第八話 魔女とオオカミ少女(後編)
翌朝、いつのもように健臣が真子を迎えに行く。
七時五十分ぴったりにチャイムを鳴らした。
玄関から出てきたのはあいかわらず鳥の巣頭の真子だ。
しかも今日はまだパジャマ姿だった。
「寝坊しちゃった」
てへとは笑わない真子である。真顔で言った。
健臣は玄関に立ち尽くす。そしてはっと気がついたように叫んだ。
「急いで支度!」
健臣が家の中を指差して指示する。真子は慌てて家に戻った。
健臣も靴を脱いで上がり、そのままキッチンに向かう。
キッチンのワークトップの上にはお弁当箱が三つ並んでいた。
寝坊したと言っても、今さっき起きたわけではないらしい。
先日、昼食を教室で一緒に食べてから、健臣の分のお弁当も作ってくれるようになった。
健臣の朝の仕事はそのお弁当箱を包むことだ。
さっと包んだあと、自分の鞄にひとつ、真子の鞄に二つ入れる。
真子は自室で制服に着替えてから洗面台に向かった。
しかし今日は鳥の巣頭を解体している時間はない。
健臣は真子とブラシと学生鞄を二つ抱えて家を飛び出した。
教室につくと拓也と直が気づいて「おはよう」と声をかけてきた。
そして自席に座っている悠里もこちらをちらりと見る。
その三人の視線が唐突に訝しげなものに変わった。視線は真子の頭に注がれている。
他の生徒たちもじっと真子を見ていた。
真子は席について鳥の巣頭の解体をはじめる。たまにブラシが軋む音が聞こえた。
悠里が真子に近寄り、声をかける。
「森野さん、どうしたの? その頭」
「おはよう、豊川さん。真子が寝坊しちゃって」
健臣が真子の代わりに返事をした。
真子は必死にブラシで頭を撫でていたが、うしろ髪にブラシが引っ掛かったようだ。
ぐいぐいと下に向けて引っ張っている。
「そんなに強く引っ張ると髪が切れちゃうじゃない。貸して」
悠里が真子の手からブラシを奪った。
優しくほぐすようにブラシを滑らせる。
「うまいなぁ」
健臣が感心したように言った。
悠里の手によって鳥の巣がするすると解体されていく。
前に健臣が挑戦した時はこんなに上手くはいかなかった。
悠里がちらりと横目で健臣を見る。
「どうしたらこんな寝癖がつくのよ。髪も痛んでるし。ドライヤーでちゃんと乾かしてる?」
「ドライヤー?」
健臣がふと考えた。そう言えば松岡の家にドライヤーなんてあっただろうか。
「ドライヤーは持ってない」
真子がそう答えた。悠里が顔をしかめる。
「ちゃんと乾かした方がいいよ。濡れたままだと傷むんだから」
「なぁ、ドライヤーってどこに売ってるの?」
「電気屋とかショッピングセンターとか?」
悠里は鳥の巣頭にやや苦戦しながら健臣の質問に答えた。
「いくらくらいで買えるのかな?」
「五千円くらいあれば買えると思うけど。いいやつとかだと一万円とか? というか、なんで常盤君が食いついてくるわけ?」
悠里が呆れたように言いながら、健臣に視線を向ける。
そこには瞳をきらきらと輝かせてこちらを見ている健臣がいた。
悠里は思わずブラシの手を止めて一歩うしろにあとずさる。口元が引き攣っていた。
「豊川さん、土曜日か日曜日のどっちかで暇な日ある?」
悠里は健臣の勢いに押され、ゆっくりとうなずいた。
土曜日の十一時頃、豊川悠里は駅前のロータリーに立っていた。
黒のショートパンツに白のノースリーブブラウスを着ている。
悠里はぽつんとどうして自分がここにいるのだろうかと頭の片隅で考えた。そしてその元凶がこちらに向かって走ってくる。
「おはよう。待った?」
健臣が笑顔で声をかけた。
健臣はジーンズと白のタンクトップの上に紺の半袖のシャツを着ている。
高いヒールのサンダルを履いている悠里は、健臣と背の高さがほぼ一緒だ。
「わたしも来たところだけど」
悠里はそう言ってから健臣の横にいる真子を見た。
真子は涼しげなピンクのワンピースを着ている。
悠里がそれを少し驚いたように見ていた。
「……黒じゃないんだ」
悠里がぼそっと呟いた。
健臣は苦笑する。はじめて真子の私服を見た時に同じことを思った。
「ねぇ、今日は森野さんのドライヤーを買いに来たんでしょ? なんで常盤君まで一緒に来るのよ」
「保護者みたいな……まぁ、そんな感じ」
「よくわかんない。森野さん、行こう」
悠里がばっさりとそう言って、真子を連れて歩きだした。
そして健臣を振り返る。
「なにやってるの? 早く行くわよ」
健臣は苦笑しながらあとを追いかけた。
駅前にある大手の家電量販店に入った。
狭い通路の両脇に電化製品がぎゅうぎゅうと並べられている。
人の波がそれらに足を止めて見入っていたり、興味がなさそうに通り過ぎたりしていた。
健臣たちは天井に吊られた案内板を見ながら、目的のドライヤーの売り場を目指す。
ドライヤーの商品が飾られている棚の前に辿り着いて健臣は立ち尽くした。
棚の上にあるドライヤーのひとつを手に取る。
「いっぱいあるんだな。なにが違うんだ? 色か?」
「……マイナスイオンが出たり、風量とか機能が違うのよ。あ、わたしこれ使ってる」
悠里がひとつのドライヤーを手に取った。
眉根に皺を寄せながら黙々とドライヤーを眺めていた真子が顔を上げる。
「じゃあそれにする」
「めんどくさくなったんでしょ?」
「めんどくさいんだな」
健臣と悠里が言った。
結局、真子は悠里が使っているドライヤーと同じものを購入した。
そのあと、昼食をとる為に近くのファミレスに来た。
三人は注文を終えて料理が来るのを待っている。
「それにしても一瞬で買い物が終わったわね」
「そうだな」
健臣と悠里は、拍子抜けしたようにソファー席の背に凭れている。
当の真子は先にきたアイスティーを飲んでいた。
しばらくして頼んだ料理がきた。
健臣はステーキ、悠里はハンバーグ、真子はトマトクリームのスパゲッティだ。
真子は髪が邪魔にならないようにうしろで縛る。
やっぱり真子は髪を上げた方がいいなと健臣は改めて思った。
真子の隣に座る悠里も驚いた表情で真子をじっと見ている。
「森野さんは髪を上げると雰囲気が変わるわね。上げてる方がわたしは好きだわ。というか、いつもどこで髪切ってるの?」
「自分で切ってる」
「うまいな」
「上手ね」
健臣と悠里が驚いた表情を浮かべて同時に言った。
自分で切っているとしたらその一言に尽きる。
市松人形の髪が伸びたらきっとこうなるんだろうなといった感じだ。
真子は少し照れくさそうにうつむく。
悠里は真子をじっと見つめてにやりと笑った。
「ねぇ、森野さん。このあと時間ある?」
真子はうなずく。
「お金は?」
「あと二万円くらいある。かずちゃんが多めに持たせてくれたから」
悠里は満足そうにうなずいた。その場で電話をかける。
健臣と真子が不思議そうに顔を見合わせた。
相手が出たようで悠里が話しはじめる。
「こんにちは。豊川悠里ですけど、原川昌紀さんいます? ……あ、昌紀兄さん? 今日さ、友達を連れて行きたいんだけど。今? 駅前のファミレス。ほんと? 助かる。うん、食べたらすぐ行くね」
電話を切った悠里が身を乗り出した。
今まで見た中で一番機嫌のいい表情をしている。
「ねぇ、森野さんのイメチェン計画。これからどう?」
悠里が綺麗な笑みを浮かべた。
悠里が連れてきたのは駅前の大通りから小道に入ったところにある小ぢんまりとした美容室だった。
アジアンテイストの店内に入ると、明るい茶髪のショートカットがおしゃれなお姉さんがカウンターに立っている。
にっこりと笑って「いらっしゃいませ」と言った。
こういうところと今まで無縁だった健臣と真子はおどおどと辺りを見回している。
対して、悠里は慣れた様子でカウンターのお姉さんに声をかけた。
「麻里さん、こんにちは。昌紀兄さんは?」
ちょうど店の奥から長身の男が出てきた。そして悠里に気がついて微笑む。
「悠里とお友達もいらっしゃい」
「従兄の昌紀兄さん」
悠里は健臣と真子に紹介する。
昌紀は細身な人だ。少しだけ長めの茶髪は整えられていて爽やかな印象を与えていた。
「で、今日は誰がお客さん?」
「この子。森野真子ちゃん」
悠里は真子を紹介する。真子は少し怯えたようにうつむいていた。
昌紀が承諾を得てから真子の髪に触れる。少し苦笑気味だ。
「美容室ははじめて?」
真子がうなずく。昌紀は真子を連れて店の奥の席へ消えていった。
健臣と悠里はカウンターの前の待ち合い席に座った。
健臣と悠里はそれぞれ雑誌を見たり、携帯をいじったりして時間を過ごす。
それから一時間もしないで真子と昌紀が戻ってきた。
その真子を見て、健臣は目を丸くする。
髪の長さは変えていないが顔周りがすっきりとしている。
髪をすいたのか重みが無くなり軽やかな雰囲気になっていた。
そして長かった前髪が眉毛の辺りまで切られている。
今まで隠れていた目元がはっきりと見えた。
髪型を変えただけでこんなにも印象が変わるのかと驚く。
これならもう誰も『魔女』などと呼ばないだろう。
真子は短くなった前髪が気になるようで、たびたび触れていた。
「森野さん、かわいい!」
「真子、似合うよ!」
健臣と悠里が言った。真子の隣にいる昌紀が満足げに笑っている。
「久しぶりにやりきった気分だよ」
「よくやったわ、昌紀兄さん!」
悠里が興奮したように言った。
真子はやっぱり前髪が気になるのか、まだ触れている。
それを見て昌紀が苦笑した。
「やっぱりちょっと切りすぎちゃったかな?」
「ちょうどいいです!」
「これくらいの長さがいいわよ」
うなずきかけた真子を遮るように健臣と悠里が言った。
健臣、真子、悠里の三人は昌紀の店を出たあと、近くの雑貨屋に来ていた。
悠里が「せっかくだからヘアーアクセサリーも買おうよ」と言いだしたのがきっかけだった。
店の中で真子、悠里の二人は並んで商品を見ている。
健臣は入りづらくて店の外で待っていた。
「森野さんはポニーテールとか似合いそう。シュシュは?」
真子は悠里に引っ張られるようにしてシュシュが飾られた棚の前に立った。
真子は商品を眺める。そして小花柄の散った淡い水色のシュシュに目を止めた。
「あ、これかわいい」
悠里もそう言って真子とほぼ同時にそのシュシュに手を伸ばした。
同じ商品に触れた二人は顔を見合わせて笑う。
「ねぇ、森野さん。お揃いで買おうよ」
真子は口元に小さく笑みを浮かべてうなずいた。
気がつけば夕方だった。
駅前で悠里と別れて、健臣と真子の二人は松岡の家に戻る。
松岡はリビングでごろごろ転がりながらテレビを見ていた。
傍らには缶ビールとさきいかが置かれている。
真子がそんな松岡に声をかけた。
「ただいま」
「おかえり」
松岡はこちらを見ることなく片手を上げた。目はテレビにくぎ付けだ。
真子は帰ったばかりだというのに忙しく歩き回っている。
松岡がやっとこちらを向いた。
そして眉根を寄せたあと、目を丸くして体を起こす。
「そこにいるのはまさかまぁか?」
松岡はそれから口を開けたまま真子を見ている。
健臣は必死に笑いをこらえていた。
冷蔵庫の前に立っている真子は照れくさそうに前髪に触れる。
「前髪切りすぎちゃった」
「そこじゃねぇよ」
「お金使っちゃった」
「そこでもねぇよ」
松岡は呆然としながらも、しっかりと真子に突っ込みをいれている。
健臣はとうとう我慢できずに声を上げて笑った。
真子に代わって健臣が説明する。
「豊川さん――同じクラスの友達の従兄が美容師で、今日行って来たんですよ」
「そうか、女の子は美容室に行くのか」
松岡が呟いた。
真子は少し不安そうな表情を浮かべる。
「変、かな?」
「いや、似合ってるよ。……そうだ、晃政さんに写メ送ろう」
松岡は真剣な表情でスマートフォンを構える。
「かずちゃん、本当にやめて」
真子は真顔で言った。
月曜日――真子のイメチェン計画後、初めての登校である。
健臣はみんなの反応が楽しみでそわそわとしていた。
対して、当の本人はいつも通り黙々と学校へ向かっている。
教室に真子が入る。
一瞬しんと静まったあと、いつも以上に騒がしくなった。
「え? 誰?」「魔女?」「嘘でしょう」と生徒たちが口々に言っている。
健臣はみんなの反応が予想以上によくて顔がにやけた。
そしてもうひとり顔がにやけている生徒がいる。
――豊川悠里だ。健臣の傍に寄って満足そうに言った。
「成功ね」
「おう」
健臣も満足そうに微笑む。
当の真子は周囲の反応を全く気にしていないようだった。
淡々と鞄から教科書を取り出して机に入れている。
「ねぇ、森野さん。髪結んであげる」
悠里はそう言ってから真子の髪に触れる。
「……ポニーテールがいい。シュシュ持ってきた」
真子がうつむきがちに言う。
悠里が嬉しそうに笑った。
「わたしも」
悠里は左手首につけたシュシュを見せる。真子とお揃いで買った水色のシュシュだ。
真子は控えめに笑みを浮かべた。
生徒たちは遠巻きに二人を見ている。
いつの間に仲良くなったのだろうかと不思議そうだ。
今まで一匹狼だった者同士が仲良くなっているのだからその驚きは大きいだろう。
――そして『魔女がイメチェンをした』という噂は、すぐに学校中に広まった。