後日談・第二十五話
太陽光を吸い込む水面にも似たきらめきが、うっすらとまぶたの向こうに見えた。
夢と現実の境界があるとすれば、まさにこんな感じだろうと自分勝手に考えてみた。
確証はない。
そもそも見たことも聞いたこともない場所に確証など存在するはずがないのだから。
それでも、感じることのできる情報を整理すれば、体は軽く、何の抵抗も感じないということが分かる。ゆっくりと落ちていくような、それでなければ、浮かんでいるような。どちらともとれない不思議な感触だった。
母親の胎内、生まれる前から与えられてきた優しさ。
愛に満たされた羊水の中。
俺は誰かに揺り動かされていた。
「……仁君、起きて」
聞いたことのある目覚まし時計の音。
きっと世界中の目覚ましを探しても、こんなに優しい声で起こしてくれる目覚ましは見つからないだろう。そんなことをまどろみの中で思っていた。
「仁君ってば」
俺は起きようとすればいつでも起きられるのに、あえて眠ったふりをしている。決してたたき起こすわけではなく優しく体を揺り動かしてくれるのは、俺を思ってのことだろう。起こすというよりは、母の腕の中で聞く子守唄のようだ。
「あと五分……」
寝返りを打つ。声から逃げるようにして布団を手元にたぐり寄せる。
「もう、仁君。毎朝起こしに来る私の身にもなって――」
飛び起きていた。
柔らかな幼馴染みの手を握りしめようと、瞳孔が閉じぬまま手をのばす。
眠ったふりをしている自分も、あと五分寝かせておいて欲しいと懇願する睡魔も、乱暴にはじき飛ばした。
「……ここは?」
声のする方向、俺を揺すっていたはずの幼馴染みの手はそこにはない。
空気――幻想――をつかんだかとがっかりしたのもつかの間、俺の握りしめた拳の先には突き抜けるような青空と、純白の綿雲があった。
太陽を隠した綿雲は、平原を自分の形に切り取り、黒く大きな影を落す。
影は風に手を引かれて、徐々に場所を移していった。
風に揺られて動く雲、横たわる俺。
当然、影に覆われていた俺は、太陽の下にさらされることになる。
あまりのまぶしさに、睡魔は一目散に逃げていく。
手元にたぐり寄せた布団を小脇に払いのけ、俺は立ち上がった。
「ここはどこだ……」
右を見る。地平線が遠く果てない先にうっすらと見えた。
左を見る。地平線が遠く果てない先にうっすらと見えた。
見渡す限りの大平原。そよ風が草花を揺らせば、背の低い葉が膝をくすぐる。
うねることのない平坦な大地。
目を細めて遠方を眺めても、山も丘陵もない。地平線だけが俺を取り囲んでいる。
まるで巨大な輪が俺を閉じこめようとしているかのようだった。
足下。名も知らない白い花の周りには、二匹のモンシロチョウが戯れていた。つがいなのだろうか。楽しそうに花々のウインドウショッピングを楽しんでいる。
音もなく、ふわり、ふわり。
見上げれば、頭上を旋回するトンビの高らかな声。
気持ちの良い声が、草原に響き渡っていく。
次いで頬を撫でるのは、ゆるやかな風。
それは俺の心を癒す、心地のよい手のひら。
肺を解放して空気を呼び込めば、手のひらが連れてきた清浄な空気の匂いだけでなく、足下に咲く小さな花々や、遠くに見える湖畔のみずみずしい香りなども味わうことができた。
緩やかな風が運んできたのは、なにも草花の匂いだけではない。
背後を駆けていく馬群。大地を蹴るひづめの音。地震かと勘違いするほどに力強く下腹部に響いてくる。距離が近いので、たなびく黒いたてがみがよく分かる。
――なんだろう。すごく心地が良い。
太陽の光が雲間から伸び、草原を切り取り始める。あまりの荘厳な景色が胸を突く。
例えるなら……そうだ。
窓という名のOSを初めてインストールして、初期起動時にあらかじめ設定されているデスクトップの壁紙。それに似ている。
緑色の大地に、青い空。
二色にはっきりと大別された、心和む目に優しい自然の情景。
そこに絶えず横たわる静寂。
俺は目を閉じる。
太陽がこんなに煌々と輝いているのに、なんて静けさなのだろう。
こんな太陽の下で見慣れている俺の景色といえば、渋滞する車のクラクションや、参勤交代のような人々の通勤、通学風景。電車に敷き詰められた人々のあまりにも気だるそうな顔や、高層ビルの谷間を揺らす陽炎ぐらいだ。
忙しそうに汗を流し、靴底をすり減らす都会の喧噪。
常に機械の稼働音を耳にしない日はない。
当たり前に何かが高速駆動し、当たり前に何かが高らかに鳴り、当たり前に時間を縛られる。
そんな日々の雑音に囲まれる日々。
どうして多忙な社会人が余暇に静かなところに行こうとするのか、少しだけ分かった気がした。
それは何も聞きたくないから。
自分を縛る忙しそうな音を聞きたくないから、静かなところに行こうとするのではないだろうか。
それに比べ、この見渡す限りの大平原。
モンゴルで見ることのできる広大な地平線もかすむような、この大平原。
――ここは本当に落ち着く。
不思議なぐらい心が安らぐのが分かる。
できるならば、ずっとここにいたい。心底、そう思う。
天国なんていう場所があるのならば、きっとここに違いない。
人類が至る安住の地。ずっとずっと平和に過ごせる安寧の大地だ。
……目を開ける。
風が見えた。
本来見えるはずのない風を見ることができる。
一様に整列している草原の草木が風に揺れるとき、草原の形が風の曲線に歪む。初めて見る風景だった。俺は上京した学生よろしく、物珍しそうに風の行く先を見つめ続ける。
ふと、その先に純白が揺れるのを見た。
真っ白なワンピースに、大きな麦わら帽子。
背中まで切り取られているワンピースからは、美しい肩甲骨がのぞく。
まるで誰かを待っているかのように草原の真ん中に立ち、上空を見上げている。
ワンピースから露出した白い肌は、太陽に焦げてしまわないかとついつい心配になってしまう。
「あの背中……」
すらりと伸びた背中で、俺はその少女が誰であるか分かった。
引き寄せられるように、草原を歩いていく。
そよ風を身にまといながら歩き続ける。
少女は逃げることも、隠れることもしないで待ってくれた。
足音に気が付いたのか、少女は俺が声を掛ける前に振り向いてくれた。
ワンピースのスカートが従うようにふわりと揺れる。
輝く純白。まるでウエディングドレス。
麦わら帽子のつばをちょこんとあげて、つばの影に隠れた顔貌を俺に見せてくれる。
微笑み、それは白百合が花開くよう。
「――また会えたね、仁君」
正直、なんて声をかけて良いのか迷っていたから。
「俺……会いたかった、ずっと……」
その少女――佳乃の声が本当に嬉しかった。
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