第四話
佳乃が教室を去ったのは授業中。
まじめに授業を聞いていた佳乃が、思い立ったように立ち上がった。
――体調が悪いので、保健室で休んできます。
普段の佳乃からは想像もつかない強い口調で、数学の教師に突きつけた。それにはさすがの数学教師も、口をあんぐりとあけてうなずくしかなかった。
普段の佳乃は明るくて、面倒見が良くて、誰もが理想とする完璧な幼馴染だ。そんな彼女を知っているから、余計に驚いたのだろう。数学教師が教鞭を落とすのも、当然というものだ。
「……って、佳乃のやつ、どこに行ったんだか」
昼食を催促する胃袋を押さえ込みながらひとりごちる。
「保健室にもいない、一階にも二階にも、学食にもいない。となると……」
俺は、最後の望みとばかりに屋上の扉を開けた。
「……いた」
佳乃は青空の袂で、風にその身を預けていた。
肩まで伸びた美しい黒髪がそよ風と戯れ、少し風が強く吹けば顔にかからないように髪を押さえる。その一連の動作さえ美しい。どこか気だるげに転落防止の金網に指を通し、外界を眺めている。校舎にぶつかり、足下から吹き上げる好奇心旺盛な風が、佳乃のスカートをなびかせるから、俺はついつい、彼女の太ももの先に目が行ってしまう。
白地に黒の水玉。あの輝き方は、おそらくポリエステル素材。値段の手ごろなところを選んでいるのも佳乃らしかった。見るのは初めてだったが、佳乃らしさが出ていて可愛らしい。
……いや、そんな描写はいいとして。
「佳乃、俺、午後の戦に備えないといけないんだけど」
「ああ、弁当? おいしかったわよ。でも私には少し量が多かったわね」
「……え?」
佳乃の視線が奥にあるベンチに目けられたので、俺も無意識のうちにその視線を追う。
そのとき。
俺は、生まれて初めて、人の心が潰れる音を聴いたんだ……。
「かっこいい独白は似合わないわよ。それにしても、仁の胃袋はかわいい声で鳴くわね」
金網から手を離して、俺の胃袋を馬鹿にする。
「佳乃、お前、食べたな? 俺の弁当、食べたな?」
「食べたわよ。私が作った弁当だもの、食べて当然だと思うけど」
「いいか、あの弁当は、佳乃が俺のために作ってくれたものなんだぞ。それをお前が食べていいなんて理由はないんだぞ」
怒りに肩を震わせる俺に対し、呆れたように肩をすくめ、鼻を鳴らす。
「私も佳乃なんだけど」
「いや、それは分かってるけど、なんと言うか、佳乃であって佳乃じゃないというか。佳乃Aに対して、佳乃Bというか」
「やめてよ、モンスターじゃあるまいし」
「表佳乃に対して、裏佳乃というか」
「確か蓮華だったわよね、それ」
「真・佳乃に対して、ネオ佳乃というか」
「それはOVAね」
「……」
「な、なによ」
「俺、正直佳乃がそこまで知っているとは思わなかった」
肩を落として、屋上のコンクリートにくずおれる。
「ま、佳乃と記憶を共有してるし、ある程度は分かるわよ」
ふと、俺とのコントに付き合ってくれていた佳乃の表情が曇る。
「……仁と会ったのって、いつくらいかしらね」
「生まれたときから、隣に住んでただろ」
佳乃のついた大きなため息が、屋上から校庭に落ちていった。
「あ、いや……佳乃が事故で心臓を移植しなくちゃならなくなったのが七歳のころだから、大体……」
腕を組んで、思い出の引き出しを開ける。
「かれこれ、十年くらいになるのかな」
あれ以来、佳乃はいつでも自分の財布の中にドナーカードを忍ばせている。誰かに生かされた分、誰かを救えたら。そんな意思表示なのかもしれなかった。
「長いと思わない? 十年って」
ニヒルな笑みが佳乃の唇をゆがませた。握り締めた金網が軋みをあげる。
「知ってた?」
俺はうなずくことをしなかった。うなずいても、うなずかなくても佳乃はその先を言うことが分かっていたから。それは、今まで付き合ってきた年月を物語っていたし、それがたとえ幼馴染の佳乃であっても、ツンデレな佳乃であっても、同じことだった。
「最近ね、あの子と入れ替わる周期の間隔が狭まってきているってこと」
「いつものことじゃないか。好き勝手に佳乃と入れ替わって、自由にしてるじゃないか」
「そうね、確かにそうかもしれないわね」
「藪から棒になんだっていうんだよ」
「あらかじめ言っておくけど」
金網を握り締めたまま、顔を前髪で隠す。前髪の中に消えた瞳はどこか不安げなように見えた。
それを払拭するように、顔を上げて俺を真正面から見据える。
「――私、仁のこと好きだから。佳乃には負けないから」
都合よく吹いてきた突風は、やはり都合よく佳乃の言葉をかすめとっていった。
「……へ? 今何て?」
そして、俺はさも当然のごとく、彼女の言葉を聞き逃すのであった。まるで俺の人生を、運命をもてあそぶ神様でも存在しているかのように。
ただひとつ、俺の視界をさえぎるものはなかったから、佳乃の姿だけは知ることができた。印象的なその姿。
胸に手を当て、真剣なまなざしで、頬をこわばらせて、少し赤みが差した顔で、苦しそうに彼女は俺に告げていた。
「……別に、ただの宣戦布告」
その姿を持って投げかけた宣戦布告を、俺は聞くことができなかったのだ。
「佳乃?」
くるりと背中を向けた佳乃に問いかけるが、佳乃は何も言ってはくれない。そのまま佳乃はベンチへと歩いていき、弁当を持ってこちらへやってくる。
「受け取りなさい」
空の弁当箱を俺に突きつける。
「自分で食べたんだから、自分で片付けろよ」
「いいから、受け取って!」
俺の胸に押し込めた弁当箱には確かな重量感。首をひねりながら弁当箱を紐解くと、中身はきれいに二分されていた。
ご飯も半分、おかずも半分。
すべてが均等に分けられている。その中で、俺が好きな玉子焼きだけがきれいに半分にならずに顕在していた。
「佳乃……これって」
「お腹が一杯だったのよ。言ったでしょ、体調が悪いって」
目をそらしながら前髪をいじる。
「悔しいけど、美味しかったわ。さすが佳乃ね」
「いや、佳乃はお前だろ」
「そうだけど、そうじゃないのよ、例えるなら佳乃Aと、佳乃Bってところね」
「もうやったろ! それに、俺の面白いボケを盗むな」
「じゃあ、エゥ佳乃とティタ佳乃?」
「あ〜……白と黒ね」
「百式と暁?」
「同じ金でも、それは断固として否定する!」
守りたい世界がそこにはあるんだ。
「佳乃、あれはしてはいけないことなんだ。とても悲しいことなんだよ……絵がきれいなのは分かるよ。さらに、美少年と美少女の巣窟だってことも分かる。それは仕方がないと思う、近年はそういったものが売れる時代だからね……」
思い出せば出すほど押し寄せる悲しみ。負債(誤字ではありません皮肉です)の傍若無人ぶり。
「……そんな話どうでもいいんだけど」
興がそがれたのか、眉をひくつかせている。
「でも、それでも、過去の作品を盗作することは良くないと思うんだ。百歩譲って盗作するのなら、せめて視聴者に分からないように巧みに盗作してほしかったんだ。それが製作者ってものなのに」
悲しみの次には、怒りと憎しみがこみ上げる。
このやり場のない怒りをどこへやればいいのか。負債はもののけだ。暴走する桃色の姫を救うことはできないんだ。
「いいから、弁当食べたら? いい加減付き合うのも疲れたんだけど」
「――黙れ小僧!」
「黙るのはアンタよ!」
佳乃の容赦のない回し蹴りが繰り出される。スカートが翻ったかと思うと、俺の前髪がはらはらと落下していった。それは、まるでふりかけのように、弁当の中に落ちていった。
「アンタのオタっぷりには、いい加減にうんざりなのよ」
「……ご、ごめんなさい」
「分かったなら、ベンチに座りなさい」
尻餅をつく格好で回し蹴りをよけた俺に命令する。佳乃はすでにベンチに座っていた。自分の横の空席を、不満げに手のひらで叩いている。
「ほら、早く」
不意に足を組む佳乃。本人は無意識のうちにやってしまったようだ。しまったという顔を見せた刹那、ついついスカートの中身に目がいってしまった俺と目が合う。予想通り、青筋を立てながら冷ややかに微笑んだ。
「まさに、氷の微笑」
「死にたいの?」
「アイスピックで殺されるのはごめんです」
俺は小さくなりながら、佳乃の隣に座った。
以前から分かっていたことだが、俺はツンデレ佳乃にはめっぽう弱い。
「ほら、口開けなさい」
だから、こうして彼女のいうことに渋々したがって、口を開くしかな――
「……あれ?」
「……なによ」
佳乃が一膳しかない箸で玉子焼きをつかみ、俺の口の中へ持ってこようとしている。
「あれ?」
俺は気づいてしまった。
「……気づかなければ」
箸と玉子焼きの位置はそのままで、俺から顔を不自然にそらし続ける。頬は朱色に染まり、小さな唇は何事かをつぶやいていた。
「…………良かったのに」
なんだろう。胸が異様にどきどきする。動悸、息切れ、めまい。まるで漢方薬の宣伝文句のような。
「……か、佳乃? その」
気まずい沈黙のはずなのに、どんどんと体が火照っていく。佳乃の真っ赤な横顔を見ていると、「ああ、俺もこんな顔をしているんだろうな」と思ってしまう。
普段からつっけんどんなもう一人の佳乃。振り絞った勇気の大きさ。それを思うと、その恩に報いたいという気持ちがあふれてくる。
「あーん」
だから俺は馬鹿みたいに一人で大きな声を出しながら、箸を持った彼女の手をとる。体温が上がった彼女の手を助けながら、俺は口内に玉子焼きを納めた。
「おいひいよ」
咀嚼しながら青空を眺める。玉子焼きはあえて半熟気味に調理され、ほんのりと甘味が広がっていく。口の中だけではない、体中にもその甘味は広がっていった。
「……やなやつ」
一言つぶやいたかと思うと。
「やなやつ! やなやつ! やなやつ!」
箸をその場に投げ捨てて、大またで屋上の出口へと進んでいく。
「雫!」
「ツンデレ違いよ!」
「い、いや、そんな宣伝じゃなくて」
いったん振り返ったものの、佳乃は赤鬼そのもの。
「あの、ほら、猫と一緒にラピスラズリの鉱脈を探しに行く女の子が……」
尻すぼみになっていく俺のネタ解説もそこそこに、佳乃はコンクリートロードを突き進む。
待てとも、行くなとも言えず、俺は立ち尽くしたまま。
アニメや漫画、映画の台詞や知識はいくらでも出てくるのに、肝心の自分自身の言葉が出てこない。
そんな自分が、何よりも歯がゆい。
屋上のドアが開け放たれる。
運がいいのか悪いのか、それは佳乃が開けたのではなかった。息を切らしたクラスメイトが、俺と佳乃の顔を見比べながら後ろ手に扉を閉める。
「と、取り込み中?」
佳乃は出て行こうとする扉を閉められて、ばつが悪そうだ。
「シン、頼むから、哀れな僕をかくまってくれ!」
「マイ、ネーム、イズ、仁」
前回に引き続くボケなので、今度は英語で突っ込んでみる。あえて名前はカタカナで表記しない。
「前回ってなんだ?」
その流れもさすがにもう飽きた。というか、なぜ心の中を読まれてるんだ。
俺は頭を振って謎を振り払う。
「……今の今まで逃げてたのか?」
とにもかくにも、息を切らして飛び込んできたのは、三時限の体育で、ゴールキーパーからフォワードまでたった一人でこなした超人、鹿岡兄だった。
「も、もう限界……」
閉めた扉に背中をもたれながら、へたり込む。荒い呼吸を繰り返して、体力の回復に励んでいる。
しかし、息つく暇もなく、どこからか世にも恐ろしい声が聞こえてきた。
「お兄ちゃんは、いねがー!」
訂正、世にも可愛らしい声だった。
「いや、いなきゃいけないのは悪い子だから」
そんな義妹に対して律儀に突っ込む鹿岡兄。
「ここかー!」
「うわっ、気づかれた!」
突っ込んだら負けだ。
「扉はもともとひとつしかないわよ」
突っ込んでる! でも突っ込みどころが微妙に違う!
隣の校舎を見れば、男子生徒の群れが鹿岡兄追跡に殺気立っているのが見えた。さらに階下からはレスリング部の田中の不気味な咆哮が聞こえる。
「どこだ鹿岡! 見つけたら俺がたっぷりとかわいがってやるからな! かわいがるといっても、頭をよしよしと撫でたり、たかいたかいとかをするんじゃないぞ。痛めつけるということだ!」
「――三つの敵か!」
鹿岡兄が叫んだ。……でも、それだけだった。
「お・に・い・ちゃーん!」
扉を突き破らん勢いで鹿岡義妹が飛び出してくる。一方で、大事そうに抱えている弁当箱。
「もう逃げられないよ! というか、恥ずかしがらなくていいよ♪」
体をくねくねとさせて、ほんのりと頬を染める。
「二人はもうベッドの中でささやき合うような関係なんだから……」
俺と佳乃が一斉に鹿岡兄に敵意を抱く。
「ち、ちが、違う! 真奈美! でたらめ言うんじゃない!」
「真奈美、嘘言ってないもん!」
「確かに嘘ではないけど、その言い方はいかんともしがたい誤解を招くだろ!」
嘘ではないことに驚愕だ。
「招くような誤解もないってことね。ほんと、馬鹿ばっか」
ぶっきらぼうな物言いに鹿岡兄は頭をたれる。どうやら、罪人は断罪を覚悟したようだ。
しかし、鹿岡義妹は罪人の元へは向かわず、口元を震わせている。
視線の先には、豊満な胸の前で腕を組む佳乃。
「お、お姉さまぁ!」
進行方向にいた俺――思わず二人の胸を比べてしまった――を跳ね飛ばし、佳乃に抱きつく。
「あれ? 真奈美ちゃん……鹿岡君に、仁君……」
どうやら抱きつかれることを予想して切り替わったようだ。
「相変わらず、美しいです、お姉さまぁ」
胸に顔をうずめながら、俺に挑発的なまなざしを向ける。
これは、敵意なのか。
「もう……真奈美ちゃんは甘えん坊さんなんだから」
猫をかわいがるように鹿岡義妹の頭をなでる。
俺はそんな百合な光景を見ながら、鹿岡兄と同時に大きなため息をつく。なぜか中年親父然としたふたり。
おや、あなたもですか。実は私もなんですよ。
そんな会話が成り立ちそうだった。
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