後日談・第十三話
翌朝早く、俺は家を出た。
朝にめっぽう弱い俺が早起きをしただけにとどまらず、目覚まし時計がマスコットのニュース番組――主に好みのタイプあるお天気お姉さん――も見ずに家を出ようとしたものだから、パジャマ姿にエプロンという最近太りだしてお腹が張ってきた母に、今日は雪でも降ってくるのではないか、とぶしつけに言われる羽目になった。
俺が玄関で靴を履いているときにも似たようなことがあった。
寝起き眼の父は俺を見るなり一瞬にして目を覚醒――それこそ、テニス漫画の目の細いキャラクターが、本気になると目を開くのと同じように――させ、どたばたとキッチンで包丁を持つ母のもとに駆け寄った。
「百合子! どうして起こしてくれなかったんだ! 今日は朝から大事な会議があると言っておいただろう! それともなにかい? 私のいびきがうるさいのにとうとう愛想を尽かして、目覚し時計を一時間以上遅くセットしてしまうという、恐ろしい仕打ちに訴えたのかい? 結婚して、早二十年、私は百合子にどれだけの愛を――」
「仁志さん、違いますよ。仁が早起きしたんですよ」
規則正しい包丁の音を響かせながら、自分と夫の食事を作る。
俺の食事はすでに終わっていて、目玉焼きとサラダ、それに納豆御飯は胃袋に収まっている。その証拠に、テーブルには綺麗になった皿が三枚。
「なんとな?」
覚醒させた父の目が、今度は疑心に目覚める。
「ですから、今日は仁が早起きしたんです」
父の目が、柱にかけてある時計を目にうつすより早く、俺はつま先でとんとんと地面を叩き、無理矢理かかとをねじ込んだ。
「行ってきます」
そう言って玄関の扉を閉めたとき、父の安堵のため息が聞こえてきた。
――世は事も無し。
日常は、やはり日常でしかなかった。
そう、世の中は何も変わっていない。
誰が悲しみ、誰が喜び、誰が泣き、誰が笑っても、世の中は急に加速したりしない。例え深く傷つき、未来が見えなくなっていても、太陽は昇るし、日は沈む。
この世の終わりなんか来ないし、ノストラダムスだって虚言癖だとののしられる。
アフリカの貧しい人たちが何万人死に絶えようと、中東で頻発するテロや紛争で町を焼かれ、家族が殺されようと、相も変わらず電気街では萌えだのメイドだのツンデレだので盛り上がっているし、家に引きこもっては匿名の掲示板に暴言を書き込んで話の腰を折っている。
そうして人は相も変わらず、過ごしている。
俺も生きている。
佳乃を失っても、ウメに拒絶されても……。
「だ〜れだ?」
朝のすがすがしい風が遮られ、目に映るまぶしいぐらいの朝の町がブラックアウトする。今どき流行らない恋人達の戯れのように、柔らかい両手が俺の両眼を包み込んだ。
「……おはよ」
「おはようです、先輩」
まるで昨日瞳を濡らしたのが嘘のような明るい声が、背中から聞こえてくる。
「ところで先輩、だ〜れだ、です。杏里が誰か分かりますか?」
それはアイデンティティを問うていると考えた方が良いのだろうか……?
せめてそういう人間当てクイズをするなら、一人称を自分の名前でないものにしてからの方が良いと思う。
私とか、あたしとか、あたい、とかさ。
「……はっ! 先輩先輩先輩! 今のは誘導尋問だったのですね! あ、杏里、一生の不覚です!」
勝手に自分で掘った墓穴に落ちて、墓穴の中でのたうち回っているだけだろ、とは言わない。
「それぐらいが一生の不覚なら、お前の一生は何回あるんだよ」
視力検査よろしくふさがれていた目がようやく解放された。
瞳孔が開いてしまった分、朝日のまぶしさを三割り増しで感じる。
「今日も今日とておはようです、先輩」
俺の前に回り込んだ杏里が、にっこりと笑う。子犬が舌を出しながらご主人様の持ったボールを投げて投げてと催促するかのようだ。
「先輩、今日は早いのですね。杏里、結構待たなきゃなって覚悟していたところだったのです」
俺が前進すると、杏里は後ろ向きで歩き出す。常に面と向かって話そうとする杏里のお尻では、後ろ手に持った鞄がウエストポーチのように揺れている。
「今日は、たまたま早いだけだ」
「だったら、杏里はラッキーですね」
嬉しそうに一回転した杏里のスカートが、シャンプーハットの形を作る。そして、再び俺と向かい合う。
「早起きは三文の得って本当なのです」
薬指、中指、人差し指。
その三本を笑顔の前に突き出す。明朗で快活な杏里。
俺はそんな杏里にめまいを覚えそうになる。
昨日のことが嘘だったのではないか、と。
「二束三文、三文文士、三文判……意味、分かるか?」
「あ、杏里を馬鹿にしましたね! お母さんにも馬鹿にされたことないのに!」
杏里が鞄をぶんぶんと振り回しながら抗議する。
「それじゃ、二束三文は?」
「靴二足で、三文なのです。つまり安っぽいという意味なのです!」
ない胸を張る。なんか、二重の意味で空寒いな。
「……次、三文文士は?」
「さんもん……さんもんぶし……分かったのです!」
分かったって……。
もともと考えて解くような問題ではないぞ。言うまでもないが、これは知っているか、知らないかの問題だろう。
「三つの問いに答える野武士です」
「その心は?」
「ヤツは暇人」
だから、自信満々にふんぞり返るなって。間違ってるから。
例えるならアレキサンドリアの天文学者プトレマイオスが提唱した天動説ぐらいに間違ってるから。
ほおって置けば、天動説のように間違った教えを千四百年間にわたり信じ続け、それこそポーランド生まれのコペルニクスが地動説を唱えて、ガリレオ・ガリレイが木星を見つけるまで杏里は間違い続けるだろうな。
……本当にため息が出る。
俺は一縷の望みもなく、同情半分、憐憫半分の心――つまり百パーセント憐れみで出来ている――で一応最後まで聞いてやる。杏里は犬だから、生類憐みの令ってヤツだ。
「三文判は?」
「ふふふのふです。杏里が知らないとでも思ったのですか? ズバリ、モソスターハンター3です」
「……誰が、ゲームの話をしろと言った」
鞄の取っ手を強く握り締めた杏里が俺に迫る。
「えええ! でもでもでもですよ、先輩。耳を大にして聞いてくださいね、いきますよ。三文判……さんもんばん……さんもんはん……三モンハン……モンハン三……モソスターハンタースリ――」
「連想ゲーム!?」
さらに胸を反らす杏里。
あんまりふんぞり返ると、後ろ向きに倒れるぞ。
「しかも続編です」
「脳内補完!?」
「違うのですか!?」
いや、逆に驚かれても困る。
俺は眉間のしわを人差し指で伸ばす。
「違うのですよ」
俺の声を耳にした杏里の顔が、憮然としたものになる。
「……む、真似ですね」
「真似なのですよ」
投げやりに答える。
「杏里の真似しないでください」
「杏里の真似しないでください」
夫婦漫才じみたやりとりに、俺は心なしか足取りが軽くなる。
「むむ、意地悪ですね」
「むむ、意地悪ですね」
杏里が難しい顔をして、鞄を持ったまま腕を組む。
歩くスピードは緩めない。後ろ歩きも慣れたものだ。
「すもももももももものうち」
「すもももももももものうち」
昨日の今日だというのに、朝から元気でいることの出来る自分がひどく人間離れした者のように思えて仕方がない。
「赤巻紙青巻紙黄ま――ひぎゃう」
舌を噛んだらしい。涙目になって口を押さえている。
「赤巻紙青巻紙黄ま、ひぎゃう」
舌を噛んだ痛みで涙腺を緩ませる杏里の姿が、昨日の夜にはじけたスターダストを思い出させる。胸が五芒星の角に突き刺さったようにちくりと痛む。
「先輩のいぢわる、なのです。じ、じゃなくて、ぢ、なのがポイントです」
「先輩のいぢわる、なのです。じ、じゃなくて、ぢ、なのがポイントです」
俺が真似ると、怒った子犬のようにのどの奥から声を出して威嚇する。
でも、どこか上目遣いなのでちっとも怖くは映らない。
杏里はなにやら思案気に俺の瞳を見つめた後、思ったより簡単に威嚇を解いて立ち止まる。俺も立ち止まる。
「………………杏里好きだ」
「さて、行くぞ」
「先輩、ひどい!」
先に歩き出した俺の背に届く言葉。
ひどい、か。
……ああ、その通りだ。俺はひどい人間だよな。
本当にうんざりするぐらいひどい。自分でも不思議で仕方がないんだ。
何でこんなに明るくしていられるんだろうな。
一人でいるときはいくらでも黒い海に沈んでいけるのに。
悲しみに慣れたのか。それとも、忘れてしまった?
……いや、佳乃を失った絶望も、ウメに拒絶された悲しみも、きちんと胸の奥で寄生し増殖し、今もそのテリトリーを広げている。
それとも、ウメのことなんかどうでも良くなったのか?
……それも違うな。
実は子猫のようにかわいらしかったウメの笑顔……佳乃の笑顔が、夏目というただ一人の男に注がれている。
俺はそれが妬ましくて仕方がないんだ。
醜い感情でいっぱいになっているんだ。
どうでも良くなるなんて、そんなことあるわけがない。絶対に。
「せめてさっきのことわざの意味教えてください! でないと、杏里は気になって気になって気になって授業中眠れないじゃないですか!」
「禍を転じて福となす、だな」
ぱたぱたと駆けてきた杏里が、前ではなく左に並んで歩き始める。
なので、抗議の声も左からだ。
「先輩、ひどいです! 鬼、悪魔、ドS! Mな杏里じゃなかったら放送倫理協会にワンコールしているところですよ!」
ワンコールでは、つながるところにもつながらないだろ。
「馬鹿には付き合ってられん」
「馬鹿だからこそ、教えて欲しいのです。杏里は馬鹿だけど見てください! この溢れる好奇心、溢れる知識欲を!」
どこを見ればいいんだよ。
それに好奇心とか、知識欲ってどこから溢れてくるんだ。
そもそも、それは見えるものなのか?
「先輩の目は疑いの目です」
「分かった。分かったよ。色々話がそれたけど、教えてやるよ」
手が少しだけ疲れたので、左に持っていた鞄を右手に持ち直す。
「二束三文、数が多くて値段のきわめて安いこと。物を捨売りにする場合の値段にいうんだ」
杏里がコクコクとうなずく。
「次、三文文士。つまらない作品しか書けない文士。また、文士の蔑称のこと」
どこからかメモ帳とシャープペンを取り出して、細緻でミミズのような文字を走り書きする。
お前は、証人喚問の速記者か。
「最後に、三文判。できあいの粗末な印形」
並んで歩きながら俺は杏里に解説してやる。
「どこか辞書を引っ張ってきたような解説ですが、一応メモメモなのです」
一言余計だ。
「そこで、最初に立ち戻るわけだ」
「謎解きですね? どんでん返しのびっくり仰天ですね? 繰り返される三日間ですね? 学園祭で映画を撮るのですね? ビューティフルドリーマーですね?」
確かにその三つには共通点が多すぎるけどさ。
俺はうっとうしい煙でも払うように左手を振る。
「あー、もういい。とにかく、早起きは三文の徳って言っただろ。それって結構得したように聞こえるけどさ、先の三つの三文にもあったように、三文っていうのは実はそれほど価値がないものなんだよ」
「その未来がないようなオチはいただけないですよ、先輩」
疲れて徒手にした左手の小指が、温かい何かに包まれる。
「もっと明るく行きましょう。杏里は明るい方が好きなのです。ハッピーエンド大好きでなのです」
見れば空いた左の小指が、杏里の右手に包まれていた。
「先輩、気にしちゃ駄目なのです」
なにが、とは言えなかった。
やはり夢などではない。
きちんとした現実で、昨日の杏里の涙は本物なのだ。
杏里は、そのことを言っている。鈍感な俺でもそれぐらいは分かる。
「辛かったら辛い顔をする。昨日辛くされたから、明日会いにくい……」
朝が早すぎて通学路には人影はない。
唯一、犬のリードをもちながらランニングする大学生の姿が、俺達から遠ざかる。
洗濯挟みのような流行の白いメディアプレーヤーがジャージの襟元にくっついていて、俺達を抜き去るときマラカスのような音を響かせていった。どんな音楽だったかは分からないけれど、心臓が高鳴るようなエイトビートだったことは確かだった。
「普通、嫌なことからは、苦しいことからは逃げると思うのです。杏里も、逃げ出したいな、って思ったのです。……でも、逃げられないのですよ。杏里は先輩のそばにいたかったのです。近くにいたいと思った人から、遠ざかろうなんて、そんなこと考えられなかったのです」
小指を握られるのは初めてではない。
おぼろげながら記憶がある。
ずっと、ずっと昔の記憶。
「近くにいたいから、傷ついても、傷つけられても良いのですよ。痛くても、悲しくても、涙を流しても、杏里はMだから耐えられるのです。Mだから笑っていられるのですよ」
杏里は今日の朝、俺に会うためにずっと待っていようとした。
忠犬ハチ公が、毎日渋谷駅前で帰ってこない主人を待ち続けたように。
けなげに、一途に、自らの苦労を厭わずに。
俺が何時に登校するかなんて分からない。
もしかしたら、ショックで学校を休んだかも知れないのに。
忠犬杏里。
……本当に馬鹿だ。
馬鹿で馬鹿で馬鹿正直で――胸が苦しくなる。
「辛いときは明るく、明るいときはもっと明るく。それが杏里たるゆえんなのです。だから、杏里は笑わなくてはいけないのです。にこにこしなくてはいけないのです。なので……杏里は先輩の分も笑います。そして先輩は、そんな杏里をたくさんいじめてもいいのです。知ってますか? 朱に交わればいつかは赤くなるのです。だから、私が笑っていれば、先輩もきっと心の底から笑えるようになると思うのですよ」
わざと大きく手を振る。
小指を握られているから俺の手もそれに従うことになる。
「なんせ、杏里はことわざの意味も分からないくらいは馬鹿ですからね。とほほです」
鞄を持った手でこつんと自分の頭を小突いて、おどける。
「杏里……」
どうしてこんなにも、横にいる少女は俺に好意を寄せるのだろう。
真っ直ぐな目で見つめてくるのだろう。
分からなかった。
だから、知りたくなった。
「――どうして、俺なんだ?」
「分からないです。でも、先輩が良いのです。先輩じゃなきゃ駄目なのです」
小指を離して微笑む。
「だから、杏里も参っています」
そういった杏里の顔は、朝日の輝きに似ていた。
俺はあまりのまぶしさに手をひさしのようにかざしたくなる。
太陽の下で何度かくるくると回る杏里は、どこか照れ隠し様相を呈していた。
そんな杏里の姿を見る度に、俺は毎朝となりを歩いていた幼馴染みの少女を思い出してしまう。
俺を、仁君、あるいは、仁、と呼んでくれた少女を。
その笑顔の輝きを重ねてしまう。
自動的に再生されてしまう追憶の情景を俺は止めることも出来ない。
止めることが出来るかもしれないが、もし出来たとしても俺は止めないだろう。
過去の風景に身をゆだねることはとても心地よいし、懐かしいから。
洗いたてのシーツや、干したばかりの布団に顔を埋めるように怠惰になれるから。太陽の匂いに囲まれながら、甘美な記憶に抱かれることが出来るから。
だから、俺は杏里への罪悪感を抱きながらも、過去という記憶の美酒を味わう。
「おっ、とっ、と……」
俺の少し前を行っていた杏里は、回りすぎたのか通学路の曲がりで立っていたサラリーマンにぶつかってしまう。杏里は尻餅をついて倒れてしまい、スカートの裾を押さえながら恥ずかしそうに被害者にぺこりと頭を下げる。
「大丈夫かい?」
そう言って杏里に手を差し伸べるサラリーマン。
「すみません……」
反省する杏里は、申し訳なさそうに差し伸べられた手を取る。
「謝らなくていいよ。こんなところで人を待っている私も悪いんだからね」
一秒後に絡んだ二人――俺とサラリーマン――の視線が、俺の心臓を燃え上がらせた。
黒い炎。黒い溶岩。醜い感情。
ぬらぬらと蠕動する。
「改めて初めまして。夏目陽司と申します」
慇懃に頭を下げるサラリーマン。
――私は夏目が好き。夏目のためなら、何だって出来る。
あの夏目だった。
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