後日談・第十七話
――追憶の雨音。景色が灰色に染まっていく。
滑り台の着地によく使われるからか、恐竜の口元の地面はくぼんでいる。そこにたまっていく雨水。
できあがった水たまりに映る鈍色の空を見下ろしながら、俺は記憶の空に落ちていく。
波紋の広がる空は、さながら俺の思考を映す鏡だった。
――追憶の雨音。景色が灰色に染まっていく。
杏里は定位置である俺の袖口をつかみ、夏目を見下ろしている。
「全てをつぎ込んで、彼女の医療費に充てたよ……。その頃からだ、私がウメにのめり込んでいったのは……」
夏目を殴るはずの拳から、力が抜けていく。代わりに充填されていくのは、何とも言えない虚しさと憐憫の情。
……憐憫? それはあわれんでいるってことか? 同情しているってことなのか?
俺が? ウメを、なにより佳乃を汚したこの男に?
――馬鹿な。
自らが下した自己分析の診断結果。
間違いだとしても、そんな結果を出した自分自身が信じられなかった。
「ウメは……元々両親を幼い頃に亡くしていた。彼女が物心つく前のことだそうだ。ウメ自身、両親の記憶がほとんどない。あるのは、引き取られていった祖母の家での思い出くらいだ」
夏目の毛髪が水分によってまとまり、先から雫が落下する。
「それもウメにとってはさほど良い思い出とは言えなかった。ウメの体が悪いことに加えて、その祖母というのも体調が芳しくない。寝たきりを余儀なくされ、家に来るヘルパーのおかげでどうにか生活できるといった具合だ」
落下した水分は、ほこりの付着した絨毯に吸い込まれていく。
「……ウメが自分のことに割ける時間は少なかった。彼女が何かを学びながら生きるには、あまりにも時間が足らなすぎたんだ。結果的に、自分のケアさえ満足に出来なかったウメは、当然のように病状を悪化させることになってしまった。……そして、私はそこで彼女に出会った」
一つ一つ思い出しながら話している夏目の目は虚空だけをとらえ続ける。
夏目の瞳には過去の情景が広がっているのだろうか。
俺の知らないウメがそこに描かれ、思い出が上映されているのだろうか。
「冬美を亡くした直後の私にとっては、ウメがまるで天使のように見えたよ。冬美が戻ってきてくれた……そんなことさえ本気で考えたりした。私はウメの親戚でも、いとこでも、ましてや友達や知り合いでもない。ただの他人に過ぎなかったけれど、私にはウメがとても愛しいものに映った。愛すべき、愛情を注ぐべき我が子のように思えた」
割れてしまった写真立てを持ち上げると、割れたガラスの破片をひとつひとつ丁寧に抜き取っていく。
「笑ってくれていい……。事実、周囲の人間は私を奇異の目で見ていたよ。変質者を見る目だ。最近話題になっているような幼児性愛者だとか、ロリコンとか、ペドフェリアなどとも言われた」
眉間にしわを寄せ、過去にぶつけられた言葉を噛みしめているようだった。
割れたガラス片で切ってしまったのか、夏目の指からは血が流れ、筆で描くような赤い線がガラスの表面に付着する。
「否定はいくらでも出来る。私はウメをそういうつもりで見ていたわけではない。けれど、人は慈善事業を信じない。何の見返りもなく、私のような中年の男が、ウメのような美しい少女を助けるとは思わない。誰も信じてはくれなかった。私もそういった心理が理解できているから、つばを飛ばして抗議したりもしなかった」
こぼれて湯気の立ち上っていたお茶はいつの間にか冷え切ってしまっており、そのほとんどが絨毯に染み込んでしまっていた。
水分の残りは夏目の頬肉を伝い衣服に染み込んでいるか、前髪から今なお垂れているか、涙と混じってしまっているかだった。
「いや……そんなことすら考える力もなかった、といった方が正しいのかもしれない。いなくなったはずの冬美が帰ってきた。そう考えてしまえば、後は簡単だったよ」
ガラス片の取り除かれた写真立てから写真を取り出すと、夏目は一層悲しそうな顔を見せ、我が子の顔を指でなぞった。
「――冬美をウメに重ねていたんだ」
女の子の上にきらめく落涙。
「ウメの面倒を見、手術に要する費用を工面し、生活に事足りるように便宜を図った。我が子に注ぐはずだった私の全てをウメに注いだんだ」
いくつもの光が女の子の上に落ちていき、外の光を浴びてきらきらと輝く。
冬美と名付けられた少女の笑顔は、夏目の涙で満たされている。
右目から、左目から、涙が同じ道をトレースする。
だから、涙は同じところに落ちていく。
夏目にとってたった一人の子供である、冬美の元へ。
「幸い、ドナーの提供もあって、ウメはやっと当たり前の生活が出来るまでに回復することが出来た。やっと、彼女は人生のスタートラインに立ったと言ってもいいだろう」
夏目は涙を指で拭い、息を吐く。
感情的になりつつあった自分を抑制するためだろうか、振り絞るように目をつぶる。
やがて現れたのは怜悧な大人の瞳だった。
みすぼらしい格好と、脂ぎった肌、白髪交りの乱れた頭髪。
夏目が手に持っている写真からは想像できない、退廃的なビフォア、アフター。
それでも、今の夏目が見せる瞳の光は、当時の面影を残しているように思えた。
「ウメは本当に可愛い子だ。彼女のような純粋な心を持った人間を私は今まで見たことがない」
ウメが浮世離れしていることは、ウメを見たことがあるものなら誰でも気が付くだろう。
だからなのか、逆に浮世離れしすぎていて、ウメを知る人はウメになかなか近付くことは出来ないし、近付いたとしても一瞥ですまされてしまうか、徹底的に無視されるかのどちらか。
異性はもちろん、同性でさえ限りなく素っ気ない。
必要最小限の単語で、必要最低限の情報を伝える。まるで、逆引きの日本語辞書だ。
学校に行くこと、を言うとする。
……登校。
なかなか解けない問題、を言うとする。
……難解。
心の中に、それぞれ違った方向あるいは相反する方向の力があって、その選択に迷う状態を言うとする。
……葛藤。
ウメはそうして、最低限の言葉選びをする。
そんなウメが機械的で、冷徹に感じられてしまう。
だから、みんなウメに近付こうとするとためらってしまう。
だが、それは間違いだ。
それはウメの一部分でしかない。
一歩踏み込めば分かることなのだ。
ウメはウメなりのユーモアを持っているし、優しさもある。
思いやりだってあるし、ドジなところもある。
ウメがあまりに浮世離れしているから、みんな気がつけるところまで近付くことが出来ないだけなのだ。
「けれど、いつからか……彼女の心にはある気持ちが芽生えていた。私も木の股から生まれたわけではないからね。それぐらい分かる私はそれに気が付かないふりをし、今まで自分を騙し続けてきた。ウメをあざむき続けてきた。……今から考えると、養子に迎えようとした私の意志を、ウメがかたくなに否定し続けてきたのはそのせいだったのかも知れないな……」
夏目がウメを養子にする。
ドラマのような非現実的な言葉。
「彼女は――」
涙に濡れた写真から涙を拭うと、夏目は顔を上げる。
「――ウメは恋をしている」
上げた顔は決意に塗り固められていた。
「そして、私は……ウメの想いに応えるつもりはない。そんなことは出来ないんだ。血縁関係はないが、私は一人の親としてウメを愛しているのだから。……彼女は天使だ。私の全てを失っても、彼女だけは守ってあげたい。そう心の底から思える大切な子だ」
夏目とウメに肉体関係がないことは、すでに夏目の口から証明されたも同然だった。
……ただ、俺はそれを聞いて安心すると言うよりは、それを聞くまでに俺が抱いてきた数々の妄想に対して自己嫌悪に陥っていた。
ウメを想像の中とはいえ容赦なく汚していたこと。
ウメと卑猥な想像を結びつけられない、ウメに欲情したりしないと思っていたはずなのに、誰かに汚されたと勘違いするだけで、それは容赦なく実行された。
純粋なものがひとたび汚されてしまえば、もうどうでも良いのだろうか。
ウメでさえそうなのだ、佳乃に対しても俺はそう思ってしまうのだろうか。
違う。違う。違う。
そうじゃない。そうじゃないんだ。
心の中でいくら否定しても、それを否定する明瞭な答えが見つけられなかった。
|