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多重人格な彼女
作:NAO



第七話


 カーテンの隙間から、休日の朝日が注ぐ。
 映写機から放たれる真っ白な光に似たそれは、細かいほこりを映し出す。舞い降りることもできずにゆらゆらと漂うさまを見ていると、室内の空気がよどんでいることが分かる。
 ――私も、あの子も。生きて、仁と添い遂げたい。それだけが、私とあの子の共通の願いであり、譲れない想い。
 頭の中で自動再生する。ビデオテープのように擦り切れることもなく、鮮明に記憶された映像。
 ――それこそが、ずっと変わらない二人の気持ちよ。
 俺は停滞した空気を開放することもせずに、残り香のあるベッドから体を起こす。
 最後の二日間。
 ふとそんな言葉が頭をよぎり、俺は頭を振る。
 ――デートしなさい。これは命令よ。
「絶好の日和だな」
 思い切って開けたカーテンの外は、突き抜けるような蒼穹だった。
「本当に……絶好すぎるくらいに」



 校舎の屋上での会話の後、俺は魂を吸い出されてしまったような足取りで家路についた。いつも隣を半歩遅れて歩く佳乃は伴っていない。
 何度も確認しているのにもかかわらず、俺は隣を確認し、佳乃がいないことを知ってため息をつく。後ろから足音が聞こえてくると、ビーチフラッグの選手もびっくりするような速度で背後を振り向き、また嘆息する。そして、家に到着するやいなや、制服を着たままで、ベッドにうつぶせに倒れこむ。
 シーツの匂いを思いっきり肺に吸い込むと、とたんに眠気が襲ってきた。振り返りすぎて痛む首と、鋭敏化された聴覚の疲労は、自分が思っていた以上のようだ。 
「佳乃……」
 俺は泣きそうになっている目を枕の中に隠して、情けなくつぶやいた。デパートで迷子になって、母親を呼ぶ子供そのもの。
「かのぉ……」
 名前を呼んで安心する。その名前を聞いただけで、なぜか暖かくなれる。南無阿弥陀仏、を唱えれば極楽浄土にいけるように、俺は佳乃の名前を唱えるだけで、俺はどこか救われていたのかもしれない。
「情けない声出さないでよ。気持ち悪い」
「……かのぉ?」
「そうよ、佳乃よ。仁が大好きで大好きで仕方がない佳乃様よ」
 腕を組んで、ベッドにうずくまる俺を見下ろしてくる。
「……どっちの意味にも取れるな、今の台詞」
 俺が佳乃を好きで仕方がないのか。
 佳乃が俺を好きで仕方がないのか。
「ま、両方でしょうね」
 臆面もなく言ってのける佳乃。
「そうか……って、佳乃! お前、人が感傷に浸って主人公っぽいことやってるのに、勝手に入ってくるなよ!」
 屋上でのやり取りがあった直後だからか、俺はいつもよりオーバーなアクションで、ベッドの上で立ち上がる。腕を組む佳乃に指差し、つばを飛ばす。佳乃は、俺のつばにものすごく嫌な顔をしながらも、青筋を立てるだけで手を出してはこなかった。
「明らかに今のところにツッコミを入れてください的な発言は、この際おいておくとして」
「……いや、つっこんでくれよ」
 ベッドの上に正座した俺は、頭をたれる。佳乃はそんな俺を見て、少し考えるように視線をめぐらせる。
「しゅ」
「……しゅ?」
「主人公は私よ!」
 俺が正座するベッドに片足を乗っけて、親指で自分を指し示す佳乃。それはまるで、時代劇で言うところの遠山の金さんのようで、あるいは、波止場でポーズを決める水兵さんのようで、滑稽極まりなかった。ふと思ったが、筋骨隆々の水兵さんが、二の腕に碇のマークの刺青をしているのはなぜだろう。
 ……どうでもいいか、そんなことは。
「何で私のツッコミにノーリアクションなのよ」
「ツッコミだったんだ!? ツッコむのそこだったんだ!?」
 主人公の存在云々はスルーして、主人公は誰かってことが佳乃の中では重要だったようだ。
「……誰がどう考えてもツッコミでしょうが!」
 こぶしに血管を浮かび上がらせたまま、鉄拳制裁が執行される。俺は、ベッドに顔面からめり込むが、スプリングのせいでまたもとの位置に飛び上がる。
「馬鹿! 痛いだろうが!」
「あ、今、馬鹿っていったわね! 関西人にとって馬鹿ってのは結構傷つくのに! せめてアホにしなさいよ!」
「佳乃も俺も、れっきとした秋葉っ子だろうが!」
「ツッコむのか、ボケるのかどっちかにしなさい!」
 再び下る鉄拳制裁。
だが、俺とて早々いつまでも甘んじて受けるわけではない。うまく体をひねって佳乃の鉄槌を回避する。佳乃はそれを予期していなかったようで、バランスを崩して前のめりに倒れこんでしまう。
「……黙ってぶたれていればいいのに」
 佳乃によってベッドに押し倒される態勢となった俺は、必要以上に近づけられた佳乃の瞳に釘付けになる。
「そうすれば……二度もぶった、親父にもぶたれたことないのに、って言えたでしょうが」
 佳乃の髪の毛が、重力にしたがって俺のほうに流れ落ちてくる。それはまるで、俺と佳乃だけの空間を演出する緞帳のようで、周囲の景色を遮断していく。
 あまりの至近距離に顔面が熱くなるのを感じて下方に視線をそらせば、そこには俺と佳乃の密接した上半身と下半身があった。
 年齢に相応しい佳乃の小柄な体。年齢に相応しくない佳乃のアルプス山脈。それは髪の毛同様に重力に引かれ、凶悪なやわらかさを誇っていた。
 俺は視線のやり場に困りに困って、結局は佳乃の瞳に落ち着くのだった。
「なし崩しみたいになったけど、私、こうなればいいって思ってたのよ」
 ベッドのスプリングが二人の体重に悲鳴を上げる。そんな音でさえも卑猥に聞こえてしまう俺の煩悩は、きっと百八個では足らないだろう。
 けれども、俺はそんな本能的な欲望の渦中にありながらも、かすかに残る理性が佳乃の瞳の中にある焦燥を看破する。
「……なんで、そんなに焦ってるんだよ」
 佳乃は、急に鼻白むような顔つきで、俺から距離をとる。距離をとるといっても、ほんの二、三センチ程度だ。
「焦ってなんかいないわよ」
「いや、焦ってる」
 佳乃の眉間にしわが寄る。形のいい眉はそれに引っ張られるようにVの字に変形した。
「じゃあ、逆に仁は何でそんなに落ち着いていられるのよ」
「落ち着いてなんかいない。胸だってどきどきしてるし、今にも狼になりそうなくらい――」
「誰も止めやしないから、狼になれば?」
 佳乃の瞳が揺れる。
「止めやしないって、佳乃、お前……」
「据え膳食わねば男の恥、でしょ?」
 主導権が自分に移ったことに満足したのか、怒りはどこかへ消えて、今度は挑発的に微笑む。
 これほどまでに蠱惑的な佳乃を誰が想像できるだろうか。
 本来の佳乃からはありえないほどの妖艶な潤いをたたえた唇と、その潤いを作り出す朱色の舌。長いまつげは今にも俺の目に付き刺さりそうなほどに反り返っている。それでなくともつぶらな瞳なのに、それはよりいっそう佳乃のまなざしを際立たせる。
「私がいいって言ってるんだから、仁はそれに応えるべきじゃない? 屋上で言ってくれたじゃない。私のことが好きだって」
 あれは嘘ではない。
 嘘偽りなんかではない、俺の本当の気持ちだった。
 でも、それは。
「仁?」
 俺は佳乃の肩を押しやって、自分の燃え上がろうとする欲望の炎に蓋をした。誘惑という酸素を得ることのできなくなった炎は、徐々に力を減退させていく。
「このままの関係でいたかった……なんて言うと、ありふれた物語みたいだけど」
 佳乃の肩をつかんだ手に力を込める。
「俺は佳乃が佳乃のじゃないときでも、佳乃が佳乃であるときも、佳乃は佳乃だって、そう思ってた」
 佳乃は困惑しているようだった。俺の瞳を覗き込み、必死に真意を探ろうとしている。
「けど、佳乃は佳乃じゃない。二人の佳乃なんだ……ってこと、どこかで分かってた。おかしいだろ、俺さ……佳乃が佳乃でなくなっても、嬉しかったんだ」
 格好悪い。
 佳乃の肩をつかんだ手が震えている。慣れないことをしているというのもあったが、一番に言えるのは、それが借り物の言葉ではないからだ。
 アニメや、映画、ドラマの名言ではない、自分だけの言葉。
 心を全力で搾り出して、やっとのことで零れ落ちる一滴。
 俺の中で溜め込んできた雫は、やがて大きな水溜りとなり、湖となり――
「幼馴染の佳乃が、ツンデレの佳乃に変わっても嬉しかったし、その逆でも嬉しかったんだ。二人の佳乃が笑ってくれて、その笑顔の違いに心が跳ね上がってさ……幼馴染の佳乃は、タンポポのように、柔らかくて、優しい笑顔で……眉毛が垂れていって、目じりがうっとりするほど可愛いんだ。ツンデレの佳乃は……なかなか笑ってくれないけど、いざ笑ってくれたときは、俺の心臓が爆発しそうなくらいに喜ぶんだ。華やかで、顔面の筋肉を全部使って笑ってくれてさ、太陽のようで……」
 ――溢れ出す。
「ああ、佳乃はこんな笑い方もできるんだなって、嬉しかったんだ」
 佳乃は苦しそうな表情に変わる。先ほどの妖艶さは一過して、今はただ心苦しそうに頬を歪めるだけ。
「……だけど、変わらないものなんてないんだよな。いつまでも、その二つの笑顔の真ん中で生きていくことなんて、できないんだよな」
「仁……」
 その言葉が零れ落ちると、佳乃は顔を伏せた。
「……できないわ。仁の言うとおり、いつまでも私たちは一緒にいられないの。佳乃も、仁も、私も」
 ベッドのシーツが、佳乃のこぶしの中に巻き込まれていく。
「二人でひとつの体を共有することはできないのよ。それでは、人は生きていけない。体に存在できる心はひとつだけ。日常生活に齟齬がきたすのは目に見えてる……いずれはどちらも駄目になるわ」
 佳乃の肩が震え、俺の手も震える。
 二人の心が震え、言葉も震える。
「もう、二人じゃいられないのよ!」
 佳乃がかんしゃくを起こしたように叫んだ。言い換えるとするならば、慟哭。
「だから……ね」
 顔をあげた佳乃に涙はなく、そこには作りなれない笑顔が仮面のように張り付いているだけ。
「仁、デートしなさい。これは命令」
 肩に置かれた俺の手を乱雑に払い、ベッドから降りて立ち上がる。その粗暴さだけが、ツンデレな佳乃であることを示していた。
「ちょうど明日、明後日は、土日で休みだし」
「二日連続で?」
 俺はシーツにつけられたしわを見下ろす。アイロンをかけなければ元に戻らないようなしわ。佳乃の感情の握力が、そこに刻み込まれているような気がした。
「違うわ。一日だけよ」
 屋上で見せた儚げな笑顔。
「明日は佳乃と、明後日は私と。二人で一日ずつ」
 佳乃のしようとしていることが理解できた気がした。
「それで決めて欲しいの」
 その先を言って欲しくないという俺の思いは、もろくも打ち砕かれてしまう。
「私か、佳乃か」
 自らの胸に手のひらをあてがう佳乃。自分の心の中で聞いているかもしれない本来の佳乃に言い聞かせているかのようだった。
「まったく同じデートコースで、まったく同じものを食べて、まったく同じ服で……」
 それは、ツンデレ佳乃なりのフェア精神なのだろう。
「仁……お願い」
 意思とは裏腹に、動こうとしない首の筋肉を無理矢理動かして、首肯する。
「ありがと。好きよ、仁」
 佳乃は慣れないウインクに手間取って、両目をつぶってしまう。そんな自分をかっこ悪く思ったのか、素早くドアの向こうに姿を消す。
「スタートダッシュ……かよ」
 ベッドには佳乃の残り香。
 一本のきらめくような彼女の髪の毛が、シーツに流線を描いていた。














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