オレンジ
あくまでも僕の場合なんだけど、チャンスをチャンスを感じないくらい、きっかけはどこにでも転がっている。
彼女とのつながりは、転がったオレンジだ。
歩行者信号が青の横断歩道で、ショッピングカートから落ちたから、拾ってあげた。
一、二、三、四、五個までいったとき、信号機の点滅が始まったから、オレンジを抱えたままその人とカートを後ろから支えて、確かな足取りで渡り切った。見上げると信号は赤になっていた。
「ありがとうねえ」
腰の曲がったお婆さんは僕からオレンジを受け取った。
言ってるそばで、カートからまた別のオレンジがごろごろと零れた。
「よかったらお家まで運ぶの手伝いましょうか」
僕は言った。そのほうがいいと思ったから言ったまでだ。
花曇りの日曜の午後、レンタルDVDを返却して、家まで帰るところだった。
「距離も聞かずに申し出るなんてお人好しねえ」
はい、と歯切れよく答えたら、ふふふと笑われた。
「僕の家にも祖父がいますから」
と言って、オレンジジュースを飲む。
アスファルトを転がったオレンジで、お婆さんが作ったジュースだ。
冷えてないけれど、甘くてもともとの果物の風味がした。
お婆さんの家は先ほどの交差点から数百メートルのところにあった。
2階建ての白く新しい豪邸だ。シャッターの脇にセキュリティー会社のシールが貼ってあった。
出入りのヘルパーに家事全般を任せているが、日々の買い出しだけお婆さんが運動がてら行っているのだという。
嗅ぐつもりはなくても、新築家屋特有の匂いが漂っていた。
扉の開く音と、ただいまという女の子の声がした。
「孫が帰ってきたようだよ」
お婆さんの発言に、僕は柔らかい皮のソファーから腰を浮かせ、微笑んだ。
「それじゃ、僕はこれで」
ありがとうね、とお婆さんはまた言い、玄関まで案内してくれた。
そこで彼女と会った。
お互い、あれっという顔をしたと思う。僕のほうが早かった。
お邪魔しましたと挨拶したあと、彼女の脇を通るときに小声で言った。
「明日、学校でね」
一学年四クラスの高校のクラスメイトだった。
彼女が僕に話しかけてきたのは、翌々日の火曜日の放課後だ。
一恭くん、と声に出したきり、次の言葉がない。
僕のネクタイの結び目あたりを見ている。
進入学の僕らの教室には上級生が部活勧誘でやってくるから、こうして出入口に突っ立っているのは邪魔だった。
「おばあちゃんは、あのオレンジを全部ジュースにするの?」
廊下の窓際で僕は中庭を見降ろしながら尋ねた。
僕たち一年生の教室は三階建ての三階。学年が進むごとに、一階ずつ下になる。
窓の下は芝生の生えた中庭だ。
横には動物小屋があり、取り囲む広くもない柵の中にヤギがちょこんと見えた。
僕は四人姉弟なので、昔からペットを飼ったことがなかった。
「おばあちゃんは」
僕の隣で彼女の声がした。
「おばあちゃんは自分の分しかジュースを作らないの。わたしも一度しかもらったことがない。でも、たぶんみんなジュースにするのだと思う」
僕に並んだ彼女は苦笑いをしていた。
後ろを野球部員が走ってゆき、彼女のボブの髪が揺れた。
「そうなんだ」
こくりと彼女は頷く。
名前なんて言ったっけ、と僕は考える。
この学校の生徒の大半は中学からの持ちあがり組だが、そうでない者もいる。
僕は持ちあがり組だが、彼女はその少数派だった。
「名前」
彼女は言う。
「皆があたりまえのように呼んでいたから、下の名前で呼んじゃったけど、嫌じゃなかった?」
「ああ」
視線をもう一度ヤギに移した。
あいつにも名前はあるのかな、と思った。
「昔からイッキョウとかモロイくんとかイッチーとか、いろいろ呼ばれてる。バリエーションあるから、好きに呼んでいいよ」
ブラスバンド部の女子の先輩が彼女を部に勧誘しようとしたけれど、僕がやんわりと先延ばしにした。
そのあとも、部活をなんにするとか、委員会どうするとか、少し話した。
彼女は部活も委員会も希望するものがあった。
僕はというと、どうしても入らなければならないのなら、なんとなくサッカー部かなと思っていた。
委員会はホームルームが始まるまでどれにするかなど全く考えないし、これまで自分が所属した委員会さえ覚えていなかった。
「決めなきゃいけないことが続いて、疲れるね」
何気なく言った一言に、彼女は強く反応した。
「そんなことないと思う。特にわたしは、学校もそうだけど、この町のことをまだよく知らないから」
ネクタイの結び目を凝視するしかなかった瞳が、今度は完全に僕の目を見ていた。
そうだね、と僕は面食らったまま言った。
「ひたむきなんだね」
彼女は我に返ったらしい。恥ずかしそうに俯いた。
次に話したのは翌日の朝、登校してすぐだった。
時間が早すぎて誰もいない教室に入り、かばんを机に置いたところで、彼女が早足で近づいてきた。
「あのね。あれから考えたのだけど、一恭くん、迷惑じゃなかったら一緒に飼育委員に立候補しない? 一恭くんは面倒見がいいから、向いていると思う。登校時間も早いし」
「ああ。僕でよかったら」
どうやら僕は彼女から必要とされているらしかった。
「よかった。本当はお願いするのが怖かったんだ。それにね」
「それに?」
「ううん。なんでもない」
なんでもないという彼女の口を無理に開かせようとは思わなかった。
僕はこういうとき、距離と時間を置くのだ。
他に希望者がなかったため、何の労も策もないまま、僕と彼女は飼育委員になった。
彼女と交際がはじまったのは、それから数日後のことだ。
自然な成り行きだったのだけれど、彼女にとっては決死の覚悟だったそうだ。
つきあって間もない頃、頻繁に言われた。
「一恭はわかってない」
彼女が言うのなら、そうなのかもしれなかった。
たとえわからず屋であっても、ヤギの世話くらいはできたので、僕は気にしなかった。
委員会お揃いのTシャツを着て、朝や放課後に動物小屋の掃除をするのも苦にならなかった。
彼女が僕にくれた景色だ。
日々坦々と勤しみ、彼女が不機嫌なときは嵐をやり過ごすように距離を置き、楽しいときは一緒に笑った。
クラスメイトに戻ろうと言ったのは彼女だ。
僕はわかったと言った。
月一で行われる動物小屋の大掃除を終えての帰り道だった。
教科書の入ったかばんの他に、ふたりとも汗で汚れたジャージをバッグに詰めて持っていた。
「じゃあ明日からはただのボーイフレンドと、ガールフレンドね」
「ああ」
そこは彼女のお婆さんと出逢った交差点だった。
彼女とはここでいつも別れていた。
道を渡る彼女のために、僕はいつも隣で一緒に待っていた。
「行っていいよ」
彼女は言った。
「待たなくていい」
赤信号が青に変わるまで、僕はそれでもそこにいた。
横断歩道を行くうしろ姿を見送り、彼女が決して振り返らないのを最後まで見届けた。
気まずくなるかと思いきや、彼女の宣言通り、僕と彼女はただのボーイフレンドとガールフレンドになった。
「すごくない? なんで君らって、そんなにわだかまりなく自然なの」
僕らがつきあっていたことを知る飼育委員の女の先輩が、こそっと聞いたことがある。
「一恭くんだから、かな」
彼女の回答に、先輩は僕をじっくり見つめ、深く深く頷いていた。
彼女はどこまでも正しかった。
そのあと、僕は幸いにも何人かとお付き合いをさせていただくことになるのだが、別れても僕の耳まで悪評が聞こえることはなかった。
もちろん僕だって失礼のないようにしてきたつもりだし、友達として彼女たちのことを想ってもいる。
だけど、わかってないと言われることは未だに多い。
ある朝、動物小屋に先客があった。
見たことのある、一年の他のクラスの男子生徒だった。
柵に持たれて、ヤギやウサギのいる小屋に向かって、イッキョウ、イッキョウと呼んでいる。
なにか根本的に間違えている。
かばんを中庭の芝生に投げて、僕は彼の横に立った。
彼は僕の鼻くらいの背の高さで、近くで見ればそれなりに男らしく、くっきりとした顔だちをしていた。
「僕になにか?」
「あっ、おはよう。飼育委員の人? 俺と同じ一年か」
「そうだけど」
僕はポケットから鍵を出し、南京錠を開けて柵の中に入った。
委員以外の立ち入りを禁止しているわけじゃないので、彼にもついてくるように促す。
すると、嬉しそうな気配が後ろから伝わってきた。
「初めて入ったよ。けものの匂いがするのな」
「けもの……」
小屋の鍵を開け、ヤギとウサギを柵の中に解放した。
餌やりは、もうひとりの委員が登校するまで待つことにしている。
彼はウサギと糞を踏まないように恐る恐る来た道を戻り、柵の外に出ると、手だけを伸ばしてヤギの背を撫でた。
「見ていかないのか?」
「仕事の邪魔しちゃいけないと思って」
意外に真面目なことを言うやつだと感心したのも束の間、
「イッキョウ、お前って剛毛なのな」
彼の認識の根本を正さねばならないことを思い出した。
咳払いのひとつでもしたい気持ちで、僕はヤギの青い首輪のあたりを撫でながら彼に伝えた。
「イッキョウは僕だよ。このヤギは、マシロっていうんだ」
「うわ。そうだったのか、ごめん」
「いや」
ちくしょう嵌められたー、と彼は顔をしかめている。
ヤギも鳴いている。
妙におかしかった。
「いつも今朝くらい早い時間に登校して、三階の窓からこっちを見ていただろ?」
「気づいていた?」
「ああ」
あんな高さの場所から、心の中でこのヤギに向かって僕のあだ名を呼んでいたのかと思うと、愉快な気分になる。
自分ひとりで笑いをかみしめていたら、もうひとりの飼育委員が駆けつけた。
「おはよう。その様子だと、ばれちゃったのね」
にこにこしながら僕と彼の顔を交互に見やり、彼女が言った。
彼女。僕の元カノだ。
「わたしが入れ知恵したの。一恭くん、飛鳥くん、ごめんね」
悪びれた様子もなく、クスクス笑っている。
このとき僕は、初めてしゃべったときからは想像もつかないくらい活発になった彼女が、余所のクラスの男子とこんなふうに接しているのかと軽いショックを受けていた。
もうひとつある。
僕らがつきあっていたとき、僕は彼女についてショックを受けたことがひとつもなかった。
その事実に、今になってようやく気がついたのだった。