後日談・第二話
「こ、これは……!」
真っ暗闇の室内に浮かび上がる白くぼんやりとした姿。床に広がる長い髪の毛が、真っ赤な血のように思えて不気味だった。
「……どう見ても、ウメだな。今更驚くまでもなく」
我ながらひどい演出だった。次回も見てくれと言わんばかりの前回の終わり方といい、演出としては三流だった。
「おーい、ウメ。こんなところで寝てると風邪引くぞ」
玄関を開けると、そこには倒れた女の子。どこからどう見ても、事件発生としか思えない状況だが、俺は至って冷静だった。
……ウメの姿を見るまでは。
「こ、こいつ……!」
床に横たわるウメの肩を揺さぶろうとしたとき、俺は伸ばそうとした手を止めることしかできなかった。
「なんて格好で寝てるんだよ……」
座り込んで見てみれば、下着姿に、ワイシャツ一枚。
細く小さな体躯を包みこむ、大人物のワイシャツ。
袖から手は出ておらず、袖の中程を握りしめて眠っている。
第三ボタンから留められているせいか、首筋から、鎖骨、そして控えめな胸元、それを覆うフロントホックのブラ……と順を追って露わになっている。
水滴を垂らせば、きめ細やかな肌の張りに勢いよく滑り落ちていきそうだ。
もちろん、そんな俺の視線も滑り落ちる。
ボタンで止められているのは、第三、第四ボタンの二カ所のみで、残りは止められていない。つまり、脂肪のないお腹すら丸見えであるわけで。
さらに付け加えさせてもらえば、シャツ一枚を羽織っただけなので、下半身にまとうのは純白の……純白の下着のみ。真っ白な肌にまとうのは、ほとんど無地の色気も全くない下着。
それはそれで、今時見かけない無垢な白さを感じられる。
汚れ一つ無い、太ももからふくらはぎのなだらかなラインは、闇夜に光る刀の切っ先のように鮮やかに目に飛び込んでくる。
触れたらきっと柔らかいだろうと思える反面、すぐに跳ね返してくるような弾力を持っているに違いない。
――と、こうしてじっくりと眺めてしまったわけだが、視姦……もとい、観察されている本人は全く動きを見せない。
「おい、ウメ」
あまりの無防備な姿に、俺は触れるのをためらってしまう。
こんな姿だからなおさらだが、俺は起こすためとはいえウメに触れることにとまどいを覚えた。下手に意識をしないほうがいいのだが、一度意識してしまったものは仕方がない。
「あんまり起きないと、いたずらするぞ」
うん、今のは我ながら犯罪に近いな。
「…………でも、出来そうにないな」
犯罪に近い言葉を言ってみて、それがよく分かった。
目の前に、食べてください、といわんばかりの姿で横たわるウメの姿を見ても、欲情一つ覚えないのだ。
小柄で、童顔で、無愛想な同級生が、大人の魅力に欠けるから。
そんなありきたりな理由を思い浮かべてみるけれども、顔の作りは天下一品なのだ。普通の男なら、欲情して当然だろう。
考えてみれば、ウメは今時なかなか見かけない、いにしえの美しさをもっている。
――深窓の佳人、つまりは身分違いで、大切に育てられ、世の汚れに染まらない美女。
未発達の体であるが故に、その美しさは一層際だつ。
大人になるにつれて、失われていく純真さや、体の細さが、まるで時を止めたようにここに存在しているのだ。
世の中の汚さを知らないような天使の寝顔。
起きれば無愛想の固まりなのに、眠っている今だけは、不思議と安らかだった。
考えたくないが、俺の男性機能が退化してしまったのだろうか。
若い身空で抱えたくない切実な悩みに、俺は慌ててウメを凝視してみる。安らかな寝顔を見、ワイシャツからのぞく胸元を見、すらりと伸びた足下を視線でなめてみる。
警察官が職務質問をしてきたら迷わず、私は犯罪者です、と答えることを胸に誓ったうえで、ウメを見つめ続ける。
……けれど、それでもだめだった。
美しさや、はかなさを感じることが出来ても、欲望を感じることはなかった。
俺は大きなため息をついて、その場から逃げようとした。
……この際、ウメのことはあきらめて登校しよう。
嫌われるなら嫌われるでいい。
嫌われていた方が、はっきりしていて気分も楽というものだ。起こしに来るという日課が始まったのも、まだ三日目だ。今なら、三日坊主で片が付く。
「……ウメ、悪い」
俺は立ち上がって、ウメに背中を向けた。
右足を踏み出して、左足を前へ。
……けれど、左足は釘に打ち付けられたように動かなかった。
何かに引っかかったのかと思って振り返れば、眠ったままのウメがズボンの裾をつかんでいる。起きている様子はないから、寝ぼけているのだろう。
「……ったく」
俺は再度座り込んで、ウメの手をほどこうとする。
「…………ぱ」
小さな寝言。
ウメの手に触れたところで俺は動きを止めた。
俺の手がウメに触れるやいなや、つかんでいた裾を離し、俺の手を握りしめてきた。眠っているとは思えないぐらい、力強い握力。
決して離してはならないと、夢の中で思っているのだろうか。
聞き取れなかった寝言が、ウメにどういった感情を抱かせているのか、すぐには理解できなかった。
「…………パパ」
胸がつぶれるかと思った。
俺は無意識のうちにウメの手を強すぎるくらいに握りしめていた。
「……パパって何だよ、パパってさ。こんなに若い奴を捕まえて」
ウメの目尻で信じられないものが輝いている。
大粒で、透き通ったそれ。
たとえるなら、夜空の中心を飾る北極星。
たとえるなら、一カラットのダイヤモンド。
たとえるなら……
――佳乃の笑顔。
「くそ……朝からかよ」
胸の奥でため込んで、ずっと我慢してきたものが、不意に飛び出してきて俺を襲う。
寂しさや、悲しさ、辛さが、一緒くたになった、薄汚れた感情の波。
――絶望。
黒い服を着た友人達や、先生方、家族の姿が脳裏を横切る。
いつも見ていた幼馴染みの笑顔が、数え切れない花束の真ん中に飾られている光景。
その光景が信じられなくて、写真とにらめっこをしてしまった滑稽な自分。これは現実ではなくて、にらめっこをし続ければ、そのうち彼女の方から、負けを認めて笑ってくれるんじゃないかって。
無表情でにらみ続けて、眺め続けて、ずっとずっと見続けて。
でも、結局、俺の負け。
勝算なんかはじめからなかった。写真とにらめっこをしたって勝てるはずないって事ぐらい分かっていたんだ。それでも、俺は見続けた。涙を流すことすらしないで。感情を腹の奥にしまい込んだんだ。
「大丈夫……耐えられる」
腹部に力を入れて精神を集中させる。外側からドアを押し込んで、内にとどめる。今にも飛び出してきそうな濁流をせき止める。
大丈夫だ。俺は大丈夫。今回も、耐えることが出来た。
「……ったく、お前のせいだぞ」
ウメの手をゆっくりとほどくと、大きく二回深呼吸をした。
胸の奥に追いやった絶望は、これでしばらくは出てこないはずだった。けれど油断は大敵。またいつどこで襲ってくるかもしれない。
「俺は怒った。やっぱり、いたずらしてやる」
俺は眠り姫に手を伸ばすと、第二ボタンの向こうにあるフロントホックのやや上に触れてみた。
そこには、かつて俺のそばにいた、かけがえのない少女がいる。
とくん、とくん、とくん、とくん……。
「……今日も、元気そうだな、佳乃」
少女がウメの中で元気に跳ね回っていた。
ふいに顔がほころんでしまう。
「……ん……佐々木」
やっとお目覚めのようだった。
慌てて手を引っ込める事もしない。それは、決して犯罪行為に慣れっこだとか、調教はばっちりだとか、そういった類のものではない。
「佳乃は今日も元気そうだな」
「私、まだ生きてるから」
予想していたとおりの無愛想な声で、ウメが応じる。俺に胸を触られているのを気にもせずに、ゆっくりと立ち上がる。
「ウメ、いい加減遅刻だぞ」
「ごめんなさい」
心のこもっていない言葉だ。
ただ、それはあくまで俺の主観によるもので、ウメ自身は心を込めているのかもしれなかった。いつでも、どんなときでも平板な声だから、感情の大小は全く読み取れないのだ。
「外で鹿岡兄妹も待ってるんだぞ」
腰に手を当てて不満顔を見せつけてやる。
「私、迎えに来てなんて言ってない」
俺に背中を向けて着替え始める。
「お前、そういうこと言うなよ。願わずに来てくれるだけでも、ありがたいってもんだろ。むしろ、俺の立場を考えてみろ。普通、立場が逆だろ。『仁君……起きて、ねぇ、起きてってば!』って、優しく起こしてくれるのが、スタンダードってもんだ」
ウメは、上半身を覆っていたワイシャツを脱ぐと、真っ白で一本線の通った美しい背中が披露される……って。
「ウメ!」
悠長に情景描写をしている場合ではなかった。
「私、着替えてるの。邪魔、しないで」
その声はやっぱりフラットで、感情の起伏は見られなかった。
羞恥心はおろか、慌てることさえ知らない。
俺の制止も何のその。
背中を向けたまま、フロントホックのブラすらためらいもなく外し、上半身にはまとうものをなくした。
綺麗だな、と思う一方で、そこには何の劣情も感じなかった。
美術館で絵画を眺めるようなものに近い事に気がつく。
「……外で待ってる」
俺は、やはり高ぶらない欲望の心に落胆しながら、あきらめて外へ出て行くのだった。
「分かった」
その声にも、やはり抑揚はなかった。
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