16
その夜。姫君は今日起こったことを思い出していました。まだ浮かんでいるかのように、ふわふわと夢見心地です。
その部屋に 音もなく入ってくる人影がありました。姫君に気付かれないよう、静かに歩みを進めていきます。その足取りに迷いはなく、部屋の構造を熟知しているようでした。家具を巧みに利用して姫君に見えないように近づいていきました。
ある程度近づくと 人影は家具から身を乗り出し、姫君の様子を窺いました。姫君はぼんやりと空中に視線を彷徨わせていて、気付いた様子はありません。人影は刺し殺さんばかりの視線を姫君に向けると、懐から小振りの短刀を取り出し 握りしめました。
家具の影から人影が飛び出し、白刃を閃かせ襲い掛かった瞬間、姫君はその人影に気付き、驚いて身動ぎました。それが幸いして、間一髪その刃を避けることができました。ついてこれなかった髪が一房、床に渇いた音をたて落ちます。
後ろを振り向いた姫君は、目を見開きました。そこには物凄い形相をした助手が、姫君を睨んでいたからです。
『何であんたが……何で、あんたなんかが先生と! 私から親を奪っただけでなく、先生も奪うつもりなの!?』
助手は涙を流しながら叫びます。その顔は鬼の様に恐ろしく、でも悲痛な面持ちで歪んでいました。いつもの物静かで清楚な雰囲気はどこにも見当たりません。
姫君は悲鳴を上げ 逃げ出そうとしましたが、それを助手が許すはずもありませんでした。すぐに引き戻され、床に押し倒されてしまいます。容赦なく床に叩きつけられた姫君は、あまりの痛みに息を詰まらせ 体を縮こまらせました。助手はそんな姫君を、憎々しげに見据えていました。
『あんたが笑えないせいで、私の 親は殺されたのに……多くの人達が亡くなったのに!! それを忘れて、幸せになるなんて許せない!!』
血を吐くような助手の言葉は、姫君の胸を抉りだしました。姫君はもう声も出せず、カタカタ震えています。助手は姫君を押さえたまま、ゆっくりと鈍く光る刄を振り上げました。姫君はその今にも振り下ろされるであろう短刀を、ただ見つめていることしかできませんでした。
辺りは急に静寂に包み込まれ、姫君のとも 助手のとも分からない荒い呼気だけが部屋に満ちていました。姫君を睨み据えていた助手の手がぴくり、と微かに動き──…
『止めるんだ!! そんな事をしてどうなる!?』
今まさに、刄が振り下ろされそうになった時、男の声が静寂を切り裂きました。それは医者でした。普段とは違い、かなり焦っている口調です。医者はこの光景を見て、一瞬で状況を悟ったようでした。
助手は医者の登場に動揺し 一瞬ためらいましたが、もう やめることはできませんでした。止まっていた手に力を込め直して ためらう心を断ち切り、短刀を思い切り振り下ろしました。 |