第七話 魔女とオオカミ少女(前編)
真子は健臣たちと昼食をとってから、直と拓也とは少し打ち解けたようで挨拶やちょっとした会話を交わすようになった。
会話と言っても直や拓也がなにか話しかけて、真子がうなずいたり、首を振ったりと一方的な会話である。
それでも少し進展したかなと健臣は安心していた。
そんなある日のことだった。
四限の開始時間を過ぎても真子が教室に戻ってこないのだ。
歴史の授業を受け持つ和泉敏光が困惑顔で頭をかいている。
和泉は二十代後半の若い教師だ。整った顔をしている。
歴史オタクの和泉は教科書に載っていない話も交えて話してくれるので授業もおもしろい。
しかし授業以外で話しかけると、すぐに歴史の話に結びつけて話が長くなる。
生徒からは敬遠されている少し残念な教師だ。
和泉は出席簿を確認しながら顔を上げた。
「森野さんと豊川さんか。誰か知らないか?」
生徒たちは顔を見合わせるだけで誰もなにも言わなかった。
それもそうだ。森野真子と豊川悠里はこのクラスの二大一匹狼である。
豊川悠里は一言でいうならば美人だ。大人っぽい整った顔。
一六五センチは超えていそうな長身。
切れ長の瞳がこちらを向くと力強い目力に気押される。
性格は気が強いと有名である。
そんな豊川悠里は違うクラスには友達がいるようだが、このクラスの誰かと休み時間を一緒に過ごしているところは見たことがない。
そんな豊川悠里と森野真子が休み時間にどこでなにをしていたのかを知る者がこのクラスにいるとは思えなかった。
「……まぁ、そのうち戻ってくるか」
和泉は教科書を開いた。
健臣は真子の行方が気になって、教科書へ、教室の扉へ、和泉へと忙しく視線を彷徨わせていた。
少し時間を遡り、休み時間が始まった頃のことである。
真子は休み時間が始まってすぐにトイレに行った。
手を洗っていると同じクラスの女子が三人、トイレに入ってきた。
中心にいるのは茶髪を胸くらいまで伸ばした景山みき。
左手にいるのは黒髪を二つに縛った前原聡美。
右手には黒髪を肩程の長さに伸ばした寺岡珠樹。
三人は真子に気がつくと、一瞬立ち尽くした。お互い目を見合わせている。
真子は三人を一瞥した。しかし特に気にすることなく手をハンカチで拭いている。
それが気にくわなかったのかみきが話しかけた。
指で毛先をくるくるといじっている。
「森野さんてさぁ、男の子とは話すんだね」
「なんか言いなよ。それとも、わたしたちとは話せないってこと?」
珠樹が笑みを浮かべながらそう言う。
みきと聡美は顔を見合わせてくすくすと笑った。
真子はうつむきがちにじっと三人の顔を見た。
長い前髪から覗く瞳は冷静だ。どうしたものかと三人の様子を伺う。
その時、女子トイレの扉が開いた。
現れたのはこちらも同じクラスの豊川悠里だ。
真子、みき、聡美、珠樹をゆっくりと眺めたあと眉根を寄せる。
「あんたたち、こんなところでなにやってんの?」
「べつに。豊川さんには関係ないじゃん」
「関係ないけどさ、そういうの子供っぽい」
悠里がそう言った。みきが振り返り、腕を組んで悠里を見据える。
「豊川さんっていつも偉そうだよね」
「はぁ?」
悠里がみきを睨んだ。みきは怯むことなく悠里を見返す。
みきの隣にいる聡美はほんのわずかに戸惑った表情をみきに向けていた。
「そんなだからクラスで浮くんだよ」
みきが口元に皮肉そうな笑みを浮かべて言う。珠樹がくすくすと笑った。
悠里が睨みを利かせたまま一歩前に出る。
背の高い悠里を見上げるようになったみきは少しだけ怯んだ。
しかし負けじと応戦する。
「な、なによ!」
「あんたと一緒。むかついただけ」
「なんなの? 口出ししないでくれる?」
悠里はさらに眉間に皺を寄せてみきを睨む。
わずかに開いた口から八重歯が覗いていた。
その時、存在を忘れられていた真子がみきたちのうしろから声をかける。
その声はひんやりと冷たいものだった。
「あなたたちが気にくわないのは私でしょう?」
みき、珠樹、聡美がびくりと振り向いた。
真子はあいかわらずうつむきがちに三人を見ている。
怯えているようにも見えるが、よく見ると真子の瞳は怒っていた。
悠里は少し驚いたような表情を浮かべる。
真子は続けて言葉を放った。
「豊川さんは関係ない」
悠里とのやり取りでいらだっていたみきが真子を突き飛ばした。
真子はバランスを崩して勢いよく壁に当たり、床に崩れ落ちるようにして座り込んだ。
床に座る真子を見て、聡美が慌ててみきの腕を掴んで止める。
「やりすぎだよ!」
「だって! むかつく」
「も、もういいよ。行こう」
珠樹は顔を青くして先にトイレから出た。
それを追うようにみきと聡美も悠里の横をすり抜け、足早に去っていく。
悠里がその背中をため息交じりで見送った。
それから床に座り込んでいる真子に目を向ける。
「森野さん、大丈夫?」
悠里が真子に声をかけるが返答がない。
「森野さん?」
真子の顔を覗き込む。真子は目を閉じてぐったりとしていた。
悠里が何度か頬を叩く。しかし真子は眉根を寄せるだけで返答がない。
悠里は女子トイレのドアを見て、真子をもう一度見る。
「嘘でしょ……」
悠里が途方に暮れると同時に、遠くで始業のチャイムの音が聞こえた。
授業が始まり、十分ほど経った頃。
和泉が楽しげに教科書から外れた話をしている。
それを遮るように黒板の横にある内線が鳴った。
和泉は話を中断し、訝しそうに内線を見る。
「ちょっと待って」
和泉が生徒にそう言うと教壇を離れて内線を取った。
「はい、和泉です。……そうです、すみません、二‐Bです。どうしました? うん? はい」
和泉の声に緊張感が漂った。健臣の胸に嫌な予感が過る。
「え? 森野さんが倒れた? 大丈夫なんですか?」
健臣が椅子を鳴らして立ち上がり、教室を出ようと歩き出す。
和泉がそれを視線の端でとらえた。慌てて声をかける。
「常盤君? どうした?」
「保健室ですか?」
「そうだけど……、え、待って……」
和泉の手が空をかいた。内線の先から女の声が聞こえる。
保健医の常山郁美の声だ。
『和泉先生? どうかしました?』
「いや、こちらのことで。すみません。分かりました。豊川さんも一緒に保健室にいるんですね。はい。ありがとうございました」
和泉が内線を切ったあと、健臣が出て行ったドアを見る。
「まぁ、いいか」
和泉は頭をかきながら教壇に戻る。
みき、聡美、珠樹の三人が青い顔をしてうつむいていたが誰も気がつくことはなかった。
真子が倒れたと聞き、いてもたってもいられなかった。健臣は急いで保健室へと向かう。
保健室の入口のドアを開いた。
保健医の常山郁美がドアの正面に置かれたデスクの椅子に座っている。
肩に着くくらいの黒髪を揺らしながら健臣を振り返った。
保健室には三つ並んだベッドがあるが、手前の二つのベッドには誰もいないようで仕切りのカーテンは開け放たれていた。
一番奥のベッド脇に松岡と悠里が立っている。
二人はどうしてここに健臣がいるのか不思議そうにこちらを見ていた。
そして二人の間から真子が見えた。
一番奥のベッドの上に腰をかけ、頭には包帯を巻いている。
「あれ? 真子が倒れたって聞いたんですけど……」
「あれ? 和泉先生に伝えたんだけど? 『意識は戻ってます』って」
常山が呆れたような顔をこちらに向けてきた。
健臣は顔をかぁっと赤くする。そう言えば内線の途中で出てきてしまった。
松岡が健臣に尋ねる。
「和泉先生は? 常盤がここにいること知ってんの?」
「あ、はい。……たぶん、はい」
「あいまいだなぁ」
松岡が苦笑する。健臣は真子に近寄った。
「起きてて大丈夫なの?」
真子はこくんとうなずく。
健臣は頭に巻かれた包帯を見て、なにかあったことを悟った。
そして隣にいる悠里をちらりと見る。
どうしてここに豊川悠里がいるのかと不思議に思った。
真子が悠里と話しているところは見たことがなかったからだ。
常山が白衣を揺らしながらこちらに歩み寄ってくる。
「脳しんとうを起こしたようですね。すぐに意識を取り戻したし、大丈夫だと思うけど。念のために病院は行っておいた方がいいと思うわよ」
「もう大丈夫です」
真子はうつむきながらもはっきりと言った。
松岡は頭をかく。心配そうに顔を歪めていた。
「でもなぁ、なにかあったら困るしな。病院行こう。送るから。ただ午後は授業が入ってるから、一人でも大丈夫か?」
真子はうなずいた。健臣が尋ねる。
「なにがあったんだよ?」
「頭をぶつけて……」
「うん、それは分かるよ」
健臣は首をかしげた。
さらに先を促そうとすると、腕を組んで立っていた常山が苦笑気味に言う。
「これ以上は教えてくれないのよ。豊川さんも」
健臣は悠里に視線を向けた。その悠里は不満げに真子を見ている。
「それにしても驚いたわよ。保健室のドアが開いたと思ったら、豊川さんが森野さんを担いでるんだもの。かっこよかったわー」
常山が思い出したように微笑んだ。悠里の顔色が真っ赤に変わる。
「だって周りに誰もいないし、授業始まってたし、森野さんは返事しないし」
「ありがとう」
真子がお礼を言う。悠里はさらに顔を赤くして黙った。
松岡は「病院に行く支度してくる」と言って保健室を出て行った。
常山はそれを見送ってから健臣と悠里に視線を向ける。
「ほら、常盤君と豊川さんは教室戻って」
「え? 今更? もうすぐ授業終わるけど」
悠里が言った。
常山は壁にかけられた時計を確認する。授業が終わるまであと十分だった。
「……分かった。いいわよ。だけど静かにね」
健臣と悠里は「はーい」と返事をした。
常山がベッドを仕切っているカーテンを閉める。
健臣、真子、悠里の三人だけがそこに残った。
悠里が膨れた様子で真子に尋ねる。
少しだけ声のボリュームを落としていたが、不機嫌さはマックスだ。
「ねぇ、なんで言わないの?」
「先生に言ったら『仲良くしなさい』って話になる。けど私は仲良くする気ないから。だから言うと私にとって不本意な結果になる」
真子が真顔で言った。
悠里が少し考えたあと二度うなずいたが、まだ少し不満そうだ。
真子の言う通り、結果的には『仲良くしなさい』で片がつくことになるだろう。
だが問題はそれだけではない。なにが起きたのかを学校側としては把握しておきたいのだ。
しかし教師であり保護者でもある松岡も真子が誰かともめたという事実には気がついているだろう。
なら口を挟むところではないと思い、黙っていることにした。
悠里が眉根を寄せて言う。
「でも、悔しくないの? わたしはすんごく悔しいんだけど」
「悔しいというよりも豊川さんが私をかばってくれたことが嬉しかった」
真子がうつむきがちに言った。
悠里がきょとんとした表情を浮かべる。それから言葉の意味に気がついて顔を赤くした。
「だ、だって、ああいうの嫌いなんだもん」
「ありがとう」
「……どういたしまして」
健臣は置いてきぼりにされた感じがして真子にもう一度尋ねる。
「なぁ、なにがあったんだよ? 先生には言わないからさ」
すると真子と悠里が「教えない」と同時に言った。
二人は驚いたように顔を見合わせて笑う。
「なんだよ」
健臣はいじけたように言ってみせた。
しかし悠里と一緒に笑っている真子を見て、まぁいっかと諦めた。
「ねぇ、それより、あんたたちつきあってるの? てか、なんでここに松岡がいたの?」
「つ、つきあってねぇよ」
健臣が慌て言って、簡単に説明する。
悠里は特に驚いた様子もなく「ふーん」と納得しただけだった。
それから授業終了のチャイムが鳴るまでの間、健臣と真子と悠里は三人だけで話していた。