後日談・第十五話
「ここが私の家です。手狭なところですが、どうぞ」
夏目の背中が燃え出さんばかりににらみつけていた俺は、歩いていることすら忘れていたばかりか、ここまでどのようにして歩いてきたのか、その道程さえも綺麗さっぱり頭の中から抜け落ちてしまっていた。
もはやそうすることが当たり前で、なおかつその場所が指定席であると店の常連客が言い張るように、俺の制服の袖は、やはりというか杏里の小さい手でしっかりと握られていた。
それに気が付いたのは夏目を殴りそうになったときと、玄関口で靴を脱ごうとしたのが、それぞれ最初で最後だった。
先に言っておいたとおり、俺は夏目の背中にぶつけるまがまがしい感情の石――意志――を全力で投げ続けていたので、最初と最後だけしか気が付かなかったのだ。
「せっかく無理を言ってきてもらったというのに、何も出すものはないんだ。男の一人暮しというのもあってね。せいぜいお茶ぐらいは出せるが……」
「あの、お構いなくです」
俺の代わりに杏里が答えると、夏目はわずかに微笑んだ。
いやらしい笑みに見えて仕方がない。
脂ぎった額に、無精髭、白髪交りの頭もそうだが、何もかもが気にくわない。
反抗期の子供だといわれても、俺は言い返す言葉もないだろう。
……殴り返す拳は持っているが。
「さて、とはいいつつも、やはり飲み物ぐらいは」
俺と杏里を応接室であろう部屋に待たせると、夏目は家の奥に引っ込んでいった。
夏目がいなくなったところで、俺は大きく息を吐く。
大きく息を吐いた分、今度は大きく息を吸わなくてはいけない。夏目の匂いが肺の奥を満たしたことで、俺は嫌悪感に咳き込みたくなった。
まるで瘴気を吸ってしまったようだ。某映画、巨大な芋虫が巣くう森に溢れるそれと同じだ。
「……杏里はどうしてここにいるのでしょうか」
不安に揺れる瞳が立ったままの俺を写す。
「知るか。勝手に付いてきたんだろ」
俺のむげな答えに杏里は口を引き結んで、目の前のガラステーブルをじっと見つめ続ける。杏里の不安な顔が、ガラステーブルに映りこんでいる。
ソファに腰を落ち着けずに、俺は周囲を見回していた。
「そうです。そうなのですけど、でも……あのときはその場の勢いで、このまま先輩を行かせたら後悔するような気がして……」
杏里は体を石像のように強ばらせて、革張りの黒いソファにちょこなんと座っている。まるでこれから面接が執り行われる受験生の面持ち。
犬耳をきょろきょろと動かして、周囲の野物音などに過敏に反応している……そんな風に思えた。
「今からでも遅くない。帰れよ」
鋭い言葉だったが、それが今の俺に出来る精一杯の優しさでもあった。
「……帰らないのです。先輩とは一蓮托生だと決めたんです」
「何で一蓮托生を知ってて、三文文士とか三文判とかを知らないんだよ」
「人ってそんなものなのですよ、先輩。知っておくべきことを知らなくて、知らなくてもいいことは知っている。杏里はいつもそんなのばっかりです」
俺との会話で緊張をほぐそうというのか、ゆっくりとではあるが緊縛された体のひもをほどいていく。
「言っている意味が分からない」
「あはは……杏里もです」
そこでやっと杏里は微笑んだ。
傷つけられても、痛いと分かっていても、そばに寄ろうとする健気な子犬。杏里を見ていると、怒りが罪悪感で上書きされていくような気がした。
どちらにせよ、俺の心は苦しかった。
「先輩、覚えていますか。杏里と初めて会話したときのこと」
罪悪感で上書きされていく俺の怒りは、早々に鎮火に向かっていく。
「ちょうど今から百八十四日十四時間二十三分五十二秒前のことです」
俺はそれがどことなく嫌で、杏里を見ていることが出来なくなった。
「……冗談なのです。言ってみたかっただけなのです。杏里は機械ではないのでそんなに正確ではありません。……でも日付は確かなはずなのです」
冗談を交えても、それに取り合うものがなければ、冗談は虚しさに変わる。
「杏里はその日、先輩と廊下でごっつんこしたのですよ」
夏目の家は思っていた以上に広く、落ち着いた趣だった。
庭付きの一戸建てで、一人暮しには広すぎるくらいだ。ほこりをかぶっているのがそこかしこで目立つが、それは夏目の風体を見れば分かることだ。
「痛かったのです。不覚にも杏里は仰向けに倒れてしまって、パンツが見えてしまってて……。なんて言うか、こんなべたべたな展開……これなんてエロゲーなのです」
杏里の言葉には答えず、俺は観察を続ける。客をもてなすためのものなのか、戸棚の中には和と洋の食器がひしめいていた。
それにしても、夏目は収集癖でもあるのだろうか。
一人で使うにはあまりにも数が多すぎる。
百歩……いや、一万歩譲ってウメとの生活があったとしてもだ。
「初めて会話をしたのはそのときなのです。ごめん、大丈夫。何でもないただの言葉ですけど、それは杏里にとって初めてですから。しっかりと覚えているのです。えと……話しがそれてしまいましたけど」
……そして、俺の観察が三百六十度を迎えようとしたとき、俺は本棚の横にひっそりと置いてある写真立てが目に飛び込んでくる。
「先輩と会話したのはそれが初めてです。その……会話、をしたのは。先輩を、知った、のはもっともっと前なのです。見ているだけで半年、名前を知るまでさらに半年、会話をするまでさらに半年……先輩にとっての杏里のメモリーは半年にも満たないと思うのです。でも、私にとってはもう二年分になろうとしているのです。杏里のハードディスクはもう拡張が必要なくらいです」
俺の見つめる先には、写真の中で微笑む嘘みたいに精悍な姿の夏目と、優しそうな女性の姿、そして――二人の真ん中で花開くように笑う、線の細い少女の姿があった。
ウメではない。ウメには似てもにつかない。
分厚いコートを着た二人の男に連れ去られる小さな宇宙人……例えとしては似つかわしくないが、構図としてはそれに似たようなものだった。
ただ、そこに切り取られている雰囲気は、紛れもなく幸福な家族そのものだ。
「ふざけてる……」
つめが手のひらに食い込んでいく。
力は黒い液体の助力により、際限なく引き出されていく。
ウメが弄ばれている。一人のみすぼらしい男によって。
許せない、許してはおけない。
「家族がいるのに、ウメを――」
俺は写真立てを手に取ると、幸せに溢れる風景を見つめ続けた。
写真を覆うガラスが、みしみしと音を立てていく。
「妻子です」
声がして振り向けば、夏目が急須と湯飲みを乗せたお盆を持って立っていた。
「あんたは!」
この醜い男がしでかした、許されざる所行。
妻子ある身でありながらウメをたぶらかし、この世でたった一人の幼馴染みである佳乃を汚したこの男の行為は、万死に値する。
「佐々木君、君の言いたいことは分かっているつもりだ。殴りたいのなら殴ってくれても構わない。いや、そうしてくれると嬉しい。……そうしてくれないか」
俺を止めるものはなくなった。
右手に持っていた写真立てを床に落とす。
床に転がる音。点火の音。
心臓から止めどなく溢れる黒い液体が、激流になって体を回る。
やがてそれは、俺の右拳に収束する。まるでベルリンの壁が崩壊したときの人々の歓喜がそのまま憎悪に変換したようだ。
俺はため込んだ力を一気に解放した。
夏目のあごを打ち砕くつもりで放つ拳。
「先輩!」
夏目は大振りのそれを甘んじて受けて、お盆と一緒に転がり、次いで落ちてきた急須のお茶を頭からかぶる。
熱湯は夏目の髪を濡らし、流血するように顔中を覆っていった。
火傷をしているのではないだろうか。夏目の顔からは湯気がもうもうと立ち上っていた。
それでも夏目は痛みに叫ぶこともせず、歯を食いしばって耐えている。まるで、そうすることが自らの贖罪であるかのように。
「…………佐々木君、私は君が思っているとおり最低なんだ。こうして殴られ、はいつくばることも覚悟していた。そうまでしても、私は君に聞いて欲しいことがある」
夏目は湯気の立ち上る体を起こして、俺にすがるように見つめてくる。
「私の自己満足に過ぎないことかも知れない。でも、私は!」
初めて、夏目の声が高らかに震えた。
大の大人が、それも妻子を持つ一人の男が、一介の高校生に殴られ、あまつさえすがるように声を震わせている。
「私は、もう……どうしようもなかったんだ」
杏里の息を呑む音でさえも、耳に届いてくる。
夏目は落ちた写真立てを震える手で拾い上げ、目の前に持ってくる。
「私はこの子が、冬美が愛おしくて仕方がなかった」
割れてしまった写真立てのガラス。
亀裂の入った隙間から、愛娘の笑顔がのぞく。
過去形だったが、それほど文法を気にすることでもないだろう。
それよりも俺は、今一度拳を振り下ろす機会が欲しくて欲しくて仕方がない。
黒い液体が、俺を憎悪と暴力に駆り立てる。
「……冬美は物静かな子でね。どちらかというと、外で元気に遊ぶというよりは、家の中でおままごとをしたり、本を読むのが好きな子だったよ。私は営業で外回りをしていてね。外から帰れば、今度は社内での事務作業……おかげでいつも帰りは遅くなった。でも、この子はずっと待っていてくれた。私が夜遅く玄関口に立つと、いつも、パパ、パパ、って駆け寄ってきてくれて。私が汗だくなのにもかかわらず、抱きついてくるんだ……。パパ、くさいよ。そんなことを言いながら胸の中に飛び込んでくるんだ。矛盾しているだろう」
何かと思えば、思い出話か。
今更、そんな風に同情を誘おうとしても無駄だ。
「あの子は私の宝物だ。あの子の書いてくれた私の似顔絵も、あの子がくれた押し花も、あの子が書いた作文も、あの子が触れたもの全てが私の宝物なんだ」
夏目の前髪から、急須に入っていたお茶がしたたり落ちる。
「一言で言ってしまえば、佐々木君……私は、あの子とウメを重ねていたんだよ」
ぽとり。
「生まれつき体の弱かった冬美は、入退院を繰り返していてね。そして、中学への進学を控えた頃から、長期入院を余儀なくされた。……まるでドラマのようだったよ……。毎日のようにテレビで見る御涙頂戴のドラマのようだった。本当に良くできたドラマだ。ただ、だからこそ悔しかった。ドラマはただ美しいだけ。現実はそんなに綺麗なことではない。助かるはずの結末も、用意されていなかったのだから」
ぽとり。ぽとり。
「あの子がこの家のどこにもいなくなってから、私の全てが変わってしまった。妻もそんな私を見かねたのだろう……次第に離れていき、今ではこの家はほこりだらけだ。一人では、あまりに広すぎる。寂しすぎるんだよ、この家は」
夏目の前髪から垂れる雫。
そして、もう一つの雫。
「目がさめると、階段に落書きするあの子がいるんだ。妻にしかられて、私に助けを求めるあの子がいるんだ。パパ、ママが怒るの……そう言って笑いながらズボンの裾を握りしめる冬美の姿が、毎日のように。キッチンを見れば、妻の横で興味深げにまな板の上を見つめるあの子がいる。背伸びをして包丁を握る様は、まるで妻が二人いるようだった……。誰もいないはずの庭に出れば、あの子がアリの行列を物珍しそうに見ている。昆虫図鑑をのぞき込みながら、パパ、この虫なんて言うの、っておいでおいでする。そして、玄関先を見れば、幼稚園の制服に身を包む冬美が、くるりと一回転しているんだよ。パパ、似合う? あの子がそう言うんだ。似合わないはずないじゃないか……」
夏目は泣いていた。
大きな雫が割れた写真立てに落ちていく。
「でも、私が手を伸ばすと、決まってあの子は霧のように消えてしまう。……分かってはいた。頭の中では。でも私は馬鹿だから……。会社から、誰もいないはずの家に帰ってくると、ふと電気が点いているような気がする。全速力で走っていって、慌てて玄関の扉を開けるんだ。パパ、お帰りなさい。あの子の華やかな笑顔がそこにはあるんだよ。……この家にはあの子がいる。いつでも冬美に会うことが出来るんだ。たとえそれが、幻想の――思い出の産物だとしても」
夏目の言葉が、俺の怒りをいつの間にか押し殺していた。
おかしい。なんなんだ。
俺は目の前の男が憎くて、妬ましくて仕方がなかったはずなのに。
「そんなときに私は、ウメに出会った」
杏里は俺のそばに立っていた。俺は杏里の動きに気が付かないくらい、夢中になって夏目の言葉に意識を傾けていたというのか。
「心臓の弱かった彼女と出会ったのは、病院だった。私もなぜかは分からない。ウメを助けようと思ったんだ。助けなければいけない。まるで運命が私の背中を押しているようだった」
杏里は定位置である俺の袖口をつかみ、夏目を見下ろしている。
「全てをつぎ込んで、彼女の医療費に充てたよ……。その頃からだ、私がウメにのめり込んでいったのは……」
夏目を殴るはずの拳から、力が抜けていく。代わりに充填されていくのは、何とも言えない虚しさと憐憫の情。
……憐憫? それはあわれんでいるってことか? 同情しているってことなのか?
俺が? ウメを、なにより佳乃を汚したこの男に?
――馬鹿な。
自らが下した自己分析の診断結果。
間違いだとしても、そんな結果を出した自分自身が信じられなかった。
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