後日談・第十四話
和やかに見えた明るさを一瞬にして吹き飛ばした夏目陽司は、慇懃に下げた頭を戻し、俺の視線を真っ直ぐに受け止める。
正直、俺が簡単に受け止められるような視線を放っていたとは思えない。
男に手を差し伸べられた杏里は、その俺の目を見て体を縮ませていたし、俺にかけようとした声も、のど元で立ち往生しているようだった。
俺はその視線を無意識に作り出していた。
眉はつり上がり、眉間には深いしわを刻み、瞳は燃えさかる火炎をまとう。自分の目を自分で見ることは出来ないが、杏里の姿を見れば分かる。
あんなにおびえた杏里を、俺は今まで見たことがない。
「佐々木仁君、ですね」
俺の父とさほど年齢は変わらないであろう夏目は、俺が年下であることをはっきりと分かっていても、ゆっくりと丁寧に問いかけた。
俺からすれば、その余裕の態度が癪に障る。
いや、どれだけへりくだっても、どれだけ正しいことをしても、俺は癪に障るのだろう。
夏目陽司をなす構成要素、その全てが俺は憎くて妬ましくて仕方がなくなっているのだ。
もしかしたらウメがその男の体の下敷きになっているのではないかという、妄想の加速。
陶器のような白い肌が男の脂ぎった肌で汚され、あるいは真っ赤な舌でべとべとにされる。まるでナメクジでも這ったかのように、ねっとりとした唾液の筋道を作り、それは高速道路のインターチェンジのように肌を執拗に這い回るのだ。
無精髭の残るあごでウメに頬ずりし、乾燥した唇でウメの耳たぶを食む。
耳たぶの次は首筋だ。
純白のうなじを皮切りに、鎖骨、胸元と落ちていき、小振りな胸を揉みしだきながら、その先端を口に含む。やがて、へそを舌先でほじくり、くるりと一周させた後、誰も見たことがない女の証へと無遠慮に突き進んでいく……。
昨日、待ち焦がれていた夏目に向けたウメの笑顔が蘇る。
あの小さくて均整のとれた美しい顔が、今度は快楽に染まるのだろうか。
唇同士の接触では、ウメの可愛い舌が男の舌を求め、波のように激しくうねるのだろうか。
唾液と唾液が混ざり、舌と舌が絡み合い、新たなる快楽への嚆矢となるのだろうか。
目をつぶり、一心不乱に。歯茎をなめ、あるいはつつきながら、男の乾燥した唇を、ウメが積極的に自身の唾液で潤すのだろうか。
やがて夏目は我慢できず、固く屹立した男性自身で無遠慮にウメを串刺しにする。
ウメはそれを生まれたままの姿で何のためらいもなく受け入れる。
自ら足を開き、逆さまになったカエルのように足を天井へと向ける。
そのときのウメの表情は。
恍惚に満ち満ちて、だらしなく頬を緩ませて、男に媚びるような熱い視線を送り、うるんだ眼差しに自らを貫こうとする野獣を写す。口の端からはよだれが垂れ、デザートを待ちきれない子供のように、あるいは、待てをさせられ続けている動物のように、快楽が訪れるのを待ちわびる。
ゆっくりと先端がウメへと進入すると、ウメはその期待感と淡い快感からか、甲高い鶴のような声を出す。
シーツを握る手の握力が増し、自らの肌のように真っ白なシーツを手元にたくし上げる。
それは痛みに耐えるのではなく、慣れてしまった当たり前の、一連の快楽行為に悦ぶためにするのだ。
そして始まる馬鹿の一つ覚え。ピストン運動。
そのたびにウメは嬌声を上げ、男の背中を細い足で固定し、より密着しようとする。
馬鹿の一つ覚え。それ以上でも、それ以下でもない。
快楽を貪る。
浅く、深く。浅く、深く。
頂点へと上り詰めるまで、飽きずに繰り返され続ける。
白い欲望の固まりがはき出されるまで、その醜い行為は……。
――止まらない。
俺の想像も、想像の中で繰り返される汚れきった行為も。
ウメをおとしめる猥褻な妄想も。
……俺はこんな人間だったのか。
自分ももしかしたら佳乃とそんなことをするのかと考える。
でも、それは夏目とは違い、とても美しく尊い行為なのだと思える。
佳乃を愛していく行為なのだと思える。
でも、そんなものは自分勝手な愚考の産物に過ぎない。まるで愛が自分にしか与えられていないような独善的な思考回路。
俺が尊いと思っている行為ですら、他人から見れば醜い行為に見えるのだ。
当事者には魔法がかかっているから、綺麗に見えているだけ。
だから、俺の考えていることは独りよがりにすぎない。
平静になれば、そんなことは当たり前のように分かるはずだ。
例えそれが誰と誰の行為であろうと、互いに愛という目に見えない絆がある限り、尊い行為に昇華される。
それがどんなに醜悪な男と女だろうと。
それがどんなに貧困な男と女だろうと。
それがどんなに馬鹿な男と女だろうと。
例え他人からは醜い行為だと見られ、判断されようとも。
愛は全ての人間に平等に与えられていて、どれも平等に美しく尊いものであるはず。
……しかし、そんなきれい事ですら、何の経験も持たない俺には分からないし、分かるつもりもない。
分かってたまるか。
佳乃が俺に注いでくれていた優しさや、温もり、まごころ、それが夏目という男によって汚されている。蹂躙されているのだ。
ウメは佳乃そのもの。佳乃の心臓を持つウメは佳乃と同義なんだ。
ウメが佳乃なら。佳乃がウメなら。
――俺を好きでいてくれるはずなんだ。
そうでなければいけないはずなんだ。
……そう考えてしまうのは、ゲームのやり過ぎなのだろうか。
主人公は、周囲の美少女達に大小様々な理由で好かれていって、気が付けば主人公の争奪戦が始まる。全ての少女が純粋で一途。決して他の男に心動いたりしない。もちろん、他の男と付き合ったこともなく、全てが初体験だ。
多難な状況をあの手この手でくぐり抜け、最後には強固な絆で、愛情で結ばれ、幸せな日々を送っていく。
幼馴染み、ツンデレ、姉や妹、義妹、天然少女、眼鏡っ子、優等生……。
型にはまったキャラクターと繰り広げる、型にはまったシチュエーション。
家に押しかけてきて同居することになったり、転校してきたり、婚約者だったり、幼い頃に約束していたり……。
馬鹿みたいに単純なゲームだ。
俺もそんなゲームが好きで、幾度となく感情移入してきた。
でも、そんな日々の途中で大好きな人を失ってしまったら。
不意になくしてしまったら。
――俺はどうすればいい?
ハッピーエンドのない物語なんて知らない。
俺の知っているゲームは全てハッピーエンドだった。
どんなに悲しくても、どんなに大切な者が犠牲になっても、最後には失ったものが元の形になって必ず戻ってきた。多少の御都合主義であっても、結末は明るい未来だったのだ。
――佳乃、俺はどうすればいい?
ゲームは何も教えてくれない。幸せになる方法もない。先に待つものがハッピーエンドだなんて保証をしてくれない。
だったら、俺は佳乃と、佳乃を構成する要素を守らなくてはいけないのではないか。
佳乃は――ウメは――きっと、俺のことを好きでいてくれるはずだから。
何より、俺は夏目よりもウメを大事にしてあげられる。俺には夏目よりも優れたところはたくさんあるはず。夏目には出来ないことだって、俺には出来るはずだ。
俺は、夏目の瞳を貫くように眼力を込める。
佳乃は渡さない。これ以上、汚れさせたりしない。
心臓が、体が爆発しそうだ。
心臓から送り出されたニトログリセリンが、血管という血管で爆発しかかっている。ミトコンドリアが俺の体を乗っ取って怒りに震えている。震え、発生する熱は摩擦熱だ。
ウメの恍惚とした表情が頭から離れようとしない。
夏目がウメを――佳乃を黒で染めていくような気がしてならない。
白い天使が、黒い悪魔へと堕落する。
「佐々木仁君、ですね」
まるで同じシーンを繰り返すように夏目は唇を動かした。ウメの唇を吸い上げたかも知れない唇。未成熟なつぼみを含んだかも知れない唇。
醜悪な唇。
「ウメの――山田ウメのことについてお話ししたいことがあります」
夏目はウメの見えないところで作った複雑な表情を浮かべる。
ウメ、そう呼び捨てに出来る間柄だということに、俺はさらなる怒りを得、嫉妬心を覚える。
「出来れば放課後、お時間をいただけないでしょうか」
夏目の丁寧な言葉が、ぎりぎりで俺の理性を保っていた。
もしも、夏目が少しでも自分勝手な発言や、ウメを軽視するような言葉を口にしていたら、俺は縮地法さながらに地面を蹴り上げて、夏目に殴りかかっていたことだろう。
「あなたに話しておかなければいけないことがあります」
聞き取りやすい声で話す夏目は、風体とは離れたところで、やはり社会人なのだと理解させられる。
問答無用に叩き伏せることはいつでも出来る。俺は沸点温度辺りでさまよう理性と折り合いをつけた。
「……分かった」
「先輩!」
俺の悪鬼たる表情にとまどい、おびえていた杏里。俺と夏目の視線を遮るように前に出て、声を荒げる。
理想の早朝にはほど遠い風景。
「もう止めましょう先輩! その……ウメ先輩に何があったとか、夏目さんが誰なのか私には分かりません。でも……でもでも! 私は嫌なのです! せっかく先輩と一緒にいられる今が、なくなってしまうのはすごく嫌なのです!」
両手を左右に広げて、まるで戦場に行こうとする俺を止めるかのようだ。
「このままでだっていいことも、立ち止まっていてもいいことだってきっとあるはずなのです! 変わらないことが正しいとだってきっとあるはずなのです! 知らないまま生きていていいってこともあっていいはずなのです!」
杏里の左右に伸ばした両腕は、翼のように大きく広がっている。
それは、俺の全てを受け止める用意がある、そう言ってくれているような気がした。
ただの身勝手な俺の錯覚に過ぎないだろうが。
「夏目さんといいましたよね。……私、今のままが良いのです。先輩のそばにいられる今が一番好きなのです! ずっと今のように先輩のそばにいられることが、杏里のただ一つの夢だったのです……!」
夏目を振り返り、懇願するように言葉を紡ぐ。
両腕はそのままで、それはやはり夏目の行動を抑止するかのように広げられたままだ。
「一年前の先輩には、もうどうしようもなくお似合いの人がいて……私には入り込む余地すら、きっかけすらなくて、ずっと遠くから見ているだけだったのです……でも、でも、でも!」
三回続ける杏里の癖。
その後の言葉は、どうやら夏目のみに伝えられたようで、俺の耳には届かなかった。
「……その人は突然いなくなってしまって。けれど先輩はずっとその人のことを探していて……悲しい顔をして、でも普段から楽しそうに振る舞おうとして。そのとき思ったのです。先輩と一緒にいられるのなら、杏里は……その人の代わりでもいいのです。先輩のそばにいたいと思ってしまった以上、もうなりふり構っていられないのです。ただそばにいたい、それだけなのです。だから、今の杏里と先輩を壊さないでください。お願いします」
聞こえない言葉の代わりに、杏里が夏目に対して頭を下げたように見えた。
夏目の苦心する顔が、歪んだ頬から理解できた。優しさだけが言葉となってまろびでる。
「……でも、それを決めるのは残念ながら私ではないんだ。私も話しておかなければならないと思ってここにいる。話すことには何度も悩み、苦しんだ。その末の今日、この朝なんだ」
杏里の目を見つめて、気丈に言い放つ。
「私も同じ。はい、そうですかと簡単に譲れることではないんだ。立場的には、話して欲しくない今の君と一緒だよ。だから、選ばれるべき二つの選択を、選ぶ本人抜きのまま選択同士で話し合い、一つに絞るのはいけないことなんだ。私と君は、選択される側の人間なのだから」
杏里は目を伏せ、壁のように力強く立ちはだかっていた背中の力を抜いていく。
肩は落ち、左右に伸ばした両腕――両翼を折りたたむ。
「佐々木君、君が決めて欲しい。私と来るか、来ないか」
赤いカプセルと、青いカプセルのどちらかを飲むように迫った映画を思い出す。
「……決まってる」
選択の側にどんな思惑があるのかは知らない。
いや、どんな思惑があったって構わない。
俺の今の怒りを鎮めてくれさえすれば。鎮めることが出来さえすれば。
俺は暴力で解決することも厭わない。
もとより、話し合いだけで解決するような、穏便な結末になるとは思っていない。俺はそれほど大人ではないから。
それぐらい俺の黒い炎は、可燃性のある絶望と結託して、感情にさらなる火を加えている。腹の奥で溢れる黒い液体も俺の行動を助けてくれるから、力にも事欠かない。
「俺はあんたについて行く。放課後だなんて言わない。今すぐにでも」
「先輩!」
杏里が持っていた鞄を落として叫んでいた。
「ありがとうございます。実は私も今すぐの方がいいんです。出来ればそうしていただきたかったぐらいです」
頭を垂れる。
一応の感謝のつもりだろうか。低姿勢なのか、小馬鹿にしているのか、大人ぶっているのか。その三択を選ぶのも面倒なほど、俺は気がせいている。
未だに離れようとしない、ウメのあられもない姿……俺の想像の中で眼前の男と乱れるウメ。
夢想、妄想することの出来る人間の脳を俺は恨む。
「少し歩きますが、付き合ってくださいますか。この先に私の家があります」
俺は何も言わずに、歩き出した夏目の背中に従う。杏里の横を無言で通り過ぎ、通学路とは反対側の道を歩き出す。
もはや、学校などという日常は予定から蹴り落とした。
「あの! 私も行きます! 私も行きたいのです、先輩……!」
杏里の指が弱々しく俺の制服をつかんでいた。
払えば簡単に手放すであろうその握力。
犬耳を伏せ、尻尾を力なく地面に落としている杏里の姿。まるでガラス細工のように不安げで、もろく見える。
とてもではないが付いてくるなとは言えなかった。
「こんなことを言ったら、おかしいかも知れませんが――」
歩き出して一分と経たずに、一言だけ夏目は告げた。
「私とあなたは、似ているのだと思います」
聞こえた瞬間、目の前に火花が散る。
殴ろうと持ち上げた拳。
しかし、俺は殴れなかった。
杏里が制服の袖を握りしめていたからだ。
……それきり夏目は家に着くまで何も言わず、当然、俺も杏里も口を開くことはなかった。
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