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ハルジオン~口だけ野郎一代記~ 作者:曖昧

嘘を重ねて引き返せなくなる第一部

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京都大虐殺

 日曜日、紫苑は朝からアリスを伴ってギルド系列の病院に足を運んでいた。
 目的は言うまでもなく四人の見舞いで、勿論本意ではない。
 ポーズとして心配しているフリをしておかねば薄情だと思われるから仕方なくだ。

「皆、調子はどうだ?」

 部屋に入ると四人がそれぞれの状態で寛いでいた。
 ルドルフはリハビリがてら腕立て伏せを、女子三人はあやとりをしている。

「うむ、まだまだ本調子ではないが……何、直に取り戻してやるさ」
「そんなこと言ってるけど、ルドルフくんまだ百回なのに凄い汗だよ?」

 天魔の指摘通り、ルドルフは汗だくだった。
 平時ならば千でも二千でも軽くやってのける彼だが、まだまだ身体の調子は良くないらしい。

「ぐ、むぅ……」
「それにしても四人諸共に情けないわよね。
まだ麻衣お姉さんは情状酌量の余地があるけど、他三人は馬鹿丸出しだわ」

 アリスの容赦ない口撃に四人の顔が苦味走ったものに変わる。
 彼らとて悔やんでいるのだ、ああも間抜けを晒してしまった自分達に。

「ねえねえ、どんな気持ち? 制止の声も振り切って自分から罠にかかりに行くって!
あれかな、お姉さん達は猪とかそういう類の生き物だったりする?
ぶひーぶひー! 美味しそうな餌だー! とぉおおつげきぃいいいいいい! ってな感じの」

 アリスの舌は絶好調だった。
 苛虐の性を隠しもしないその笑顔は、特定層の人間には堪らないだろう。
 具体的に言うとマで始まってゾで終わるような性癖を持った人種だ。

「(良いこと言うじゃねえかクソガキ)こらアリス、あれは仕方なかったんだ」
「……紫苑さんはそう言ってくださりますが、今回ばかりはアリスさんの言が正しいかと」
「いや、何も身内贔屓ってわけじゃない。確かな実験の成果が出たんだよ」

 意識を取り戻したのも最近だし、取り戻してからもゆっくり話せたことはなかった。
 ゆえに四人は神便鬼毒酒について殆ど知識が無いのだ。

「どうゆうことなん?」
「例の酒――神便鬼毒酒と名付けられたそれは凶悪な初見殺しだ。
ギルド側で実験をした際にな、事前情報が無かったものは皆悉く神便鬼毒酒を飲んでしまった」

 神便鬼毒酒の誘惑を跳ね除ける前提条件は心が強いことでも何でもない。
 毒性があると最初に知っておくことだ。
 だからこそ、初見で欠片も通用しなかった紫苑の異端さが際立っている。

「で、皆諸共に身体を弱らせてダウンと相成ったわけだ。
とは言っても、四人のように長期のダウンではなかったがな」
「僕らが長引いてる原因って……」
「ああ、それについてはすまない。恐らく俺が飲むように言ったアムリタだろう」

 申し訳無さそうに謝罪する紫苑だが、腹の中は別だ。
 四人に対する謝罪の念など微塵も篭っていない。

「いや、あれはどうしようもない。そもそも引っ掛かった我らが悪かったのだ」
「ちゅーかあの場面やったら誰でもアムリタ飲ませるやろ」
「だよねえ。あんなとこに落とし穴があるとは気付かないよ普通」
「……そう言ってくれると幾分、気持ちも楽になる」

 心にもないことを言いながらアリスと二人で見舞いの林檎を剥き始める。
 料理が出来るわけではないが、皮剥きくらいなら紫苑にも出来るのだ。

「しかし、何故紫苑さんはあの匂いを感じなかったのでしょうか?」

 仮に知っていたと言うのならば耐えられた理由も分かる。
 だが、それ以前に紫苑は誘惑すら感知していなかった。
 そこからしておかしいのだ。

「分からん。仮に俺が神便鬼毒酒の存在を知っていたとしても、匂いは感じるはずだしなぁ」
「ギルドで調査とかはやったん?」
「俺も積極的に協力しているが不明だ。今のところかなりの人数に飲ませてるみたいだが……。
冒険者で効果を発揮しなかったのは俺ともう一人だけで、共通点なんかも分かってないらしい」

 ふと、隣のアリスに視線を向ければ彼女は林檎を兎の形に切っていた。
 紫苑も負けじと対抗してみるが、どうにも上手くいかない。

「(何故だ……何故奴に出来て俺に出来ん……?)」
『そりゃ器用さがダンチだからじゃねーかな。いや、お前も器用っちゃ器用だけどさ』

 表情や声色、涙腺を自由自在に操れるのは確かに器用だ。
 しかしそれが手先の器用さに繋がるかと言うと、それはまた別だろう。

「つまりは役立たずってわけよね」
「……つーかさぁ、今更だけど何でクソガキはさらっと混じってんの?」

 例のダンジョンに関わる話にアリスが混ざっていることがどうにも解せない天魔。
 まだ詳しい事情を聞いていないのでそれも仕方のないことだ。

「あら、お言葉じゃないの天魔お姉さん。誰がお姉さん達を助けたと思ってるの?」
「む……紫苑よ、もしや……」
「ああ。兎を使って外に救助要請を出したら雲母さん、アリス、アイリーン、
そしてルークが俺達を助けるために来てくれたんだよ。
夏休みに例のダンジョン攻略に加わってくれないかって打診もあったらしいからな」

 動かせる人員が居なかったための苦肉の策、
しかしカマキリの打った手は見事と言うしかないだろう。
 人命を優先した判断のおかげで紫苑達は救われたのだから。

「だから感謝しなさいな」
「ありがたくはありますが……アリスさん、私達だけなら来なかったでしょう?」
「当 た り 前 じ ゃ な い」

 何を当然のことを聞いているの? と言わんばかりの態度だ。
 実際、紫苑が居なければアリスは動かなかっただろう。
 むしろ恋敵が労せず消えてくれるチャンスだと喜んでいたはずだ。

「それでお礼言えってのもとんだ厚顔じゃない? いやまあ、ありがたいけどさ」

 それは自身が助かったことではない。
 自分の命なんてハナから勘定に入れてはいない。
 それは天魔だけではなく栞も同じだ。
 彼女らが感謝しているのは紫苑を助けてくれたこと。
 そしてアリスもそこはしっかり理解している。何せ同じ恋する乙女なのだから。

「えっと、ありがとなアリスちゃん。何にしろ助かったわけやし」
「うむ、感謝するぞ。アイリーンとルーク、雲母さんにもしっかり礼を言わねばな」
「他はともかくデカブツルークは良いわよ別に。だって私の家来だもの」
「(扱い悪いなあの野郎。ああ言う奴見てると何だか楽しくなってくるわ)」

 剥き終わった林檎を四つの皿に載せてそれぞれの前へ。
 受け取った四人は軽く礼を述べてから林檎を摘まみ始めた。

「ん、美味しい……あ、そういやさ。その……神便鬼毒酒だっけ?」
「ああ」
「それについて今のところどれぐらい分かってるんだい?」

 紫苑には何故か通じないことは分かった。
 だが、調べている以上は他にも何か判明したことがあるはず。
 天魔はそう言いたいのだろう。

「一応、これが資料だ」

 四人分の資料を配布する。
 どうしてこんなところにこんなものを持って来ているのか、
四人が自分の身体に起きたことの理解を深めるための一助――――と言うわけではない。
 これを見せることで自分の希少性をアピールしたいのだ。
 勿論表向きは前者の理由だが本音は後者、何とも浅ましい男である。

「むぅ……冒険者とモンスターにのみ効果を発揮する……?」

 渋い顔のルドルフ。
 まるで同類だと言われているようで気に入らないのだろう。

「それもありますが、神便鬼毒酒と言う名なのに人間に恩恵を与えないのも……。
いやまあ、あくまで肖っただけと言うのは分かりますが……」

 神便鬼毒酒と言うのは大江山に住む鬼を討伐した際に、
源頼光らが使用したもので、鬼が飲めば毒に、人間が飲めば力を授けてくれると言うものだった。
 しかしこの神便鬼毒酒は違う。
 モンスターはともかく冒険者まで毒に侵すし、
かと言って一般人を強化してくれるかと言うとそうでもない。

「それより僕としては、この幻術魔法ってのが気になるね」
「うん……うちも同じ後衛やから分かるけど、こらちっと異常やわ」

 興味深そうな天魔と、真面目な顔でその意味を考える麻衣。
 特に麻衣からすれば同じ後衛だからこそ、紫苑の強化の異常性が納得出来ない。

「うちがもし、全魔力を消費して幻術魔法発動させたとしてもこうはならん。
何せ適正外やからな。せやけど、うちより魔力が段違いに低くて、
尚且つ適正外やのに紫苑くんは幻術魔法を……異常な域で発動出来る……」
「(羨ましいか? この凡愚めが!!)」

 言うまでもなく麻衣は羨んでいるわけではない。
 むしろ紫苑のことを心配しているのだ。
 条理を踏み越えた力、しかもそれを発動するために必要なのは神便鬼毒酒。
 何らかのリスクがあると思うのが当然だろう。

「均衡が崩れる、と言うのが不安だな。アリス、卿は一番紫苑の傍に居るだろう?」

 何か変わったことはなかったか、暗にそう問うているのだ。
 しかしアリスは首を横に振ってそれを否定する。

「無いわ。何時もと変わらず紫苑お兄さんは紫苑お兄さんよ」
「そうですか……」

 だが、よくよく考えればアリスだって条理を無視した力を行使するのだ。
 まだ紫苑は既存の魔法と言うカテゴリーの中で異常を発揮しているのだからマシだろう。
 少なくとも今はそう納得するしかない。
 四人はそう自分に言い聞かせて不安を飲み込んだ。

「皆もあまり心配してくれるな。プラスに考えよう。
俺が神便鬼毒酒を飲むことで、かなり安全な撤退手段を手に入れたんだからな」

 だからもっと褒めろ!
 紫苑はそう言いたいのだろうが、彼に不安はないのか?
 ここまで怪しい力を当然のように受け容れているのは少しばかりどうかと思う。
 自負か傲慢か――――十中八九後者だろう。
 素晴らしい自分だから素晴らしい力に目覚めた、心底そう信じられるのはある意味では羨ましくもある。

「(拍手喝采しろや! っとに空気読めねえ奴らだぜ。心配しつつも褒めろや!!)」

 紫苑の内心を知らぬ仲間達からすれば不安でしょうがない。
 安全な撤退手段、成るほどそれは素晴らしい。
 いざとなれば彼は平気で使用するだろう――――自分の身を省みることもなく。
 己よりも仲間を生かすために平気でワケの分からない力を使ってしまえる。
 リスク? そんなものはどうでも良い。
 大事なのは仲間を生かすことだ――――紫苑はそう言う人間だと誰よりも知っているから。
 四人とアリスは顔を見合わせる。

「……お姉さん達がしっかりしていれば良いのよ?
あんな風に無様を晒すことさえしなければ、紫苑お兄さんは大丈夫なの」

 咎めるような口調、アリスの顔は真剣そのものだった。
 大事な局面で無様を晒したのはこれが初めてじゃないだろう?
 だったらもっと危機感を持て、私の愛する人にばかり負担を背負わせるな。
 少女の想いは同じく紫苑に恋する乙女達にもしっかり伝わっていた。

「……分かってるよ。ああ、心底自分に嫌気が差してるからね」

 初見殺しだった、仕方ない。
 そんな言葉で納得出来るほどにこの想いは安くないのだ。
 天魔は未だ力の入らない己が肉体に憎悪を抱く。

「もっと、もっと、誰よりも、何よりも強くならなければいけませんね」

 想い人のように誰よりも強い心は持っていない。
 ならばせめて、単純な強さくらいは身に着けておくべきだろう。
 じゃなきゃ余りにも情けなさ過ぎる――栞は強く強く自分を叱咤する。

「うん……しっかりせななぁ……」

 同じく一歩引いた後衛に居るのだ。
 だってのにまるで役立たず、これではいけない、麻衣は深く己を省みる。
 皆を誇らしく想う、ならば彼らと並び立つに相応しい自分で在らねばならない。

「……これでは、槍が泣いてしまうな」

 素晴らしき好敵手とその主人から託された我が槍。
 仲間を護り、誇りを護り、立ち塞がるものを総て貫くのが自分の役目。
 ルドルフは改めて自分と言うものを再認識した。

「(付き合いきれねえ……やっぱコイツらとは根本的に水が合わんな)」

 善性を装いながらも腹の中では善性を唾棄する。
 とことん疎ましく思っているからこそ、誰よりも上手に善として振舞うことが出来るのかもしれない。
 お前達はこんなものが好きなんだろ? ってな風に。

「気負うのも良いが、皆、今は療養することに専念した方が良いんじゃないか?」

 気負うな――それを紫苑が言うのか。四人は苦笑しつつもそれに頷く。

「あ、そうだそうだ。ちょっと聞きたいんだけどさ。この資料に書かれてるもう一人ってどんな人?」

 話題を変える意味でも、先ほどから気になっていたことを問う。

「ん、ああ……一応を顔は合わせたんだが……」

 つい先日のことだ。
 実験のためにギルドの施設に向かうと先客が居た。その先客こそが例外の一人。
 余り話すことは出来なかったが、紫苑はどうにもその少女が気に入らなかった。
 どうしてそう思うのか、明確な答えは未だに出ていない。

「(出来るならば関わり合いになりたくはないんだよな……)よく、分からなかった」

 紫苑は例外の一人が夏休み前に出会ったカニだとは気付いていない。
 しかし、気付いていなくても無意識のうちに嫌な気配だけは感じ取っているようだ。
 だからこそ関わり合いになりたくないと思ってしまうのだろう。

「女性ですか? 男性ですか?」
「俺達と同じ年頃の女子なんだが……そもそも話す時間が長かったわけでもなくてな」
「卿との共通点などは見つかったのか?」
「いいや、少なくとも俺が彼女と似通っているなと感じたところは特に無かったように思う」

 そしてそれは紫苑の主観とは無関係のギルド側でも同じこと。
 少なくとも調べて分かるようなところに二人の共通点は見付けられなかった。

「(まあ――――二度と会うこともないだろうし、忘れるのが吉だわな)」

 我の人生に彼の者は、何の関係も無い。
 神便鬼毒酒と言う一本の糸で繋がっていたしても、所詮はそれだけだ。
 自分の生きる道に彼の少女は何の関係も無い――――認 識 が 甘 い に も ほ ど が あ る。
 紫苑の主観においてカニは雑多な塵の一つでしかない、
己以外を平等に価値無しと断じているからだが彼女の側からすればそうじゃない。
 さしたる理屈も見つけられないのに何故かどうしようもなく気になる。
 この広い世界でそう感じられる人間はどれくらい居るだろうか?
 つまり、何某か引かれ合う定めにあるのだ。
 そしてその切っ掛けは既にある場所で生まれ始めていた。
 そこは霧深き地、そう、千丈ヶ嶽のあのダンジョンだ。

「――――あ」

 神便鬼毒酒が満ちる湖の底でそれは目を覚ました。
 長さ30cmはあろう二本の角、意思があるかのように蠢く白髪に真紅の肌。
 紛うことなき鬼だ、鬼だが――――おっかないくらいに美しい。
 鬼だと言うのにその顔立ちは人間の一般的な美意識で判断するならば間違いなく美男子。
 そいつは水底で大きく伸びをして、ゆっくりと水面に浮かび上がった。

「……」

 ルークよりも一回り大きいその巨躯が完全に外気に晒される。
 モンスターらしく何か超常の力を使っているのだろう。
 鬼は湖面の上に仁王立ちしている。
 そして数分の後、ゆっくりと陸地に向けて歩き出した。

「……今度は両腕かよ」

 無数に散らばる同胞の屍の中で、
鬼が関心を向けているのは逆鬼雲母によって殺された隻腕の鬼だった。

「――――死んでる」

 わざわざ口にするまでもないことだ。
 しかし鬼は僅かばかりの驚きと寂しさを言葉の裏に滲ませていた。

「まあ……弔い合戦くらいはしてやらぁ。どの道、殺したくて殺したくてうずうずしてんだ」

 鬼は骸から視線を外して霧中の中を一歩、また一歩と進み出した。
 地理を覚えていないわけではない、だが生憎と寝起きだ。
 何処に何があるかなんてロクに働かない頭では分からない。
 だが、進むべき場所は分かる――――嫌な気配がする場所だ。
 何の淀みもなく進み続けて数分ほどで、そこに辿り着く。
 紫苑達にとっては自分達の世界に通じる孔、鬼にとっては……。

「悪酔いしちまいそうだ」

 その短い言葉に極大の憎悪と殺意が忍んでいるなど誰が想像出来ようか。
 僅かな逡巡の後に、鬼は孔に飛び込んで外界へと躍り出る。

「――――ッッ!」

 人は街に、獣は野山に。
 誰が定めたわけでもないが、世の道理としてはそうなっている。
 獣が街に迷い出て来た時、彼らは戸惑う。
 光に、音に、硬過ぎる地面に、何もかもに戸惑う。
 ここは己の住む世界ではない。本能でそれを悟る。
 だが、理解していながらも獣性を発揮するものは手痛いしっぺ返しをくらう。
 道理に従って人により人の世界から排除されてしまうのだ。
 今鬼の身体を蝕む激痛はそれである。
 獣が感じる違和感が鬼にとっては耐え難いような痛みであるということだけ。
 道理の剣が鬼の身体を無慈悲に切り刻む。
 痛い、痛い、確かに痛い。だが、やると決めた以上は進まねばならない。。

「ふぅ……」

 鬼は大きく息を吸って痛みを呑み込む。
 同時に、彼の身体から深い深い霧が滲み始める。
 それは徐々に徐々に広がっていき、数分ほどで山を覆いつくした。
 だが霧はそれでも満足出来んと言わんばかりに更に領域を広げていく。
 霧に包まれることで痛みを和らげた鬼はゆっくりと山を下り始めた。

「あれー? 何か霧出始めたよゆーちゃん」
「知らねえのかよみーこ。山の天気は変わりやすいんだぜ?」

 ふと、耳障りな音が鬼の耳朶を擽る。
 霧の中であろうとも視界が遮られることもない鬼はすぅっと目を細めてそいつらを見る。
 鬼には分からぬ言葉かもしれないが、その男女はカップルのようだ。
 山に入るには余りにも軽装、恐らくは山を舐めてる馬鹿のカテゴリーに入る人間なのだろう。
 突然の濃霧を前にしても危機感一つ抱くことなくお喋りをしている辺り間違いない。

「あれ、何か妙な音しない? ずしん、ずしん、って」
「クマとかじゃね? でも安心しろって、俺が守って――――」

 ヘラヘラと笑う男の顔が恐怖に凍り付く。
 霧中より顕れたのはクマなんてハチミツ喰ってそうな可愛い生き物じゃない。
 鬼だ、そして彼は桃太郎でも何でもない。

「ひ、ひぃ……!」
「きゃぁああああああああああああああああ!!」

 腰を抜かして絶叫するカップルを鬼は酷く冷めた目で見下ろしていた。
 殺さないのか? 大丈夫なのか?
 カップルの目に僅かばかりの希望が宿ったのを見計らい――――踏み潰す。
 比喩でも何でもなく鬼はその大きな足で男の顔を踏み潰したのだ。

「あ、あぁ……!」

 この世の終わりがやって来た、女の表情を端的に表すならこれだろう。
 鬼はそんな女の胸倉を掴み上げて目の高さにまで持って来て――――食べた。
 大口を開けて頭からガリガリ、バリバリ、むしゃむしゃと食べた。

「ぺっ……!」

 思っていたような味ではなかったらしく、鬼は忌々しげに肉片を吐き出す。
 長い爪を爪楊枝のように使って歯に引っ掛かった髪を取り出そうとするが、どうにも上手くいかない。
 鬼はそのことに若干苛つきながらも歩みを再開した。

「クソ、何だ……取れねえ、歯の奥がむずむずする……!」

 童のような口調で悪態を吐き出すが、髪の毛は一向に出て来ないが、
気付けば山を下り切って麓の町に辿り着いていた。
 そこも既に鬼が撒き散らした霧に侵食されており、
鬼以外の者にとっては一寸先も見えないような有様だ。

「二匹じゃ足りねえ」

 鬼はピタリと立ち止まり、足に力を入れ始めた。
 ミチミチと筋肉が軋みを上げる、溜められた力は今にも暴発しそうだ。

「もっと、もっとだ。もっと!!」

 極限にまで溜めた力を解放した瞬間――――鬼は砲弾と化した。
 攻撃でも何でもない、ただの直進。
 一心不乱に駆けているだけだと言うのに、
彼が通り過ぎた後には破壊の刻印だけが刻まれてゆく。
 家々は吹き飛び、人間は挽き肉と課し、それでも鬼は疾走を止めない。
 憎くて煩わしい者らを塵殺しながら進み続ける。
 無尽の荒野を往くが如し、誰にもその疾走は止められない。
 止まることがあるとすればそれは己の意思以外ではあり得ないだろう。

「臭え……んだ、何て悪臭だよオイ」

 直進し続けた末に辿り着いたのは京都市内だった。
 突如として現れた怪物に人々は隠すこともなく恐怖を露にする。
 逃げ惑う人々、何もしていないのに地面に倒れ伏す幾人かの人間。
 倒れ伏しているのは冒険者達で、その理由は単純明快。
 鬼が撒き散らしている霧の正体はそれは神便鬼毒酒が気体となったものだからだ。
 加えて言うなら濃度も段違い、一呼吸で数十秒と経たずに冒険者の身体を動けなくしてしまう。

「が、まあ良い。ここなら十分だ。沢山居る、沢山殺せる」

 同胞を殺した者らが何処の誰かは分からない。
 だがここで殺し続けていれば来るはずだと考えている。
 些か――どころか、かなり短絡的であると言えよう。
 だがそれも仕方のないことだ。
 別に寝起きの鈍さが尾を引いているわけではない。
 頭が上手く働かないのは確かだが、それは寝起きであることとは無関係。
 思考が鈍っているのは世の道理に絶え間なく傷付けられているから。
 霧を出すことで幾らかマシにはなっているが、それでも完全に無効化出来たわけではないのだ。

「ご、の……化け物めぇぇええええええええええええええええ!!!」

 鬼が目に付く人間を片っ端から塵殺していると、忌々しくも愉快なことが起きた。
 霧の毒に侵されて倒れ伏し、後回しにしていた人間の一人が立ち上がったのだ。
 お世辞にも良いとは言えない顔色、身体は極寒の中に居るかのように小刻みに震えている。
 それでも目は死んでいない、真っ直ぐに鬼を睨み付けている。
 世の道理を侵して人の世に迷い出て来た愚かな鬼に怒っている。
 その悪行に報いを与えてやる――その瞳は雄弁だった。

「き、キヒ……クハハ……」

 怒りながら笑う鬼、その感情に呼応するようにして霧はこれまで以上の浸食速度を見せる。
 雪崩のように容赦なく広がってゆく霧は数分で京都府全体を覆い尽くした。
 が、そこで侵食は止まる。霧は県境を越えられない。

「ヒハハハハハハハ!!!!」

 今、京都府内にはどれだけの冒険者が存在しているのだろうか?
 正確な数は不明だが、確かなことは一つある。
 誰もが毒に侵されている、例え建物の中に居ようとも関係無しに。

「ああ、ああ! 勇敢じゃねえか、そんなザマでも随分と猛々しい。
何が出来る? 何も出来ねえのに吼えることだけは出来るらしい。
これまで殺したのは塵カスばっかだったが……成るほど、こいつは良いや。
先ずは手向けとしてお前を殺そう。■■、■、■■、■■、■■よ。
おうどうだ? こう言う手合いならば良いだろう? 否とは言わんはずだ」

 それはともすれば目の前のひ弱な人間を認めているようにも聞こえるだろう。
 だが違う、言葉とは裏腹に腹の中は憎悪で煮え滾っている。
 嫌いなものは嫌い、憎いものは憎い。だったら好きになれる道理があるはずもない。

「おらどうした、来いよ。何だ、歩けないのか? 仕方の無い奴だ」

 ゆっくりと己を睨み付けている人間に近付く。
 この人間は雑魚だ、いやこの状況だけで判断しているわけではない。
 霧の無い場所だったとしても大した人間ではなかったはずだ。
 だからこそ、こうやって、辛うじてだが立って居られる。
 鬼はそれがおかしくておかしくてしょうがなかった。

「うぐぐぐぐ……!」

 赦せない悪が居て、それを前にして何も出来ない自分が憎い。
 男は鬼の嘲りを総身で浴びながら耐え難い屈辱を味わっていた。
 どうして身体が動かない、どうして視界が霞む。
 目の前の化け物が一体何をしたか分かっているのか?
 子供の頭を指で弾いて吹き飛ばした、老人の首を捻り切った、
男も女も、老若関係無く無慈悲に無意味に殺された。
 おい何だ、これはどうしようもない悪だろうが。
 神様なんてものが居るのなら、どうしてこんな奴を野放しにする?
 ふざけるな、ふざけるな、神が居ない、
居ても罰する気が無いならば人間の手でやるしかないじゃないか。
 だからほら、動けよ身体。目の前に悪い奴が居るんだぞ!
 男は必死に自分の身体を動かそうとするが……哀れ、強い意思とは裏腹に肉体は木偶そのもの。

「ヒャヒャヒャヒャヒャ!!」

 嗚呼、嗚呼! 何だこれは、面白くて仕方ないぞ。
 嗚呼、嗚呼! 何だこれは、忌々しくて仕方ないぞ。
 この人間、まるで何時かの俺達のようじゃないか――――鬼は静かに激情を燃やす。

「ほら、どうした? 憎い奴が、悪い奴がお前の目の前に居るぜぇ?
おいおい、男児の矜持は何処にある? おらおら、その拳は飾りもんか?
気に入らねえ奴のツラも殴ることが出来ねえなんて、とんだ役立たずじゃねえか」

 これでもかと言うほどの嘲りに吐き気すら催しそうだった。
 だが、そんな男を更なる恥辱が襲う。
 鬼が自分の腕に触れているのだ。
 そして優しく、壊れぬように、丁寧に丁寧に自分の腕を動かし――――、

「あ」

 ぺチン、そんな気の抜けた音が響いた。
 それは鬼の顔を殴った音、けれどもそこに意思は無い。
 何だこれは、頭の中が真っ白になる。

「ほら、喜べよ。俺のツラを殴れたんだぜぇ……なぁ?」

 心底楽しそうな声色、鬼の美貌は愉悦に染まっていた。
 目の前の人間を嬲ることが楽しくて楽しくてしょうがないのだ。
 ただ単に殺すだけではつまらない、
こう言う手合いは心も圧し折ってやらねば気が済まない――――鬼は何処までも残酷だった。

「あ、あぁ……!」

 小さな呻き声、お情けで殴らさせてもらえた。
 その事実が男の心を完全に圧し折った――否、容赦なく粉々に打ち砕いた。
 もう二度と再起出来ぬように、丁寧に丁寧に微塵にされてしまった。

「フン……」

 壊れた玩具に興味は無い。
 鬼は男の顔面を鷲掴みにして何の躊躇いも無く握り潰した。
 頭部を失った身体が地に落ち、ビクンビクンと震えていたがそれもすぐに無くなる。
 哀れ、義憤に燃える義人はここに死す。
 天下に恥じぬ善性を以って挑もうとも、圧倒的な力の前には成す術無し。
 嗚呼、一体何処の誰がこの鬼を退治してくれるのだ?
 世界最強の男を呼ぼうか? いいやダメだ。
 この霧は問答無用、世界最強ですら弱者に堕するだろう。

「さあて――――殺して殺して殺しまくるか!!」

 この鬼を退治する可能性があるとすればそれは……ああ、もう語るまでも無い。
 さあ、さあさあ! 男児ならば誰もが憧れる鬼退治の幕を開けよう。
+注意+
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