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俺と隣の席の魔女シリーズ  作者: 冬木ゆあ
第一章 俺と隣の席の魔女
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第三話 魔女の晩餐

 健臣はトントンという音で目が覚めた。


 テーブルに突っ伏したまま眠ってしまっていたようだ。

 体を起こすと背中から毛布が滑り落ちた。

 ぼんやりとしたまま時計を確認するともうすぐ五時だった。

 音のする方向――キッチンを見ると真子が立っている。


「ごめん、寝ちゃった」


 健臣が申し訳なさそうに言うと、真子は首を横に振った。

 春休み中は不規則な生活を送っていたせいで昨夜はあまり眠れなかった。

 寝不足だったとはいえ、他人の家――それも今日初めて会った人の家で熟睡した自分に心底呆れる。

 真子は健臣の前に麦茶を置いた。健臣は「ありがとう」と言った。


「カレー、好き?」


 突然の質問に健臣は瞳を瞬かせる。真子はもう一度質問をした。


「夕飯はカレーでいい?」

「え? 俺もいいの?」


 真子はうなずいた。健臣は瞳を輝かせる。


「カレー、大好きです!」


 真子はうなずいてキッチンに戻った。

 今度は炒める音が響く。健臣は真子を追いかけてキッチンに向かった。


「なにか手伝おうか?」


 真子は視線をフライパンに向けたまま、首を横に振る。健臣は手際のいい真子の手元を見ながらさらに尋ねた。


「森野さんがいつも作ってるの?」


 真子はうなずく。


「かずちゃんの料理は残念」


 健臣は真子の言葉を聞いて、吹き出すように笑った。

 たしかに松岡がキッチンに立って料理をしている姿は想像できない。

 だが、バーベキューでは活躍しそうなイメージはある。


「座ってて。あとは煮込むだけだから」


 真子は健臣の方をちらりと見た。

 健臣はしぶしぶとローテーブルの方に戻ってテレビを見ることにした。

 しばらくして真子がリビングを出ると風呂のお湯張りをはじめたことを知らせる音が鳴った。

 そしてリビングに戻ってきた真子は、配られたばかりの教科書とノートを抱えている。

 真子はローテーブルを挟んで健臣の正面に座った。


「なにしてるの?」

「勉強。時間が空いたから」


 健臣は教科書を眺める真子に尊敬の眼差しを送る。

 健臣ならゲームか漫画を読むところだ。


 健臣が何度目かの欠伸をしたころ、玄関のチャイムが鳴った。

 そして玄関の鍵が開く音がする。


「たっだいまー!」


 上機嫌で帰ってきた松岡は、そう言いながらリビングの扉を開けた。

 真子は顔を上げる。


「かずちゃん、お風呂沸いてる」

「サンキュー。お、この香りはカレーか。いいねぇ」


 松岡はリビングの奥にある引き戸を開けて、隣の部屋の中へ消えていった。機嫌な鼻歌が聞こえてくる。

 健臣は思わず笑みを浮かべた。

 松岡はグレーのスエットを持って、今度は廊下に消えていった。


 十五分も経たずに松岡が風呂から戻ってきた。

 松岡はキッチンに立ち寄ってカレーの鍋を覗き、冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

 軽快な音を立てて缶のふたを開けた。

 喉をごくごくと鳴らして飲んでいる。


「ああ。風呂上がりのビールは最高だぁ……」


 松岡は瞳を閉じてうっとりと言った。健臣はそれを呆れた瞳で見る。

 松岡は缶ビールを片手にこちらに向かって歩いてきた。


「常盤、お前も入ってこいよ」

「帰ってから入りますから、大丈夫です」

「お母さんが帰ってくるのは十時過ぎるんだろ? それからじゃ遅くなるじゃねぇか」


 松岡は缶ビールをローテーブルに置いて、隣の部屋から黒のスエットを持ってくる。


「安心しろ。下着は新品だ」


 松岡はにっと笑う。健臣は気おくれしながらそれを受け取り、「ありがとうございます」と言った。


「ちょっと待ってて」


 真子はそう言うと、急ぎ足で廊下へ向かった。

 物音と足音が何度かすると真子が戻ってくる。


「タオル、置いておいたから」


 真子はうつむきがちに言うとローテーブルに戻って、再び教科書を眺めはじめる。


「森野さんは?」


 真子が顔を上げて首をかしげる。健臣はさらに質問を重ねた。


「俺が先に入っちゃっていいの?」

「いい。あとで入る。お風呂、洗うから」


 真子はまた教科書に視線を戻す。

 健臣は気が引けながらも風呂へ向うことにした。


 風呂から上がった健臣は、タオルで頭を拭きながらリビングに戻った。

 松岡はテレビの前で胡坐をかき、バラエティ番組を見ている。

 傍らにはビールとさきいかを携えていた。

 時折、笑いながら首筋をかいている。

 一方、真子はキッチンで忙しなく夕飯の支度をしていた。


「お風呂、ありがとうございました」


 松岡は健臣の方を見て、「おー」と返事をした。


「森野さん、なにか手伝わせて下さい」


 健臣はキッチンの入口に立って言った。

 真子は少し考えたあと、三人分のスプーンと箸を手渡した。

 そしてキッチンの向かい側にあるダイニングテーブルを指差す。


「そこで食べるから座ってて」

「わかった」


 健臣はスプーンと箸を受け取って、ダイニングテーブルに向かった。

 真子はリビングにいる松岡を見る。


「かずちゃん、ごはん」

「はいはーい」


 松岡はテレビから目を離すことなくリモコンで電源を切った。

 そしてビールを連れて四人がけのダイニングテーブルの椅子に座る。


「常盤も座れよ」


 松岡は笑顔で隣の席を指差す。

 松岡の隣に座るのは気が引けたが、お世話になっている手前、言うことを素直に聞くことにした。

 料理を運んできた真子は松岡の正面に座る。

 夕食は松岡の独擅場だった。健臣と真子は上機嫌で話す松岡の話を聞いていた。


「茶碗洗いは俺がやるよ!」


 夕食後、健臣は息巻いて言った。


「……じゃあ、お願いします」


 真子は少し悩んだあと、そう言った。

 健臣は「よっしゃあ」とガッツポーズをする。やっと仕事をもらえたことで気まずさから少しだけ卒業だ。

 真子はキッチンから出てから、そっと振り返った。


「ありがとう」


 うつむきがちに言った真子に健臣は笑顔を向ける。

 茶碗を洗いはじめると、松岡が冷蔵庫を開けながら健臣に声をかけた。


「常盤、手際いいな。家でもやってんの?」

「たまにですけど」

「偉いなぁ」


 松岡が健臣の頭を撫でる。


「高二男子なので頭を撫でられても嬉しくないです」


 健臣は茶碗に視線を向けながらそう言うと、松岡はおかしそうに笑った。

 健臣がふと顔を上げて松岡を見た。


「そう言えば、森野さんが先生のごはんは『残念だ』って言ってましたけど」

「ああ、そうなの。俺ね、家事が全くできなくてさ。カレーを作ったはずなのに味がカレーじゃなかったり、茶碗を洗ったら割っちゃったりでさ」

「味がカレーじゃないってどういうことですか?」

「分量を間違えたのかなぁ。今度作ってやるよ」

「遠慮しときます……」


 健臣がそう言うと、松岡は大声で笑った。


「だから、まぁが家事をやってくれて助かっちゃう」


 松岡はそう言いながら、ビール片手にテレビの前に戻って行った。

 健臣は呆れたような笑みを浮かべる。

 松岡は大雑把だが親しみやすくて、健臣はいつの間にか打ち解けていた。


 健臣は茶碗洗いを終えて、ローテーブルに置いたスマートフォンを見る。

 典子からの着信があった。そしてメールも届いている。


『鍵忘れたって? バカでしょう。なにやってるの! 帰る時間だけど十時くらいだと思うから。おうちの人に迷惑かけないようにね。よろしく伝えておいて』


 健臣の顔が引きつる。ひどい言われようだ。

 なにより典子は月に一度のペースで鍵を忘れる。

 だいたい健臣の方が早く帰ることが多いので難を逃れているが、年に何度かは駅前のファミレスでしょぼんと座っている。

 健臣はそんな母さんにだけは言われたくないと思った。

 思わずため息をこぼす。


「お母さんから?」

「はい。電話していいですか?」

「どうぞ、どうぞ」


 健臣はダイニングテーブルの椅子に座った。

 電話をかけるとすぐに典子は出た。

 電話の向こう側で駅の放送と電車の音がしている。


「出んの早っ!」

『あなたは一体なにをやってるのよ、もー! お母さんは恥ずかしいわ。しかも電話もメールも返事ないし……。今から帰るから。あなたの為にさっさと仕事を終わらせた上に、急いで支度してきたんだからね!』

「すみません。あとで肩を揉ませて頂きます」


 健臣は電話越しに頭を下げる。


『よろしい。ああ、そうだわ。菓子折り買わなくちゃね。なにがいいのかしら……。そう言えば、たけはどちらでお邪魔虫になってるの?』

「お邪魔虫って……。同じマンションだよ。一〇〇八号室」

『そうなの? 同じマンションにたけの同級生の子がいたのね。知らなかったわ。お母さん、迎えに行くから。おうちの人にそう伝えておいてね。ああ、電車来ちゃ……』


 せっかちな典子らしく言い終わる前に電話を切った。

 電話の終了音が聞こえる。目まぐるしく変わる典子の話に疲れた健臣は、ずきずきと痛むこめかみに手を当てた。


「先生、今から母さんが帰ってくるって。たぶん九時半頃になると思います」

「おお。よかったな」


 松岡が驚いた顔で振り返る。


「それで母さんが迎えに来ると言ってるんですが……」


 松岡が「おお」と返事をして、ふと思い出したように自分のスエット姿を見る。


「着替えなきゃ……」


 松岡はいそいそと隣の部屋に入っていった。

 入れ替わるようにして風呂から上がった真子がリビングへ戻ってくる。

 淡いピンクの生地に黒のチェックが入ったパジャマを着ている。

 しっとりと濡れた髪は下ろしていた。

 真子がキッチンで麦茶を飲んでいると、松岡が隣の部屋から戻ってきた。

 ネイビーの生地に白のストライプが入っているスーツ姿だ。


「かずちゃん、酔いすぎ」


 事情を知らない真子が顔をしかめた。


「いやいや! これから常盤のお母さんがくるって言うから。他にちゃんとした服持ってねぇもん」


 松岡はシルバーの生地に淡いブルーのストライプが入ったネクタイを慣れない手つきで締めている。

 学校で見かける松岡は社会科の教師なのに、いつもジャージ姿だ。


「俺、酒臭くないかな?」


 松岡は口に手を当てて匂いを嗅いでいる。真子は水を汲んで松岡に手渡した。

 健臣は気まずそうに言う。


「そんなに気を遣わないでください。うちの母なので……」

「そういう訳にはいかねぇだろ。教師が酒臭いとか、お母様が心配しちゃうだろうが」

「何時にくるの?」

「九時半頃だって」


 時計を見ると、まだ八時半を過ぎたばかりだ。

 真子は小さくため息をついた。そして今度はガムの箱を松岡に手渡す。

 松岡はその中から数個取り出すと、一気に口の中へ放り込んだ。


 九時半を回る前にチャイムが鳴った。

 松岡は顔をきりっとさせて玄関に向かう。

 玄関で話し声がしたあと、松岡が健臣の母親である典子を連れてリビングに戻ってきた。

 常盤典子は黒髪をうしろで束ねてグレーのスーツを着ている。

 いかにも仕事帰りといった姿だ。

 目元は優しげで、笑うと口元にできる皺は愛嬌がある。

 健臣はダイニングテーブルの椅子に腰をかけていた。

 典子は健臣を見ながら、困り笑顔で言う。


「もう健臣ったら。鍵を忘れるなんて……」


 健臣を見つめる黒い瞳が怒っている。

 健臣は頭を軽く下げて謝罪の意を示した。

 典子は松岡に視線を戻し、手に持っていた白い箱を手渡す。


「つまらないものですが、よかったら……」

「お気遣い、どうもすみません」


 松岡はそれを受け取り、恐縮そうにぺこぺこと頭を下げている。

 健臣が典子の横に立った。


「母さん、こちら松岡先生。うちの高校の先生だよ」


 健臣の紹介を聞き、典子が驚愕の表情を浮かべる。


「ええ? あなた、友達の家にいるって言ってたじゃない! そういうことは、ちゃんと先に言いなさい!」


 典子は健臣の頭をどついた。そしてまた困り笑顔を浮かべて、松岡に深々と頭を下げる。


「そうとは知らずに申し訳ありません。いつも健臣がお世話になっております」

「いやいや。まぁ、どうぞおかけください」


 松岡は典子に座るように促して、ローテーブルを挟んで向かい合うように座った。健臣も典子の隣に座る。

 真子は麦茶の入ったグラスを典子の前に置いた。典子は真子に微笑む。


「ありがとう。女の子はいいですね。松岡先生は若く見えますのに、こんな大きなお子さんがいるなんてびっくり!」

「姪なんですよ。姉の娘なんです。今は訳あって預かっておりまして。そうそう。今年度から真子と健臣君は同じクラスなんですよ」

「森野真子さん」


 健臣が紹介すると真子は軽く頭を下げた。緊張しているのか顔がこわばっている。


「真子ちゃん、今日はうちの健臣が迷惑かけてごめんなさいね。お世話になったお礼にケーキを買ってきたの。よかったらあとで食べてね」


 真子は典子に小さく頭を下げたあと、松岡からケーキの入った白い箱を受け取ってキッチンに戻った。

 会話がはずんでいる松岡と典子を放って、健臣はダイニングテーブルに向かう。

 話が長くなりそうだと思った健臣は、スマートフォンでゲームを始めた。

 しばらくして健臣は典子に呼ばれた。


「たけ、ちょっと」

「なに?」


 健臣はそう言いながら、典子の傍に歩み寄った。典子は健臣を見上げる。


「あのね、たけ。松岡先生がね、よかったら明日から夕飯を一緒にどうかって」

「どうしたらそういう話しになるのかな……」


 健臣は呆れたように言った。


「健臣君、先生から言ったんだよ。お母様もお仕事で大変だろうし、先生と真子も二人で食べるより健臣君がいた方が楽しいからね」


 きりっとした笑顔を浮かべる松岡は、先程までテレビの前でぐうたらしていた人とは全く違う人のように見える。

 典子は困り顔で頬に手を添えた。


「実はね、お母さん、昇格の話があるのよ。もし昇格したらいつも遅番と同じくらいの時間になっちゃうの。どうしようかしらと思っていたのよね……。たけは料理できないじゃない?」

「昇格ですか! それはおめでたい。健臣君、そう言うことならなおさらだ。うちは大歓迎だよ」


 松岡と典子はすでに決定事項のように話しているが、実際に料理を作るのは真子だ。

 健臣は困り顔で真子を振り返る。

 きっと真子も困るだろうと思っていたが、真子は意外とすんなりとうなずいた。

 ならば健臣に決定権はない。


「……よろしくお願いします」


 健臣はおずおずと頭を下げる。


「じゃあ、すみませんが明日からよろしくお願いします」


 典子も頭を下げる。

 明日からのことで松岡と典子はいくつかの取り決めをして、話しが纏まった頃に真子がトレーを持ってきた。

 そこには夕飯のカレーとサラダが乗っている。

 松岡はきりっとした表情を浮かべて、真子から受け取ったトレーを典子に差し出す。


「夕飯はまだですよね? 残りものですが、よかったら……」

「あら、いいんですか? すみません」


 典子は困り顔ではあったが手はしっかりとトレーを掴んでいる。

 健臣と松岡と典子の三人は玄関に向かった。


「今日は健臣がお世話になりました」

「いえいえ。いやー、明日から食卓が賑やかになるかと思うと楽しみですよ」


 松岡は声を上げて笑った。典子も釣られて笑い声を零す。


「それじゃあ、おやすみなさい。健臣君はまた明日な」


 松岡はそう言って見送った。もちろん顔はきりっとしている。

 典子はもう一度頭を下げてから、エレベーターに向かって歩き出した。

 そのあとをついて行く健臣は、そっと振り返った。

 松岡は凝った肩を揉みほぐしながら家の中に戻ろうとしている。

 健臣はその姿を見て、密かに笑みを浮かべた。

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