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エト・エウトクタ
作:隆伊



奇禍


2 奇禍
 彼は静かに頭を起こした。肩が痛む。夕闇のなか、さかさまになったバスの天井に横たわっていた。おぼろげに思い出す。そうだ。バスが落ちた。
 何故。事故なのに……。夕方まで……。それに、誰もいない……。
 バスのなかは無人だった。夕闇が忍び込んでいた。
 俺は、朝から今まで気を失っていたのか……。けど、何故……。何故、助けがこないまま放っておかれたのか理解できない。
 彼はゆっくりと、きしむ体を起こし、窓から車外へ出た。小雪がちらついていた。
 見慣れた景色だが、何処か違和感がある。時計を見た。Gショックなのに壊れている、と思った。湿地でスニーカーを濡らしながら道路上へ這い上がった。
 しばらくそこで待っていたが、車は一台も通らなかった。携帯は使えない。この山のなかは圏外だ。
 彼はあきらめ、歩いて戻ることにした。幸い、怪我はしていない。
 何かがおかしい、そう思いながら、彼は山をくだっていった。由布岳から先は、うっすらと雪が積もっていた。わだちの跡はない。
 狭霧台まで戻ってきた。山の中腹の大きなカーブにあり、展望開け、眼下に広がる街が一望できる場所。
 日本有数の観光地の灯火が見えなかった。夕闇のなかに、街はひっそりと沈んでいた。
 停電? しているのか?
 何かが変だ。何か起こっている。自然と足早になる。だが、街までは遠い。車なら十分もかからないのに……。
 ようやく、たどり着いたときは、真っ暗闇だった。いつも、煌々と灯りをともしているコンビニが真っ暗だ。三六五日、二四時間営業のコンビニが、営業していない。それは、すなわち異常事態を意味していた。
 ほとんど駆けるように山を下ってきた彼だったが、息切れもせず、そしてそれを不思議とも思わず、家路を急いだ。
 街中の細い路地のあちこちに、たくさんの人影を見て、ほっと安堵した。胸をなでおろした。心配していたことを馬鹿らしく感じた。ブラブラ、散歩している、たくさんの人。なんだよ……。いつもと変わらないじゃないか……。停電しているのは変だけど、この様子なら……。ひとりとすれ違ったとき、その顔を見てぞっとした。どこを見ているか解らない虚ろな目、半開きの口、まるでヒューズがとんだような顔。その表情からは理性も知性も感じられない。
 え!? ……なんだ? 
 すれ違う人が、皆そうだった。
 なんだよ? コレ。
 観光客ばかりではない。彼はそのなかに友人の顔を見つけた。朝、バス停に来なかった友人。思わずその肩をつかまえた。
「おい、どうしたんだよ。どうして朝来なかったンだよ。どこ見てるンだ。今、何しているンだ」矢継ぎ早に聞いたが、帰ってくる答えはなかった。彼はホンダが誰かもわかっていないようだった。
 どうなっているんだ。彼のことも気になったが、家族のことが案じられた。ホンダは友人から離れ、家へ向かった。
 家は真っ暗だった。玄関の扉には鍵がかかっていた。彼は鍵をあけ、入った。闇のなかに、静まり返っている。
 嫌な予感に、心臓がふるえている。
 何かが動いて、物陰へ隠れた。
 何だ? 鼓動が速くなる。今、何かが、テーブルの陰へ入った。
 陰から様子をうかがい、出てきた小さな人影はこう言った。
「耀にいちゃん……?」弟の亮太だった。
「どうしたんだ。お前ひとりか。親父とお袋は」
 亮太は泣きながら首をふった。
「耀にいちゃん、今までどこにいたの……?」
「朝……バスが転落して」気を失っていたという彼に、弟は驚くべきことを言った。
「一週間も?」
 一週間!? じゃあ……時計は壊れていなかったンだ。俺は、一週間も気を失っていたのか。
「お前、ずっとひとりでいたのか」聞きたいことは山ほどあるが、何から聞いていいのかわからない。
「うん、だって、パパもママも帰ってこないし……。おにいちゃんも」
「いったい、何があったンだ」俺が眠っている間に。
「知らないの」弟は驚いたように問い返した。
「みんな、おかしくなっちゃったんだよ。頭がおかしくなっちゃったんだ。変わらなかった人はみんな街を出たよ。別府や福岡の方へ行った」信じられない話だが、たった今、見てきたとおりだ。
「テレビは」そうか。停電していれば無理だ。
「電話は」
「つながらないよ。停電していない頃、一回だけ、ミキねえちゃんとつながったよ。逃げてって言ってた。化け物が人を襲っているって……」
 彼は携帯を取り出した。もうバッテリーが残り少ない。しかもつながらない。災害時伝言ダイヤルへの案内もない。けど、聞かなきゃ。何なんだよ。化け物って。逃げろって、どこから?
 情報源は? 何かないのか? そうだ。ノートパソコン。ネットだ。彼は自分の部屋へ駆け込み、パソコンを開き電源を入れた。バッテリーは充分ある。しかし、ページは開かなかった。どのサイトも、エラーになる……。
 背中をつつかれ、ふりかえると、亮太がラジオを手ににこっと笑っていた。
 そうだ。アナログ過ぎて忘れていたが、ラジオがあった。災害時に(コレをそう呼んでよいのかどうかは判らないが)頼りになるのはラジオだけだ。スイッチを入れてすぐに、コレが、通常の災害の比ではないことを知らされた。
 被災地は、熊本・大分・宮崎全域。徐々に広がり、現在では福岡・佐賀・長崎・鹿児島を巻き込み、九州全県が、その災禍に襲われている。当然、ラジオ局でも異変は起こっている。喋っているのは、どう聴いたってアナウンサーではない。「すべての空港は閉鎖され、九州を脱出する健常者は、関門海峡や各フェリー航路の港に押しかけており……関門トンネル人道では……政府は現地入りしての精神崩壊者ルナティックの救済を困難と判断。自力で本州入りするノーマルのみを」聞き慣れない単語が続々とびこんでくる。ルナティック、ノーマル、そしてデモニアック。どうやら精神崩壊した人々をルナティックと呼んでいるようだった。そして健常者がノーマル。デモニアックは? デモニアックはなんなんだ。「しかし、感染の怖れがあるため、日本政府は被災者の受け入れを……」感染? 感染ってなんに。「しかし、当初発表されたウイルス感染説は間違いであるとの意見が多く……」
 亮太が説明した。
「脳細胞を破壊するウイルスに感染したンじゃないかって、はじめ言っていたんだ」
 馬鹿げている。
「それが隕石にくっついていたんじゃないかって」
 あの流星群か!? やはり、アレが原因なのか。心のどこかで、結び付けたくなかった事柄が、強引に結ばれてしまった。ウイルス云々はともかく、やっぱり、流星群が原因で異変が起きたんだ。そうだ。あの、強烈な光……。いや、あの光は北の方角へ消えた。それは福岡の方だ。異常とは関係ない。だったら、あの光はなんなんだ。
 今の時点でわかる情報はこれ以上ない。
「食べ物は?」弟に聞いた。亮太は微笑みながらチョコレートをさしだした。
「おにいちゃんの分、取っておいたよ」ホンダはそれを受け取ろうとして思い直した。
「いや、いい。お前が食べな。親父とお袋は?」
 その言葉を聞いたとたん、亮太が泣きべそ顔に変わる。
「ずっと、帰ってこない」
「工房へは行ってみたのか」彼の両親は、観光客相手に陶芸の体験教室などしている。工房の場所は、それほど遠くない。
 亮太はおびえた顔で首をふった。彼の想像も同じ。そこに、皆と同じように我を失っている両親を見つけるのが怖いのだ。虚ろな、深淵のような、忘却の目をして。
「俺が見てくる。ここで待っていろ」ホンダは懐中電灯を取り上げた。たとえ、そうなっていたとしても、いや、そうなっていたなら、首に縄をつけてでも、ここから逃げ出さなきゃいけない。
 彼の心はもう決まっていた。ここを逃げだす。別府へ行けば、大阪と四国行きのフェリーがある。なんとかしてそこまで行って、どちらでもいい、それに乗る。九州から、脱出する。
 工房の扉は半開きだった。彼はおそるおそるなかに入った。
 もし、暗闇でなければ、壁一面を濡らすものが見えただろう。
 懐中電灯の光のなかに、父の顔が浮かび上がった。轆轤の上に乗っている。体のほうは、その向こうの闇のなかに沈んでいる。腹を食い破られ、手足を引き千切られ。
 懐中電灯が落ちた。足の力が抜けた。立っていられなかった。現実はたったひとつだが、頭のなかは混乱していた。探すまでもなく答えはそこにあったが、彼は必死であがらっていた。数分間、彼はそのまま動けなかった。実際には数分だが、永劫のごとく感じた。
 クソ。しっかりしろ。はじめにその言葉が頭に浮かんだところを見れば、精神は父を失った悲しみよりも、この現実を生き延びる努力を選択したようだった。母を捜す。馬鹿、捜すまでもない。これ以上ここにいるのは危険だ。非情な心の声を無視して、工房の奥へ踏み込んだ。
 奥の部屋で、目的のモノを見つけた。頬を涙がつたったが、駆け寄ることはせず、ゆっくりと背を向けた。
 心のなかで、何かが音をたてた。
 いるんだ。何かが。ミキが言っていたモノが。
 音もなく降る雪、その下に静まり返る家々のなかで、同じような光景が広がっていることが想像された。
 亮太。しまった。ひとりにするんじゃなかった。ホンダは暗闇のなかを駆けた。闇のなかには人がたくさんいる。夜目が利くようになったのだろうか。全力疾走しているというのに、ぶつかることはまったくなかった。夜空に光はまったくない。厚い雪雲がくろぐろと重く空を覆っていた。火照った顔にあたる雪が溶ける。
 亮太は息を潜めて彼の帰りを待っていた。ホンダはひとまず安堵した。が、弟の問いは残酷だった。
「いた?」開口一番そう言った。彼は目をそらし、床を見つめ、「いや、いなかった」努めて平静を装い答えた。正直に話す必要は何ひとつない。
「用意して、ここを出よう。上着を着るんだ」
「どうして? パパとママは?」再度、答えられない質問。
「捜しようがない……。生きていれば必ず会える」酷いウソを言っていると感じた。
 彼はトレーナーに着替え、フィールドジャケットをはおった。弟にもダウンジャケットを着せた。持ち出すものは、ラジオ、食料、水、けれどあまりたくさんは持てない。
 武器が、欲しい。できれば銃……。が、叶うわけもない。
 外が仄白んできていた。夜が明けはじめている。丁度、いい。まったく、眠くない。意識は、はっきりしている。まだ、大丈夫、だ。亮太は眠そうだ。この一週間、ろくに眠ってなかったのだろう。俺が戻ってきて、安心したのかも知れない。眠そうだ。だが、起きてなくてはいけない。これから、由布岳を越え、城島高原を抜け、鶴見岳をくだり別府まで徒歩でゆく。彼は弟の手をひき、家を出た。一面の雪景色だった。新雪のうえへ、踏み出した。ふりかえらない、と思っていたが、ふりかえった。十六年住んできた家。だが、昨日までの、生活はそこになかった。昨日まで(正確に言えば一週間前まで)あたりまえにあって、これからもずっと続いていくものと、根拠もなく思っていたものが、跡形もなく消えていた。












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