだしも追いすがることの出来る可能性があったかもしれない。だが、敵の手のうちにあるご主人様を巻き込む危険性を考えると、わたしは魔法の行使を躊躇せざるを得なかった。
わたしが糸に捕まって、ほんの数秒の足止めをくらっているうちに、大蜘蛛の姿は森の闇の中に消えた。
ご主人様と一緒に。
そうだ。ご主人様だ。
ご主人様。ご主人様。ご主人様。
ご主人様。ご主人様。ご主人様。ご主人様。ご主人様――ッ!
「……ぁあ」
ご主人様を……取り返さなければ!
「ローズ!」
わたしは、わたしのもっとも信頼出来る妹分の名前を呼んだ。
「無事なんでしょう! 応えて! 早く起きて、ご主人様を追いかけないと!」
一撃を喰らったローズだったが、あの程度ではやられはしない。
そうわたしは信じていた。
ローズがご主人様にささげる忠誠は、わたしが彼に捧げる愛情をも上回りかねないものなのだ。
ご主人様を奪われたまま、おめおめと彼女が死ぬはずがなかった。
「……すみません。リリィ姉様。不覚を取りました」
果たしてローズは森の暗がりから姿を現した。
その姿をみたわたしは……安堵のあまり力が抜けて、思わず溶けてしまいそうになった。
それでようやく、わたしは自分が随分と不安を抱いていたことを自覚した。
――可愛い妹分を失ったのではないか、という心配。
――自分一人であの強大なモンスターに立ち向かわなければならないのではないか、という不安。
強がって見ないようにしていたそれらの憂いから解放され、気持ちと同時に涙腺が緩みそうになった。
だが、いまは泣いている場合ではない。
「いいの。待ってて、すぐに治療するから」
わたしは緩む気持ちを引き締めて、ローズに回復魔法をかけ始めた。
「どう? 戦える?」
「ええ。ですが……片腕は、もう使えないようです」
見れば、盾を持っていた左腕は、前腕の半ばに大穴があいてしまっていて、辛うじて一部で繋がっているだけの状態だった。
盾は二つに割れて、攻撃を受けた場所に転がっていた。
細かい罅や歪みならともかく、これは流石にわたしの回復魔法では癒せる範疇を越えている。
「たったひと突きでこの有様とは、不甲斐ない限りです」
「ううん。そんなことはない」
むしろ、あの一瞬で咄嗟に防御してのけたのは流石といえる。
無防備に喰らっていたら、ローズの人形の体は今頃粉々になっていただろう。
勿論、本人にしてみれば、ご主人様を奪われた時点でそんな称賛は慰めにすらならないのだろう。パスを通じて、彼女の心をじりじりと焦がす悔しさが伝わってきていた。
「ご主人様の傍にいたのがリリィ姉様なら、こんなことには……」
「それは無理だよ。わたしでも、結果は同じだった」
これは何も慰めだけの台詞というわけではなかった。
確かに現在のわたしとローズなら、わたしの方が強いだろう。
わたしは、ミミック・スライム。
その能力は他者の捕食とそれに伴う擬態能力の獲得だ。
わたしがこれまで捕食してきたのは、マジカル・パペット、ファイア・ファング、トレント、そして、水島美穂。いずれもオリジナルの劣化コピーでしかないが、わたしは同時にそれらの力を使うことが出来る。
条件にもよるが、持ちうる全てを出し尽くして戦えば、わたしは恐らく、高確率でローズを下すことが出来るはずだ。
しかし、それでもあの白いアラクネには敵わない。
百度戦えば百度殺される。彼女とわたしとの間には、それだけの実力差があった。
「ハイ・モンスター……」
恐らくあれは、モンスターの枠の外側にいる存在だ。
この森の中であれに敵う存在はそう多くあるまい。
戦闘向けではないユニーク・モンスターのわたしや、たかだかレア個体のローズでは、力を合わせてもあれに勝つ見込みはない。
だが、そんなことは関係なかった。
「たとえ死んでも、ご主人様は取り返さないと」
「当然です。我が身に代えてもご主人様はお救いいたします」
わたしたちの気持ちは一つだった。
この身が滅びようともご主人様だけは守り抜く。
それが、わたしたち眷属の在り様なのだから。
……そう。そのはずなのだ。
だからこそ、わたしは疑問だった。
「あの白い蜘蛛は……わたしたちと同じ眷属だった」
最初は何かの間違いだと思ったが、確かにあれは眷属モンスターだった。
わたしたち眷属は、ご主人様を介してパスで繋がっているため、お互いにお互いがそうだとわかるのだ。
パスを通じてわたしは、彼女の強い欲望さえ感じていた。
それをあえて言語化するのなら、こんなところになるだろうか。
「『これはわたしのものだ』。――パスを介して彼女がそう思っているのが伝わってきたわ」
思い返して、わたしはその暴力的なまでの身勝手さに寒気を覚えた。
彼女がご主人様を攫った理由が彼への危害に繋がるものでないことを、ただただ、わたしは祈った。
「わたしも彼女の意図を同じように解釈しました」
ローズが頷き、わたしの意見に同意を示した。
「その欲求の源泉が何処にあるのかはわかりませんが、いずれにせよ、彼女が自分の欲求のためを満たすためだけに、ご主人様を奪って行ったことは疑いようがありません」
「そうね。許せることじゃない」
「ただ、ああしてご主人様を奪っていったということは、すぐにご主人様を殺害する可能性は低いでしょう。それだけは、辛うじて安心材料と言えます」
「それは確かにそうかもしれない……けど、アレがご主人様に十分な気遣いをするとも思えない」
わたしは、無意識のうちに奥歯を噛み締めていた。
「ローズも見たでしょ。あいつに拐かされた時に、多分、ご主人様は酷い怪我をしてる」
幸い生命に関わるような致命的な傷はなかったようだが、それでも彼の負った怪我が重傷であることに違いはない。
パスを伝わって来た、ご主人様の感じた苦痛。
それを思い返すだけでもわたしは、いまは擬態することで存在する偽物のハラワタが煮えくり返りそうな気持ちになった。
「落ち着いてください、リリィ姉様」
「わかってる!」
反射的に言い返して、わたしは歯噛みした。
今頃、ご主人様は苦しんでいる。
そう考えるとわたしはもう、いてもたってもいられなくなって、すぐにでもこの場を飛び出してしまいそうになるのだ。
「とにかく、いまは早くご主人様を追わないと……」
逸る気持ちそのままに、わたしはローズに言い募った。
そのときだった。
「リリィさん。ローズさん」
完全に忘れ去っていた存在から、声がかけられたのは。
「真島先輩を追うのはいいですけど……そもそも先輩は生きてるんですか?」
わたしは反射的に、声のした方向を睨みつけてしまった。
「生きてる! 馬鹿なこと言わないで!」
そこには、ご主人様と同じ種族である人間の少女がいた。
ご主人様が保護した、一つ年下の女の子。
名前は加藤真菜。
わたしが擬態する水島美穂の、かつての親しい知人だった。
「申し訳ありません、加藤さん」
わたしが何か言う前に、ローズが前に出た。
珍しいが、これはわたしのささくれだった心を察してのことだろう。それがわかったから、わたしは妹分の顔をたてて、ここはひきさがることにした。勿論、内心は穏やかではない。ご主人様が死んでしまう可能性なんて、頭に浮かべることすら許されないことだった。
「わたしたちも加藤さんの存在を忘れていたわけではないのですが、いまは緊急事態ですので」
「わかってます。行くんですよね?」
「ええ。わたしたちはご主人様を追わなければなりません」
「追うのは構いませんけど。生きてるって確信はあるんですか?」
先程の疑問を繰り返す加藤さんに、わたしの中の怒りが再燃しかけるが、対応しているローズに動じた様子はなかった。
「勿論、確信はあります。ご主人様は生きていらっしゃいます。我らの意識があることが、ご主人様が無事である何よりの証拠ですから」
「どういうことですか?」
「わたしたちは、元々モンスターである時に、確固たる意思を持ちませんでした」
ローズは淡々とした声で、加藤さんの疑問に答えた。
そこには、数秒前まであった焦りや怒りといった感情は残っていない。
彼女は冷静さを保っている。
わたしとは違って。
「ただのモンスターであった頃のわたしは、自我というものが希薄でした」
落ち着いた声色でローズが語るのは、彼女の――否。わたしたちモンスターが眷属になるまでの軌跡だった。
「わたしにとって、ただのモンスターであった頃の記憶というものは、ほとんど記録映像を見ているように無味乾燥なものです。しかし、いまは違います」
「それじゃあ、ひょっとして先輩が……?」
「ええ。わたしが己というものを確立し、己が生きていることを自覚したのは、あの日、あの時、あの場所で……導かれるように森をさまよい、ご主人様に出会った瞬間なのです」
そうして語るローズの言葉には、ただただ歓びだけがあった。
それだけ、あの瞬間の記憶は、彼女にとって鮮烈だったのだろう。
それはリリィという名を与えられたわたしにとっても、同様のことだった。
――あの日、あの時、あの洞窟で。
わたしはご主人様に出会った。
最初はうっかり腕を食べ掛けてしまったけれど、すぐに『違う』とわかった。
これはわたしが食べるものじゃない。
むしろわたしが食べられてしまいたいとさえ思ったのは……ご主人様にも秘密のことだ。
ともあれ、わたしは彼に出会い、求められて、その結果として自我を得た。
その瞬間、わたしの世界に初めて色彩というものが生まれた。
願われて、望まれて、初めてわたしという存在はこの世に誕生したのだ。
そういう意味では、ご主人様はわたしたちにとって、人間でいうところの母に等しい。
わたしたち眷属はご主人様のことを心の底から愛している。
そして、幸運なことにご主人様も、わたしたちのことを愛してくれている。
そういう意味でも、その関係性は親子に酷似していると言えるだろう。
……と、これはあくまでも水島美穂の記憶から、人間に理解しやすいようにわたしたちの関係を言語化しただけのことで、実際のところ、わたしたちにとってご主人様はご主人様だ。
狂おしいほど愛おしい、わたしにとっての絶対だ。
わたしたちはご主人様の望みを叶えるために生まれてきた。
だから、その彼が死んでしまえば、わたしのこのつまらない自我なんて、ふっと消えてなくなってしまうことだろう。
そうなっていないということは、ご主人様は無事でいるということだ。
いまもご主人様は、きっとわたしたちの助けを待っている。
だから。
「ローズ! そんな話はいいから、早くいかないと!」
わたしの全身を焦燥感が駆り立てる。
ともすると、この心さえ燃え尽きてしまいそうにさえ思えるくらいに。
「ですが、姉様」
そんなわたしとは対照的に、もう感情の制御を取り戻したらしいローズは、いたって冷静にわたしを諭した。
「加藤さんのことはどうするつもりですか?」
「……あ」
それは、わたしの思考からすっぽりと抜け落ちていた問題だった。
わたしは今更に、加藤さんがわたしたちのやりとりに口を挟んだ理由に気付いた。というより、そうして当然だった。何しろ、加藤さんはわたしたちに置いていかれたら先がないのだから。
「ご主人様は加藤さんのことを保護されると決めておられました」
ローズが自分の壊れた腕の肘のあたりを弄ると、使えなくなった腕が肘から外れて、どさりと地面に落ちた。
「彼女をわたしたちの一存で放置するわけにはいかないでしょう」
ファイア・ファングの毛皮を利用した風呂敷からスペアの腕を取り出しつつ、ローズはわたしにとうとうと語りかけてきた。
「で、でも、ご主人様がさらわれたっていうのに、そんなこと……」
「だからといって、短絡的な判断をしていいということにはなりません。リリィ姉様。こういう時こそ、冷静にならなければ」
「わ、わたしは! 冷静よ!」
「いいえ。姉様は我を失っておいでです」
「くっ……!」
ああ、そうだ。わたしは冷静ではない。
冷静でなど、いられるものか。
わたしの傍に彼がいない。
たったそれだけのことで、わたしは気が狂いそうになっている。
その点、やはりローズは冷静だった。
そして、加藤さんもまた平静を保っていた。
「わたしは別に、置いていってもらっても構いませんけど」
加藤さんが突然、そんなことを言い出したので、言い合っていたわたしたちは揃って彼女へと顔を向けた。
わたしは彼女の発言に戸惑った。
その時までわたしは、加藤さんが出てきたのは、わたしたちが彼女のことを放って、ご主人様の救出に向かってしまいそうなのを目撃したからだろうと考えていた。
実際、この森の中に一人で置いていかれるということは、彼女にとってほとんど死刑宣告に等しい。見捨てられないように必死にもなるだろうというものだった。
だが、実際には彼女は口を開けば『置いて行っても構わない』という。
正直、わけがわからなかった。
「加藤さん。いまの発言の意図をお聞きしてもよろしいですか?」
いぶかしむわたしとは違い、ローズは率直にその意図を尋ねた。
「そのままの意味です。わたしを置いていきたいのなら、置いていってもらって、わたしは構いません。ただ……」
加藤さんは平静な、普段通りの表情で淡々と言葉を重ねた。
「可能であるのなら、わたしのことも連れて行ってほしいとは思います。わたし、役に立てると思うんです」
それは、思いもよらない提案だった。
彼女がわたしたちに同行しようとする理由は、命惜しさではない。
役に立てるから、彼女はわたしたちに同行したいと言っているのだ。
わたしは怪訝さを隠さずに問いかけた。
「あなたが来て、どうなるっていうの?」
「少なくとも、あなたたちはご主人様の言いつけに背いて、わたしを放置せずに済みます。それに、あなたのご主人様を助ける時の、弾よけ程度の役には……いいえ。それが無理でも『餌』程度の役には立つかもしれません」
「……」
確かに、加藤さんを連れていくことで、わたしたちはご主人様から下されている命令を放棄せずに済む。
ご主人様は律儀だから、たとえ自身の危機とはいえ加藤さんを見捨てることをよしとはしないはずだ。また、仮に加藤さんが死ぬようなことがあれば、加賀の件などとは比べ物にならないくらいに大きな傷を心に負うことも想像に難くなかった。
逆にデメリットは、わたしたちが彼女という足手纏いを抱えることだ。
それだって、加藤さん本人が言うように、ご主人様の代わりになる『餌』を持って行くと考えれば、そう悪いことではないように思える。
「……無理ね。許可は出来ない」
しかし、わたしが口にしたのは、明確な拒絶の言葉だった。
「無理、ですか。理由を聞いてもいいですか?」
「理由? そんなの、決まってるじゃない。あなたは信用できない。それだけ」
先程のメリット・デメリットの羅列は、彼女がわたしたちを裏切らないという前提で立てられたものだ。
彼女はわたしたちのような眷属ではない。
人間だ。
人間はご主人様を傷つけた。裏切った。
人間は裏切る生き物なのだ。
少なくとも、その可能性がゼロになることはない。
ことはご主人様の生命に関わることだ。
万全を期して尚、細心の注意を払うくらいで丁度いい。
不確定要素である彼女を連れて行くわけにはいかなかった。
そもそもわたしは彼女をご主人様の旅路に連れて行くこと自体に、反対だったのだ。
あくまでわたしは、ご主人様がそれを強く望んだから、あの場はひきさがったに過ぎない。
「この緊急事態に、信用ができない『人間』は連れて行けない。何が起こるかわからないもの」
これがわたしの下した結論だった。
「そうですか。残念です」
わたしが告げた言葉を、それほど落胆した様子もなく加藤さんは淡々と受け止めた。
「あまりがっかりしないのね」
「リリィさんならそういうだろうなって思っていましたから」
「……どういうこと?」
わたしは眉を潜めた。
「そういうと思っていた? どうして?」
「だってリリィさん、わたしのこと、ずっと警戒していましたよね?」
加藤さんは肩口に乗ったおさげに触れつつ、わたしの疑問に答えた。
「リリィさんが真島先輩に四六時中くっついていたのって、先輩の護衛のためでしょう?」
「……」
わたしは、絶句した。
意外だった。
ローズ以外にはご主人様にさえ話していなかったわたしの意図に気が付いていたこともそうだが、彼女が此処まで『話せる』ということに、わたしは驚きを隠せなかった。
抜け殻のようだと思っていたが、思ったより頭も口も回るらしい。
「まあ、半分くらいは役得って感じっぽかったですけど」
「うるさい」
ついでに、勘も鋭い。
わたしは自分でも刺々しいとわかる口調で詰問した。
「いつ気付いたの? わたしがあなたを警戒しているって」
「それはまあ、最初から。……あれだけ見られていれば気付きます。それだけ警戒している相手を連れて行けって言っても、それは無理ですよね」
加藤さんの指摘はどれもが正しかった。
ここにいたって、わたしは認識を改めざるを得なかった。
無感動で表情が薄いのでわかりづらいが、決して加藤真奈という少女は人の感情の機微に疎いわけではない。
むしろ非常に鋭い感性を持っている。
だが、その割に迂闊なところもあったが。
「わたしの思惑に気が付いていたことには、ホント、驚いた」
わたしは自分でも硬いと思える口調で告げた。
「でも、それを指摘してどうしようっていうの? あなたが鋭ければ鋭いだけ、わたしの警戒心を煽るだけじゃない」
わたしはますます、彼女を一緒に連れて行くわけにはいかないと思い始めていた。
切れ者であるのなら、裏切られた時のリスクは増す。
わたしたちの思いもよらない行動を取るかもしれないからだ。
「提案は却下よ。いきましょ、ローズ」
結論は変わらない。わたしはローズに振り返った。
「姉様。しかし……」
ローズは未だにどうしたものか迷っているようだった。
ご主人様に向ける感情が、わたしよりも大きく忠誠心に寄っている彼女は、一度下された命令を放棄することに大きな躊躇を覚えてしまっているのかもしれない。
わたしはローズを説得する言葉を選び始めた。
しかし、わたしがそれを唇に乗せるよりも、加藤さんが追いすがってくる方が早かった。
「本当にわたしは連れていってはもらえないんですか?」
「そのつもりよ」
わたしは振り返ることもなく、ぞんざいに答えた。
「本当に?」
「ええ」
「どんなに頼んでも?」
「あなた、危険すぎるもの」
「成る程」
背後で、溜め息が聞こえた。
「もっともらしい意見ですね」
「……」
自然と眉が寄った。
わざとやっているのかどうか、いまの加藤さんの物言いには、ただでさえささくれだっているわたしの感情を逆撫でするものがあった。
「何がいいたいの?」
「それは本当に理性的な判断によるものなんですか、と尋ねています」
「それって、どういう意味?」
流石に無視出来ない暴言に、わたしはついに加藤さんを振り返った。
そうして、わたしたちの視線が交わって――
「っ!?」
――わたしの紛い物の肌に、鳥肌が立った。
自分に何が起こったのか、わたしにはわからなかった。
わたしはただ、加藤さんと向かい合っただけだ。
加藤さんの何が変わったわけでもない。
平坦な口調。
陰鬱な表情。
それらは加藤真奈という少女の、これまでと何も変わらない姿だった。
だから、彼女と対面したわたしが狼狽するようなことは一つもない……
……いや。
そうではなかった。
一箇所だけ、これまでの彼女とは決定的に違っている部分があった。
目だ。
彼女の目が違っている。
彼女の二つの目は、何かを思い定めたかのように、瞳の底に爛々と輝くものがあったのだ。
それがわたしの背筋に悪寒を走らせた原因だった。
――あとから考えれば、このときのわたしは迂闊だったのだ。
血が頭に昇っていた。冷静な判断が出来ていなかった。
だから目の前にいる少女のことさえ見誤った。
本当に愚かとしか言いようがなかった。
この非常事態に直面したことで……ついに加藤真奈という少女の精神が蘇っていたことに、まさにこの瞬間まで気が付かなかったのだから。
「リリィさんは、ただわたしのことが気に入らないだけじゃないんですか?」
「……あ、ぇ?」
その侮辱とも取れる台詞に、わたしは、何故か返す言葉を持たなかった。
そんなわたしの様子を観察し、加藤さんはひとつ頷いた。
「わかってます。リリィさん、わたしのこと嫌いですよね?」
それはわたしの中の一番やわらかい部分にナイフを突き立てる台詞だった。
「な……にを、言っているのか……」
「だから、わかりますってば」
誤魔化しの台詞も、通用しない。
「リリィさんはスライムなんですよね。ミミック・スライムでしたっけ? 能力は他者の擬態でしたよね。その力を使って、あなたは水島先輩のことを模しています。話し方も、そして、仕草だって。あなたは水島先輩そのものです。わたし、水島先輩とは仲良かったですからね。リリィさんのことは知りませんけど、水島先輩のことなら、細かいところまでよく知ってます」
適当なことを言うな。
わたしがそう言い張るには、加藤さんの声はあまりにも確信に満ちていた。
それに何よりわたし自身の心が、彼女の言い分を認めてしまっていた。
……どうして気付かなかったのだろうか。わたしは彼女を敵に回してはいけなかったのだ。
彼女には少女らしい繊細な感性があり、わたしの擬態する水島美穂を知っており、そして、普段何も出来ることのない彼女には、わたしという個体を解剖し尽くすために観察と思考を行う時間があり余るほどに与えられていた。
あまりにも相性が悪過ぎた。
水島美穂の姿を模しているわたしにとって、彼女をよく知る加藤真菜は、まさしく天敵だったのだ。
「わ、わたしは……」
熱く燃え盛っていた怒りが一気に氷点下まで凍りついてしまっていた。
わたしは目の前の、その気になれば簡単に殺せてしまう少女の存在に明確な恐怖さえ抱き始めていた。
そして……『わかっている』と彼女は言った。
だから、抱き始めたわたしの恐れだって、彼女の掌の上だ。
「リリィさんはわたしのことが羨ましいんじゃないですか」
「そんなことは……わたしは別に。羨ましい、なんて……」
「それは嘘です。あなたはわたしのことが嫌いで、それはわたしが羨ましいからで……」
「や、やだ……聞きたくない」
これは、駄目だ。
この擬態した体を保てなくなりそうなくらいに嫌な事実を、わたしはいま、聞かされようとしている。
咄嗟にわたしは耳を塞ごうとした。
だが、それより加藤さんが言葉のナイフを突き刺す方が早かった。
「どうしてそんなに羨ましいかっていうと……わたしが、あなたの大事なご主人様と同じ、人間だからでしょう?」
これが、トドメだった。
加藤さんが投げつけてきた台詞は、この擬態した体の中にわたしがひた隠しにしてきたものをさらけ出す、鋭利で危険な言葉のナイフに他ならなかった。
「だから、あなたはわたしが羨ましくって妬ましい。……違いますか?」
――違わない。
理性より先に、感情の部分が彼女の言い分を認めてしまっていた。
……そうだ。
わたしは人間である加藤さんのことが羨ましくて仕方がない。
わたしは、モンスターだ。
いまはこんな姿をしているが、わたしは本来醜い怪物でしかない。
わたしはただ人間に擬態しているだけだ。
そして、擬態しているということは、どうしようもなく偽者だということなのだ。
どれだけご主人様のことを愛そうとも――わたしは決して、人間にはなれない。
だから、わたしには常に不安があった。
やはり人間には人間が一番いいのではないかという、そんな当たり前過ぎる不安だ。
少なくとも、それが自然であることは、万人が認めることだろう。
いまはいい。
ご主人様は人間を嫌っていて、だから、わたしみたいな『紛い物』が一番近くにいられる。
別にわたしは彼の一番近くにいたいわけではない。
いられるのなら幸せだが、そこは他の人に譲ったって構わない。
何故なら、眷属であるわたしたちはご主人様のものだが、ご主人様はわたしたち眷属のものではないからだ。
わたしは彼の近くにいられれば十分なのだ。
だけど。
だけど……
もしもご主人様が人間と和解してしまったら……
彼が負った深い心の傷が癒えてしまったら……
そのとき、わたしのようなモンスターは、近くに置いてさえもらえなくなってしまうのではないだろうか?
それは、何も根拠のない懸念ではなかった。
わたしは知っているのだ。
わたしはご主人様の最初の眷属だ。
わたしはかつて『人のよい真面目な学生』であったご主人様が、『いまのご主人様』になった、その最初の瞬間から一緒にいる。
だから、わたしは知っている。
この世界でわたし一人だけが知っている。
ご主人様の真実を。
ご主人様は体も心も傷ついて、他の何者も信じられないと絶望し、死を目の前にした瞬間に、こう願った。
――誰か、おれを助けてくれ。
これは明確に、大いなる矛盾を孕んだ台詞だ。
だって、もう誰も信じられないと絶望した人間が、死の寸前に『他の誰かに助けを求めた』のだ。
有り得ない。
理屈が通っていない。
矛盾、しているのだ。
だが……考えてみればこれも、それほど不思議なことではない。
生と死の境に身を置くことで、価値観が変わるというのはよくある話だ。
ご主人様もこの類だろう。
しかし、果たしてそれまでの間に培ってきた価値観の全てが、残らずひっくり返ってしまうようなことがありえるだろうか?
たとえひっくり返ってしまったとして、そこに何一つとして残滓が見られないものだろうか。
それほど少年の過ごした十七年間は軽いものだろうか。
彼の全てがいちどきに残らずなくなってしまうのが当然だなんて考えるのは、いくらなんでも少年の半生を馬鹿にし過ぎているのではないだろうか。
これはつまり、そういうことなのだ。
――深い心の傷を抱えたご主人様は、どうしても人間を信じられない。
――その一方で、いまでもご主人様は、心の何処かで他人を信じたいと願っている。
それこそが真島孝弘という名の十七歳の少年の抱えた、致命的な矛盾だった。
大きな矛盾に心は軋み、ひずみ、隙間が出来て、いずれは崩壊するのが目に見えていた。
わたしたち眷属は、そうして出来た心の隙に滑り込んだに過ぎない。
その自覚があるから、わたしは常に不安だった。
いつかわたしはご主人様に必要とされなくなるのではないか。
それはわたしのひそかな……しかし、他に比べようもなく大きな恐怖だった。
だから、わたしは加藤さんの言い分をどうしても否定出来ない。
わたしは人間が羨ましくて仕方がない。それはとても大きな想いで……ともすれば、わたしの全てを押し流してしまいかねないものだ。
それがいまのこの場面で、人間である加藤さんの同行を拒絶する理由になっているとしたら……
それは、あまりにも醜い行いだ。
もしも、もしも、それが正しいとすれば……
そんなわたしには、それこそ、ご主人様の傍にいる資格なんて……
「そのあたりにしておいていただけますか、加藤さん」
わたしが輪郭を保つことさえ出来ずに崩れ落ちてしまいそうになる、その寸前だった。
「リリィ姉様の頭が冷えるまでと思って見守っていましたが……」
わたしたちの間の緊張の糸を、かすかな熱を帯びた女性の声が切り裂いた。
わたしは知らず俯いていた顔をあげる。
木製の背中が、わたしのことを守っていた。
「いくらなんでも、やりすぎではありませんか?」
ローズはわたしと加藤さんとの間に割り込むと、がちりと音を立てて、スペアの腕を失った左腕に接続した。
その音はまるで獣の威嚇のように、森の空気を震わせた。
「話のすり替えはやめてください、加藤さん」
「何の話ですか?」
「リリィ姉様があなたのことを嫌っているのは、事実なのかもしれません。しかし、それとあなたを連れて行くかどうかは、別問題ではありませんか」
ローズの声は、少し怒っていた。
わたしのために怒ってくれていた。
「あなたは故意に両者を結びつけている。そうしてリリィ姉様を追い詰めている。わたしはそれを見逃すわけにはいきません」
「……」
加藤さんはしばらく無言でローズをにらんでいた。
数秒経ち、溜め息が一つ吐き出された。
「まあ、流石にローズさんにはバレますよね」
そう言うと、加藤さんはバツが悪そうに眉尻を下げた。
たったそれだけで、ついさっきまでわたしを圧倒していた少女の面影はなくなってしまった。
「ごめんなさい。と言っておきます。許してもらえるかは、わかりませんけど」
そこにいるのは、いつものやや暗い印象のある、幼げな容貌の少女だった。
「そこまでリリィ姉様のことを読みきっているのなら、姉様が自身の身勝手な感情であなたを排斥しようとしていたわけではないことも、わかっているのではありませんか?」
「そうですね。リリィさんはただ疑り深いだけです。慎重なのは、ただ真島先輩のことが大事だから。わたしを連れて行くかどうかという一件と、リリィさんの抱いている嫉妬は無関係です」
そして、巧みに会話を誘導していたことさえ、あっさりと認めてしまう。
なんて呆気ない。
置いてきぼりのわたしは事態の推移をただ見守るしかなかった。
「……と、いうことです。リリィ姉様」
話を終えたローズが、くるりと体の向きをこちらに変えた。
「ローズ、わたしは……」
「安心してください、リリィ姉様。姉様はそんな身勝手な方ではありません。それは、わたしが保証します」
ローズはわずかに口調をやわらげた。
それでようやく、わたしは事態に追いつくことが出来たのだった。
けれど、同時に。
ローズの言葉をそのまま受け取ることも出来なかったのだった。
「だ、だけど、わたしは羨ましいと……」
ローズのかけてくれた言葉は優しかった。
けれど、それだけではわたしが抱いてしまった恐れを晴らすには至らなかった。
「わたしは……加藤さんのことを羨ましいと確かに思っていて……」
加藤さんの指摘は、これまで見ようとしなかったわたしの一面を鋭く抉っていった。
「嫉妬、してるかもしれなくて……」
知らなかったフリは、もう出来なかった。
「そんな汚い感情を抱いているって知られたら……ご主人様に嫌われちゃう」
ご主人様は人間の汚さに絶望した。
目の前で絶望の泥濘に沈む彼を見て、わたしは彼の心を癒してあげたいと思った。
そうあろうと決めた。
だからわたしは――誰よりも綺麗でいなければいけなかったのだ。
わたしが自分の中の嫉妬心に目を瞑り続けてきたのは、自分の中のそうした感情を認めるわけにはいかなかったからだった。
そんなわたしの汚れた部分を知れば、ご主人様はわたしのことを嫌ってしまうかもしれない。
わたしは、それが怖かった。
それは他の何よりも耐え難いことだった。
そうなると考えると怖くて、怖くて、仕方がなくて、だからわたしは小さく身を竦めて震え、怯え、泣きそうになって――
「それはありません」
――当たり前のように告げられた否定の言葉に、きょとんとしてしまったのだった。
「え?」
ローズはわたしのことを、のっぺらぼうな顔でじっと見ている。
何言ってるんですか、姉様。とでも言わんばかりに。
「……え?」
「わたしには人間の機微が理解できません。リリィ姉様の嘆きも、理解できているとは言い難いです」
ローズはわたしの目に浮かびかけた涙をそっと拭ってくれた。
「ですが、だからこそ、そうして不安に惑うリリィ姉様は、とても人間的だと思います」
ローズの言い分は、幼い思い込みの殻に閉じ込められていたわたしにとって、天啓とさえ思えるものだった。
「人間、的……?」
「ええ。ご主人様はそんな姉様のことを好いていらっしゃるはずです。それくらいのことは、木製の人形にしか過ぎないわたしにもわかります」
「確かに」
これに同意したのは、驚いたことに、加藤さんだった。
「汚さというより、それは人間としての生臭さの範疇ですよね。好きな人が自分との関係で不安を抱くこともなければ、嫉妬の一つもしてくれないとなれば……多分、男の子は自信なくしますよ? ちょっとくらいの悋気は、むしろ可愛らしいものなんじゃないですか?」
「……あなたがそれをいう?」
見たくもないわたしのハラワタをさらけ出してくれたのは、彼女だ。
恨みがましい目でわたしがじっと見つめると、加藤さんはやや視線を逸らした。
それは珍しく、極々普通の日常の中にいる少女のような態度だった。
「あー、その。そういう落ち込まれ方は予想外だったといいますか。わたしとしては、リリィさんには自分の判断に疑問を抱いてもらえれば、それでよかったんですけど。それが、まさかそんな基本的なコトからわかっていないなんて、想像もしていなかったといいますか……」
と、不意に加藤さんは言い訳の台詞を切った。
とてもやわらかな表情が、陰鬱なばかりだった顔にふっと浮かんだ。
何か大事なものを見つけた童女のような表情、とでも言えば伝わるだろうか。
わたしが加藤さんの変化に気を取られているうちに、彼女はいつもより幾分か軽やかな口調で言った。
「『相変わらず』男の子のことに関しては鈍感なんですね。まあ、いまはそれだけじゃないみたいですけど」
「うるさい」
……あれ?
反射的に言い返したわたしは、内心で首を傾げた。
さらりと言われたから聞き逃してしまったけれど……いま、何か変なことを加藤さんは言わなかっただろうか。
それに、何だろうか。何か……何か、いま、とても懐かしい感じがした。
何だったのだろうか。わからない。
既に加藤さんは普段の無表情に戻っている。
わたしは彼女を見つめ、彼女もまたわたしのことを見つめていた。
ほんの一瞬、起こった奇跡を惜しむように、数秒わたしたちは見詰め合っていた。
「さて、姉様が立ち直ったところで、話を最初に戻しますが」
呆けていたわたしを現実に戻したのは、相変わらず冷静沈着なローズの声だった。
「それで、結局、加藤さんの身柄についてはどうしますか、リリィ姉様」
わたしは、はっと我に返った。
そうだった。
忘れてはいけない。いまは緊急事態の真っ最中なのだった。
こうしてわたし自身ようやく冷静さを取り戻すことが出来たのだから、これが意味がない時間だったとは口が裂けても言えない。
だが、それでも、いまが急を要する状況であることは違いがない。
「そうね」
これ以上の時間を費やすわけにはいかない。早急な決断が必要だった。
そのために、まずは仕切り直しが必要だ。
こうしてわたしは改めて……あるいは、この夜初めて、二人の同行者に正面から向き合ったのだった。
◆初の別の子視点です。主人公がいなくなったあとの話です。
最初に○○視点と入れてます。なくても読み始めれば、すぐに誰視点かはわかるように書きましたが。
嫌う人もいますが、こっちのがいいという人もいます。好みの問題なので、他作品を参考にした結果、わかりやすさを重視しました。
◆内容は……加藤さん蘇生。
彼女がどうしてスライムをぷちっと踏み潰した(精神)のか、というあたりは次回に繰り越しです。
◆リリィは此処まで少しマスコットめいたところがありました。
きちんと彼女を描けてあげられていればいいのですが。
◆伏線と言うほどのものではありませんが、やっと、プロローグに仕込んでいた矛盾を回収できました。
◆次回更新は1/15(水曜日)になります。