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多重人格な彼女
作:NAO



後日談・第三十話・涙


「佳乃が好きなんだ! 佳乃がいないと駄目なんだ!」


 佳乃にすがりつく。白いワンピースの裾を握りしめ、情けなくも佳乃を見上げる。

「死ぬってことはね、それきりってわけじゃないんだよ」

 命乞いをするように醜くすがる俺に、佳乃はゆっくりと膝を曲げる。ワンピースの裾を握る俺の手に自らの手を重ね、より一層微笑んで見せた。

「仁君の中に降る雨も、やがてあがる日が来る。そして、太陽の輝く世界をもう一度見られる日がきっと来る」

 佳乃が俺に伝えようとしていること。それはとても明快で、分かりやすいものだったように思う。
 難しい言葉を用いたとしても、それをかみ砕いて何度も伝えようとする。
 まるで、歯の生えそろわない乳幼児が食べやすいよう、柔らかくしてあげるような。
 かみ砕いた佳乃自身の言葉で俺に伝えようとする。

「いつか、今ではないいつか……仁君が私との思い出を懐かしむようになる頃、時々だけ私のことを思い出すようになる頃……」

 空想の未来図を描く。

「誰かが仁君を好きになって、仁君もその子を好きになって。告白して、二人で手を繋いで。帰り道、別れ際に……キス……とかしちゃったりして。……やだな、なんか考えただけで嫉妬しちゃうよ。でも、いつかそういう日がきっと来るはずだよ」

 佳乃の目も光を帯びていた。

 透明な膜が覆っていて、水面に垂らした一滴のように揺れている。

「違う! 俺は佳乃だけだ! 佳乃だけがいてくれれば、他には何もいらないんだ! お前以外に誰も好きになったりしない! 好きになるはずないじゃないか!」

 キスをするほど顔を近づけて、俺は叫ぶ。
 届いて欲しかった。佳乃の心を変えたかった。

 でも、佳乃はそんな俺に涙を浮かべながら告げる。

「私は……夕凪佳乃は、佐々木仁に愛してもらえて幸せでした」

 一筋の彗星が、佳乃の涙が頬を滑っていった。
 涙は両目に溜まり、落ちたのは左目が先。タイミングがずれた涙は、時間差で頬を伝っていく。
 ぽとり、そんな聞こえるはずもない小さな音が、胸の中に響いた。

「えへへ……過去形にしちゃった」

 夕立の上がった公園の木。
 葉先から一滴の雫が落ちる。
 重力に引かれて落ちた先は空……空を写し込んだ水溜まり。水溜まりには年輪のように波紋が広がり、にわか雨を呼んだ雲が、水溜まりのテレビからフレームアウトしていく。
 雲が遮っていた太陽が世界に光を届け始めると、蝉の鳴き声が我先にとこだまする。
 子供達が家の窓から手を出して、空の様子を確認する。雨が降っていないことが分かると、グローブにバットを突き刺して、玄関を飛び出していく。
 公園には子供達の喧噪が戻り、高々と打ち上げられた白球が太陽と重なる。
 飛距離が出たボールは川に落ちてぷかぷかと浮かんでしまい、悠々とセカンドベースを回るスラッガーを眺めながら、高架線の下を流れていく。

 ボールはどこまで行くのだろう。

 そんなこと誰にも分からない。
 ボールのことはすぐに忘れるだろう。
 でも、ボールは確かに存在し、たとえ忘れられても流れていくのだ。

 過去にされても、ボールは確かにそこにあったのだ。

「嫌だ! 俺はお前が好きなんだ! 今までも、これからも、ずっと好きなんだ! 過去形になんてしないでくれ!」

「仁君……」

 俺の手を包んでいた手を離して立ち上がる。

「仁君とは……また会えるよ。いつでも会える。必ずまた会えるの」

 駄目だ。駄目だ。駄目なんだ。
 もう、こぼれてしまいそうだ。
 我慢してきたのに。こらえてきたのに。大丈夫だと思っていたのに。

「今すぐには会えないかも知れないけど、仁君が大人になって、恋愛をして、結婚して、子供が生まれて、パパになって、おじさんになって……やがて、おじいちゃんになって。そして、長い長い年月を生きて、ある日……深い、本当に深い眠りについたら、きっとまた私と会えるよ」


 ――理解できても、納得できないものがある。


 佳乃は思い出せば町中に溢れていた。
 思い出という再生機構を使えば、いつどこにでも佳乃は現れた。
 自動販売機に小銭を入れる佳乃、ボタンを全部同時に押してみるお茶目な佳乃、レンタルショップで最新の映画が全てレンタルされていてしょんぼりする佳乃、代わりに借りたホラー映画で肩をぶるぶる震わせる佳乃。

 佳乃はどこにでもいる。俺の瞳の中になら、必ず現れる。

「死ぬことは、別れることじゃないんだよ。少しの間、離ればなれになるだけなんだよ。仁君とはいつでも会える。だからね、また会える日まで、仁君には私の分もたくさんのことを見てきて欲しいの。外国はどんなところだとか、会社ではこんなことをしたとか、子供の名前とか……仁君のしてきたこと、見てきたこと、感じてきたこと……たくさんたくさん教えて欲しいの」

 体中からかき集められたものが、俺の顔面に集中する。
 鼻の奥がつんとして、胸が締め付けられて。嗚咽で今にも横隔膜が痙攣しそうだ。

「それまで私は仁君を待ってる」

 佳乃がこの世を去った。自動車事故で命を失った。
 移植されたとはいえ、佳乃は佳乃でなくなった。
 夕凪佳乃という人物は世界から姿を消したんだ。

「ずっとずっと仁君を待ってる」

「なんで……そんなこと……」

 俺は葬式の時、佳乃の写真とにらめっこをしていた。
 見つめ続ければ、きっと笑ってくれるんじゃないかって。
 負けを認めて出てきてくれるんじゃないかって。
 佳乃の葬儀が今まさに執り行われているっていうのに、俺は佳乃がどこかできっと生きていると、かたくなに信じ続けていた。
 明らかに矛盾している。でも、俺の中でその方程式は成立していた。

 そんな風にして佳乃の面影を町中に重ね、俺は自分の殻に閉じこもった。

 自分の時を止めたんだ。

 佳乃と一緒にいたくて、俺は成長することを止めたんだ。

 立ち止まり、佳乃と手を繋いだまま、時間軸というレールを走る電車から降りた。
 未来への片道切符を握りしめたまま、駅にとどまり続けたんだ。
 駅名の書いてある行先看板には、過去、現在、未来と書いてある。
 さっきまで通り過ぎてきた過去という駅、今いる現在という駅、そして、これから向かう未来という駅。

 けれど、切符を失った佳乃は乗ることができない。

 俺だけが切符を持っている。
 佳乃を置いていくくらいなら、俺もここに残る。

 そう決めたんだ。

「仁君は、もう分かっているんだよ。誰かがこうしたからじゃなくて、自分がどうすべきか。何が正しいかではなくて、自分が正しいと思えるか。……私は仁君と一緒には行けないから。ずっと一緒にいたかったけど、もうできないから……いくら泣いて祈っても、それだけは許されないから」


 佳乃の死を、俺は頭で理解はできても、心で納得することができなかった。


 認めたくなかった。認めてしまうのが怖かったんだ。
 だから絶望に抗い続け、何度も絶望の中で佳乃を助けようとした。


 佳乃の弁を借りれば、俺を苦しめた予定調和は、俺に現実を、前進する意志を教えようとしていたのか。
 佳乃はもういない。助けられないと。俺の体に教え込もうとしていたのか。
 だとしたら、俺のしたことは。

 俺のしてきたことは。

「――無駄じゃないよ。それが仁君のペースだっただけなの。早いか、遅いか。それは人それぞれなんだよ。仁君は、少しだけ回り道をしたの。無駄でもなければ、間違ってもいない。ただ、時間がかかっただけ」

 救われるような言葉。

「遠回りしただけ……時間がかかっただけ……俺は……間違ってはいないのか……?」

「うん!」

 自分のしてきたことを否定されることは、自分自身を否定されることと同じだから。
 心が、佳乃の言葉に救われた。

「俺は……」

 俺の体が透けていた。
 指の先から浸透してくるようにどんどん透明になっていく。
 消えてなくなるのではなくて、俺の体が変化していく感覚。
 俺が透明な液体になっていく。

「ここは……まさか……」

 純水のように透き通った俺の体を見、佳乃を見る。

「そうだよ、ここはね」

 水晶のような球体を見、その周りを覆う仄かに赤い皮膚のようなものを見、その皮膚にある閉じられた切れ目を見、佳乃を見る。

「ここは仁君の体の中。心臓の場所から始まって、心の場所、記憶の場所……そして、ここ。ずっと上へ上へ走り続けてきた……。絶望が私達をつかまえようとしていたから分かるよね。そして、ここは……仁君の目、だよ」

「俺の、目……?」

「仁君が心を解放する場所」

 だとすれば、この水晶のような球体は瞳で、あの切れ目はまぶたなのだろうか。
 クラスメイトの面々は、俺が病室で実際に見ているもの。
 ぼんやりと見えているものなのだろうか。

「仁君が自分自身の意志で、自分という殻の中から飛び出していくの」

「佳乃……!」

 俺が叫べば、体の一部である水分が音をあげて弾ける。

「ウメちゃんもね、今、仁君と同じように頑張っているの。雨にたくさん濡れて、震えて、救急車で運ばれて……熱が下がらないの。体が弱いはずのウメちゃんが、こうして力を貸してくれたから、私は仁君にまた会うことができた。奇跡なんだよね、きっと。想いがシンクロしているんだよ」

 鼻の奥がいよいよもって痛み出す。

 みんなみんな頑張っている。

 ウメも、杏里も、鹿岡兄妹も、ぽけぽけ少女も、桐岡も、みんな必死になって頑張っている。
 自分のためではない、誰かのために。

 馬鹿でお人好しなクラスメイト。

 馬鹿で変わっているけど、最高の友人達。

 みんなみんな頑張っている。

「なんで……俺なんかのために……」

 もう、いいのかもしれない。

 今までこらえてきたものを、溢れさせてもいいのかもしれない。

「仁君は一人じゃない。佳乃がいなくても、仁君は歩いていけるよ」

「でも! 佳乃の……いない世界なんて――」

 最後の一線で、俺は躊躇する。
 未来への片道切符をこれでもかと握りしめて。
 発車のベルが鳴る直前まで、電車に乗り込めないでいる。

 そんな俺の唇を、佳乃が人差し指でふさぐ。

「またいつでも会えるから。仁君とは、またいつでも会えるから。……だからね、少しの間だけ、お別れしよう。さようならじゃないよ。別れ際にさようならは悲しいもん」


 涙の欠片を目尻と頬に残して、佳乃は心地よい笑顔を浮かべた。


「――またね、仁君」


 佳乃が小さく手を振った。


「そ、佳乃の言うとおり。仁とは今すぐでなくても、少ししたらいつでも遊べるし。だから、それまでそっちで頑張りなさいよ、朴念仁。正直、あんまり期待していないけど……あ、あんたのさ……楽しい話、待ってるから。間違っても暗い話なんてしたら、地獄にたたき落としてやるんだからね! ……分かった? 朴・念・仁!」


 涙の欠片を目尻と頬に残して、佳乃は心地よい笑顔を浮かべた。


「――そういうことで、またね、仁」


 佳乃が小さく手を振った。
 電車のドアが閉まる音。
 耳の奥で聞こえた気がした。
 水分と化した俺の体が、皮膚の切れ目に吸い込まれていく。
 夜行列車。車窓から見える佳乃の姿が遠ざかっていく。


「仁君に、おかえりを言うその日まで――」


 どんどんどんどん小さくなっていく。
 見えなくなってしまう。

 佳乃。
 電車が見えなくなるまで、ずっと手を振り続けてくれる自慢の幼馴染み。

 佳乃。
 物心ついた頃から一緒で、苦楽を共にしてきた体の一部のような人。

 佳乃。
 俺に初めて愛と絶望を教えてくれた最愛の人。


「いってらっしゃい」


 言葉にできたかどうかは分からない。

 ――いって……きます。

 つぶやきながら、俺は切れ目に吸い込まれていった。





 ……それからの記憶は、少し判然としない。
 のちに、杏里が言うには。


 ――そのとき俺は、病床でたった一滴の『涙』を流したそうだ。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。
とりあえず、全てを書き直して、もっと整った文章に修正したいという欲求は置いておいて……三日連続投稿は初めてでした。最後の最後でなんとまぁ、です。
読者の皆様には大変お待たせしました。
次回、最終回です。
評価、感想、栄養になります。











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