クモとチョウ
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限りなく透明に近い同心円と放射線。
クモはいつも通り木の葉の間に網を張り巡らせると、近くの葉の陰に身を隠した。
こうして待っているだけで食料が集まる。簡単なものだ。
クモはぼんやりと葉の間から見える狭い空を眺めて暇をつぶした。
毎日空を眺めていると時折、白い美しい昆虫が通り過ぎることがある。
チョウだ。
トンボのように効率良く直線的な飛行はしない。
ひらひらと舞うように飛ぶ彼女は優雅だ。
そして自分の網にも劣らない白さ。透明感。
きっと彼女は誰を傷つけることもなく、花の蜜でも吸って暮らしているのだろう。
まるで昆虫の世界の令嬢か、姫君。
昆虫の肉を食らう節足動物である自分とは対極的だ。
どうか彼女が自分のようなものを知ることも、触れることもありませんように。
クモはチョウに対して、いつしか羨望と畏怖を感じるようになっていた。
ばたばたと不規則な振動が、彼を現実に引き戻した。
チョウはもはや視界にいない。いつの間にか夢想していた。
舞い込んだ食事にありつこうと葉の陰から出たクモが見たものは、
先ほど狭い空を通り過ぎたチョウのもがく姿だった。
やれやれ。
運命とは皮肉なものだ。
たった今、願ったばかりだというのに。
クモは神をうらみながら、チョウを糸から解放しようと近づいて行った。
だがそんなクモの考えなど知る由もないチョウは恐怖に駆られた。
いっそう激しく暴れながら言葉にならない叫びを上げる。
そうだ。暴れるがいい。
自分の意図なんてわからなくていい。
恐怖に忘れ去ってしまって構わない。
解放されたチョウは振り返ることなく飛び去った。
それは傷とも呼べないほどわずかなもので、痛みさえなかった。
しかし、自ら切り裂いた糸のようなほころびは確実にクモの心に影響を及ぼしていた。
食べられない。
チョウではない。
まったく心ひかれないアリやトンボたちだ。
彼らとて他の生物にとっては捕食者であり、網にかかった獲物を食べることは自分の正当な権利だ。
どのように自分に言い聞かせても無駄だった。
食べられなくなったクモはみるみる衰えていき、死んだ。
チョウもクモの死を聞いた。
そして、思い出した。
自分が確かに一度、クモの網に捕らわれたことを。
だが何故か生きている。
もしまた捕まったときに助かる保証なんかないのに、チョウは試みに森を飛び回りクモを探した。
だがやはりその姿は見つからなかった。
やがて冬が訪れ、他の多くの生き物と同じようにチョウも死んだ。
このクモとチョウの様子を見ていた神が一抹の憐憫を感じたのか。
もしくは手慰みの洒落だったのかもしれないが、
クモとチョウの魂は空へと引き上げられ星になった。
つがいのようにも双子のようにも見える二つの星は、今日も宇宙のどこかで輝いている。
昆虫好きの息子たちに。