君は笑っているかい?
君は泣いているかい?
君は今、幸せかい?
君は今、何してる?
眠りと眠りの狭間に訪れる鮮やかな幻影、確かな、誰かの感情。
その鮮烈さに、かざみは目を覚ました。
視界に映るのは夜の闇。月はまだ天高くにあり、降るような星々の光が静かに瞬いていた。
半身を起こしたかざみの肩から布団代わりに被った大判のキャンバスシートがずり落ちる。
布の内側に溜まっていた暖かな空気が漏れ出し、代わりに冷えた夜気が入り込む。
その冷たさに、かざみの隣で寝ていた皓牙が薄く瞼を上げた。
「どうした?……」
普段のものより低く、掠れた声に呼ばれ、かざみが振り返る。
「…起こした?ごめん」
「………さむい」
端的に自分の状態を訴えた皓牙は、もぞもぞ動きながら体にキャンバスシートを巻き付け直す。顔すら半ば以上布に埋もれている皓牙を見下ろすかざみが、ふうっと息を吐いて口許を弛ませた。
かそけき月影に映える白い容貌の中で鮮やかな空色の光を湛えた瞳が、優しく微笑んだ。
「ずるい。あたしも寒い」
皓牙が抱え込んだキャンバスシートを、強引に引き剥がし、かざみは自らの身体を滑り込ませる。
ノースリーブのタンクトップからむき出しの肩は、僅かの間にすっかり冷えてしまっていた。冷たさを押し付けられた皓牙は、今度ははっきりと覚醒させられて、不機嫌そうにかざみを睨む。しかしかざみは皓牙の懐に潜り込んで、熱い身体に腕を廻してしがみつき、その上から改めて二人一緒に布を引き寄せた。
冷えた柔らかい身体を押し付けられた皓牙は、しばらく不機嫌そうにしていたが、ひとつため息を吐くと、そっと目の前の柔らかな茶色の髪を撫でた。
「…何かあったか?」
いつもの穏やかな皓牙の声に、かざみは小さく笑うと、温かい胸に押し当てた顔を少しずらして、答える。
「…夢、かな」
「夢?」
「うん、何だかわかんないんだけど、すごく寂しくて、すごく悲しくて、すごく切なくて…でもどこか、優しいの」
「…何だ、それ」
「わかんない。わかんない誰かの。意識かもしれないし、記憶かもしれない。私のじゃあ、ない」
「…」
「最近、時々見るの。でも、こんなどきどきしたのは初めて」
とりとめのないようなかざみの言葉は、理解に難かった。しかし伝わる感情は、何となく皓牙にも感じられた。
「…怖かったのか?」
彼の言葉にかざみは少し考えた。
「…ううん。多分、…かなしかった、かな?」
沈黙が訪れる。かざみはじっと皓牙にしがみついていて、皓牙はそんな彼女の髪を優しく何度も指で梳く。
「…寝たか?」
「……ううん、これから寝る…」
皓牙は片手を上げて、そっと布団代わりの布を引き寄せ、しっかりと互いの体に巻き付け直すと、そっとかざみの肩を引き寄せ、自らも瞼を閉じた。
君は幸せであるだろうか
君は寂しい思いをしてはいないだろうか
君は、幸福を感じることができているだろうか
*****
それは、ぼくにとって初めての恋だった。
それは、ぼくにとって最後の恋だった。
それは、ぼくにとって唯一の恋だった。
その人は、ぼくにとって、ただ一回きりの、人生の夢だった。
その人の名前は、佐代さんといった。
とても優しくて、朗らかで、儚く美しい人だった。
生来身体が弱くて、ぼくが初めてその人と出会った15歳の時には、既に余命いくばくもないと医者に告げられていたのだと、後になって聞かされた。
折れそうな程に細くて、透き通るように白い肌をしていた。
けれど、何も聞かされていなければ、きっとその人はぼくよりもずっと明るくて、活発で、健康に見えていた。
陽の光を浴びて鮮やかに咲き匂う、佐代さんはそんな女性だった。
ぼくが佐代さんに初めて会ったのは、ぼくが25歳の時。ストレートでマスターまで出たものの、就職のあてもなく、大学院でうろうろしていた頃だった。
その頃、日本は超高学歴社会などとも呼ばれていた。猫も杓子も大学を卒業するのは当たり前。そこで就職するか、更に院に進むか、そこで初めて、大多数から「この人は高学歴だ」と認められる、そういう時代であった。
しかしそれでもほとんどの人間は2年のマスターを終えると就職する。ちょうど就職口は余りまくっていた時代だった。むしろ、どこの大学に所属していたか、どの学部、学科に所属していたか、それだけでその先の進路が自動的に決まっていた。
折りしも世は、第三次産業革命などと呼ばれていた時代。
その数年前から爆発的に進歩していたIT技術とロボット工学の融合が、完成レベルで達成されたこと、また、超高度プラスチックと呼ばれる素材が実用レベルで完成したことが、その起爆剤となった。
そのプラスチックは、無色透明で可塑性や染色性が高く、どんな形にしても安定した硬度を得られた。しかもとても軽く、耐腐食性も強かった。その汎用性の高さが、人間の、いや、日本人の夢を実現するのに大変うってつけであったのだ。
主要な都市は半透明のドームで覆われ、内部は完全な空調で制御された。ITとロボットの技術を駆使した電気自動車が整然とメインストリートを走り、歩行者用の通路は更なる安全性を求めてチューブ状のものとなり、要所要所にはオートロードが整備された。
首都からその周辺の主要都市、そして地方の衛星都市へと、日本人の生活をガラリと変えたその技術のため、理系出身の学生は引く手数多であったというわけなのだ。
しかしたまにはそういった王道を外れてしまう者もいて、それが例えばぼくだった。
理工学部のマスターまで修めたぼくが夢中になったのが、ロボット工学――その中でも、生体に限りなく近付ける――いや、本当はぼくは更にその一歩先を――人体と同じものをロボットを作り上げること、だった。
しかしその当時求められていた技術は、「ロボットの頭脳を様々なものを制御するために組み込んで応用すること」であって、決して「ロボットを人間にすること」ではなかったのだ。そしてぼくも、そんな当時流行の「つまらなそうな」技術開発研究の中に身を投じる気には、どうしてもなれなかったのだ。
だから、マスターを出て、ぼくはドクターに進んだ。そしてすぐに生活に行き詰った。
そんなぼくを拾って、自宅に居候までさせてくれたのが、ぼくの研究室の教授であった。そして佐代さんは、そんな、ぼくにとって大恩ある恩師の、たった一人の娘さんであった。
つまりぼくにとっては、恩師のお嬢さんであった。
だからぼくはいつも、その人のことを「お嬢さん」と呼んでいた。
誰が、例え彼女自身が何と言おうと。
だって、ぼくに、他に、何とすることができただろうか?
眠りの狭間に蘇る姿。
細い身体。
柔らかく波打つ、淡い色彩の髪。
空色のワンピースの裾を翻して、ぼくに振り返る。
そして柔らかな笑顔で、ぼくに手を差し伸べるのだ。
ぼくは幼い頃から、勉強だけはよくできた。
体を使うことや芸術的な素養はカケラもなかったようだが、別段それで困ることはなかった。少なくとも25歳のその頃まで。
特別人に好かれることはなかったものの、嫌われることもなく、ぼくはぼくの好むことをずっと突き詰めることができていた。25歳の、その頃まで。
だから、どうしたらよいかわからなかった。
15歳のお嬢さんに、特別な愛情を抱いていても。
15歳のお嬢さんに、特別に優しく接してもらっていても。
だって、その人は、ぼくの恩師の、大事なたった一人のお嬢さんだったし。
ぼくが、上手く笑えていなくても。お嬢さんはいつもぼくの分まできれいに笑ってくれていたから。
ピクニックに行ったときのことを思い出す。
あれは、確か、初めて二人で行ったとき。
お嬢さんの持っているバスケットが重そうなのに気付いたのは、目的地の丘に半分登った頃だったとか。
お嬢さんはきれいな空色のワンピースで麦藁帽なんて被っていたのに、ぼくはいつものよれよれの白衣のままだったとか。
半分草に埋もれながらお嬢さんの作ってくれたサンドイッチを頬張っていたことだとか。
草の波の向こうで空色の後姿が揺れていたことだとか。
そしていきなり振り向いて、何も反応できないぼくに弾けるような笑い声を上げていたことだとか。
そんなぼくに、ある日誘いの声がかかった。
国がとある研究をするために、研究者を探しているというのだ。
恩師である教授は、ぼくを強力に推してくれた。そしてあれよという間に、ぼくはその研究に飛び込んでいった。
半ば以上何も事情を知らず、始まった研究者生活は、しかし間もなくぼくをのめり込ませた。
そこではぼくが望むことを何でも試すことができた。そのための資金に困ることもない。主任研究員がぼくを入れて4人。ぼくら4人がそれぞれ研究の主導を握り、助手も必要なだけ揃えられていた。機材も最新、ぼくらの上に立つ役職の人間は実質誰もいない。
これ以上、最高な研究環境があろうか。
ただひとつだけ命じられたのは、「各自の研究を理論ではなく、具体化して完成させること」だった。
――分かっていた。
目的など。
ぼくらを集めて、研究を結実させようとした、本当の思惑など。
一人は、原子レベルから生命を生み出そうとしていた。
一人は、通常の生体に、ロボット技術を組み込ませようとしていた。
一人は、ロボットを限りなく人間に近付けようとしていた。
そしてぼくは、機械と生体の完全な融合体を作り出そうとしていた。
めざす完成形は、それぞれ違った。
しかし、根底にあったのは、同一のものであった。
ぼくが研究書に入ってからも、お嬢さんは時々ぼくを訪ねて来た。
そして必ず、どこか戸外で、お嬢さん手作りの弁当を、二人で食べた。
しばらくぶりに会うお嬢さんは、どんどん痩せていった。
しかし大丈夫だと朗らかに笑われると、ぼくはそれ以上お嬢さんに何も言えなかった。
だって、何が言えるだろう?
大丈夫か?――そんな中身のない言葉、例えぼくがお嬢さんにかける言葉が十指に満たないとしても、発したくはない。そんな無駄な時間など、自分からつくれるはずがない。
安静にしていなさい?――それはすなわち、自分からお嬢さんに会いに来るなと、言っているのと同じことなのに。ぼくが、お嬢さんに会えなくなることを意味しているのに?
ぼくたちは、そんなふうに時間を過ごして。
そうして、お嬢さんは、死んだ。
初めて出会ってから、2年足らずの時間だった。
平均寿命が80歳の時代だった。
この世に生を得て80年。約29200日、約700800時間、約42048000分、約2522880000秒。
お嬢さんは17年と少ししか生きられなかったのだから、約6205日、約148920時間、約8935200分、約536112000秒。
その内の2年間、約730日、約17520時間、約1051200分、約63072000秒。
その内、お嬢さんがぼくと過ごした時間といえばいくらだ?
何分の一、何万分の一?
彼女にとっては、そんな些細な時間しかぼくは彼女と過ごしていなかったわけで。
そして、ぼくはお嬢さんの手に触れることすらしなかった。
その肌が柔らかかったのか、あたたかかったのか、冷たかったのか。
その風にさらさらなびく髪が柔らかかったのか、どんな香りがしたのか。
それすらぼくには、もう、一生、分からないまま。
何を言うべきだったと?
何をするべきだったと?
――そんなもの、詭弁ですらないのだ。
ぼくたち4人の研究は、徐々に完成していった。
人体の構成物質と全く同じ素材で、生命の誕生と育むシステム全てを人工で再現した男は、試験管の中に浮かぶ胚が、日々順調に生育するのを観察していた。
試みに、飼い犬にロボットを組み込んでいた男は、その部品を体内で維持させ、安定して活動させるために徐々にその体を巨大化させてゆき、今では人語で会話ができる軽乗用車ほどの大きさの犬と会話ができると、日々嬉々として研究に勤しんでいた。
ロボットの躯体の上に人体組織を定着させた男は、ぼくの研究している技術も少し取り入れ、徐々に生体と機械を融合させることに成功しつつあった。ただ脳ばかりはなかなか生体に近づけるのが困難で、会話をしていてもパターンが限られていて、面白味に欠けると嘆いていた。
そして、ぼくは、生態と機械を融合させることに、ほぼ成功していた。――彼女は女性らしく、細くて、丸みのあるシルエットをしていた。肌はあまり白いとすぐに自然光に含まれる赤外線や紫外線で傷んでしまったので、少しメラミンを多くして、強くした。肌の表面はしっとりして、弾力も柔らかく、握るとじわりとあたたかく。
卵形の頭に、淡い色味の柔らかい頭髪が波打って肩に垂れる、ほんのかすかな風にもさらさら揺れるそれは、それ自身が春の風のように柔らかで。ほのかに朱の差すまるい頬。少しだけ気が強そうな、猫のような瞳。淡く紅色の、柔らかい唇。
「――おはよう」
ぼくが言うと、彼女がにこりと笑った。それは人間が、親愛の情を示す時に見せる、優しい表情。
「おはようございます、マスター」
彼女が挨拶を返す。所々、金属的な響きが、まだ取れていない。今日のチェック項目だ。しかし、全体的な声質は、ほぼ理想の完成形に近付いている。
あと少し、あと一歩だ。そうなのだ。もう、ほんの、あと少しで、ぼくは彼女の――お嬢さんの――声を再び聞くことが叶うのだ。
忘却の恐怖。
最初に、彼女がどんな声をしていたのかを、忘れていった。
あんなに忘れたくないものだったのに。
恐怖に凍える頭は、次に彼女の姿をあいまいにしていった。
印象的だった、猫のような瞳。
痩せても、まるかった頬
頼りなげな立ち姿。
それなのに、意外にしっかりした肩が、痩せてより目立っていたこと。
とうとう触れることも叶わず、憧れ続けた白い肌。
だから、失うたび、ぼくは拾い集めた。
カケラを拾って、集めて、再び繋ぎ直して。
そうして今、目の前に生まれた生命体が、とうとうぼくに彼女の声を思い出させてくれたのだ。
そっと手を伸ばして、それに指で触れる。
憧れ続けた、淡い髪。
憧れ続けた、白い頬。
憧れ続けた、痩せた肩。
親指の腹が、少し湿ったその唇を撫でる。
柔らかい弾力。
触れるか触れないか、ぼくの唇がその弾力を感じる。
でも、ぼくにはもう何もできない。
それは、彼女に対する冒涜だと感じたから。
そうして、そのとき悟った。
佐代さんが、ぼくに笑いかけてくれる。
それだけが、ぼくの望みだったのだ。
生命を一から作り上げた男がぼくに言った。永遠とは繰り返すことなのだと。
そうしてぼくに尋ねた。人が最も美しいのはいつ頃か、と。
ぼくにそんなことが分かるわけもなく、仕方なくぼくは15歳かと答えた。
すると彼は笑って、それも悪くない、と言った。
彼の目の前の無数の試験管では、試験管の数だけの胚や卵が、日々分裂し、収縮し、それを繰り返していた。
日々犬と語らう男は、それは無限だと言った。
彼の望みは、全てを手に入れることだった。
ぼくと、残るもう一人の男は、人間を作っていた。
完成させることしか考えていなかった。少なくともぼくは、そうだった。
そうして、破局は、本当に突然訪れた。
四十日四十夜休みなく降り続いた雨と、直後の激烈な地震。
この上なく頑丈に作られたはずの研究書の壁にヒビがはしったのを見たとき、ぼくは彼女を眠らせることに決めた。
「―――かざみ」
カプセル状の水槽に横たわるそれに、ぼくは呼びかけた。それの閉ざした瞼が開くことはなかったけれど、耳に届いていると信じて、ぼくは続ける。
「元気でね」
そしてそれが、ぼくの佐代さんへの、たった一つのして上げられることだった。
優しい言葉を紡ぐことも、愛の詩を囁くことなんてましてやできるはずもない。
花を捧げようにも、どんな花が彼女を喜ばせることができるかもわからない。
ただ、生きて欲しかったから。
誰よりも、頑丈に作ったつもりだった。
誰よりも、健康に作ったつもりだった。
限りなく、健やかに、しなやかに、それは生きていけるはずだった。
そう、望んでぼくは作った。
ぼくがいなくなっても、彼女は生きていけるはずだったから。
ぼくは、かのじょが、生きていてくれさえすれば、それでよかったのだ。
*****
皓牙が目を覚ました時、かざみはまだ彼の腕の中にいた。
彼の胸に顔をうずめて、猫のように体を丸めている彼女は、どうやら先に目覚めていたようだった。珍しい、と皓牙はつい思ってしまった。
「…どうした?」
朝の挨拶を交わしても、少し顔の向きをずらしただけで動かないかざみに、皓牙は尋ねた。
「…どうもしないけど」
そうして、やや迷うように視線をさまよわせて、かざみは再び口を開く。
「ねえ、皓牙は“お父さんたち”のこと、覚えてる?」
唐突な問いに、皓牙はしばし口ごもる。知らず、眉間に皺が寄っていたのを、かざみにつつかれ、彼は大きくため息を吐いた。
「“お父さんたち”と…何か話してたかなあ?」
「――何か、思い出したのか?」
「ううん…何も、思い出しては」
でも、とかざみが続けた。
「夢…見たのかも。もしかしたら、覚えてないけど…」
「…嫌な夢だったのか?それとも怖かった?」
その皓牙の問いには、かざみはううん、と明確に否定を返した。
「ただ…何て言うのかな、悲しい…かな?いや、ちょっと違うか…苦し…くは、ないなあ。何ていうの?この感情?だったっけ…こういうの?」
感情面の問題で、皓牙よりも「人間らしさ」の部分では勝るかざみに分からないものが、皓牙に分かるわけもなく、皓牙はいう言葉を思いつかず、ただ頭をひねる彼女の言葉をじっと聞いていた。
「ただ…ね、ちょっとだけ、“嬉しい”って思う気持ちだけは、分かるかな」
「…なんだそりゃ。俺にはわからん」
そんな皓牙の答えに、かざみはこの朝、初めて声を上げて笑った。
***
君は今、笑っているかい?
君は今、何をしている?
君は今、どこにいる?
君は今、誰といる?
ぼくにあげられる全ては君の中に。
だから、ぼくは君には笑っていてほしい。
ぼくにはあげられないものを、
君の手で掴み取っていってほしい。
君は、今、幸せかい?
ただ、それだけを、ぼくは、君に希うよ。
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