しずくのわすれもの
小惑星帯を通過し太陽系から離れていく、ある宇宙船があった。深宇宙探査船ではない。それはかつて行われた地球軌道上での戦争の忘れ物だった。軌道上で戦う戦闘機などが飛び交う中、なけなしの自衛武装だけを持った輸送船として使われていたものである。
この輸送船は戦いが激しくなる前に、重要な物資や人を避難させるために用意されたものであった。そしてその宇宙船には一人の少女が眠っている。
彼女は陳腐な言い方が許されるなら、天才科学者といっていい人物だと思う。彼女が衛星軌道上でしか合成できない特殊な材料は、戦闘機の能力を向上させるためには不可欠なものであった。
不幸にも彼女が脱出したときには、決戦の火蓋は切られていた。彼女は目の前で多くの戦闘機が散っていくのを見せ付けられることになる。彼女の輸送船が帰還するコースに乗るほんのわずかの間でさえ、何機かの戦闘機が彼女の盾になり致命的な攻撃を受けた。そして、その中には彼女の恋人もいた。
その戦いの様子は近くといえど、肉眼で見えるような距離ではない。食い入るようにレーダーを見つめる彼女。ステルスを考慮された戦闘機が、激しく反射波を返すときは、滑らかな機体が大きく変形しているときでもある。それが何を表すのかは言うまでもないだろう。
彼らの最後のメッセージを見逃すまいとレーダーを見つめる彼女。その彼女がレーダーにひときわ輝く敵の母艦を見つけるのはある意味、当然のことであった。
「あ...」
敵の母艦と敵の戦闘機、その配置は味方の戦闘機に対しては完璧であるが、彼女の乗る輸送船に対しては無防備であった。いつもであれば何重にも安全対策を施す彼女は、今回に限り何のためらいもなく、敵母艦に突入する軌道を取った。
自衛でしかない武装は敵母艦の神経に大きなダメージを与えた。ただの輸送船にそんなことが出来たのにはひとつの理由がある。ダメージを与えたとき、その輸送船は燃料をすべて使い切っていた。その結果、第3宇宙速度に達していたのだ。だから、敵もそのような動きを予測から削除していた。つまりそれは、元の場所へ二度と戻らないことを示していたのだ。
彼女はその結果がわかりすぎるくらいわかっていた。遠ざかる敵母艦からの通信が激減したのを確認すると、彼女はある作業を始める。
彼女の持つ知る限りの知識を記録し、地上に送りつける。それは彼女が今まで生きてきた証でもあった。その努力の生涯に蓄えられた知識は、もし、受信してくれる人がいれば、だれかが役立ててくれるかもしれない。
その後は、のろのろと義務的に動いた。まず、船内にある食品を選び、出来る限り飲み込んで栄養をつけること。そして適切に消化したころを見計らって、体内の排泄物を出来るだけ排出し、体の中を空っぽにすること。長い排泄が終わると、彼女はさびしそうに地球のほうを見た。そして名残惜しそうに眼鏡を外すと、人工冬眠装置に身を任せたのであった。
戦争が収まったのは数年後のことである。輸送船は徐々に速度を落としていくが、速度が落ちるより、太陽の引力の弱まりのほうが早い。
原子力電池も時と共に出力を落としていたため、人工冬眠装置と制御コンピュータの機能を維持できなくなるのも時間の問題であった。制御コンピュータは慎重に余剰電力を計算すると、電波を発した。
その電波を受信したのはほんの偶然だった。小惑星帯の探査機との通信を行う際に一瞬だけ、輸送船の電波が混じりこんだのだった。緩やかに回転している輸送船のアンテナが地球を向くのも偶然のことならば、探査機を操作する職員が、それをただの微弱なノイズとして切り捨てずに、分析をしたのも偶然だった。
その電波が、かつて、敵の母艦に損害を与えた輸送船のものであることがわかると、地上は騒然となった。その電波で人工冬眠装置が稼動中であることもわかった。少なくとも彼女の国の宇宙関係者は全力でその宇宙船のゆくえを探した。そしてそれはやがて見つかり、どこに向かっているのか計算される。
飛行軌道がわかるとその輸送船が戻ってくることはありえないように思われた。だが、宇宙関係者は周りの小惑星の影響を計算し、多くの星の微弱な重力を利用することで、輸送船を戻す計画を絞り出した。それは気の遠くなるような計算によって積み上げられたものであった。
原子力電池の電力も減少の一途をたどっている。その中で遠隔制御を行い、わずかに残った姿勢制御燃料を慎重に灯す。それでほんのわずかだけ方向を変えるのだ。それにより、近くの小惑星の影響を受けて軌道が変わる。さらに計算して、別の小惑星を捕まえる。宇宙関係者の技術者たちは2年をはるかに越える先まで計算をし尽くした。誤差もあるから、その誤差を修正しながら、一滴の姿勢制御燃料を何度にも分けて使った。なんと3年間もの間、宇宙関係者の努力は続いた。
数え切れないほどの小惑星を掠めて、その重力をもらった。少しずつ速度を減らし、ついには、太陽へ向かって移動する軌道へと入る。
やがて、月までの距離の2倍ほどのところにまで、輸送船はたどり着いた。出迎えの救助船が輸送船に取り付き、輸送機の空気が抜けないようにドッキングする。
慎重にハッチを開け、内部の様子を確認する。救助員は安堵の声をもらした。人工冬眠装置のランプの色はまだ緑のままだったのだ。いくつかの作業の後、慎重に人工冬眠装置を取り外して、救助船に乗せかえる。
救助員が輸送船のハッチを閉じるとき、空気の流れと共に、こちらに漂ってきたものがある。それはひとつの水滴であった。それは、人工冬眠装置に入る直前に彼女が落としたものである。