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偽説・雪曙(ぎせつ・ゆきのあけぼの)

作者:春河ミライ
 天和二年十二月二十八日、駒込大円寺よりの出火で江戸の町が焼かれた。
 後に天和の大火とも呼ばれたその火事は、昼時から、翌六つ近くまで燃え続けた。三千五百余りと数多の死傷者を出し、焼け出され避難を余儀なくされた者たちも多かった。
 本郷の八百屋、市左衛門の娘お七もまた、焼け出された一人であった。
 幸い一家は共に無事で、家を建て直すまでの間、檀那寺の目黒は正泉院に厄介になることとなった。
 本堂は、焼け出された者たちでごった返していた。乳飲み子を抱えた女たちから怪しげな風情の素浪人まで、大勢の者たちの中、年頃の娘を持つお七の母は気が気ではなかった。
 お七は賢く器量が良い。少しでも身分の高い相手と娶せるべく、両親はつてをたどってよい相手を探しているところだ。
 こんなところで暮らして、おかしな虫でもついたらたまらない。
 見目の良いお七に目を付けたものも、もちろんいた。特に熱心だったのは、正泉院に滞在していた旗本の二男坊、山田左兵衛だ。齢はお七より二つ上の十七。身分悪しからざる左兵衛には、同い年の寺小姓、生田庄之助が世話係として付けられている。彼は焼け出されたわけではない。どうにも継母と相性が悪く、行儀作法を習う態で正泉院に世話になっていた。
 左兵衛に見初められたことを喜んだのはお七の両親である。
 山田はそれなりの家ではあるが、二男ともなれば養子に取ることも可能だろうし、武家と縁続きになれば後ろ盾が得られるだろう。おかしな虫では困るが、武家の子息であれば話は別だ。
 左兵衛もまた、折り合いの悪い実家を出て羽振りの良い市左衛門の家に入れるのであれば、願ってもない。
 お七の両親に後押しされる形で、左兵衛はお七に言い寄った。
 けれどお七が想いを寄せたのは、左兵衛ではなかった。
「左兵衛殿が探しておられましたよ。ですから、どうぞこの部屋に隠れておいでなさい」
「ありがとうございます、庄之助様」
 左兵衛の世話係をしている庄之助は、寺で無体を働かれることを忌避したものか、たびたびお七をかばってくれた。かばってくれる庄之助にお七は惹かれた。
 しかし、庄之助は貧しい武士の出ではあったが、いずれは株を取得し身を立てようと考えていた。そして、寺に世話になっているのだから、と精進潔斎を己に課しているらしい。人品卑しからぬ、清廉な青年であった。
 だからこそ、お七は安心して清らかな恋心を育てられたともいえる。
 欲得づくで左兵衛に迫られているお七にとって、穢れのない庄之助の姿はかけがえのないものだった。
 伝える気こそなかったけれど、焼け出されたことで庄之助と出会えたことが幸福であると、いじらしくも考えていた。
 己の想いを伝えることなく、思うだけで満足していた。
 やがて、無事に家が建ち、ほどなくして市左衛門の商いも元通りとなった。
 商いが回るようになると、次に市左衛門が考えたのは、お七に婿を取ることだ。
 相手はかの山田左兵衛である。
 縁談は着々と調い、あとは吉日を見計らって婚儀を上げるだけと相成った。
 焼け出され、正泉院の世話になったのが年の末、まだ季節は桃の節句を迎えたばかりだ。
 縁談の話を知らされて驚いたのはお七だ。
 無論、両親が左兵衛との婚姻を望んでいることは知っている。
 一人娘である以上、婿取りはお七の役目だ。しかし、左兵衛と知り合ってから、この話が整うまでの期間があまりに短い。
 お七にも心の準備が必要だった。家と家、欲と欲の結びつきでしかない婚姻は、若いお七にとって残酷でもある。
 これがせめて、庄之助を諦めきれるだけの時間があったなら、お七も割り切ることもできたかもしれない。けれど、両親は左兵衛の気が変わるのを恐れ、性急に支度をした。
 お七だけが置き去りだった。
 お七はせめてもと、思いの丈を文に綴ることにした。なにも庄之助に読ませようというわけではない。ただ、何も形にせず恋を失うのが惜しかった。
 思いは昼過ぎから、夜、日が落ちて暗くなるまでかかって、巻紙いっぱいに綴られた。
 しかし、書きつけた手紙を取っておくわけにはいかない。
 これから婿を取ろうという身で、他の男への恋心に現を抜かすなど不貞である。
 書き終えた手紙をすぐ、お七は行灯の火にかざした。
 ゆらり、ゆらり、油皿の灯芯は揺れて、綴った恋心に火が付き灰になる。静かに燻る炎を見ていたお七は、ふと考えてはならない思いに囚われた。
 この火が、もし、障子に燃え移ったなら。畳を焼き、屋根を焼き、燃え盛る炎にこの家が燃えてしまったら、また、正泉院の世話になれる。
 庄之助に会える。
 想いを伝えることはできずとも、横顔をただほんの一時眺めることは叶う。
「庄之助様……」
 お七の唇から、愛しい人の名が零れた。
 火つけは大罪だ。その罪は死によって贖われる。いや、この人がひしめく江戸の街においては誰の命を奪うともしれない、恐ろしい罪だ。たとえ死罪になったとしてもその罪が償えるものでもないだろう。
 けれど、お七の目にはもう炎しか映っていなかった。
 赤々と、行灯の笠に張られた紙を照らす火。
 恋心を舐めつくす赤い舌。
 すべてが燃え、何もかもを失ったなら、きっと庄之助はお七を憐れんでくれるだろう。
「庄之助様、お七は庄之助様にお会いしとうございます」
 お七は震える手で、行灯を倒した。菜種油は畳に広がり、その上を炎が舐めていく。お七は炎を消そうとはしなかった。
 もはや、人の手ではたやすく消せぬ有様になって初めて、お七は部屋の外に出た。
 赤い炎は、それは美しかった。
「庄之助様、庄之助様……あぁ、これでまた貴方様にお会いできる」
 火つけは大罪である。
 しかし、お七はお白州で火付けが故意によるものだと認めた。
「火をつけたのは私でございます。私は、私の手で私の思いを燃やしてしまいたかったのです」
 罪を認めたお七は鈴ヶ森の処刑場で火刑に処されることとなった。
 お七に言い寄っており、縁談を企てていたはずの左兵衛は知らぬ存ぜぬを通した。火付けの大罪人と縁があったなどと噂をされてはたまらないから、当然である。
 鈴ヶ森の処刑場に庄之助が足を運んだかどうかは定かではない。
 けれど、お七だけは燃え盛る火の向こう、一目火刑を受ける大罪人を目にすべく集まってきた民衆の中に庄之助の姿を見た。
「庄之助様、再びお会いすることができて、お七は本当に嬉しゅうございます」
 熱い炎に燻され、じりじりと体が焦げていく。吸い込んだ煙が腹の中からもお七を焼いた。
 天和三年癸亥(みずのといのとし)三月二十八日のことであった。
 庄之助がお七を憐れみ、菩提を弔ったとは伝わっていない。
 ただお七の墓には名と命日が刻まれているのみである。

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