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翔(かける) Frying!
作:佐倉信輔



Fly2「才能の片鱗」 その3


「始めィ!」
 八島先輩の号令と共に二人はがっちりと組み合った――ように見せかけた。
 そして大熊先輩は、引き手と釣り手を巧みに操りながら翔の体を上下左右に振っていく。
 といっても、そこは熟練者の大熊先輩だ。派手な動きに見せながらも、翔への負荷は最低限に抑えている。
 柔道はまず引き手と釣り手の攻防から全てが始まる。以下に相手の道着のよい場所を取るかで、有利不利が決定するといっても過言ではない。
 引き手は相手の袖をつかむ手で、釣り手は相手のえりをつかむほうの手を指す。右利きならば右組み――引き手が左手、釣り手が右手となり、左利きならその逆の左組みとなる場合が多い。
 大熊先輩は、その引き手と釣り手を上手く使い、力の方向をコントロールしているというわけだ。
 もちろんいくら加減しているとはいえ、普通の素人なら体勢を維持するのは困難だ。
 翔の持つ、天性の柔軟性とバランス能力があって初めて成せる事なのである。
 この状態ならいける――このまま二分間粘りきればこちらの勝ちだ。
 時計は今やっと一分を過ぎたところだ――。今日ほど時間を長く感じたことはない。
 翔の息も少し上がりだしてきている。――予想以上にスタミナがないぞ、こりゃ。
 大熊先輩もそれに気づいているようで、力をさらに加減しながら戦っているが、確実に振られ方は大きくなってきている。
 後三十秒、何とか持ってくれ――そう思った矢先にその出来事は起こった。
 大熊先輩が大きく引き手を引き寄せようとした。当然流れとしては動きに合わせるように翔もついていき、体を合わせるように動くところなのだが、バテだして足にきはじめていたのだろう、翔の足がもつれてそのまま引き寄せられるような格好になってしまったのだ。
 おまけに体勢を崩したせいで翔の引き手も切れてしまった。
 慣性のついた身体は止まる事ができずに大熊先輩の方へ流れていく。
 大熊先輩の方も異に反して翔の体がこちらに流れてきたため、体の動きに勢いがついてしまいそのまま流れていく。
 飛んできた翔の体を避けようと、大熊先輩は釣り手を離して体をよじったのだが、勢いのついたまま体をよじったためにそのままくるっと回転するような形になってしまった。
 やばい――このままじゃ払い腰の体勢になってしまう!
 もし完璧に体勢に入ってしまったら、素人の翔がかわすのは不可能だ!
 だが、次の瞬間信じられない事が起こった。
 大きく前に振られた翔が右足を畳につく。ちょうど大熊先輩の右足の後ろあたりだ。
 そのまま体を持っていかれるかと思ったが、翔の右足は驚異的な粘りで畳を捕え、そのまま翔の体が一回転する。
 大きく回転した翔はとっさに右手で大熊先輩の道着の左袖を、左手で衿をつかむ。
 思い切り踏ん張った足が翔の体の回転を止め、力が入りすぎたために今度逆向きに回転を始める。
 宙に浮いた翔の左足がそのままの勢いで跳ねる。跳ねた足が大熊先輩の左内腿うちももを跳ね上げ、そのまま天高くつき上がる。
 ――そのまま二人の体がゆっくりと宙を舞った。
 片足で相手の内腿を宙高く跳ね上げ叩き落とす投げ技の一つ――。
 数ある柔道の投げ技の中で、最も美しい技のひとつとされる大技――内股うちまただ。
 私はこれまでテレビ放送も含めて多くの試合を見てきたが、宙に舞った技の形だけなら、これほど綺麗な内股を見た事はない。
 しばらく時間が止まったような感覚さえした。そして二人の身体はゆっくりと畳の上に叩きつけられた。
 誰もが言葉を失い、見とれていた。――主審の八島先輩すらも。
 そして一瞬の間の後、八島先輩はハッと我に返り、右手を高々とつき上げた。
「あ――、い、一本! それまで!」
 偶然とはいえ、誰も予想だにしていなかった展開だった。
 そして勘太が思い出したように歓声を上げた。
「やった――、やったっスよ! これで部費三倍っスよ、三倍!」
「ちょ、ちょっと待ちたまえ!」
 それまで言葉を失っていた教頭が、勘太の歓声で我に返ったらしく慌てて叫んだ。
 ――心なしか髪の毛がずれてないか? 教頭よ。
「素人目に見ても分かる――今のは完全な偶然の産物だろう! そんな偶然の一本を認めるわけにはいかん! 今のは無しだ、無し!」
 教頭は激しく首を振って賭けの成立を拒否してきた。
 多分最初から負けた時の事は考えていなかったのだろう。
 ――当然といえば当然だけど。第一私だってまだ信じられないのだから。
「しかし、一本は一本です」
「認めんといったら認めん!」
 大熊先輩と翔がわけも分からずキョトンとしている横で、八島先輩・勘太と教頭が激しく言いあっている。
 この分では水掛け論になりそうだ。いっそ、賭け自体なかった事にした方がいいのではなかろうか……。
 その時、
「お待ちなさい!」
 という女性の声が聞こえた。
 そして、扉の向こうから加納先生と共に一人の中年女性が現れた。
 教頭先生とは対照的に恰幅がよく、どっしりとした女性――清明学園の理事長だ。
「先ほどから事の成り行きは全て見ておりました。"約束"は勝つか負けるかのみの勝負だったはず。プロセスがどうあれ、一年生君の勝ちは勝ち。潔くなさい」
 理事長は毅然と言い放った。
 威圧感のある口調。有無を言わさぬ強い口調だった。
「しかし、おま……あ、いや理事長。お言葉ですが――」
「お黙りなさい!」
 教頭は反論しようとしたが、理事長に一喝され小さくなってしまった。
 実はこの理事長、教頭の奥さんでこの学校の実質的経営者の令嬢なのである。
 したがって、校内一の強権を持ち、婿養子でもある教頭は唯一この理事長にだけは逆らう事ができないのだ。
「約束を持ちかけたのはあなたの方でしょう!? それを難癖つけるなど、上に立つものとして恥ずべき行為です! それに、あろうことか教師が生徒に賭け事を持ちかけるというのも感心できません。そのあたり、後でじっくりと話をさせていただきますから、覚悟なさい!」
 教頭は理事長に見えないように舌打ちをすると、そそくさとその場を後にした。
 理事長はそれを見届けると、こちらを向き直り静かな口調で言った。
「さて、私にできるのはここまでです。後はあなた達次第、この部を生かすも殺すもあなた達の活動次第です。私はね、勉学と同じくらいスポーツに打ち込む事も大切だと思います。文武両道あってこそ、子供は健やかに正しく成長するのです。あなた達の頑張りで、教頭にそれを証明しておみせなさいな。期待していますよ」
 そして理事長は軽くウインクすると部室の入り口へ向かった。そして部室から出ようとしたところで振り返った。
「ああ、そうそう。部費の件ですが、他の部との兼ね合いもありますから三倍は無理ですが、"約束"は"約束"ですから三割増しくらいでかけあっておきましょう。頼もしい進入部員さんも入った事ですしね」
 そう言うと、改めて理事長は部室を後にした。
 予想外の結末だったが、私達は勝った。部は守られたのだ。
 試合場ではまだキョトン顔で二人は固まっている。
 私達は固まったままの二人の元へ駆けよった。
「すげぇよ! あんなすげぇ内股見た事ないよ!」
 勘太が歓声を上げる。
 大熊先輩は首を振りながら「どうなったんだ?」とつぶやいた。
 翔も何がなんだか分かっていないようだったので、私と勘太、八島先輩で先ほどの様子を説明してやった。
 みんな本当に喜んでいる――柔道部が廃部を免れたのだ。そりゃあ嬉しいだろう。
 だけど、私の中にはもう一つ別な思いがあった。
 これは一日だけ協力するという契約――これで翔との契約は成立した事になる。
 つまり、これで翔との契約は終了。もう私に彼を引き止める権利は消滅したと言う事なのだ。
「さて、これで私とあんたの契約も終了ね」
 私はまだ座りこんだままキョトンとしている翔にそう言い、腕を取って翔を引き起こした。
「あ、ああ」
 約束は約束――これで全て終わりなのだ。
 その言葉が耳に入ったのか、他の三人も私達の様子を見つめていた。
「うーん、しかし惜しい気がするのう。偶然とはいえ、見事な内股。鍛えれば強者つわものになるだろうがのう」
「しかたないスよ。速水が約束しちまったんだから。あんな無理仕事をやってのけてくれただけでも十分儲けものでしょう」
 大熊先輩が豪快に笑いながら言い、八島先輩は相変わらずクールに言う。
 そうかと思えば柑太まで、
「そうっスよ、この際約束は無しにしてオレ達とやろうよ」
 と言い出す始末。まったく、調子のいい連中だ(私もだけど)。
 私はそんな三人を手で制して言った。
「ハイハイハイ、そこまでそこまで。約束は約束なんだから、無理強いしない」
「約束とは何かの?」
 その時、今まで黙っていた加納先生が口を開いた。私達はギョッとして加納先生の方を見る。
 この人に隠し事は通用しない。仕方なく、私達はこれまでのいきさつを全部話したのだった。
 加納先生は黙って話を聴いていた。そして私達が話し終わると、翔に向かって言った。
「ほっほっほっ、少年よ。先ほどの内股、見事じゃった。まるで儂の全盛期を見ておるようじゃったわい。――いくら偶然が重なったとて、普通の素人がああも綺麗に、しかもあれだけ体重差のある者を投げきる事はできん。ひょっとしたら、少年は愛されたのかもしれんのう――柔道の神に。自らの心が決まったら、また来なさい。改めて歓迎しよう」
 いつもながら、加納先生の心を見抜く能力には恐れ入る。考えている事も何もかも見透かされてしまうのだ。――まるで、もう一つ相手を見透かす目を持っているかのように。
 翔は着替え終わると一礼して部室を後にした。
 私達はその後、何事もなかったかのように稽古に励んだ。
 加納先生はああ言ったが、翔はおそらく二度とここには来ないだろう。
 元々半ば強引に頼んだ事。決してあいつの快諾を得たわけではない。
 休み明けにはまた新しい部員を探さないとダメかな――。私はそんな事を考えながら帰路についたのだった。







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