召還2
雪のなかで目を覚ました。死んではいない。大の字で倒れている。顔が赤黒く腫れている。触れてみる。手は動いた。触れると痛かった。口の中が切れて、唇が乾いた血ではりついていた。開くとベリッと音がした。息を吸い込む。冷たい空気が口中の傷に心地よかった。雪をすくい、顔に押し当てた。
敵わなかった。まったく……。
意識を失う前の、立ち去り際の奴のセリフを憶えている。
「強くなれ」俺は北西のドーム状の建造物にいる。
憐れむような目で、人を見ながら。
雪に突き立てた刀が目に入る。あの刀を使っても、多分負けた。敵わないンだ。ふざけてやがる。刀で勝負すれば、命はなかった。奴の言うとおり。
けれど、ひとつだけハッキリしている。俺は強くなれる。奴の言うとおりなら、奴と互角に戦えるくらい。強くなれる。互角でも不十分だ。圧倒しなければ、ならない。
戦いたい。もう一度。
その時、湧き上がるように噴出して、彼の心を支配した感情をどう説明すればよいだろうか。強いて言うならば、冷たい闘志。
彼は立ち上がった。刀を手に取る。鞘へ収めた。
北西のドーム状の建造物、福岡ドームだ。それ以外考えようがない。彼は雪を掻き分け歩き始めた。
目的地は、もはや海峡ではない。目的も避難ではない。
両親の死、難民行、悪夢のように殺される人々、弟の被災、そしてこの手で殺めた、すべてが彼を呑み込んでいた。怨念ではない。研ぎ澄まされた冷たい魂。心の奥底まで冷えわたるような……。人間以外のモノに彼はなったのかも知れない。
それは、エレボス。
行く手は真っ暗だ。灯りひとつない。空にも星ひとつない。ただただ、広がる暗闇。その闇の底が仄白い。
もう、何日歩いたのか記憶にない。何度夜が来て、何度朝が来たか、朦朧とした意識で数えようとしても無駄だった。
すでに雪は姿を消していた。ただひたすらにまっすぐなアスファルトの上を一歩一歩、歩いてゆく。一台の車もない。九州とはずいぶん様子が違う。
次のインターに着いたら、高速道路を降りてみよう。彼はそう思っていた。まだ、被災地の中かもしれないが、どうでもいい。人はいるだろう。まともな……。
その時、前から道路公団の黄色いパトロールカーが走ってきた。幻覚のように見えた。彼に気づき、スピードを上げ近づいて来ている。
やったぞ……ちくしょうめ。……俺は生きのびた。
川野郁夫は保護された。九州封鎖以来、初めての、そしてたった一人の脱出者だった。
アイコは高速道路を降り、ホームセンターの駐車場に車を止めた。ここはもう、被災地の中心部に近い。ルナティックの姿がまばらに見える。北部九州では、寒波により数万人ないし数十万人の死者が出たが、それは知る由もない。
二手に分かれて必要な物資をかき集めた。アニナはポリタンクを五本トランクに押し込んだ。ここに来る前にトラックに会ったのだ。ガソリン運搬用の。給油したことは言うまでもないが、ポリタンクがあればもっと恩恵に預かれた。今度、出会ったら、チャンスは逃さない。
アイコがコンクリートの上に、黒スプレーで何か描いている。何を描いているのかしら。アニナはルーフ越しに覗き込んだ。そこに描かれているものはすぐにわかったが、あまり好ましいものではなかった。
魔法円。
視線に気づいたアイコは、身を起こすと、スプレー缶をカチャカチャ鳴らし、にやりと笑った。
その足元には、大きな円。内側に奇妙な書体のアルファベット。そしてまた円。中心には、数字の入った桝目。その数字は、縦横斜め、どの方向に加算しても同じ数字になる。それがこれから呼ぶ悪魔の数字。
「ショータイムよ」軽口を言う相手に、笑顔は出なかった。
「ちょっと、手を貸して。あそこで寝ているルナティックをここまで担いで来るの」
「何故?」返答しだいでは断る。
「生贄じゃないわ。円の中に置いて憑依の対象にするの」
「……そう」予想とは違ったが、あまり好ましい答えではなかった。
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