船中
「初期キリスト教会の歴史は排他の歴史ね。それまで人々が崇拝していた神々をすべて邪神とし偶像崇拝を禁じた。その流れのなかで、多くの神々が悪魔のレッテルを貼られていったわ。有名なバールがそう。それは古代セム人の豊穣の神だった。アシュタルテもそう。セム人の豊穣の女神。バビロニアではイシュタル。ギリシャ名はアフロディーテ。極端な例をあげたけど。だから、ソロモンの七十二霊というけれど、実際には何霊いるのか、はっきりしたことは言えない。もっと少ないと思う。あきらかに捏造された霊もある。マモンはシリア語で『富』や『金』を意味し、聖書の中で非難されている。そこから、マモンという名の金銭欲の悪魔が創造されたの。有名な蝿の王ベルゼブブの語源はバールゼブブ。前述のバールにその名の由来がある。これから見ると虚構っぽいけど、蝿の王の存在は古代から伝わり、生贄がささげられていた。名称の正否はともかく、いるかも知れない。どう? 愉快じゃない。真贋のほどをこの目で確かめられるの。もうすぐよ」九州へ向かう船の中だ。
「召喚に成功したことは? あるの」アニナの問いに、アイコは何を馬鹿なことを、という顔で応えた。
「あるわけないじゃん。居もしないモノを呼ぼうとしていたの。けど、今は違う。確実にいるの。この先に」彼女のつかんだ情報では、少なくとも十以上のデモニアックの群れがある。群れとはつまり、ひとつの霊が率いる軍団である。例えばアガレスというソロモン七十二霊の悪魔は、三十一の悪霊を従えると思われている。ソロモン七十二霊とは、中世のグリモア『ソロモンの小さな鍵』通称『レメゲトン』に列記されている悪魔達である。これらは第二の『エノク書』にある悪魔のリストから多大な影響を受けている。第二の『エノク書』とは、真の『エノク書』が知られていない頃創出された悪魔のリストとその技の書である。そしてのその堕天の物語である。真の『エノク書』は、断片としてしか残っていない。紀元前の黙示文学。人類に文明をもたらすため、地に降りた天使たちの物語。そこにサムヤサの名がある。
その『エノク書』が、『エト・エウトクタ』の物語の続きであるならば、彼らは人間である。何故、『エノク書』では堕天使として描かれているのか。そこはわからない。
「少し整理して考えましょう。エト・エウトクタを信じるなら」アイコの言葉を、アニナがさえぎった。
「あの陳腐なRPGのシナリオみたいな物語を信じるの」
「あら。現にあなたの夢に出てくるのは、その登場人物でしょう」ラ・プティエリ・ア・ナネ。
「わたしの夢は……そうだけど……」
「この先にいるのは、オル・ヴァブ。災禍の現状を見れば、完全に一致する。でしょ。アスルーもいるかも知れない。エト・エウトクタの悪魔のリストには、ソロモン七十二霊と似た名前を持つものも多い。オノボスはオロバス(Orobas)。セレはセーレ(Seere)。サバックはサブナク(Sabnak)。わたしはこう考えているの。これらの悪魔は本当にいる。そしてエリゴール。ソロモン七十二霊にエリゴル(Eligor)という悪魔がいる。民間の伝承の中にアビゴール(Abigor)と言う悪魔がいる。共通点が多い。静謐な騎士の姿で現れる。これがエト・エウトクタのエリゴールと同一かも知れない。『エノク書』でサムヤサとともに地上に下った堕天使のリストにアキビール(Akibeel)そしてアジビール(Azibeel)と言う名前がある。このどちらかがエリゴールの訛った名前で、後にアビゴールそしてエリゴルへと、召喚が試みられるなかで徐々に正しい名に近づいていったのだとしたら。面白いじゃない」まあ、行って見ればわかるわ。それに、彼を召還できれば、他の悪魔から護ってもらえるかも。
「エレボスは……? エレボスは何なの? 捜せばどうなるというの」
「さあ……」それは、アイコもわからない。オル・ヴァブを倒せるとか? うーん……。エト・エウトクタでは、エレボスはアスルーを倒したとある。悪魔は封印する他なかったとも。だったら、エレボスには倒せない。ア・ナネを捜すべき。理屈ではそうなるわ。それを捜し出してどうしろというのかしら。そもそも、この子、なんだってそんな夢見るの?
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