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「勇者様、どうかこの世界をお救いください」「うるせぇ」

「勇者様、どうかこの世界をお救いください」「やだ」の大きなネタバレがあります。
今後そちらの作品を読まれる予定がある方はお気をつけください。


「勇者様、どうかこの世界をお救いください」

 最初、レポートの締切に追われすぎて、現実逃避で変な夢を見たのかと思った。
 魔王と魔物に脅かされた世界が、勇者を召喚する。RPGなんかでありふれてそうな設定。まさか自分の身に降りかかるとは思わないだろう。
 ただ、悲しきかなどうやらこれは現実で、俺は本当に勇者らしいと知ってしまった。寝て覚めても変わらずファンタジーな世界で、さらに俺にはラノベのようなチートが備わっていたのだ。
 たいりき。勇者には女神から三葉が授けられる。
 気づいてからの行動は早かった。自分に与えられた役目を確認し、力を使いこなすまでたった数日。
 俺は、最短時間で元の世界に帰ると決めた。




 走って、走って、とにかく走った。
 息なんて切れなかった。疲れなんて感じなかった。
 自分が自分じゃない感覚が、この上なく気持ち悪かった。
 テレポートとかもやろうと思えばできたかもしれない、と気づいたのはそこにたどり着いてからだ。
 魔王の根城と言われる森の奥の、広く開けた場所に存在する湖。
 陽を浴びて輝く水面に、俺はためらいなく身を投じた。
 追い求めているものがそこにあると、誰に言われるでもなく感じられたから。

「何、してんだ」

 深い、深い湖の底。
 僅かな光も届かない、魚どころか水草すら茂らない、無音の地獄。
 そこに、この世界の悪の親玉は沈んでいた。

「こうしてれば、いつか息が止まるかと思って」

 静かな、湖の水のように温度のない声が、ぽつりと落とされた。
 口から泡が出たということは、俺のように魔法で空気の膜を作っているわけではないようだ。なのに話せるのは、魔王、だからなのか。
 豊かな黒髪が水の流れで広がり、その合間から覗く血のような赤目が、B級ホラーのような恐ろしさを醸し出していた。
 ただ、よく見ればその主悪の根源は、小学生くらいの、あどけない少女の形をしていた。
 魔王と聞いて、おどろおどろしい姿を想像していた俺は、やりにくさに舌打ちをした。化物を殺すのと子どもを殺すのじゃ罪悪感が違う。

「……どれだけ、そうしてたんだ」
「わかんない。わたしが変になってから、ずっと」

 それを聞いて、俺はぐっと拳を握った。
 ギリギリと音がしそうなほど、奥歯を噛みしめる。
 魔王が目覚め、魔物が現れたのはおよそ四年前だと国のお偉方に聞いていた。
 変になった、が何を指しているのかはよくわからないが、おそらく魔王の目覚めのことだろう。
 四年間、ずっと。この子は湖の底に沈んでいたことになる。
 自分の死を、願って。

「俺は勇者だ」
「知ってる」
「お前を、殺しに来た」
「うん、知ってる」

 魔王の瞳はすべてを受け入れている色をしていた。
 今まで流されてきた命と同じ色をしているのに、少しも怖くはなかった。
 心の奥底の柔らかい部分が、引っかかれたような気がした。

 魔王ってなんなんだ。勇者ってなんなんだ。
 魔王は魔物を操って世界を滅ぼそうとしているのだと、誰もがそう口にしていた。バカの一つ覚えみたいに。
 四年間ずっと湖の底にいたのなら、この子はただ、存在していただけで。
 たったそれだけが、悪なのか。罪になるのか。
 勇者のもたらす救いとは、なんなんだ。

「早くして」

 殺される側の催促に、噛み合わせの悪い奥歯がガチリと音を立てる。

「……悪く、思うなよ」

 そう言って、俺は身のうちに宿る勇者の力を練り始めた。
 夢だ。夢だ。夢だ。いや夢じゃない。夢じゃないけれど、悪い夢だ。早く覚めなくてはいけない。俺は日本に帰る。何をしてでも。
 一発で決めよう。少しも痛みを感じないよう、一瞬で存在を亡くせるように、最大出力で。
 勇者の力は、声を、言葉を現実にする力。

「《光を》」

 小さくつぶやく。手のひら大の光の球が出現し、それはだんだんと大きくなっていく。
 これまで魔物を一瞬で消し去ってきた、無慈悲な光。
 大きく吸った息を飲み込んで、俺はそれを、魔王に向かって投げつけた。
 少女の唇が、うっすら笑みを刻んでいるのを、俺は見た。

「《消えろ》」

 しろくまばゆい光が少女を包み込んだ。
 それで、終わるはずだった。
 光が収束したその場に、無傷の彼女が残ってさえいなければ。

「はぁっ!?」

 わけがわからずに、俺は声を上げた。
 どういうことだ。失敗はしてないはずだ。ちゃんと本気で殺そうとした。
 言葉に、力を込めた。願いを込めた。苦しまずに一瞬で逝けと。

「おい、死にたいんなら抵抗すんなよ!」
「何も、してない」
「じゃあなんで効かない!」
「それは、わからない」

 少女も俺に負けず劣らず、呆然とした顔をしていた。
 どうやら嘘はついていないようだ。
 なら、なぜ。
 勇者の力が魔王に通用しないなら、こんなチートに意味はないじゃないか。
 それとも地道にレベル上げでもしろってことなのか。
 一番ありえそうだが一番考えたくないことでもあった。俺は今すぐにでも帰りたいんだ。

「腰の、剣は」

 少女の何も映していないように見える瞳が、俺の腰にぶら下がったそれに向けられた。
 ギクリ、とした。

「……これは飾りだ。俺にはこんなもん必要ないってのに、王様が無理やり持たせやがった」
「その剣でなら、殺せるかもしれない」

 本当に、心臓が氷で作られているのではと思うほど、温度のない声だった。

「私は抵抗しない。首を落として。きっとそれが一番確実」

 魔法が駄目なら、物理。
 その考え方は俺にも理解できる。
 カタカタカタと、音を立てるのは剣を抜こうとする俺の手だ。
 震えが、止まらない。
 帰るためだ。役目を果たさなければ。早く帰ってレポートの続きを。習ったばかりの単元が頭から抜ける前に。
 少女の血色の瞳が、じっと、俺を促すように見ている。

「でき、るかよ……っ」

 放り投げた剣は、水の抵抗を受けてスローモーションで足元に落ちた。
 包丁すらろくに握ったことのない俺に、人の命を奪える刃物は重すぎた。

「俺は普通の大学生なんだぞ!! こんな、子どもを。妹よりちっちぇえガキを。殺せるかよ……!」

 腹の奥から出た声は、涙混じりの絶叫になった。
 たぶん、日本で言うなら小学生くらいの、守られて育つのが当たり前の年齢の少女。
 わがままを言って親を困らせて、怒られたり許されたり、泣いたり笑ったり忙しい年頃だろう。
 そんな少女が、ただ死を願うようなこの世界を、俺はどうしても救いたいと思えなかった。

 魔王ってなんなんだ。勇者ってなんなんだ。
 この少女が世界を滅ぼそうとしてるなんて信じられるわけがない。俺の目にはただの被害者にしか見えない。
 もう魔王を魔王として見られない。倒すべきものだなんて割り切れない。
 いや、最初からきっと、俺には無理だった。

「おい、リーリファ!!」

 俺は天を振り仰いで、この世界の女神の名を叫んだ。
 深い湖の底から見上げたところで、一筋の光も見当たらない。
 だが、いるはずだ。俺がここにいる以上は、女神とやらは確かにこの世界を見ているはずだ。

「お前が俺を喚んだんだろ! 力を寄越したんだろ! てめーの世界の尻拭いを外野に頼むんなら、それ相応の誠意ってもんがあんだろうがっ!!」

 こんな不条理な世界を作った女神に、怒りが湧いてきた。
 勇者様、どうかこの世界をお救いください。そうすがりついてきた奴らにふざけんなって思った。なんで他の世界の人間を巻き込むんだと。でも本当に困ってるのは見て取れた。
 仕方なく自分が帰るために魔王を倒そうと決めれば、年端もいかない少女が湖の底に沈んでいて。死を望んでいて。
 なんなんだよこの世界は。俺に何を求めてるんだよ。
 誰も彼もが苦しんでいて、誰も彼もが間違ってないなら、この世界自体が狂ってる。
 俺の育った日本だって、そりゃあ別に優しい世界じゃなかった。いくらだって理不尽は存在していた。社会にスケープゴートにされた人間なんて掃いて捨てるほどいる。
 だからって、目の前に世界の欠陥のしわ寄せを受けた子どもがいて、何も思わないほど非情にはなれない。

「力だけ与えて放置してんじゃねぇよ! こんな、力。ガキ一人救えねぇならある意味ねぇだろ!」

 もうなんでもいいから。できることがあるならなんでもするから。
 代償が必要ならなんだってくれてやる。もちろん死にたくはないけど、帰りたいけど、そんなのどうでもよくなるくらい、悲しくて、痛かった。
 小さな子どもが、たったひとりで、泣きもしないで自分が死ぬ日を待ってたんだ。
 少しも怖がらずに、それが当然みたいに、殺してくれって言うんだ。
 やっと死ねるって、笑うんだ。

 何か、何かないのか。他に手段は。
 この剣を振り下ろす以外の、少女の血を見る以外の。
 俺に、足りないもの。
 たいりき。勇者には女神から三葉が授けられる。

 今、必要なのは、知だ。
 魔王を、哀れなただの子どもを、救う方法を。

「教えやがれ!!」

 ただ、ただ、願った。
 自分のためではなく、少女のために。けれどある意味では自分のために。
 一点の曇りもない救いが欲しかった。

 瞬間、目の前が真っ白になった。
 音はなかった、ように思う。
 水を割るように真上からしろい光が落ちてきた。
 まるで落雷のように。
 俺の全身を押しつぶすような光に、痛いほどの熱を感じて。
 そこで、意識が途絶えた。




 ぴちょん、ぴちょん。
 頬にぶつかる小さな衝撃に、俺はゆっくりとまぶたを押し上げる。
 視界いっぱいに広がったのは、死人のような白い肌の少女。
 覗き込んでくる大きな血色の瞳は、どことなく好奇心が映り込んでいる。
 体勢を整えようとすると、少女に膝枕されている現状に気づき、なんだよ俺はロリコンじゃねぇぞと脱力してしまう。
 視線を横に向ければ、俺がためらうことなく飛び込んだ湖がすぐそこに見えた。少女が引き上げてくれたんだろう。
 なるほど、あのまま湖の底にいたら、気を失った俺は魔法を維持できずに溺死していたかもしれない。
 水圧で押し潰されなかったのは、この少女の力なのか、勇者のチートによるものか。
 今はもう、そんなことはどうでもよかった。

「おい、ガキ」

 呼びかけながら起き上がろうとすれば、頭がぐらんぐらんと絶不調を訴えてくる。
 半ばヤケっぱちな気持ちで膝枕の体勢に戻り、少女を見上げた。
 真っ赤な瞳をまんまるにした少女を、純粋に守りたいと思う。

「ガキって、わたしのこと?」
「お前以外にいるかよ」

 俺の言葉に、少女は何を思ったのか、ほんの僅かに表情を和らげた。
 笑み、とも言えないようなつたない表情に、胸が軋む。
 いつか、彼女の心からの笑顔を見ることはできるだろうか。
 それはこれからの俺の行動にかかっている。

「お前を、俺の世界に連れてく。それがリーリファの願いだ」

 俺を襲った落雷。あの強烈な光はすべてを知っていた。すべてを教えてくれた。
 魔王の正体は、女神の魂の欠片を持って生まれたただの人間だった。
 この世界の女神は、どうやら元は日本人だったようだ。想像することすらできないが、ただの少女が精霊に目をつけられ、女神となってこの世界を創り、永い時を経て今に至る。
 世界に溶けた女神の魂は、時折こうしてその欠片を持って生まれる人間がいて。強すぎる力が歪みを生んで、魔王と呼ばれる存在になる。
 本当に、不条理だ。欠陥ばかりの世界だ。
 でも、勇者の力が、壊す力ではなく救う力だったことに、今は少し感謝したい気持ちもある。

「……ったく、善良な一般市民に人さらいなんざ頼みやがって。女神のヤロウ」

 リーリファの魂は、どうあっても故郷に還りたいらしい。
 元の世界――地球に戻ることで、歪みは正され、魔王はただの人間になれる。
 勇者は魔王を元の世界に連れ戻すために召喚される。だから勇者の力は魔王に通用しなかった。
 この世界に誘拐されてきた俺が、今度は誘拐する側かよ。戸籍とか養育とかどうすんだよ。全部丸投げかよほんと女神のヤロウは。

「わたしは……まだ、死ねないの?」

 なんにもわかっていない様子の少女に、俺は強く、強く頷いた。
 俺の額に乗せられていた手をぎゅっと握る。潰さないように。でも、離さないように。

「死なせねぇよ」

 それだけは、何があっても許せないから。






  ◇◆◇◆◇






 少女の名前はリーリアと言った。
 女神にあやかってつけられたというのだからなんとも皮肉なものだが、ある意味彼女にピッタリとも言える。
 リーリア改め璃々亜は、結局のところ俺の実家で暮らすことになった。亡くなった親戚の娘という設定で。
 あちらの世界にいる間に勇者の力を使い、戸籍を作って居場所を作って。
 リーリファがこの世界でただの少女だったのと同じように、俺はただの大学生に戻り、魔王はただの子どもに戻った。

 気ままな一人暮らし中だった俺は、滅多に寄りつくことのなかった実家に足しげく通う羽目になる。
 元気がよすぎる母と包容力のある父、かわいいもの好きの妹に任せておけば大丈夫だとわかっていても、連れ去ってきた以上は見守る責任があると思ったから。
 心配なら実家に戻ればいいのに、一人暮らしは続行した。中途半端なことをしている自覚はあった。
 俺以外の人間と関わる必要があるから、というのが大きな理由だけれど、子どもがあまり得意じゃないせいで距離感がつかめなかったこともある。
 それでも璃々亜は俺が行けばいつも引っついてきたし、それなりに懐かれてはいるようだった。

 半年が過ぎ、一年が経った。
 小学校の最終学年になった璃々亜は、相変わらずランドセルが似合わない。纏う空気が静かで、深窓の令嬢じみているからだ。
 それでもどうやら仲のいい友だちができたらしく、話を聞いていると『マリ』という名前が毎回出てくる。
 表情もこちらに来たばかりの頃と比べると少しずつ柔らかくなっていた。
 まだ、笑顔を見ることは叶わないけれど。

「勇一」
「どうした」

 ノックもせずに部屋に入ってきた璃々亜は、どこか沈んだ様子だった。
 実家の俺の部屋は、家を出たときのまま残されている。学習机の椅子に座って参考書を読んでいた俺の目の前までやってきて、きゅっと俺の袖をつかんだ。
 今までにない雰囲気に、俺は参考書を置いて璃々亜に向き直る。見ればまだランドセルも背負ったままだ。
 この世界に来たとき、周囲に溶け込めるようにと色を変えた黒い瞳が、じっと俺を映していた。

「璃々亜?」

 できる限り優しく声をかけ、つかまれていないほうの手でそっと頭を撫でる。
 座っているおかげで、うつむかれても表情が確認できた。
 ほんの少し眉をひそめていて、ほんの少し口がへの字になっていて、ほんの少し瞳が揺れている。
 そのかすかな違いも見落とさないくらい、俺は慎重に璃々亜のことを見てきた。

「マリが……怒った……」
「喧嘩したのか」
「けんか……」

 璃々亜は俺の言葉をそのままつぶやいて、わずかに首をかしげた。
 一年、こちらの世界で人と関わってきても、まだ感覚的にわからないことは多いのだろう。
 何年もの間、湖の底に沈んでいたことを思えば、当然とも言える。

「マリが、私のこと、ともだちって言って」

 ポツリ、ポツリと璃々亜は語る。

「よく……わからなくて。ともだちなの? って聞いたら、マリ、泣きそうな顔して、怒った」

 ああ、なるほど。俺は苦笑するしかなかった。
 マリちゃんには申し訳ないことをした。
 璃々亜を友だちと思ってくれている彼女と、一度話してみたいような気もしたけれど、子ども同士の付き合いに身内がしゃしゃり出るのはあまりよろしくないかもしれない。

「それは怒るだろうな」

 困ったように、わずかに眉尻を垂らした璃々亜の頭を、ポンポンと軽く叩く。
 璃々亜の心はまだ現実に追いついていない。少しずつ少しずつ、人に触れて、世界に触れて、学んでいる最中だ。
 教えるのは、俺の役割でもある。

「璃々亜はいつもその子の話をしてくれるだろ。よく一緒に行動して、遊んだり、どうでもいいこと話したりとか、そういうのを普通は友だちって言うんだ」
「ともだち……」
「それとも璃々亜はその子と一緒にいて楽しくないか?」
「たの、しい……」
「心……胸のあたりがあったかくなったり、ふわふわしたり。そういうことはないか?」
「……ある」

 胸に手を当てて少し考えてから、璃々亜は小さく頷いた。
 それから、顔を上げた璃々亜の目は、夢でも見ているかのように薄ぼんやりとしていた。

「ずっと、ふわふわ、してる。この世界に来てから、ずっと」

 声に、いつも以上に覇気がない。
 俺の頭の片隅で警鐘が鳴り響いた。何かが危ない気がした。
 もしかして、俺は、大事なものをずっと見落としていたんじゃないかと。
 そんな予感に、鼓動が嫌な音を立てた。

「ねえ、この長い夢は、いつ終わるの?」

 どこか、責めるように。
 あるいは、泣き言のように。
 それでいて……懇願のような。

「勇一は、私を殺してくれるって言った。私はそれを、ずっと待っているのに」

 脳天を殴られたような衝撃とは、こういうことだろうか。
 とてもじゃないが小学生の口から聞くような言葉じゃない。
 でも、俺は知っている。璃々亜はただの小学生じゃない。俺は、俺だけは知っていた。
 ――もっと、解っていなければいけなかった。

「これ以上……やだ……」

 くしゃり、と璃々亜は顔を歪めた。
 今まで見せたことのない、明確な表情の変化だった。

「もう、しあわせな夢は見ていたくない。失いたくないって、思ってしまうから。死ぬのが……怖くなるから……」

 ふるふる、と璃々亜はゆるやかに首を振る。
 虹彩と瞳孔の境界がわからないほどに、黒々とした瞳を、涙の膜が覆っていた。

「これが私の罰なの? この、恐怖が? 魔王にかせられた罰なの……?」

 救ったつもりでいた。冷たいだけの世界から連れ去って、居場所を与え家族を与え、ただの少女に戻した気になっていた。
 ただの思い上がりだったのだと、自己満足でしかなかったのだと、痛感した。
 俺が距離感に悩んだり、優しくする方法を探している間、璃々亜は。
 璃々亜は、ずっと。
 一筋の光すら届かない、深い深い湖の底に、沈んでいたままだったのか。

「璃々亜、聞いてくれ」

 そっと、どんな宝物に触れるよりも慎重に、俺は璃々亜を抱きしめた。
 少女はかすかに肩を震わせて、それでも抵抗することなく俺に身体を預けた。

「あの世界は、お前を傷つけるだけだったから。知らないでしあわせになれるなら、そのほうがいいと思った。けど……違ったんだな。知らないと、前にも進めないよな」

 今までが間違えていたなら、今からでもいい。最初の一歩をやり直そう。
 それでこの一年がすべて無駄になるわけじゃない。
 時間はたくさんある。彼女の望んでいた終わりは俺が奪った。
 まずは、“生”を。終わらなかった“その続き”を、当然のものとして受け入れられるように。

「全部、教えてやる。俺が知ったこと、お前が知らないこと」

 勇者と魔王の意味も、女神の真実も、あの不条理な世界の成り立ちも。
 全部知って、抱えて生きていけばいい。

「お前はもう、魔王なんかじゃない。いや、最初から魔王なんてどこにもいなかった」

 璃々亜が息を呑むかすかな音がした。
 ぽん、ぽん、と背中を優しく叩く。
 俺がついている、と言葉よりも直に伝えられるように。

「璃々亜、お前はただの人間だ。昔も、今も」

 魔王は、女神の魂がマイナスに作用した、悲しい存在だった。
 本当なら当たり前に得ていたはずのたくさんのものを、失っただろう。
 同じものは与えられないかもしれない。傷は完全には塞げないかもしれない。
 それでも、新しく積み上げていくことに、価値を見いだしてほしい。
 もう璃々亜は魔王じゃない。もう俺は勇者じゃない。
 お互いただの人間で、璃々亜は俺の妹のようなもので、家族で、被保護者だ。 

「もう……そこから、出てこい」

 人間の身に、湖の底は冷たいだろう? 暗いだろう? 寂しい、だろう?
 どうか……どうか、陽の光を恐れないでほしい。
 しあわせを、受け入れてほしい。
 それが俺の願いで、きっと、リーリファの願いでもあるんだ。




 あれからまた、月日は流れ。
 高校二年生になった璃々亜は、深窓の令嬢のような雰囲気はそのままに、きれいに育った。
 璃々亜はよく笑うようになった。
 怒ったり、悲しんだり、たまに涙も見せるようになった。
 普通の少女のように、喜怒哀楽を表現できるようになった。

「今ね、ちょっとおもしろいことになってるの」

 くすくす、と璃々亜はそれは楽しそうに笑う。
 またマリちゃんの話だろうか。二人は本当に仲が良い。璃々亜にこの世界を受け入れさせた一番の功労者は、実は彼女かもしれなかった。

「おもしろいこと?」
「過去の私を見ているみたいで、おもしろい」
「なんだそれ」

 過去の璃々亜、って魔王だった時のことだろうか。それともこの世界に来たばかりの頃?
 どちらもあまり見かけるタイプではないと思うし、何がおもしろいのかも謎だ。

「すくい上げてくれた人を、好きにならないほうがおかしいよねって話」

 きれいな、きれいな笑顔で、爆弾を投下する。
 この世界に来てから七年。真実を知ってからは六年。
 璃々亜はとてもしっかり者に育ち、璃々亜の心は俺の予想もつかなかった方向へと転がっていった。
 否、転がってきた、と言うべきか。まあつまり、彼女の好意はまっすぐ俺に向けられている。
 ……親父、お袋。育て方間違えたんじゃねぇの。

「あのなぁ……」
「それは刷り込みだとか、恋じゃないとか、もう聞き飽きた。私の強情さは、勇一が一番知ってると思うけど」
「ほんとな……嫌ってほど知ってるよ」
「じゃあ、あきらめて」

 ニッコリと小憎たらしい笑顔すらかわいらしいもんだから、困ってしまう。
 俺はわざとらしく、大きなため息をつく。
 九歳差だぞ。高校生だぞ。犯罪だろ。
 心の中で何度も唱えている定型句は、どこか言い訳じみていた。

「せめて、高校卒業してから出直してこい」

 俺の言葉に大きく目を見開く璃々亜に、格好つけるために笑みを作る。
 彼女が高校を卒業するまで、あと一年半。せめて、それまでは保ってくれ、俺の理性。
 家族だ、妹みたいなものだと、自分を言い聞かせるのもそろそろ限界なんだ。
 九つも年下の少女に、いつのまにか心臓が握られていた。
 勇者のほうが形勢不利なんて、今どきそんな熱血展開、流行んねぇぞ。

「それは……高校卒業したら付き合ってくれるってこと?」
「どーだろな」
「信じるからね。裏切ったら許さない」

 元魔王の、許さない、か。おおこわいこわい。
 冗談めかしてそんなことを思うくらいには、俺にとっても、璃々亜にとっても、あの世界は遠い過去になっている。
 黒い瞳に笑いかけて、黄みがかった肌が赤く染まるのを見ながら、唯一色を変えなかった黒髪を撫でてやる。
 お前の居場所はここだよ、と今日も教えてやるように。


 とりあえずは、どう両親を説得するか、作戦を立てておかないとな。









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