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ハルジオン~口だけ野郎一代記~ 作者:曖昧

嘘を重ね続けた末路を知る第二部

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106/204

田舎娘を篭絡せよ 肆

 ジャンヌ・ダルクはフランス北東部にあるドンレミという村で生を受けた。
 父のジャック、母親のイザベル、そしてジャンヌを含む五人の子供の七人家族。
 両親は二十ヘクタールほどの農場を所持しており、父は村の自警団長の役職についていた。
 決して暮らしは楽とは言えないが、それでもそこまで不自由をしたことはない。

 そこまで人口も無かったし、田舎ということもありジャンヌは村では一種のアイドル的存在だった。
 よく働くし優しい、気立ての良い村一番の女の子。
 誰からも好かれていた、誰をも好いていた。
 それでもジャンヌの心には常に不安が巣食っていた。
 誰かに嫌われるのでは? 好かれなくなるのでは?
 そんな不安を振り払うように常に正しく明るく振舞って居たものの不安は消えない。

 その闇に付け込むように十二歳の頃、彼女はヤルダバオトの声を聞いた。
 それから五年後のことだ、ジャンヌは一つの予言を口にした。
 オルレアン近郊で起こったニシンの戦い、
そこでフランス軍が敗北すると予言し、そして的中させた――――それが破滅への第一歩。

 ジャンヌは男装に身を包みシャルル七世と謁見を果たし、王族は彼女への援助を約束する。
 そうして学もない村娘が歴史の表舞台に出ることになったわけだ。
 その中で学の無いジャンヌに作法を教えてくれる生涯の理解者ジルドレと出会った。
 周囲の信頼を勝ち取り、武功を重ねてオルレアンを解放したジャンヌは正に英雄だ。
 しかし、その英雄を母国の王は恐れた。
 彼女が捕縛された際に身代金を払わなかった――――彼女は祖国に見捨てられたのだ。
 その時点でヤルダバオトも見切りをつけ、後は知っての通り。
 異端審問にかけられて惨い最期を迎えた。

「余計な、御世話? これ以上、絶望を知りたくはないでしょう?」

 今も変わらず憎悪を滾らせているが、それでも紫苑に対しては純粋な哀れみしか抱いていない。
 自分と同じような目に遭うくらいなら楽に死なせてあげよう。
 そんな慈悲の心での提案だった。だというのに紫苑はそれを跳ね除けた。
 余計な御世話だと切って捨てた。

「絶望? 一体……ッッ、何に、絶望するというんだ」

 痛みに言葉を詰まらせながらも紫苑は堂々と言ってのけた。

「……あなたは甘い世界で育ったのですわね。私と同じように。
だから今こうして裏切られても、そんなことが言える」

 どうしていきなり紫苑が刺されたのか、それぐらい少し考えれば分かる。
 今のクリアになった思考でなら容易に答えを導き出せる。
 春風紫苑は、どちらの側にとっても重要な人物だ。
 さあ、そんな男の命を奪ったとしたらどうなる?
 首を手土産に幻想側へ寝返ったならば、幾らかの願いは聞いてもらえるかもしれない。
 吐き捨てるようなジャンヌの言葉に紫苑は首を横に振り否定を返す。

「甘い世界で育った、そう言われたら返す言葉もない。
だが、裏切られたなんて俺は思っていないよ」

 紫苑は刃から手を離して、自分のやらかしたことに怯え蹲っている女に優しく語り掛ける。

「わ、私は……」
「あなたには、家族が居ますか?」

 優しい、今にも消えてしまいそうな儚い笑顔。
 溢れ出す慈愛が女の心を包み込み、恐慌状態から引き上げる。

「俺の家族はもう死んでしまったけれど、あなたに家族は居ますか?
居るのなら、死なせたくないですよね。何をしても護りたいですよね。
もし、家族が居なくても……生きたいですよね。
死んでも良いなんて思えるわけがない、誰だって生きたいんだ。
何をしてでも生きていたいと願う気持ちを――――俺は否定しません」

 ポロポロと女の瞳から涙が零れ出す。

「わ、私……い、妹が……たった一人の家族……で、でも妹は普通の人間で……」

 凶行の理由を懺悔する女。
 一体誰が気付くだろう――――その理由が後から紫苑によって付け足されたものだと。
 彼の仕掛けは悪辣極まりないものだった。
 女がやらかした凶行、これはそもそも紫苑がそうさせたのだ。

 紫苑はオルレアンの時点でジャンヌが彼に自分を重ねていることを看破していた。
 憎悪の海の中で同情という一粒の宝石を探り当てていたのだ。
 オルレアンの戦いでジャンヌが自分を狙っていたのは見ているうちに分かった。
 しかし、ならば何故炎を使った面の攻撃をしない?
 それは何故か、他人を焼くことで過去のトラウマが蘇るのを嫌った? いや違う。
 現にオルレアンは焼き尽くされているではないか。

 納得が行く答え、それはジャンヌが自分に親近感を抱いているから。
 シチュエーション的にも何処か似ているし、
その答えが正しいのならば炎を使わない理由にも納得が出来る。
 だったらそれを利用して馬鹿な田舎娘を踊らせてやれば良い。

 市街地を逃げ回っている最中に煙幕弾を使ったのは神便鬼毒酒を摂取するため。
 誰の目にも映らないようにこっそり飲み、後の仕掛けの準備をしていた。
 そして策の第一段階を成就するために人が居る場所を探して回った。
 なるべく多くの人が居る所が良い、そうしてコンコルド広場へ。

 そこで見繕った人間の認識を幻術で騙くらかして自分を刺させる。
 そうすることでジャンヌの理性を取り戻させた。
 自分と似ていると思っている人間が裏切られる場面を客観的に見せることで、
紫苑の目論見通りにジャンヌは思考能力を取り戻した。

 後は、頭が真っ白になっている女を利用して先へと繋げていけば良い。
 混乱している状態で投げられた家族は居るか? という問い。
 それは凶行に及んだ理由をでっち上げる材料を得るためのものだ。
 居るならばそれを使えば良いし、居ないならば別のものを使えば良い。
 自分の安全を確保するために紫苑を狙ったという風に。
 しかし今の告白で女には家族が居ることが分かった。
 しかも家族は一般人、だったら後は簡単だ。
 家族を護るためにやったのだと思い込ませるだけ。
 完全に認識を操る幻術の使い手だからこそ出来る、かなり外道な手段だが紫苑に躊躇いは無い。
 他人に罪を被せようが何をしようが自分さえ良ければそれで良いのだ。

「だから、護るために……やったんですね?」

 やらせたコイツがいけしゃあしゃあと……。

「ごめんなさい……ごめんなさいごめんなさい、わたし……わたしぃ……!」
「さっきも言ったように家族を護りたいと願う優しい気持ちを俺は否定出来ない。
非情になれれば楽だったろうに、それでもあなたはこうやって心を痛めている。
ならば尚更だ。俺は死んであげることは出来ないけれど、それでも――――あなたを赦します」

 赦してと懇願するべきは紫苑である。
 一では足りない、十でも足りない、百、千でもまだまだ、最低でも万回は土下座するべきだ。

「そりゃ殺したいから殺そうとしたとかだったら怒るし憎むでしょうけど……。
家族は、大切ですからね。護りたいって思ってしまいますよね。
非道であろうとも護れる手段が目の前にあったら、俺だって手を伸ばしてしまうかもしれない」

 だからどうか泣かないで、そうやって申し訳ないと思ってくれるだけで十分だから。
 泣いている子供を諭すように優しい笑顔で語りかける紫苑の姿は正に聖人。
 戦いに没頭しながらも冒険者達は紫苑の姿、言葉から目を、耳を離せない。
 おぞましき演出家春風紫苑の手練手管に翻弄され誰も彼もが踊っている。
 踊らされていることに気付かぬまま、自分の意思だと疑いもしないまま踊り狂っている。

「さあ、離れててください。俺はまだ、ジャンヌに伝えなきゃいけないことがあるから」

 ここからだ、ここからが肝なのだ。
 オルレアンの乙女、悲劇の聖女、憎悪に燃える魔女ジャンヌ・ダルクを篭絡するのはここからが本番。
 背中に刺さったままの短剣をそのままに紫苑はゆっくりと舌を回し始める。

「ジャンヌ、お前は俺に絶望を知らぬと言ったな。
ならば逆に問おう、お前は信じるということの意味を知っているのか?」

 それをこの男が言うのだから痛烈な皮肉だ。
 お前が言うなと昼夜問わずツッコミを入れたいくらいである。

「……聞き捨てなりませんね。私は信じていた、信じていたのに裏切られた!!」

 ジャンヌの赫怒がコンコルド広場を震わせる。
 特にこの場に居るのはフランスの人間ばかりだ。
 年が明けるまでは自国の英雄と信じられて来た少女の憎悪を知って良い気分にはなれまい。

「(滑稽極まるな。女ってのはこれだから……。
脳味噌の代わりにメルヘン詰まってんじゃねえのか? 哂えるぜマジで)」
『(でも笑ったら傷に響くぜ)』

 更に言うなら、目論み通りに進めばここからもっと肉体的に辛い思いをしなければいけない。
 そう考えるとうんざりとする紫苑だったが、得られる名声を考えてグッと堪える。

「そこからしてズレてるんだよ。俺達は人間だ。
確かに見返りを求めるし、それ自体は悪いことじゃない。
あれだけ尽くして、返って来たのが心を引き裂く裏切りならば怒って当然だ」

 ジャンヌの怒り、それ自体は正当なものだ。
 問題はそれを今に生きる人間にぶつけること。
 幻想の存在が抱く憎悪ならばまだ納得は出来る。
 何せ彼らを殺したのは人類という種そのものなのだから。
 しかしジャンヌは違う。ジャンヌを殺した人間はもう皆死んでいるし、彼女を聖人に祭り上げた者らも同じ。
 今の人間に八つ当たりしてんじゃねえよ芋女が! 要訳するとこれに尽きる。
 とはいえ、感情で動くジャンヌに正当性を説いても通じない。
 崩すのならば、ジャンヌ・ダルクという少女の根底に抱くものだ。
 紫苑のこれはその下準備。

「俺達は簡単に誰かを"信じる"って言葉を使ってしまう。
だけど、それはきっと俺達が思う以上に深くて、重い意味を持つものなんだ。
人間が真の意味で誰かを"信じる"ことはとても難しいこと。
信じるというのは信じ抜くこと。己の心を相手に総て預けることに他ならない。
だから裏切るなんて言葉が出て来るわけもないんだ」

 自分の心、それは総てと言っても良い。
 それを総て預けてしまうというのだからどうなっても仕方ないということだ。
 だからこそ、人間に本当の意味で何かや誰かを"信じる"ことは出来ない。
 紫苑は悲しそうに目を伏せて信じることの意味を語る。

「奇麗事を!!」
「そうだ、綺麗事だ。だからこそ、憧れる。綺麗なものに手を伸ばしてしまう。
俺は少しでも、本当の意味での"信じる"ということに近付きたいと思っている」

 例え偽物でも、本物に近付こうと努力することに意味が生まれるのだ。
 果ての無い荒野を進むようなことかもしれない。
 それでも一歩でもあろうと進むことに意味が無いなんて言わせない。

「そしてお前もそれに気付いている」
「何を……」

 困惑顔のジャンヌ、しかし紫苑は手を緩めない。
 畳み掛けるように口撃を放つのがこの男の十八番なのだ。

「――――ジャンヌ・ダルクは後ろめたさを抱いている」

 もしこれが話の通じない、
耳の言葉が届いても理解出来ない状態だったらば意味を成さなかった。
 しかし、理性を取り戻しているからこそジャンヌは酷く狼狽している。

「だからそれを消すために、後ろめたさを振り払うためにお前は何度も信じていたと口にするんだ」

 無意識下に沈む想いというのは大抵、理性では受け容れ難いものだ。
 違う、私はそんなこと思っていない! そう否定したくなるようなものばかり。
 さりとて否定は出来ない、何せ無意識であろうとも自分が願っているものだから。
 そこを突くことで相手を崩す、吐き気がするほど効率的だ。

「お、お前に私の何が分かる!?」
「(捻りの無い反論だ。図星だって喧伝してるようなもんだぜ。学の無い女だから馬鹿でもしゃあねえが)」

 そもそもからして、当時の常識や感性を加味した上で考えてもおかしいのだ。
 人は本能的に同族を殺すことを忌避する。
 それでも戦争が一般的なものだったからこそ、人は仕方なく戦った。
 仕方なく戦って人を殺すことに慣れることで本能を麻痺させるのだ。

 しかし、女が戦争に参加するなんてそうそう無い。
 零ではないものの自ら指揮を執って、最前線で殿まで務めようとする女はおかしい。
 武家の――西洋風に言うなら騎士家系や王族の血に連なる者ならまだ分かる。
 だけどジャンヌ・ダルクはただの村娘だ。

 そんな娘が血風と怨嗟渦巻く戦争に身を投じるならば、それなりの理由があって然るべきだ。
 神の啓示? いいや違う。それだけで死地に赴けるほどジャンヌは強くない。
 確かにそれがあったから――否、神の声が聞こえたからそれを利用するつもりだったのだろう。
 では根源的な理由は何か? 往々にしてそういうものは複雑なものではない。
 極シンプルなものだ。そして、これまでジャンヌを観察して来たので予想は容易い。

「好かれたい、人に嫌われたくない――――誰だってそう思うよな」

 ジャンヌ・ダルクの本質は寂しがり屋だ。
 人の好意が無いと安心出来ない。満たされることを知らないからもっともっとと求めてしまう。
 何で私を捨てた? それが総てを物語っている。
 まるで男に手酷く振られた馬鹿な女そのものではないか。
 好かれたいと尽くして尽くして、利用された挙句ポイされる。
 ジャンヌの末路そのものではないか。

 彼女がこうして何もかもをも憎悪して八つ当たりをかましているのは裏切られたからじゃない。
 勿論それもあるが、本質的には別。
 幻想に裏切られた、人に裏切られた、哀れ寂しがり屋のジャンヌは何処にも居場所が無い。
 何処にも行けない己の孤独を憎んでいる。だから総てを焼き尽くしたいのだ。
 何もかもが無くなって自分も消えてしまえばそれで終わる。

「お前は際限なく誰かに好かれたいと願ってしまう」

 一人だけでは足りない、二人だけでは足りない、皆から好かれたい。
 満たされない少女にとって救国の乙女という立場はどれだけ魅力的だったか。
 欲に釣られた自覚が無いわけじゃない、
あるからこそ、引け目を隠すように殊更裏切りを強調するのだ。
 紫苑も言ったようにジャンヌは信じることの本質を知っている。
 好かれたがりではあるが本来は善良な村娘なのだ。
 純朴で、見返りを求めてのこととはいえ他者に優しくなれる普通の少女。

 しかしそこを悪神ヤルダバオトや天使の一派に利用されてしまった。
 紫苑からすれば人を見る目が無いと大爆笑ものだ。
 好かれたいから頑張る、何処までも頑張る。
 それが軋轢を生むと何故分からなかったのか。
 頑張れば頑張るほど目障りに思う人間が居ないとどうして考えられない?
 器用に立ち回れない人間が救国の女なんて位置に立てるわけがないのだ。

「そしてそれを心の何処かで自覚している。自分は何と浅ましいのだと。
しかし、自分が浅ましい女だと認めてしまえば孤独になったのは自分のせいだということになる。
認められないよな、認めたくないよな。何処にも居場所が無くなってしまったのが自業自得なんて。
(実際は自業自得だがな。身の程を弁えないからこその破滅。残念でも何でもない、当然だ)」

 そういう紫苑も身の程を弁えずに立ち振る舞った結果が、今の状況だと何故気付かない。
 身の丈以上に――いや、ある意味身の丈には合っているが、
もっともっとと欲をかいて戻れなくなったという意味でならジャンヌともそう大差ない。
 もしも謙虚に暮らしていたのならば決して花の都で裏切りの聖女と相対することもなかっただろう。
 聖女を攻略するために自分で自分の背中を刺させるなんて真似もせずに済んだだろう。
 だというのにブチブチ文句を言っているのだから救えない。
 残念でも何でもない当然の結果ぐらい男らしく受け入れろ。

『(よう、ここで何時もの心を砕いてから優しくするのパターンか?)』

 どう考えてもヤクザのやり口にしか見えない件について。

「(いや、まだだ。心からの望みを露出させるにはまだやるべきことがある)」

 まず大事なのはジャンヌの心を丸裸にすること。
 誰にも知られていない本心を見抜いて口にすることが肝要なのだ。
 自分を理解してくれている、とどのつまり共感してくれているのだと誤認させる。
 そうすることで真の望みを果たしてやった時、絶大な効果を発揮する。
 もう紫苑から離れられなくなる――――そんなことばっかしてるからメンヘラに好かれてしまうというのに……。

「違う……違う違う違う違う違う! 私は、そんなんじゃない!!!!」

 目を閉じ耳を塞いでいやいやと髪を振り乱す様を見ていれば何が真実かなんて一目瞭然。
 紫苑の言葉の弾丸は総てジャンヌ・ダルク心を貫いたのだ。
 心に食い込んだ鉛の弾丸はジクジクと毒となりその身を蝕む。

「目を逸らすな。逸らした先には、逃げた先には痛みしかない!!!」

 流石は逃げ続けている男の言うことだ、説得力がある。

「何時までも、そんな状態じゃ……辛いだけだ」

 紫苑は槍を翳して最後の仕上げに取り掛かる。
 聖槍は三色の光を更に強めて、主の意を汲み取り媒介としての機能を果たす。
 そうしてジャンヌの世界は一瞬で塗り替えられた。

「――――あ」

 目を開いたジャンヌは自分が動けないことに気付く。
 太い柱に括り付けられて周囲には己を異端と決め付けた者、
口々に罵倒の言葉を投げかける無責任な民衆の姿。
 そう、ここはヴィエ・マルシェ広場――――ジャンヌ・ダルク最期の地だ。
 これは追体験なんて生易しいものではない。
 真に迫るどころか真実遜色ない幻術――彼女は再び火刑に処されようとしているのだ。

「あ、あぁ……嫌ぁあああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

 理性を喪失した状態では決して蘇りはしなかったあらゆるトラウマが顔が蘇る。
 殿を務めて囚われた、だけども王が身代金を払ってくれると思っていた。
 しかし、そうはならず。牢番に哂いながらお前は見捨てられたと告げられた。
 それでも諦めず、何度も何度も脱走を図ってその度に捕縛され暴行を受けた。
 直接的な暴力から、女だけに与えられる屈辱的なものまでありとあらゆる凌辱の棘。
 そこに尊厳なんて美しい言葉は存在しない。

「止めて、お願い、酷いことをしないで……!!」

 異端審問の場では猿轡を噛まされて反論の一つも赦されなかった。
 出来レース、総ては定められた道筋。
 異端審問はただただそれをなぞるだけの喜劇のようなもの。
 口々にお前は魔女だ! 淫売だ、身のほど知らず、神の名を騙る背教者だと罵られた。
 暴行を受けていることを訴えても聞き入れられず。
 神、人、世界そのものから見捨てられたような深い絶望だけがその身を苛む。

「御願い、聞いて、私の話を聞いて? 無視しないで、怒鳴らないで、哂わないで!!」

 柱に括り付けられているジャンヌの口に、今は猿轡が付けられていない。
 彼女の叫喚を聞かせろ、絶望の中で死ね、つまりはそういうこと。
 人間という種の残酷な表情が、吐き気を催す悪趣味がゆえ。
 どれだけ叫んでもジャンヌの言葉は誰にも届かない。
 老若男女、総てがその言葉を無視している。
 返って来るのは侮蔑、嘲笑、罵倒だけ。
 止め処なく流れる涙すらもが民衆の興奮を掻き立てるスパイスにしかならない。
 味方は誰一人として存在しない。
 それは寂しがり屋、愛されたがりのジャンヌにとっては何よりもの苦痛だった。
 まるで世界に一人きりになってしまったかのよう。

「喜べ魔女、地獄へ堕ちる前にその罪を少しでも軽くしてやろう」

 松明を持った処刑人がニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて語り掛けて来る。
 ただただ醜悪、これが人間? これが人間なのか?
 神に似せて創られたはずなのに、ならば神もこれと同じ?
 ああそうだ、同じだ。だって私を助けてくれないのだから。
 ジャンヌの絶望はより深く濃く、その胸の中に広がっていく。

「聖なる炎で少しでもその身を清めていくが良い」

 足下に放られた松明の火はたちまち燃え広がった。
 熱い、痛い、苦しい、どうして自分がこんな目に?
 帰りたい、村に帰りたい、でも村に居るのもこの者達と同じ人間。
 居ない、居ない、何処にも居ない。世界にたった一人。
 たった一人で死んでいくのだ。
 涙もなく、悼まれることもなく、ただその背に負えぬほどの汚泥と共に燃え尽きるのだ。

「……」

 民衆の悪罵すら何処か遠くに聞こえ、もはや声もない。
 はらはらと零れ落ちる涙が総てを物語っていた。無念だ、無念だ。
 こんな目に遭わねばならぬほど自分は悪いことをしたのか。
 こんなにも――――

「――――寂しい終わり方は嫌だ」

 ふと、遠くから聞こえるような隔絶したものとは違う確かな言葉が耳に届く。
 声の主はこの時代にはそぐわぬ出で立ちをしていた。
 しかしそれも当然、別にタイムスリップしたわけではないのだ。
 これはあくまで幻、服装を弄ることも出来るがそこまでする意味などないのだから。

「このまま終わるなんて辛い、悔しい、悲しい」

 一歩、踏み出す。ゆっくりと、ジャンヌに歩み寄る。

「死ぬのは怖い」

 また一歩。春風紫苑はジャンヌ・ダルクの心に歩み寄る。

「でもそれ以上に怖いことがある」

 トラウマを蘇らせてどん底まで突き落とすことには成功した。
 後は優しく手を差し伸べるだけ、悪辣極まるやり方だが、だからこそ効果的。
 春風紫苑はそれをよーく知っている。
 彼は人を信じてもいなければ愛してもいない。
 だがそれは人を知らぬということとイコールではないのだ。

「一人寂しく死ぬのが、何よりも恐ろしくて何よりも悲しい。
俺達人間は涙を流して生まれて来た。だったら、最期は笑って終わりたいよな。
でも、一人じゃ笑えない。誰かが傍に居て、手を握ってくれるだけでも良かった。
そうすれば、心安らかに逝ける。その心に孤独は訪れない」

 憎しみは消えない、でも、誰かたった一人でも良いからジャンヌの心に寄り添ってあげれば良かった。
 そうすれば現代にまで続くことはなかった。
 オルレアンの悲劇も起こりはしなかった。
 そしてそれはもう取り返しがつかないこと――――春風紫苑以外には。
 彼だけは終わりの風景を再現することで心を抱いてやることが出来る。

「し、知った風な口を! あなたに一体何が分かるのよ!?」

 総て図星だった。けれども認めることは出来ない。
 認めてしまえば死んでから今に至るまでの総てが意味も無いものになってしまうから。

「(語彙の薄さが垣間見えるな。やれやれ、これだから低学歴は……)」

 民衆と同じように(腹の中)で嘲笑を浮かべつつ紫苑はジャンヌの目の前に辿り着いた。
 燃え盛る炎は彼をも苛んだが、それも予想の範疇だ。
 現実幻想、何処に存在する金属よりも硬い見栄は炎程度では溶かせるわけがない。

「(くぅ……熱いなぁクソ……早いとこ終わらせなきゃ……)」

 ジャンヌの視点では己が火刑に処されている場面だが、紫苑視点では異なる。
 いきなりパリの街を揺るがすような絶叫を上げてジャンヌが燃え始めたのだ。
 罅割れた彼女の身体から漏れ出す炎は並大抵のことでは超えられない。
 それでも紫苑は超えた、超えられた。
 ジャンヌの炎が完全に物理的なものならば危なかったかもしれない。
 だが、幻想と成り果てた彼女の炎は少々勝手が違うのだ。
 ゆえに何をも燃やし尽くす業火であろうとも紫苑にとっては精々が火事場に飛び込んだ程度にしかならない。

「分からない、だからせめて、俺は俺に出来ることをしたい」

 強く、強くジャンヌを抱き締める。
 同時に炎の勢いが更に強くなったがそんなのはお構いなしだ。
 決して離さぬ、諸共に燃え尽きようとも決して一人にはしない。
 そう騙りかける――否、語り掛けるようにジャンヌを抱き締める。

「な、何を……」
「……俺に出来ることは何だろうか? そう考えた時、これしか答えがなかった。
確かにお前は俺達の時代で、沢山の人間を殺した。
けど、お前をそうしたのはやっぱり人間だ……今を生きる俺達には無関係だ。
そう割り切ってしまえば楽だけど、それでも俺には出来なかった」

 だってそれでは余りにも寂しいから。
 憎悪を撒き散らし、そのせいで憎悪されて何時か殺される。
 何て救いの無い結末だ。
 一度目の終わりも惨いものなのに、二度目もそれじゃ救われない。
 だからせめて、ほんの少しでも良い、その冷め切った身体に温もりを感じて欲しかった。
 そう語る紫苑を実を焼く炎に苛まれ、(演技で)苦悶の表情を浮かべている。
 それでも絶対に手は緩めない、不退転の決意でここに立っているのだ。

「……ぎ、偽善は止めなさいよ……わ、分かってるのよ?
どうせ嘘だって、離れるに決まってる……だ、だって人間は自分可愛さで何処までも残酷になれるから……」

 全く以って仰るとおりです。
 が、当然のことながらジャンヌは別に紫苑の本性を見抜いたわけではない。
 ゆえにその表情には期待と諦観が入り混じっている。

『(本当にこれでいけるのか?)』
「(ああ……間違いないよ。そもそも、トラウマもんの火刑だ。
だってのに、コイツは炎を操る。それには理由があるんじゃないかと思った。
あれは憎悪の発露であり、助けてのサインだったんだよ)」

 ジャンヌ・ダルクの絶望を象徴するのが轟々と燃え盛るこの炎だ。
 だというのに彼女はそれを使って戦っている。
 自分の絶望を他人にも味合わせてやりたい――無論、そういう理由もあるだろう。
 しかし、しかしそれだけではない。
 極大の憎悪の裏には聖女でも魔女でもない、ただの少女ジャンヌの叫びが隠れている。
 どれだけ人に絶望しても、もしかしたら……という淡い想いを抱いていた。
 だからこその炎。自身の絶望を象徴するそれを超えて己を抱いてくれる誰かをずっと求めていたのだ。

「(俺を見ていたのは似ているから……だけど、それだけじゃない)」

 春風紫苑に希望を抱いたのだ。
 あんな人間ならば、もしかしたら自分を抱いてくれるのでは、と。
 だからこそ炎を使えなかった。
 自分と似たような彼に苦しい想いをさせたくないという気持ちもあった。
 あったがそれ以上に、炎を使って紫苑に拒絶されたら今度こそ無明の闇に堕ちてしまうからだ。

「何で……なんで、なにもいわないのよぉ……」

 そんなことをされてしまえば、また誰かを信じてしまう。
 御願い、裏切って、裏切らないで、離れて、離れないで。
 背反の二色が絡み合い希望を目指して螺旋を描いてゆく。

「……まだ、寒いか?」

 その心は凍てついたままか?
 そう問いかける紫苑の顔は身を焼かれているというのに酷く穏やかなものだった。
 ジャンヌの瞳に涙が浮かぶ。しかし、それは決して負の感情に起因するものではない。

「――――ううん、とっても……温かい」

 命を懸けた抱擁、その温もりは業火を超えて確かにジャンヌ・ダルクの心に届いた。
+注意+
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