後日談・第二十六話
俺は感情を止めることができない。
細く柔らかい佳乃の体を否応なしに抱きしめ、透き通るような髪の匂いをかぐ。
佳乃は嫌がる素振りも見せずに、俺の背中に腕を回してくれた。
それがたまらなく嬉しい。
自分が抱きしめた分、同じだけ抱きしめてくれる。
伝えた気持ちが返ってくることの至福。
声のやりとりだけではない、肌と肌のやりとり。
会話のキャッチボールだけではない、触れ合いのキャッチボール。どんな速球を投げても、どんなに鋭い変化球を放っても、しっかりとミットで捕球してくれるキャッチャーという心強い存在。
バウンドしても体で受け止めてくれ、暴投しても体を投げ出してキャッチしてくれる、決して後逸させることのない大きな存在。
野球を知るものなら、そんなキャッチャーに敬意を込めてこう表現するだろう。
――女房役、と。
そんなバッテリーの投球練習のように、今、俺と少女は抱き合っていた。
互いの鼓動が行ったり来たり。
命のボールが紡ぎ出す草原での風景だった。
「仁君、私……行かなきゃ」
抱きしめた腕の中から声がした。
「……行く?」
「うん、ここにては駄目だから」
別れを示唆する言葉。
抱擁を解くと、佳乃は俺から一歩後退する。
「どうして? ここはこんなにも静かで、のどかで……なにより平和だし、何も縛るものがない。気持ちが安らぐし、ずっとここにいたいと思えるんだ」
俺は佳乃の手をつかむ。
別れを惜しむのではなく、決して別れないように。二度と離れないように。
俺はしっかりと佳乃の手を握りしめる。
「それでも、行かなくちゃ」
佳乃が浮かべる微笑みの意味が分からない。
我が子のすることを優しく見守る母親のような眼差し。
失敗しても成功しても、最後には優しく頭を撫でてくれるような母性愛を宿したような瞳。
母親にとって我が子とは存在そのものが愛しいと聞いたことがある。
だとすれば、そんな眼差しを向けてくれる佳乃も俺の存在を愛していてくれるのだろうか。
そんなことを考えれば考えるほど自分という存在が情けなく思える。
それは単なる甘えたがりで、寂しがり屋で、情けない俺の都合の良い解釈に過ぎないからだ。
「もちろん、仁君も一緒だよ。仁君をここに残したままで行けるはずないよ。私は仁君を迎えに来たの。だって仁君、私が起こしてあげなかったらずっと寝てるもん。朝起こしてあげるのは、幼なじみの役目なんだから」
「そ、そっか」
俺も、一緒。
その言葉に俺がどれだけ救われたことか。
往年の映画や、漫画、アニメや、ドラマだったら、一連の佳乃とのやりとりは完全に別れを予期させる布石だった。
せっかく会えたのに、少しの時しか会うことができなくて。主人公が引き留めるのにもかかわらず、ヒロインは消えてしまう。
去り際に残すヒロインの台詞。
主人公はその言葉に深く心を打たれるんだ。物事の心理を突き止めたようにヒロインの言葉を理解し、後ろめたい気持ちの帆を前向きに張り直す。そして、主人公は成長する。
……でも、物語上それでは終わらないことが多い。
ハッピーエンドのための御都合主義なのか、感動を誘う制作者的な手法なのかは知らないが、ヒロインは主人公の元に戻ってきたりする。
いなくなったのに、戻ってくる。
昔はある程度楽しめたそういった結末も、今となっては怒りでしかない。
ふざけるな、と言いたい。
そんな有りもしない希望や救いを簡単に描いてみせるな。期待させることをするな、と。
夢見させることを言うな、と。
眼鏡をかけた某バスケットボール部員のように声を大にして言ってやりたい。
それは見せかけの希望なんだ。
現実にはそんな希望がゴロゴロ転がっているわけではないんだ。
……分かってるさ、それも俺という小さな人間の独りよがりに過ぎないくらい。
「もう……そっか、って。仁君は覚えていないの? 仁君が教えてくれたんだからね。幼馴染み必須五箇条」
人差し指を立てて得意げに胸を張る。白いワンピースを押し上げるふくよかな胸が、今更ながらにまぶしい。
「一、幼なじみは朝起こしに行かなければならない」
毎朝毎朝、早起きして俺の家に迎えに来てくれた。
男の朝の生理現象に顔を赤らめながらも、布団を揺すり、寝覚めには優しすぎる声で起こしてくれた。
嫌々ながらの義務を課せられているというよりは、日常の一部分と化していた意味合いが強かった。
俺がそう思えるのは、佳乃の毎朝の笑顔で起きることができた幸福によるものだ。
「二、幼なじみは家事ができなければいけない」
のどかな風景の中で、佳乃の声が体に染みていく。
大地に埋もれた種を発芽させ、双葉がぴょこんという擬音を伴って地面から飛び出すような、滋養強壮と肉体疲労時の栄養補給をかねる声。
聞くものを元気にさせるヒーリング効果を持った声だ。
単なる幼馴染みゆえのひいき目かも知れない。
「三、幼なじみは家が主人公の隣家でなければいけない」
目をつぶり、声たからかに。
それは佳乃式暗記述であり、競技大会の宣誓式のようだ。
「四、幼なじみは世話焼きでなければいけない」
予定調和ではない。こんな景色を予定調和は見せてはくれなかった。
見たことのある絶望、繰り返される悲劇。
死者に鞭打つようにそれは悲しみばかりを再上映する。
視聴率などゼロに近いのに。視聴者は俺しかいないのに、見せつける。
けれど、この風景は違う。絶望の影などどこにもない。
空は群青、雲は白、大地は緑。黒などどこにも見あたらない。
この世界は、いつか脳裏によぎった爽やかな風景を体現している。
佳乃と二人、まるでアダムとイヴのように。禁断の木の実を食することもなく、平穏に過ごしていける空間だ。
「五、幼なじみは近くに居すぎて恋心に気が付かないでいなければならない。または、口に出せないほのかな恋心を抱いていなければならない」
ここにいたい。佳乃と、二人で。
「以上、幼馴染み必須五箇条でした」
しかし、佳乃は行かなくちゃ、と言う。こんなに綺麗な世界なのに。
「仁君、私ね、幼馴染み必須五箇条のその五だけは守れなかったんだよ」
いつの間にかうつむいていた俺は、難しい顔をしていたようだった。
あわてて佳乃の笑顔を見ると、強ばった体の力が抜けていく。
同様に、眉間に寄ったしわが左右に広がっていくのを感じ、俺は自分が思考に落ちていたのだと知る。
「ほのかな恋心なんてなかったもん」
頬を淡い桃色に染める。
「ほのかな恋心なんて、とっくに通り過ぎちゃっていたよ。あとは溢れるのを押さえるのに必死だったの」
佳乃が自らの胸の中心を手のひらで押さえた。まるで、そこに心があるかのように。
「今さら、なんだけどね」
小さな握り拳で、自らの頭を小突いてみせる。
ちろりと出した赤い舌は、自らの滑稽さを歌う。
その佳乃の足下をアゲハチョウがくるくると飛んでいた。佳乃を慰めるように見えたのは、蝶と佳乃があまりにも似合いすぎるからだろうか。
「佳乃……」
手を繋いだままの俺と佳乃。
繋いでいるというよりは、俺が佳乃を一方的につかんでいる。
手を捕まれている佳乃が、ころころと表情を変える様子。ひどく懐かしく、心地よい。
昔、こんな風景があった。
そんな一言で思い出される過去の情景は、いくらでもある。記憶の倉庫に入りきれないほど。
あまりにも敷き詰めておいてあるから、取り出せなくて困るくらい。
本当に大事に、大事にとってある。
なかなか取り出せなくても、きちんとしまってある。
「……行こう、仁君」
俺が右手でつかんだ佳乃の左手。
佳乃が右手でつかんだ俺の左手。
二人で一つの輪を作るように。
腕と腕を通して気持ちが旋回する。
温かい気持ちが巡る。温もりが巡る。
二人で作った円の中にアゲハチョウが舞い込んで、ひっそりと円の中心で咲く一輪の花にとまる。
羽を休め、蜜を吸う。
黒と黄色の美しい装飾が目にまぶしい。
二人で育ててきた心が、そこにあるような気がした。
「連れて行ってあげる」
手と手を取り合って、長い年月をかけて、大切に育ててきた気持ち。
それは本当に小さい花。
地球から見れば、本当にごくごく微細な芥子粒のようなもの。塵のようなもの。
けれど、例え小さくても、育てるという行為に大きいも小さいもない。
そして、育て、花開く瞬間に訪れる歓喜には際限がない。
どんなに小さい開花でも、喜びは無限大なのだ。
――俺と佳乃は恋に落ちた。
たったそれだけ。それだけのこと。むしろ、それだけでいい。
それ以外には何も必要がないんだ。
ただ、一つだけ、一つだけ欲を言えば。
……その恋に、もう少しだけ時間が欲しかった。
「ううん、一緒に行こう」
アゲハチョウが佳乃から離れて、ふらふらと飛んでいく。
元気に飛び回るというよりは、どこか急いで逃げるという気配。
空がにわかに曇りだし、地平線の彼方が薄くかげり出す。
風が強くなり、草花が激しく揺れ動く。
「こっち」
俺の手を引いて走り出した佳乃は、背後を振り返らない。
俺は何が起こったのから把握できずに、佳乃に手を引かれながら幾度となく背後を振り返った。
「黒い、波……? いや、違う」
背後に広がるのどかな景色、極楽浄土に見えた平和な世界が、一転して犯されていた。
黒い触手。あるいは、黒い溶解液。
天井に広がっていた青空や、大きな綿雲が、漆黒の絵の具を垂らされたようにまだら模様に汚れていく。
驚きは、浦賀に黒船が来港したときの比ではない。比べるべくもない。
エドヴァルド・ムンクの名画『叫び』にも似た背景の混濁が現れる。
ムンクが見た幻想、自然を貫く果てしない叫びが、今まさにこの世界で現出しているように感じられた。
しかし、それも色が存在してこそ。
どんな名画も無情な黒の一滴が落ちれば、ただの駄作に変わる。
それと同じく、蒼穹に膨大な黒が染みていく。ムンクが描いたような芸術性の欠片もない。
真っ黒なのだ。
なぶり、食らい、襲い来る。
黒の先は奈落なのか、壁なのか。
黒の先は消失なのか、影なのか、暗闇なのか。
黒の先は落ちるのか、死ぬのか、塗りつぶされるのか。
それすらも分からない黒の波。草花を枯れさせ、すぐさま黒で塗りつぶす。
花は落ち、茎は折れ、芽は大地に横たわる。
草原を駆ける馬を引きずり倒し、肉食獣のように黒い触手でとらえ、捕食し尽くす。
血も涙もない。
モンシロチョウの羽はコールタールのような黒が染み込んでゆき、すぐに墜落した。
そのときすでに地面には黒があり、蝶は静かに呑み込まれていく。
押し寄せる黒々とした津波に、世界は犯されていった。
「仁、早く立ちなさいよ!」
足がもつれて転んでしまった俺を、佳乃が強い口調で叱咤した。
いつの間に入れ替わったのだろう、気の強い佳乃が主導権を握っていた。
判断を下したのがどちらの佳乃であるにせよ、この状況下ではそれが正解なのかも知れなかった。
俺は佳乃と手を繋いだまま起き上がる。
すでに世界の半分が黒で覆われていた。
絵の具を垂らすなどという生やさしい表現は、もはや背後の景色には合致しない。黒い核爆弾が破裂したかのよう。すさまじいスピードで地平線の彼方からやってくる黒の爆風。
――駄目だ、追いつかれる。
「佳乃!」
俺は佳乃の手を必死に握りしめた。
「仁!」
背後を見るのが怖かった。
世界が黒に浸食されていく様を見るのは、胸が張り裂けそうだった。
再び巡り会うことができたのに。一緒に行こうと笑いかけてくれたのに。
幾億という魔手が、手を取って逃げる二人背後に伸びる。
音はない。だからこそ、余計に恐ろしい。
忍び寄るとは言い難いスピードなのに、無音。
――ドロドロとして、重くて、冷たい。
デジャビュを感じた俺は、すでに黒に呑み込まれていた。
佳乃と繋いだ手だけが、ほのかに温かい。
それだけが唯一の救いだった。
……違う、これはデジャビュじゃない。
無いと思っていたはずのものが、再び猛威を振るっているに過ぎない。
平和だと思っていた世界が、侵攻を受けている。逃げられない。
何度も何度も、俺はこの黒い液体に心身を犯され続けた。
呆れるほど苦しんで、呆れるほど身もだえて。
それでもなお、俺を苦しめ続けるもの。
暗闇。漆黒。暗黒。夜陰。暗澹。
いくつもの嫌悪を総称して。
俺はこう呼んでいる。
……絶望、と。
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