写真
特に意味も見いだせないまま、積み木を重ねては崩し、重ねては崩しを繰り返す。そんな行為を連想してしまうほど、空虚で実のない時間だった。
最後の和音が溶け消えるのを待って、マリーは静かに鍵盤蓋を下ろした。盤上に登りたがる愛猫を優しく引き離し、胸元に抱き上げる。クライネは二三度宙を爪で掻くと、諦めたようにおとなしくなった。外の空気を求めているであろうその様子につられ、マリーは窓に目をやる。今日は珍しく雪の降らない日だった。もちろん温暖ではないが、人にとっても猫にとっても悪い気温ではない。しかし室内にいるにも関わらず、マリーは冷たいそよ風のようなものを感じずにいられなかった。誰にも見つからず、一人きりで膝を抱えているような。そんな焦燥と寂寥が、絶えず胸を覆っている気がする。マリーはたまらず目を閉じた。
リヒャルトがいない時間も既に半分が過ぎた。あと数日すれば彼が戻ってくる。それを律儀に指折り数えて待っているような自分を、マリーは内心嫌悪していた。
これまでさんざんいがみ合い、居心地の悪い沈黙を繰り返してきたのだ。今更たかが数日放っておかれたくらいで、寂しいも何もあるはずがない。そう高を括っていたのに、どうしたことだろうこの空白感は。
嫌味を言われることがない代わりに、ささやかな挨拶をする相手がいない。マリーを傷つける人はいないけれど、求めてくる者もない。
その体温を確かめるかのように、マリーはしなやかな獣に頬を寄せた。抵抗か気遣いか、クライネは柔らかい肉球を押しつけてくる。今マリーを安心させてくれるのは、この温もりだけだ。いつもなら自由にさせておく子猫をむやみに拘束しているのも、それが原因だった。
(けれど今の私には、寂しいと言う資格がないのかもしれない)
最後に片づけ忘れがないことをもう一度確認し、マリーはピアノに背を向けた。解放されたクライネは、扉が開くが早いか廊下に飛び出していってしまう。マリーは少し迷ってその後を歩いた。午後の日差しが強い時間だというのに、少し寒さが増した気がする。リヒャルトの私室に目をやり、ふいと視線を外した。自分がそうした意味にさえ、今は自信が持てなかった。マリーは唇の内を軽く噛む。
リヒャルトはずるい。そうやって訳も分からないまま、マリーの心を絡めとっていく。本人にはひとつの安堵も与えないまま、本心を奪い取ろうとする。でも本当にずるいのは、彼より自分だ。
猫の歩行は音がしないため、マリーは一人取り残されたような錯覚を起こした。不安と罪悪感が足元に絡みつき、後ろめたさに拍車をかける。重い感情は恋心と同様に、否、それよりもなお消し難かった。
マリーは決して無知蒙昧な訳ではない。最近の自身の変化にくらい気がついている。マリーは心臓に鈍い痛みを感じながら、ちょこんと座って待つクライネのために書室の扉を開けてやった。黒猫は愛らしい足取りで部屋に入り込むと、それこそ本を蹴落とすようにして書棚をよじ登っていってしまった。高いところが好きなのだ。最上段にまで逃げ込まれると、もうマリーには手が出せない。うっかり愛猫が埃まみれになるところを見逃してしまったマリーは大きなため息をつき、暗い表情のまま天井を仰いだ。
近頃のマリーは家族を、故郷を想う時間が減っている。無論、理不尽に全てを奪われた痛みを忘れたのではない。忘れられるはずがない。ただ以前にはあれほどはっきりしていた憎しみや思郷の輪郭がぼやけて、いつか消えてしまいそうな、そんな希薄な存在感しか持っていない気がするのだ。その事実はさらなる棘となってマリーの胸を刺した。
彼に恋をしていると言いながら、では一体どこが好きなのかと自問自答すれば言葉に詰まる。想うだけで苦しいとうそぶき、決定打になりうる対峙を避ける。リヒャルトがネーベルブルクに発つ日だって、結局ろくに目を合わせもしなかった。
ローズマリー・ミュートスは結局、両親の死にうちひしがれて泣き沈んでいた頃と何も変わっていないのではないか。単につらい思いを避け、恋に逃げ込もうとしているだけなのでは。
マリーにはそれが恐ろしい。自分で自分の矜持を踏みにじることが怖い。
そんな思惟に押しつぶされそうになっているマリーのもとに、何かがぱらぱらと降りかかってきた。今まさにクライネが本棚の最上段から飛び降りようとしていたところだった。つまり、降ってきていたのは埃だ。
「ああっ、こら、やめなさいクライネ!」
主の悲鳴も虚しく、黒猫は一瞬だけこちらを見ると、さっさと飛び降りて部屋を出ていってしまった。狭い部屋に、今度こそマリーだけが残される。栗色の髪にまとわりつく埃をなんとか払い終えて、マリーは大きくため息をついた。案の定とでも言うべきか、クライネが歩きまわったらしい段では色んな物が倒れ散らかっていた。不安定に積まれていた本などは特にそうだ。こんなことなら、クライネをずっと抱いておくべきだった。今更言っても仕方ないことではあるが、数分前の自分を呪わずにはいられない。マリーはもう一度嘆息して、本棚に手を伸ばした。
精一杯背伸びをするものの、上段になるとなかなか手が届かない。こういう時は自分の小柄さが癪に障る。やむを得ず指先だけで探るように本を立て直していると、棚の縁ぎりぎりに引っかかっていたらしいものが何冊か落下してきた。マリーは埃っぽさに辟易しながらそれらを拾い上げる。すると重ねたうちの一冊から、何か紙片がはみ出しているのが目についた。 まさかページが破れてしまったのでは、と半ば戦々恐々としてマリーはその本を開く。そして、首をかしげた。
「……リヒャルト?」
本自体は何の変哲もない、革張りで少々重いのが気になる程度のものだ。内容は分からないが、文字列から見るにクローネ以北の外国語だろう。マリーはこれを修めていないので読み取れない。しかし問題は本ではなく、そこに挟まった一枚の写真だった。
モノクロームの画面に映っているのは、物憂げな表情でこちらを睨む一人の男性だ。髪を後ろに撫でつけてはいるが、その顔はリヒャルトにそっくりだと言っていいだろう。どうしてこんなものがここに挟まっているのかと、マリーは紫瞳を疑問に染めつつ写真を裏返した。そこには二十年近くも昔の日付と誰かの名前が、恐ろしく几帳面な筆跡で記してあった。濃紺のインクはだいぶ薄れてしまっているものの、読み取るにさほど不自由はしない。マリーは窓からの陽光を頼りに、一文字ずつ綴りを指でたどった。
「フェリ……フェリクス・ケルナー?」
ケルナー姓。マリーはますます面食らって、もう一度ためらい混じりに写真を裏返した。名前こそ異なるものの、男性は間違いなくリヒャルトに生き写しだった。顔立ちだけでなく不機嫌な表情も、色素の薄い髪も彼と一致する。ただ、目元と年齢が若干異なるようだ。写真の人物──フェリクス・ケルナーは、リヒャルトよりもやや年上に見える。しかし目に関してはマリーの勘違いかもしれなかった。特に皺が入っているわけではなく、リヒャルトより眦が優しいということもない。いかんせんモノクロームの濃淡だけでは判断が難しい。
しかし、とマリーは口元に指を当てた。リヒャルトに兄弟がいるなんて話は聞いていない。二十年前にこの姿であるということを考慮すると、フェリクスという人物は彼の父親だろうか。
そこまで思考を巡らせたところで、マリーははたと思い当たった。ほとんど反射的に本を閉じる。心臓の刻みが、動悸とでも言うべき嫌な速さを帯びていた。
この写真は、以前から暗に触れるなと示されていた『何か』ではないのか。マリーはここへ来て以来、彼とその周囲に関する写真を見たことがない。あるいは徹底して破棄されてしまったかのように、その一切がないのだ。今マリーが手にしている一枚は、廃棄から逃れたものだと考えるのが妥当だろう。
その意味を追求するべきだろうか。それとも。
その時突然に呼び鈴が鳴って、マリーは情けない悲鳴をあげることになった。わたわたと抱えていた本を脇の机に起き、埃っぽい部屋を飛び出す。先程の写真は、もう一度もとの場所にきつく挟んでおいた。マリーは一度だけ書室を振り向いて、階下へと急ぎ足で降りて行く。
「ごめんなさい、お待たせしまし……きゃあ!?」
慌てふためきながら玄関扉を開くと、マリーは返事もないままに腕を掴まれ、外へと引きずり出された。すわ不審者かと顔色を変える。しかし耳に入った声は暴客のそれに似つかわしくない、明るく高いものだった。
「ごきげんよう、誘拐に来ました!」
マリーは恐る恐る、少々手荒な客を見上げた。赤味の強い金髪に、涼し気な蒼氷の瞳。そこにはソフィア・ディートリヒが、にこにこ顔で立っていた。
6/25 お礼閑話更新しました。(一種類)
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