桜の咲くころ
「――雪さん?」
細く消え行きそうな声がしんと静まり返った部屋に響く。蚊の鳴くような小さな声だが、呼ばれた男のピンと立てた三角の耳はその声を聞き逃すことはない。臥せっている高齢の女性の傍に控えていた細身の男がその声に反応して顔を上げる。男は一見冷たそうな印象を与える切れ長の瞳を優しげに細め、嬉しそうに女性の傍に寄る。
「桜子、私はここにいますよ。どうしました?」
「少し庭が見たいの」
「はい。今起こしますね」
雪と呼ばれた男は桜子の求める声に応じて障子を開ける。そしてまるで壊れ物でも扱うかのようにそっと背中に手を添えて桜子の体を起こした。
「もう桜の季節なのね」
「はい。桜子の名前の季節ですね」
障子を開け放った庭には一本の桜の木が美しく咲き誇っていた。雪は自分の祖母ほどの年齢の女性に対して、まるで恋人に接するかのような態度である。優しく微笑み、そして腕を回して桜子の体を支えたまま、桜子の白に染まった髪を愛しげに撫でた。
「――雪さんと、また来年も桜を見られると良いのだけれど……」
「見られますよ」
寂しげに呟いた桜子の声を遮るように固い声で制す。そんな雪の声色を聞いて、桜子は慈しむように微笑んでそっと雪の顔に手を伸ばした。
「あなたと出会ってもう七十年になるのね」
「桜子」
「……私は雪さんと出会えてとても幸せでした」
雪は頬に伸ばされた手をそっと握り、それを頬ずりするように頬に当てた。桜子のその笑みは本当に幸せそうなものだった。
雪と桜が出会ったのは桜子が十の年になってすぐのことだった。
それは夏休みに毎年恒例となっている母方の祖母の家に泊まりに行った時のことである。この母方の祖母の家は普段住んでいる家とはかなり離れた場所にあり、頻繁に会えないこともあったのでいつも長期休みになると桜子だけで泊まりに行っていた。
「――桜子ちゃん、あまり山の中に入ったらいけないよ」
「うん!」
「もう、本当に桜子はおばあちゃんの家が好きねぇ。そうそう、この間ね――」
祖母の家に着いて早々に荷物を置くと、背中に掛かる祖母の声に頷いて桜子は駆け出す。後ろでは自分を送ってきた母と祖母が何か話しているのが聞こえたが、それもすぐに聞こえなくなった。
自分の住んでいる家とは異なり、祖母の家は山の中と言っても良いくらい田舎にある。隣家は数百メートルは離れた場所にあり、同じような年頃の子どもは自分以外にはいない。それでも桜子にとっては絶好の遊び場だった。
祖母の家の裏手へ少し行くと林があった。さらにその林の中を先に進むと、少しの野原がある。そこには花屋に並ぶ花とはまた違った素朴な花が見事に咲乱れているのだ。そこには自分が普段住んでいる町の中ではあまり見られない花が多く、もともと虫などが苦手でなかった桜子にとってはお気に入りの場所の一つである。そこでシロツメクサの花冠でも作ろうかとシロツメクサが群生している場所を探しながらしばらく歩いていると、シロツメクサが咲いている場所を見つけて走り出した。そしてそこから少し先で視線が止まる。
シロツメクサだけじゃなく、たくさんの種類の花が咲く中心に彼は居た。草花たちはまるで彼のことを守るかのように寄り添って気高く凛と咲いている。桜子が彼を覗き込むと、そこに居る彼は一目で男性であると分かる。それなのにその様子はまるで御伽噺で読んだ白雪姫のようであった。
見慣れない白い着物を身に纏い、男性にしては長い髪は顎の先まである。閉じた瞳の色は分からないが、それでも彼の顔の造詣は今まで見たことがあるどの男性よりも美しいことが分かった。それは今まで桜子が格好が良いと思っていた、アイドルや俳優という種類の人たちよりも圧倒的に見目が良かったのである。
「――お兄さん?寝ているの?」
「……人の子……?」
桜子が彼の傍に屈んで声を掛けると、彼は些か気だるげに切れ長の目を薄らと開いた。その瞳の色は薄い水色で、幼かった桜子にとっては本やテレビなどでしか見たことがない外国の人のようである。その瞳の色は日本人離れした美しい彼にとてもよく似合っていて美しかった。
「お兄さんの目の色とってもきれいね!」
「ええ、そうでしょう?」
桜子の言葉をその男も気に入ったようだった。嬉しそうに目元を緩めると、桜子への空気を初めよりも緩めたのが桜子にも分かる。それに気を良くした桜子はさらに美しい青年に話を続けた。
「私、この近くのおばあちゃんの家に来てるの。お兄さんはこの辺りに住んでるの?」
「私は、そう……ここに棲んでいる、とも言えるでしょうね」
無邪気な桜子の言葉に男は複雑な言葉で返した。幼い桜子にはその意味は何となくしか伝わらず、少し引っかかりながらもこの美しい男の言葉を流してしまっていた。
「ふぅん。ねぇ、お兄さんここに住んでるなら詳しいんでしょう?一緒に遊ぼう」
「遊ぶと言われても人の子の娘が喜びそうなことは分からないのですが……」
桜子の言葉に男は困惑したような表情を浮かべていた。そしてよくよく見ると、彼は白い着物を着ている。いくらこの辺りに詳しいとは言え、このあたりは自然に溢れる場所であった。そのために桜子と一緒にこの辺りを駆け回ったらきっとあっという間にこの美しい着物は汚れてしまうだろう。桜子はすぐにこの着物を汚してしまうのはいけないことだと思った。
「そうね。お兄さんのその着物とってもきれいだから汚れたら勿体無いものね。それじゃあ、花冠を作るから来て!」
「花冠?」
「そこのシロツメクサで花冠を作るの。お兄さんは作ったことある?」
「いいえ、ありませんね」
「それなら私が手本を見せてあげる。私花冠作るの得意なのよ」
戸惑う男に戸惑うことなく手を伸ばして、桜子はシロツメクサがたくさん咲いているところまで連れて行った。そこに腰を下ろすと、早速適当な花を見繕って桜子はどんどん編みこんでいく。
桜子は花冠を編むのが本当に得意だったのである。同じ年頃の友だちと一緒に花冠を作ったこともあったが、その誰よりも桜子が編むものがきれいで速かった。それも毎年この小さな花畑で練習していたせいもあるのだろう。
そうしてあっと言う間にそれを編み終わると、ぐるりと適当な場所で括って花冠の完成だ。
「――はい、これあげる!」
「え?」
相手は小さな男の子ではなく男性だ。同じ年の男の子でも花冠なんて似合わないのに、彼であれば絶対似合うと思ったのであろう。だから当然のように彼の頭に載せたのだ。
「あら?お兄さん、お耳が上にあるのね」
そこでようやく気付いた。彼の美しい顔は分かっていたが、彼の頭には二つの耳があったのである。それはまるで猫のようにピンと三角に立った耳だ。当然ながら作り物のカチューシャについた耳なら見たことがあるが、彼のそれは友人の家で飼っている猫のそれによく似ている。だが猫のそれよりも少し縦に大きいという点があるものの、ふさふさと生えた柔らかそうな毛は桜子の興味を引いた。
「ええ、変ですか?」
「いいえ。とっても素敵だと思う。触っても良い?」
「はい。どうぞ」
桜子は恐れを知らず、好奇心が旺盛な子どもだったのである。うずうずと我慢できない気持ちを御しきれず、上目遣いに聞いてみると案外すんなりと了承された。
「――雪さん。耳に触れても良い?」
「はい、どうぞ」
桜子があの時のように聞けば、雪はにっこりと微笑んで了承した。そして桜子は幼き頃と同じように手を伸ばすのである。数十年経ってしまった今も、雪のそれは桜子が幼い頃に触ったそれと何一つ変わらない。柔らかく艶のある毛並みが桜子の手を滑る。
「やっぱり、貴方の耳は素敵だわ。本当に貴方はあの頃から変わらないわね」
「何を言っているのですか。桜子もあの頃から何一つ変わっていませんよ」
「私なんてもう皺くちゃのおばあちゃんになってしまったわ」
桜子は自身の皺だらけになった手を見て、そっと目を伏せた。自分で鏡を見ることを止めて、どれくらいの時間が経っただろうか。老いない雪の隣にいる桜子は毎年毎年少しずつ年を重ねていく。幼き頃は雪の隣に立ってもおかしくない大人になることが待ち遠しかった。しかし、それを過ぎると年を重ねていく恐怖が桜子を襲ったのだ。
雪は出会った頃から何一つ変わらない。その名の通り、雪のように白くて滑らかな肌も桜子にとってはもう随分昔に失くしてしまったものの一つである。雪の姿も態度もいつかのそれと全く変わらないのに、桜子だけはどんどん変わってしまった。桜子は優しい雪の視線を受けて、遠い昔の記憶に思いを馳せた。
「雪さん!早くこちらに来て!」
桜子はスカートをたくし上げて膝まで水に浸かると、川岸に立つ雪に声を掛ける。すっかり夏になった田舎は都会ほどとは言わずとも暑い。その暑さを紛らわすために川にやって来て膝までを水に浸けている。
「桜子、貴女も年頃の女性なのだからあまりそう足を出すのは感心しませんよ」
「あら、いいじゃない。今の女の子はみんなこのくらいの丈のスカートを履いているのよ?それに、あまり長いと水に濡れてしまうじゃない」
桜子はすっかり年頃の女性になった。出会った頃のような幼子特有の凹凸のない身体から、ふっくらと丸みを帯びた女性らしい身体へと変化している。性格はと言うと、あの時のような無邪気さをまだ残しているのがまだ大人になりきれていないという証拠でもあった。
「桜子、あまりはしゃぐと危ないですよ」
「大丈夫よ。ほら、冷たくて気持ちいいわよ?――きゃっ!」
心配そうに見る雪を尻目に、わざとばしゃばしゃと水音を立てて声を上げて笑う。するとその時バランスを崩して後ろから水に落ちそうになった。
「――だから危ないと言ったでしょう」
「……ごめんなさい。ありがとう」
雪が差し出した手に掴まる桜子の手はふっくらと丸い子供の手ではなく、すっとして可憐な女性の手そのものだった。雪は桜子に「年頃の女性」という言葉で形容しておきながらも、実際はまだまだ彼女のことを子ども扱いしていたのだろう。桜子のその手は彼女を「一人の女性」として自覚させるのに十分だったのだ。
「雪さん?」
「――いや。何でもありませんよ。さぁ、お嬢さん。向こうに君の好きな花が咲いていたから見に行きましょう」
雪がはっと気付くと、桜子が雪の顔を覗き込んでいた。慌てていつも通りの表情を作ると、掴んだままになっていた桜子の手を離す。離した手の中には今だ桜子の柔らかい手の感触が残っているような気がして、その手を意識せずにはいられなかった。
「ねぇ、雪さんは結婚ってしたことある?」
「え?……結婚ですか?」
二人で森の中を歩いていると、桜子が唐突な質問を投げかけてくる。突然すぎるその質問に雪は目を瞬かせ聞き返した。
「そう。結婚よ、結婚。したことある?」
「いえ、経験ありませんが。どうしたんですか?突然」
「お見合いをするのよ、今度」
「え?」
桜子の言葉に驚いて目を見開いた。まだ子供だと思っていた桜子はいつの間にか「女性」にと変わっていた。その事実だけでも雪にとっては衝撃だったのに、目の前の桜子は今度は結婚の話まで出してくる。
初めて桜子に出会った夏の日から、毎年夏と冬はこの地へ来て過ごすのが普通であった。子供の時と違って滞在できる時間もかなり短くなってしまったが、彼女が結婚をしてしまえばそれすらも無くなってしまうかもしれない。雪は人の身ではないが、それでも今までの普通を普通として過ごすことがどれだけ難しいのかは理解できる。そしてそのことを想像すると雪の胸の中が酷く痛かった。
「それは……困ります」
「困るの?」
雪が困ったように眉尻を下げて桜子を見れば、彼女はおかしそうにくすりと笑って雪を見ていた。
「ふむ。どうやら、私はあなたのことを相当好きなようです」
「そう。それは良かったわ。私も雪さんのこと好きなんだもの」
その時の桜子があまりにも美しく微笑むせいだと言い訳をして、そのまま桜子を攫うように雪の持つ屋敷へ連れて行ったのは今思えば笑い話であるだろう。
「――桜子、あなたの名前の花が咲きましたよ」
固く閉ざされてあまり開け放たれることのなかった障子戸はすっかり開けられ、がらんとした和室が見える。大事に守るように隠されていたその部屋の主の姿は見えない。
縁側の傍にある桜の木は満開の花をつけて、春のまだ少し冷たい風に吹かれて揺れている。一片の桜の花弁がひらりと風に舞い、広げた手のひらに落ちた。