川の中に一歩足を踏み入れると、川底に足がずぶずぶと埋まった。
橋の上から見る限り水の量は少ないように見えたが、実際川の中に入ってみると思ったより深く、膝まで水に浸かってしまった。もうすぐ十月だというのに頭の上では蝉が絶え間なく鳴いている。
‥確かこの辺だった筈。私は川底に腕を突っ込んで泥の中を探った。四つん這いになるとトレーナーが水を吸って重くなった。硬いものが右手に触れた。腐った木屑だった。それを岸の方へ放り投げ、また四つん這いになった。
この川の水はいつも穏やかに流れている。たとえ大雨が降ったとしても上流で取水制限をしているから、鉄砲水のように流れることもない。しかもこの泥だ。そんなに遠くに流されている筈はない。
石ころ、壊れた眼鏡、ボールペン等‥。上から見ると澄んでいるように見えるが、川底には様々なものが沈んでいた。水はしだいにジーンズの上の方まで染みてきた。トレーナーの腹側もすでにずぶ濡れだった。
川の両側は遊歩道になっている。遊歩道から水の流れる川底までは3メートルほどの深さがあり、両岸は雑草や樹木で覆われているので、遊歩道からは死角になっている。遊歩道から出れば、すぐに民家が密集する東京の住宅街が広がる。いったんこの川に入ってしまえば、まるで何処か山間の沢の中にでも入り込んだような気分になる。
陽が陰りはじめていた。樹木に覆われた川の底はすでに薄暗くなっている。気温が急激に下がり始めていた。
‥早く探さなければ。
焦る気持ちと同時に身震いした。股間に生暖かいものがじんわりと拡がった。東京の住人はこの水を飲んでいるか、と思うと可笑しくなった。
更に両手で大きく川底を探っていくと、小さくて細長いものが手に触れた。掴み上げ、手の平の上に載せてみる。黒ずんだ小さな鍵。キューピー人形のストラップは流されてしまったようだ。紐の部分だけがついている。
私の探していた鍵に違いなかった。雅也の部屋の合鍵。鍵はふたつ持っていた。雅也から渡されたものと自分でコピーしたもの。別れた時に送り返したのはコピーした方だった。見た目はほとんど変わりない。その後この鍵を返そうか迷ったが、結局1年前にこの川に放り投げたのだった。それですべてを断ち切ったつもりだった。ジーンズのポケットに鍵を押し込むと、樹木の根っこを伝い遊歩道に出た。
辺りはもう薄暗くなっていた。運良く遊歩道には誰もいなかった。ずぶぬれのまま、そこから歩いて5分ほどの自分のマンションへ戻った。
汚れた鍵をクレンザーで磨くと新品のようにきれいになった。鍵を胸元でしっかり握りしめると、雅也との日々が鮮明によみがえってきた。忘れようとして努力してきた1年間が、まったく無駄だったことに気づいた。
最後のあの日、私は雅也とふたり映画のロードショーを待つ列の中にいた。
上映されるのは『トリスタンとイゾルデ』
見たくて来たわけではなかった。週末はいつもそうしていたように、映画を見て食事をしてお互いの家に泊まり合う。特別見たい映画もなく、待たずに見られる映画がそれだった。物語はラブストーリーだからか、周りは私と雅也のようにほとんどが男女のカップルだった。
私は、前に並ぶふたり連れの、他愛無い会話を聞いていた。男はぞんざいな態度で女に言葉を投げかけ、女は嬉しそうな顔で言葉を交わす。男が時々女の頭を小突くと、カールされた栗色の艶やかな髪がゆらゆらと揺れた。
無防備に大口を開けて笑う女の頬は、張りがあってまるで食べごろの桃のようだった。後を振り向く。男が女の腰に手を回し、二人は顔を近づけて甘い言葉を囁き合っている。
隣りを見上げた。雅也は不機嫌な顔で黙りこくっている。私が話しかけても、ほとんどイエスかノーの返事で終わってしまうから、会話は続かない。別に雅也は怒っているわけではない。ただ楽しくないだけ。
周りの男は皆、雅也とそう年齢が変わらないように見えた。男達の隣りには歳相応の女達が寄り添っている。
私と雅也を他人が見たらどう思うだろうか。私は雅也より18も歳が離れていた。雅也に相応しいように若い格好をして、見た目をごまかしても、真上から顔を照らすスポットライトの光りは嘘を見事に暴きだす。だから私も笑わない。スポットライトを避けるように俯き加減で待っていた。
映画は、決して結ばれることのない悲恋の物語。最後は死が二人を別つ。
帰りに私達は通りすがりの玩具屋へ立ち寄った。店の中にはティディベアや様々な愛らしい動物のぬいぐるみが並べられていた。
私はピンク色と淡い水色の手の平に載るほどの、小さなぬいぐるみを二つ取り上げ、雅也の目の前に差し出した。
「ほら見て?このカエルのぬいぐるみ可愛いくない?」
雅也は目を細めて少しだけ微笑んだ。
「これふたつ買っちゃおっかな‥」
私はそれをレジに持って行った。
「別々にラッピングしますか?」
年配の店員が愛想のいい顔で言った。
ピンクのぬいぐるみは私。プルーは雅也。ふたつのぬいぐるみの帰る場所は一緒だからその必要はない。
「いいえいいんです。そのまま一緒で」
店員はふたつのぬいぐるみをひとつの袋に入れた。店を出ていつものように駅の方向へふたり並んで歩いた。
「何か食べて帰る?」
私の声が聞こえなかったのか、雅也は返事をしない。
「ねえ‥」
もう一度顔をのぞき込む。
雅也は暫く時間を置いて、ひとこと言葉を返した。
「別れよう‥」
なんで?と言う疑問符は湧いてこなかった。雅也と出会って、最初の頃の6ヶ月を除けば残りの3年半は別れるためだけに時間を費やした。つまり雅也の情熱は最初の半年で萎えたのだ。彼はそれに気づいていなかった。それに気づいていた私はむしろその言葉を待っていた。自分から言い出す勇気はなかったから。
そうなる事が当然のことだと思っていた。雅也にとって私は寂しさを忘れさせてくれる一時の癒し。出会って、愛し合って、結ばれていつかは別れ、また別の誰かとめぐり合う。
私の想いはもっと重かった。私にとって雅也は最後のパートナーだった。私は大切なものをすべて捨てて雅也を愛した。雅也が離れていってしまうことの恐怖と、捨ててきた大切なものへの罪悪感とで私は常に苦しめられ続けた。それらのことにもう疲れ果てていた。だから私は黙って頷いた。それから私達は黙ったまま駅の方へ向かった。
「じゃあね‥」
地下鉄の入り口で私は言った。
「じゃ‥」
雅也は振り向かずに言った。
私達はそのまま地下と地上に別れた。地下鉄へ通じる階段を一段ずつ下りて行くたびに、雅也との距離が離れて行くのを感じた。それは距離だけではない別の時空への入口だった。
実際もう一度階段を駆け上がって地上に出たが、そこに雅也の姿はもうなかった。心という内臓があるなら、私はそれをそぎ落とされたような激しい痛みを感じた。
自転車で駅へ向かう途中、冷たい風が頬を撫でていった。枯葉に蒸された土の香りに、どこか遠くで稲穂を焼く芳ばしい香りが混じる。
季節が変わるごとに、空気の匂いが変わる。様々な匂いは雅也との日々を思い起こさせた。しかし激しい感情は日を追う毎に色あせていった。
通勤列車の窓から眺める景色も、深い緑から紅や茶色へと変わりつつある。
また巡ってきた秋。あれから一年経った。もう思い出さなくていい筈だった。車窓の景色は次々に変わり、屋根の低い民家が大きなビルへと姿を変えていく。私は目を閉じた。次の停車駅は特別の駅だった。私はいつも目を閉じ、この駅が通り過ぎて行くのを待った。
しかし、その日私はその駅で途中下車をした。私の脳に下りろと作用させたのは秋の匂いだったかもしれない。会社には休むと連絡を入れた。
改札を出た。歩を進める毎に時間が過去へ遡っていくような気がした。懐かしい駅前の景色。せわしなく行き交う人の群れ。散乱するゴミ。煙草の吸殻。浮浪者。キムチ売りの女。普段なら嫌悪しているそれらのものが温かく私を迎え入れてくれた。私は一年ぶりに禁じられた区域に足を踏み込んでしまった。
陽の差さない薄暗い廊下に私は立っていた。手の中には長さ3センチほどの冷たい金属の鍵。そして目の前には差し込まれるのを待つだけの鍵穴。
鍵は戸惑うことなく差し込まれた。部屋にだれもいないことはわかっていた。雅也は例え高熱があっても、よっぽどのことがないかぎり仕事を休むような事はない。
マンションの自転車置き場には、彼のオレンジ色の自転車も置かれてはいなかった。雅也は仕事に出掛けている筈だ。
鍵は鍵穴にぴたりとおさまった。回すとカッチャと音がした。
ドアを開けた途端、すえたような香りが鼻を突いた。煙草の香りや雅也の体臭、乾ききっていない衣類に雑菌が繁殖した匂い、様々な匂いが入り交じっていた。悪臭に近い。しかしその匂いは雅也と過ごした日々の詳細を一瞬にして思い起こさせた。その悪臭は私にとっては甘美な麻薬のようだった。一瞬にして私の脳髄を痺れさせる効果があった。
リビングのドアを開けた。ドアの前で部屋の中をぐるっと見渡した。雑誌やリモコン。無造作に脱ぎ捨てられたスエットの上下。ゲーム機などが雑然と散らかっている。キッチンシングの中には飲みかけのコーヒーカップや皿。多少雑然としていることを除けば、私が住んでいたころと特に何も変わっていなかった。
目の前のアイテムは、すべて私の見覚えのある雅也の所有物。私は安堵した。ここに今、知らない女の匂いのする何かがあったとしたら、恐らく私は直ぐに部屋を出て行っただろう。いや、逆に統制のつかない状態になっていたかもしれない。
とにかく私は他人の部屋に不法侵入しているのだ。罪悪感はあった。しかし、その罪悪感が更に私の中でどろどろとトグロを巻くような計り知れない衝動を駆り立てた。私はパソコンの電源を入れた。
仰向けに寝転がっている猫の画像が現れた。一年前と同じだ。ピクチャーフォルダーを開いてみる。いくつかのファイルが現れた。イタリア、タイランド、バリ‥いくつかのサムネイルをクリックする。
笑顔で微笑む雅也の隣りにいるのは、同じように笑顔で微笑む私の顔。象に乗って笑っている雅也と私。アイスクリームを持っておどけて舌を出す私。南国のホテルのベッドの上で、寝起きの顔の雅也。久しぶりに見る懐かしい思い出の数々。
次に履歴をクリックしてみた。背中がぞくぞくした。人の物を盗み見るときの、罪悪感がともなう不思議な快感。これは強い興味のある対象にであって、興味のない相手に対してはまったく反応しない。
会社からの連絡用の個人フォルダー、家電製品のブラウズ、株価状況、ニュース、履歴をどんどんクリックしていく。
そして次にクリックしたのは、萌えチャンネル。女高生盗み撮り。素人動画。
雅也と知り合った頃、雅也は好きな女優は黒木瞳だと言ったのを覚えている。その言葉を聞いて私はほっとした。黒木瞳に似ているわけではないが実際の年齢よりかなり若く見られた。ネット上で知り合ったとき私は10歳サバを読んだ。当然付き合う内に告白しなければならない場面が訪れた。
自分の年齢を言えずにいた私に、雅也はむしろ同情さえしてくれた。私への愛は変わらないと言ってくれた。
更に履歴の一つ一つを丹念に開いていく。下半身丸出しの女子高生が大またを広げ、その中心部に男の指が挿入される。スクール水着を着た愛らしい笑顔の少女が放尿している。赤いランドセルを背負った少女の後姿が下から映されている盗撮ビデオ‥etc.
初めて雅也のパソコンを盗み見たときはショックだった。年上の女が好きというのは私への思いやりで、その実雅也はロリコンだったのだ。
クローゼットの奥にセーラー服やスクール水着、体操着などの入ったダンボール箱を見つけたときは更にショックだった。誰もが持っている人に言えない趣味。そんな小道具は通販だったらいくらでも手に入る。
男はそんなもんだよ‥。そんなことでいちいち別れていたら男を何人も代えなきゃならないよ。と友人が言った。覗いた自分がいけなかったのだと自分を責めた。私はそれらを見なかった事にした。
しかしそれがトラウマとなって私の中に残った。セックスの最中も、常に付きまとうのは少女のマシュマロのような清純で張りのある乳房、唇、太腿。
嘗ては当然のように所有していた美しい肉体は、今となってはどんなにお金を払っても決して取り戻せないもの。雅也が私とセックスしながらイメージしているのはそういう画像の中の少女。そして彼の腕の中にあるのは彼の欲求を満たすための道具。そういう思いを打ち消すことができなくなった。
今、私は再び雅也の座った椅子に座り、雅也の見た映像を追い、雅也の行動を想像した。それらの映像を見て増長されていく雅也への嫉妬と、それにともなって脳内に分泌される常習性の猛毒なモルフィネ物質。雅也の感情の高まりがやがて私の情意を高めていく。雅也の激しい血潮の流れを感じ、私の中に奇妙な感覚が巻き起こる。嫌悪とともに湧き上がってくるのは罪悪感。しかしその罪悪感には甘美な味が伴った。
私は机の下にあった。ゴミ箱を両手に取り、その中に顔を突っ込んだ。鼻を突く青臭い精液の香り。雅也の体内から排出され無駄に散った何億もの生の源。私は一塊のティッシュペーパーをゴミ箱の中から取り出し、鼻に近づけてた。その芳しい青臭い香りに私は陶酔した。
その塊を口元に近づけ、なすりつける。全身が痺れていく。身体中に私の意志でコントロールできないなにかが駆け抜けた。
私はティッシュペーパーの塊を握り締めたまま、ベッドルームのドアを開けた。部屋の中は汗の匂いが充満していた。雅也の匂いだ。ベッドの上に腰を下ろした。右手でシーツを撫でる。うつ伏せに身体を横たえ枕に顔を埋めてみる。
枕には雅也の香りが濃厚に染み付いていた。雅也をより身近に感じることができた。そう、雅也はこの体勢が好きだった。私をうつ伏せににさせ、尻を突き出させ私の中に侵入させた。
雅也の両足の付け根に位置する固く巨大に膨張したペニスは、私の中心部を突き上げては離れ、また突き上げては離す。私はそのリズムに合わせ雌犬のような喘ぎ声を発する。
雅也の枕に顔を埋め、手に握り締めた雅也の樹液を吸い、私は頂点に昇り詰めた。甘美な陶酔が腹の中心部から脳天を突き抜けた。
枕の上に落ちた自分の髪を念入りに探し、ハンカチに包むとバックにしまい込んだ。パソコンの履歴は消し、coockyの削除、ファイルの削除、オートコンプリート履歴の削除、そしてすべてのアーカイブを消した。最後にマウスを拭き、電源を落とすと、私は雅也のマンションを出た。
駅前のカフェで外を眺めながらコーヒーを飲んだ。この眺めでコーヒーを飲むときはいつも隣に雅也がいた。
今、私はひとりだった。しかし、私は雅也と愛し合い、ついさっき別れてきたような感覚だった。心は不思議と満たされていた。
その日以来、私は罪を犯し続けた。最初は罪悪感に捕らわれながらも、その行為はもう理性では止められなくなっていた。誰にも迷惑をかけていない。私は雅也のいない間にほんの数時間雅也の部屋に入り空気を吸い雅也を感じるだけ。
変態‥。そんな言葉が私の頭の中に浮かんだ。しかしもう私は自分を制御することはできなくなっていた。
雅也からは特別何の連絡も入らなかった。彼に気づかれる筈はない。私は自分が進入した痕跡を何も残さないよう細心の注意を払った。
そういった危険を冒してまでも雅也の家に侵入して異常な行動をするのは、もはや雅也に対しての愛情だけではなかった。雅也のいない留守宅に泥棒のように忍び込み、彼の性癖をひそかに盗み見ては自分の妄想の中でストーリーを創りあげていく。そんな罪悪感のともなう甘美なエロティシズムがしだいに私を偏執狂的な世界へ導いていった。
年末に入り仕事も忙しくなり、その日私は久しぶりに雅也のマンションを訪れた。ドアを開けた瞬間、何処かが違った。キッチンシンク、ゴミ箱の中。洗濯機の中の汚れた衣類。私は部屋の中をぐるぐる歩きまわりその違いを探した。ベッドルームへ入った。ベッドの上。枕の匂いを嗅ぐ。
いつもの雅也の汗の匂いに、甘いシャンプーの香りがほのかに混じる。雅也の使っているものとは明らかに違う。枕をよく眺めていると、私の長い黒髪とは違うヘアダイした明るめの髪が数本落ちていた。
女がこのベッドで寝たのだ。雅也と一緒に身体を絡めあい、汗を流したのだ。汗だけではない。女の身体から分泌する粘液や、雅也の粘液が混ざり合いあちこちに飛散しているに違いない。私は犬のように鼻をくんくん鳴らし、シーツの上を行ったり来たりさせた。
私と雅也だけの思い出の空間に第三者が侵入したのだ。そうに違いない。
私はベッドの上に仰向けになった。目を瞑る。頭の中で見も知らぬ女をイメージした。雅也のパソコンの中に住んでいる、萌え系の少女。萌は子犬のように甘えた声で雅也に絡みつく。少女のような顔をしているのだが、身体はその顔とはアンバランスなくらいに完成した大人の体型で、雄を充分に興奮させる。
雅也は少女の胸の谷間に顔を埋めて、恍惚とした表情をする。強く抱きしめれば潰れてしまいそうな少女が、雅也の両腕の中で艶かしい喘ぎ声を上げる。私は2人の間にインターラプトする。少女の腹部の中に進入する雅也の硬く膨張した器官の動きが直接私の子宮に伝わる。雅也が激しく上下運動を繰り返すたび、私の子宮が突き上げられる。雅也の動きが激しくなる。目を閉じる。雅也が達すると同時に、私の器官も大きなうねりを感じた。
しかしその直後にやってきたのは言いようのない嫌悪感。すぐ手の届く所に鋭利なナイフがあれば、私は自分の腹をめちゃくちゃに突きさしていたかもしれない。
雅也が新しい相手を見つけてセックスするのは当然のことだ。むしろ私はそれを望んでいたのだ。それを望んでいたから別れた筈であった。しかし、今自分の感情を客観的に読めば、それは単なる自分の中で組み立てた偽善的理由に過ぎない。
私の中で沸々と何かが燃え始めた。自分は雅也の愛を持続させるためにすべてを捨てた。しかし、雅也は自分のために何一つ捨ててはいなかった。自分は単なる停車駅。雅也は途中下車したに過ぎない。しかし、今また私は別に形で雅也を愛する方法を知った。誰にも知られていないこの甘美なひとり遊びを止めることはできそうになかった。
それから一週間後の朝、会社に行く途中私はまた途中下車をした。いつものごちゃごちゃした駅前の道を通り抜け、迷わず雅也の部屋に向かった。自転車がないのを確認し、雅也の部屋の前まで歩いていく。ゆっくりとした動作でなるべく音を立てないように鍵穴に鍵を差す。
ドアをそっと開けた。空中を浮遊する眼に見えない様々な香りの粒子が私の鼻腔を突いた。嗅ぎなれたなじみの香りの中に雅也の所属ではないものが混ざっている。足元を見下ろすと自分の靴の隣りに血の色をしたエナメルののパンプスが揃えられていた。
一瞬心臓が止まるかと思った。リビングのドアをそっと開け、部屋の中を覗いた。誰もいない。また廊下に出た。ベッドルームのドアが1センチほど開いている。いつもならこの部屋から外の明かりが漏れてくる筈だった。しかし、部屋の中は真っ暗で見えない。射光カーテンがひかれているのだろう。
東に面した寝室は朝日が眩しくて日曜日などゆっくり寝ていられないから、私がこの部屋に住んでいたとき買って取り付けたのだった。シーツもカーテンの色に揃えて買った。毛布も枕も枕カバーも古い色の褪せたものを捨てクリーム色に統一したのだ。
ドアをゆっくりと開けた。ベッドの上の毛布が盛り上がっている。赤いパンプスの女に違いない。細い隙間から覗いているとしだいに輪郭が浮かび上がってきた。毛布の端から長い髪が流れている。女は壁側を向いてるので私の方から顔は見えない。しかし、女は物音に気づいたらしく眠そうな声で言った。
「忘れ物?‥」
私は返事をしなかった。
私と雅也の間に入る邪魔者。私は女に深い憎しみを感じた。ベッドルームのすぐ右側に位置するクローゼットの扉がいつものように開いていた。私はそこからハンガーに掛けてあるネクタイを一本引き抜き後手にまわすと、眠っている女のそばにゆっくりと近づいて行った。
人の気配を感じたのか、女は目を開けて振り向いた。驚いた顔で自分を見上げ、言った。
「あんた誰?」
私は返事をしなかった。
「あんた誰って聞いてるんだよ」
女は威嚇するように言った。
それでも私は返事をしなかった。
女はベッドの上に上半身を起こした。何も身に付けていない。ふくよかな乳房があらわになった。美しい張りのある乳房。私の視線を感じ、女は急いで毛布で胸を隠した。
「もしかして、あんた雅也の元カノ?おばさんだって聞いてたけど、用だったら雅也のいるときに来て」
女は私を見下したような口調で言った。
目の前にいる女は二十歳そこらの、アダルトサイトから跳びだして来たようなまさに雅也好みの女だった。
返事をしないで立っている私に更に女は言った。
「勝手に人の家に入って。不法侵入で警察呼ぶよ」
若いのに気の強い女だと思った。
私と雅也の間に入り込んだ障害物は排除しなくてはならない。私は後ろに回したネクタイの端を左手でしっかり握り締め、右手で一回転させた。女のすぐ傍迄近づくと左手を軸に右手でネクタイを頭に素早く回し、喉元で交差させた。
女は悲鳴を揚げたが声にならなかった。私は両手に力を込めて思い切り反対方向に引っ張った。女はネクタイと首の間に指を入れようともがいたが、私は力を緩めなかった。女の顔が真っ赤に腫れ上がって行った。眼をむき出し舌を出した。力を入れる私の両腕が細かく痙攣しているのがわかる。女はネクタイに体重を掛け、やがて身体が傾斜していった。手の動きが緩慢になり、首がぐったりとなった。上半身から力が抜けベッドの上にぐずれるように倒れ込んだ。しかし、私はネクタイを締める手の力を抜かなかった。女がまったく動かなくなっても長い時間締め続けた。女の顔は赤紫に腫れ上がっていた。
ネクタイから手を放すと全身から力が抜けた。両腕はがたがた小刻みに震え感覚がなくなっていた。女の呼吸は止まっていた。恐る恐る腕を掴み脈をとったがなんの反応もなかった。
試しに自分の脈拍と比べてみた。私の脈は正常に刻んでいた。
ベッドの上で事切れている女は、まるで人形のようだった。目の前の死体と、自分が人を殺しをしてしまったという現実が、私の頭の中でうまく結びつかなかった。
しかし時間が経つうちに、この死体をなんとかしなければならないという考えが浮かび上がって来た。このまま此処に放置して置く訳には行かなかった。発覚すれば、いずれは私のところに捜査の手が回ってこないとも限らない。いや確実に繋がる。そしてもしそうなったとしても私には上手くごまかせる自信も材料もない。だったらこの死体を此処から消さなくてはならない。
女の枕元に置いてあった携帯を開き、受信フォルダーを開いた。雅也からの着信メールが入っていた。
rererere‥
お〜い起きたか?
rererere‥
昼だぞ。遅刻するぞ!
私は着信メールを辿っていった。雅也とのメールの交換は2週間位前から始まっていた。今なら、この女がいなくなっても不思議はない。
私はクローゼットの中から雅也の旅行用のスーツケースを取り出た。バリ島へ旅行した時にふたりで色違いで揃えたものだった。幸い女は小柄だった。私は近くのスーパーへ足を運び、特大サイズの黒いビニール袋を買ってきた。
女の膝を曲げ身体を三つ折りにするとビニール袋にすっぽりと収まった。女の所持品と携帯をバッグに詰め、衣類と共にスーツケースの中に押し込んだ。時計を見た。まだ10時前だった。スーツケースを自分の家まで運び、また戻ってくる時間は充分にあった。
自宅へ戻り、死体の入った黒いビニール袋は風呂場の浴槽の中に入れた。そのまますぐに、空のケースを引いてまた雅也のマンションまで戻った。
疲れを感じた。雅也が帰ってくるまでは、まだ充分時間があった。スーツケースを元に戻し、ベッドの上に落ちた自分の髪を拾った。血液などは付着していなかったが昨晩雅也と女の行為の痕が点々と染みになって残っていた。
時間がたったそれは既に獣の身体から発するような悪臭を放っていた。ベッドの上に這いつくばり、シーツに鼻を近付け犬のようにかぎまわった。
枕に顔を埋めると雅也の昨夜の行為が鮮明になった。もう決して触れることのできない雅也の生々しい肉体が蘇った。
突然身体の奥から激しい感情が湧き上がってきた。ついさっき女を絞め殺したベッドの上で、私は裸になり身を横たえた。シーツの上の体液の飛沫が直接私の身体に巻きついた。女の首を締めたネクタイを自分の首に巻き、両側から引っ張っると息苦しくなった。私はかまわず思い切り引っ張った。少女の首を締めたように。意識が朦朧としていく中、私は絶望的な情欲の高まりを感じた。
気がつくと部屋の中は真っ暗だった。私はひとりベッドの中に取り残されていた。死からも見放されたのだ
外の灯りがうっすらと部屋の中を映し出していた。すっかり眠ってしまったようだった。灯りをつけずに携帯の時刻を確認すした。既に夜の9時を過ぎていた。そろそろ雅也が帰ってくる時間だ。私は焦った。急いでバッグを持ち玄関に向かった。靴を履きかけた瞬間、足音が聞こえた。
雅也の足音だ。間違いない。足音はだんだん近づいてくる。このままドアを開けて外に出れば雅也と正面から出くわすことになる。私は靴を手に持ち、裸足のままこそ泥のように窓から抜け出した。庭の植え込みに身を潜め中の様子を伺った。
すぐに部屋の電気がつけられた。雅也はベッドルームの灯りをつけ部屋の中を見回した。私は何か忘れ物をしてこなかったかと頭の中で思いを巡らせた。雅也はベッドの上を暫くじっと眺めていたが、すぐに窓辺に近寄り窓を開けた。私は息を潜めてじっと身体を強張らせていた。雅也はすぐに窓を閉め鍵を掛けた。
私はほっとした。玄関の鍵は掛かっている訳だから、これであの女は一応用心のため窓から帰ったという既成の事実が出来上がった。
雅也はリビングに戻って行った。タバコに火を付け携帯を見た。すぐに携帯を閉じるとソファーの上に放り投げた。ネクタイを緩め、そのまま雅也もをファーの中に沈みこんだ。女のことを考えているのか、上を向いたままじっとしている。
カーテンを通して見る雅也の顔ははっきり見えなかったが、私と雅也の間にはもう決して近づくことのできない、眼に見えない複雑に曲がりくねった迷路があるような気がした。
今、実際こんな近くにいるのに私は雅也に触れることができない。植え込みの陰にかくれて、雅也の姿を覗いている自分がひどく惨めになった。
部屋に戻るとぐったり疲れきっていた。そのままベッドの上に倒れ込み、直ぐに眠りに落ちた。聞きなれない携帯の着信音で目が覚めた。音のする方に歩いて行く。着信音は女のバッグの中からだった。
雅也からの着信だった。着信音は暫くなり続けたが止まったと同時に、今度はメールを着信した。携帯を開いてみる。すでに雅也からいくつかメールが入っていた。
re:re:re:re:
どうしたん?まだ寝てるの?
起きたら仕事行けよ。
re:re:re:re:
帰っちゃったの?寂しいな。メールくれよ。
私はメールを返した。
re:re:re:re:
ごめん。遅刻しそうだったからメールできなかった。
今日は疲れた。
おやすみ♪
すぐに返信が来た。
re:re:re:re:
おやすみ。好きだよ。
私は5年前に雅也から同じメールを受け取った。胸がえぐられるように痛んだ。睡眠導入剤を数錠ウィスキーで流し込み、そのままベッドに倒れこんだ。
翌朝起きると頭ががんがんした。洗面所で歯を磨いていると浴槽の中に黒いものがあった。それは当然私の犯した出来事を思い起こさせた。自分が人を殺してしまったことが夢ではなく現実なのだと言うことを。しかし、時間がなかった。私はそれを見ないようにして、歯を磨き終えると普通どおりに家を出た。
私の生活は何ひとつ変わらなかった。いつものように仕事をし、いつものように同僚と昼食をし、会話をし、笑いもした。昨日と何も変わらない。ただ1つ昨日と違うのは人を殺してしまったという事実。
仕事を終えて家に帰った。途中買い物を済ませ、家に帰っていつものように食事の準備をした。食事の準備ができるとテレビを見ながらひとりで食事をした。
携帯が鳴った。開いて見る。既にもういくつかメールを着信していた。
re:re:re:re:
なんだか急に冷たくなっちゃたなあ。
オレのこと嫌いになっちゃった?
一昨日の夜はあんなに好きだって言ってくれたのに。
re:re:re:re:
そんなことないよ。
仕事がちょっと忙しいだけ。
(^O^)/~~ see you !
私はそう打ち込んで送信した。
風呂には入らずシャワーだけを使った。浴槽の中の黒い袋は見ないようにした。排水溝から湧き出してきたのか小蝿が数匹袋の周りを飛んでいた。外はもうすっかり冬の気配がしていたが、ユニット式の風呂場は温度が一定で比較的暖かかった。
日が経つにつれ臭いがしはじめた。腐敗が始まったのだ。いやでも私は黒い袋を意識しなければならなくなった。このままここに放置しておけば腐敗はどんどん進んでいくに違いない。もう、このままにはしておけなかった。 そうかと言って、人里離れた山奥などに運ぶ道具や手段も思いつかなかった。細かく切断して捨てようかとも考えたが、死体を切断する勇気などない。それどころか黒い袋を開ける勇気さえなかった。
考えた挙句、鍵を捨てた場所に埋めることにした。あの川なら水も浅いし流れもゆるやかだ。川底は粘着質で柔らかい。川の両岸は雑木林になっていて、特に私が鍵を捨てた場所は樹木に覆われて遊歩道から川の流れが見えない。遊歩道には街灯もないし、夜になれば真っ暗になるので人もほとんど通らない。
しかし真っ暗になるのは外側から見た場合だけで、一旦遊歩道に入り暗がりに目が慣れてしまえば、両側の民家やビルの灯りで手元が全く見えないと言うことはない。澄みきった夜空がきれいな晩なら、なおさらのこと。
月の光りで、青みがかった幻想的なモノトーンの世界が広がる。雅也と夜中に一度散歩したことがある。死体を埋めるには絶好の場所だった。
その晩、窓を開けると澄み切った空にくっきりと月が輝いていた。今夜だ。もう逃げられない。私は覚悟を決めた。
風呂場へ行き、黒い袋を持ち上げた。思った以上に重かった。袋の結び目を持って、片手で持ち上げてもびくともしなかった。
今度は両手で持ち上げた。風呂の底からほんの少し浮き上がった程度で、その拍子に袋が破けてしまった。力を入れて引っ張った分、勢いよく袋から死体がずるずると這い出してきた。結局私は避けていたものと対面しなければならなくなった。
死体はすでに青緑色に変色していた。水泡状の塊が所々に出現し、皮膚が剥がれた部分や口、鼻の穴、濁った眼球には蛆虫が無数に蠢いていた。雅也と私の間に入り込んだ、あのふくよかで美しい乳房や少女のようなベビーフェイスは見るも無残なゾンビに変貌していた。
胸の奥から何かがこみ上げてきた。私は我慢できずに浴槽の中に吐いた。腐った死体の上に吐瀉物がかかった。
全身から力が抜け、へなへなと浴槽の淵にしゃがみ込んだ。頭から水をかぶったようにびっしょり汗をかいていた。
さっきまで飛んでいた数匹のハエが、急激に数を増やしていた。私は次の動作に移るため、頭の中で憎悪を増幅させ、ゆっくりと立ち上がった。
風呂場の中は悪臭を放っていたので、マスクをし、キッチンからビニールの手袋を持ち出してきて両手にはめた。まさにホラー映画に出てくる死体処理人のようだった。
残っていた黒いビニール袋を数枚取り出し、一枚を大きく広げた。ビニール袋を死体の頭の部分から掬うように入れたが、風呂場の底に密着した部分はなかなか入っていかなかった。
そうこうしているうちに皮膚が剥がれだし、中から悪臭のする内臓が蛆虫とともにずるずると流れ出してきた。ビニール袋に収めるのは容易ではなかった。しかしもう怖がっている余裕はなかった。弾力がなくなり、ところどころシワだらけになった、ぶよぶよの尻の部分を両手で持ち上げ、腹部からはみ出した内臓とともに袋の中に押し込んだ。
袋の口をしっかり閉じると、一旦シャワーで外側のヘドロ上の汚れを洗い流し、それに被せるようにまたもう一枚の袋に入れた。袋の中に納まった死体を両手で抱え、あらかじめ用意しておいた雅也とお揃いのスーツケースの中に押し込んだ。川底を掘るためのスコップも一緒に詰めた。
川まで5分くらいの道のりをスーツケースを引きながらゆっくりと運んだ。端の袂まで来ると周りに人がいないことを確認し、スーツケースを開き、ビニール袋を先に川に投げ込んだ。
ずしんと地鳴りのような鈍い音がした。遊歩道の向こうから男女の話し声が聞こえてきた。私はスーツケースを急いで草むらの中に隠し、自分も身を潜めた。
男女の声は近づいてきたが私には気づく様子もなく、はしゃぎ声をあげながらまた遠ざかって行った。
私はジーンズのポケットにスコップを押し込んで崖を滑るように川底に下りていった。川の水は凍えるように冷たかった。
月の光りで川の流れの中に黒いビニール袋が光って見えた。川の中に四つんばいになり姿格好かまわず底を掘った。最初は柔らかい土だったが、掘り進んでいくうちに固い石などがごつごつとあたった。
大きな石は横に避け、構わず力任せに掘った。流れている川の中だからなお更掘りにくかった。スコップを握る手に激しい痛みを感じたが、止めるわけにはいかなかった。
それでも50センチほど掘るのが精一杯だった。死体はすでに腐敗している。そんなに深くに埋めなくても、肉や内臓はすぐに溶けて流れ出し、骨だけになるだろう。手がかじかみ酷く痛んでいたので、黒いビニール袋の結び目を開けるのは容易なことではなかった。
しまいには袋を破き、穴の中に死体を流し込むように置いた。まず大きな石を載せていき、上から土を被せた。柔らかい土は寄せ集めるように載せていったが川の流れでなかなか上手くまとまらなかった。幸い周りに小石が沢山落ちていたので土の上から更に石を被せた。
すべてが終わった。樹木に覆われた隙間から空を仰ぎ見ると、月が煌々と輝いていた。月だけが私の行動を見ていた。これでまた元の生活に戻れるんだ。私はある種の達成感に浸った。
女の所有物は携帯以外すべてゴミと一緒に捨てた。携帯には雅也からのメールが送られてくる。雅也はまた会って欲しい、というような内容のメールを送ってきた。私は生半可な煮え切らない態度を装ってそれに返信していた。
しかし、この携帯を持っている限り女は生きていたし、雅也の行動がよくわかる。雅也との連絡も取り合うことができる。私は雅也と頻繁に連絡を取り合うようになった。
彼と、もう会うことは決してないがそうすることで雅也を常に身近に感じることができた。私は女に成り代わり、以前の自分に戻ったような気持ちになって日々の出来事を雅也にメールした。満たされた気分だった。
そうして、私は何事もなかったかのように普通に日々を過ごした。私の周りでは何も変わりはしなかった。あの日起こった出来事はすべて夢の中に仕舞い込んだ。
12月の寒い朝、私は再び途中下車をした。最後に雅也の家を訪れてからひと月近く経っていた。いつものように自転車を確認し、素早く雅也の部屋の前に立った。ゆっくりと鍵穴に鍵を差しドアを開けた。
そこには雅也が立っていた。驚いてドアを閉め逃げようとしたが、腕を掴まれ無理やり部屋の中に入れられた。
「何するのよ!」
リビングのソファーに座らされた私は言った。
「なんでお前が俺のマンションに来るわけ?」
「忘れ物を思い出したのよ」
「忘れ物?」
「ケーキの焼き型。あれ気に入ってたんだもん」
「嘘つくな!」
雅也はそう言って携帯を取り出し、ボタンを押し始めた。直ぐに私のポケットの中の携帯の振動音が鳴り響いた。雅也は刺すような視線で私を見つめた。そして私のコートのポケットから、女の携帯を取り出した。抵抗しても無理だと思った。
「なんでお前がこれ持ってるんだよ?」
「拾ったの‥」
上手い言い訳など見つからなかった。
「変だと思ったよ。メールの文章、なんかお前のよく使っていた絵文字が増えたからな。返してもらった鍵だって妙に新しかったし。また俺のパソコン開けて履歴追って見てたんだろ。俺の見たファイル迄ご丁寧に消去してくれて。解ったよ。誰が触ったかって。美咲はどうしたんだよ」
それだけ証拠があればもう嘘を突いても仕方がないと思った。
「殺したの」
私は言った。
「殺した?まさか‥」
「本当よ!此処で首を締めて殺したわ」
「嘘だろ?」
「嘘じゃない。雅也のスーツケースで家まで運び、玉川上水に埋めたわ」
雅也の顔色は険しくなり突然私に掴みかかった。
「お前ってやつは‥」
雅也は私の首を締め、ぐらぐらと強い力で乱暴に揺らした。私は何も抵抗はしなかった。むしろこのまま締め殺してくれればいいのにと思った。
しかし、その手の力は直ぐに緩められた。
「どうして、こんなことになってしまったんだよう!」
雅也はソファーに身を埋め、頭を抱え込んだ。
「私と雅也の間に誰も入れたくなかったの‥」
私は泣き崩れる雅也の腕を掴んで言った。
「ねえ‥、もう一度やり直さない?」
更に私は言った。
「あり得ないよ」
雅也は私の顔を見てきっぱりと言った。
「このまま、また此処に来させて。ねっ、あなたのいない間に来るだけなら構わないでしょ?なんだったら掃除や洗濯もしといてあげるわ」
「やめてくれよ!」
「どうして?なんの迷惑もかからないでしょ?」
「お前はもう既に美咲を殺してるんだろ?俺にまた新たな恋人ができたらまた殺すっていうのか?」
「もう、殺さない。もう絶対殺さないから許して」
私は雅也の腕を強く掴んで懇願するように言った。
「狂ってるよ、お前。離してくれよ!俺はもうお前の事は考えたくないんだ。関りたくはない。自首しろよ!早く俺の前から消えてくれ!さもないと、警察を呼ぶぞ」
雅也は私の手を振り払って、気味の悪いものでも見るような眼で私を見た。私はそれでも雅也の腕をまた握り懇願した。
雅也は唾を吐き捨て、足で私を蹴飛ばした。
もう終わりだった。
雅也の前でうなだれて床にひれ伏しているのは、まるで雅也に取り付いた、醜く老いさらばえた妖怪。
一時ふたりの時空は乱れ交差したが、今また時空の穴は塞がった。もう、何をしても雅也の存在する時空に戻ることはできないのだと思った。
「ごめんね‥」
私はそう言って立ち上がった。
雅也はソファーに腰掛け、うなだれたまま返事をしなかった。
私の選択肢はふたつしかなかった。雅也と連れ添うか、もしくは‥。
連れ添う方はどうやらもう不可能だ。私はそのまま帰る振りをしてキッチンへ向かった。引出しからナイフを取り出し、両手でそれを強く握り締め胸の前に持ち上げた。
それから力を込めて一気に腕を引いた。
生暖かいものが胸から全身に伝わった。私の中に充満する腐敗した膿がだらだらと流れ出して行った。
でも‥、これでもう安心。私はすべての苦しみから開放されるのだ。
━完━
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