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 ただでさえ理屈っぽい話なのにいっそうヘビーになってきます。大変ですけど頑張ってお読み下さい。
恋の行く末
12月30日(土)
 〔右手を切り取ってしまってよ〕

 大掃除ついでに、半年前の手書き日記のノートを仕舞おうと思って、再度斜め読みしてみたけど、内容のあまりの酷さにとっておく気が失せた。この頃って、まだ日記の書き方が分かってなかったっていうか、未来の自分が読むことすら、あんまり想定してなかったから、心の断片が切れ切れに綴られていてすごく読み辛い。
 何つーか、風邪ひいて、三日も風呂に入らなかった過去の自分の姿を見ている気分。そんな自分の姿を、これぞ真実の自分とか思い込んで、撮影した気分だ。
 確かにそれもまた、一つの真実かも知れないけど、でも何もそんな状態を、保存する必要無かったっていうか、写真を撮りたいんなら、髪くらいとかしてからでも、良かったんじゃないかみたいな気分。
 それに日下部(くさかべ)に対して、今では全然未練が無いから……、つーか当時は日下部の要望で、「セイ君」って呼ばされていたから、日記にも「セイ君」って記してあるんだけど、あんな男を、「セイ君」なんて愛称で呼んでいたこと事態がおぞましくて、再読に耐えない感じなので、これは破棄することにした。
 あれだけテンパッて恋の叫びを記しておきながら、半年後にはただ冷めるだけじゃなく、こうも拒否反応起こしていることや、そのせいで半年後の今では、客観を伴った日記を書いていることが、何とも不思議。まあ人間は成長するってことでしょう。
 それとも半年前は、手書きで日記つけていたけど、今はPCでつけているからその違い? 書く作業は右脳を使うけど、キーボードを打つ作業は、左脳を使うって話を聞いたことあるけど、その違いなのかね? 基本的に右脳は情感を司るらしいから、ただでさえ情感的な恋愛を右脳で記録すると、暴走した感じになるのか?
 だとしたらやっぱ日記は、PCでつけるべきものなのかも。あたしは割とウェットな気質だから、そういう人間が、右脳を発揮すると、かなりイッちゃった感じになっちゃうから。
 ただ半年前の日記の中に、記されていた詩は、まあまあイッちゃってはいるものの、破棄するのが惜しい気がするので、その部分だけは、以下に写し取っておこうと思う。


 右手を切り取ってしまってよ、ダーリン
 今のままじゃ、お別れできない
 右手を切り取ってしまってよ、ダーリン
 暖かい血の通わないその手が、あたしの魂を絡め取ってく
 憐れみと知的好奇心と偽善から来る捻れた虚栄
 あたしはきっと今、その罰を受けているのね
 両腕揃って燃えるゲヘナに投げ込まれるくらいなら、今すぐその
 右手を切り取ってよ、切り取ってよ
 ダーリンの右手は、地獄への片道切符
 きっとその手であたしを抱えたまま、ダーリンはゲヘナへ投げ込まれる
 憐れんだ相手に蔑まれた時、あたしは堕ちて行く甘美さを知った
 階段を駆け上がるより、転がり落ちる安逸さをむさぼって、衝撃に狂喜する
 ねえダーリン、あたしの右手から、血潮の最後の一滴がほとばしった時、
 あたしはダーリンから自由になれるの?

 右手を切り取ってしまってよ、ダーリン
 さもなくば
 あたしの右手を切り取ってしまってよ
 ダーリン、あなたの裸を見る度あたしはゾッとするの
 ゴムまりのように冷たいその右手が、あたしの裸の胸を打つ度、
 ゾッとするの
 その感触があたしの心をとろけさす度、ゾッとするの


 危険思想の一つであることは間違いないんだけど、詩という形式をとったことによって、少しは客観の余裕が感じられて、まあ何とか読めるという感じかな。
 だってそれまでは、一貫して「セイ君」って呼びかけていた日記で、突然「ダーリン」だなんて、これは明らかに読み手を意識しているね。詩としてこれを読んだ場合、相手が想い人であることさえ分かればいいっていうか、相手の呼称は必要無いから、情報をシンプルにしようっていう計算が、垣間見える感じ。
 多分あたしは、この詩だけは、未来の自分に読ませることを想定していたんだろう。だからあたしは過去の自分の意思を汲んで、この詩だけは残しておこう。
 ただ……、あたしはこの詩を書いた記憶はあったんだけど、繰り返される「右手を切り取ってしまってよ」というフレーズは、てっきり自分の右手の事だと思っていたから、今日読み返してびっくりした。自分の右手を切り取ってくれっていう要望は、途中でやっと、出てきたものだったのかと唖然とした。
 冒頭では日下部に対して、右手を切り取れなんて、物騒なこと要望していたのか。しかも切り取らなきゃ地獄行きだなんて、言いがかりもいいとこ。
 うろ覚えだけど、あなたの右手があなたをつまずかせるなら、右手を切り取れ。両手が揃って、燃えるゲヘナに投げ込まれるくらいなら、片手で神の御国に入った方がいいっていうのは、確か『大草原の小さな家』のワンシーンだ。
 開拓時代のアメリカで、手の怪我から破傷風になってしまい死にかけた主人公の母親キャロラインが、たまたま開いた聖書に書かれていたその聖句に従って、膿んだ傷口を、自分で切り落として助かった話を、以前DVDで観た記憶がある。
 観た時は確かに衝撃的だったけど、その記憶が、半年前の自分にこんな詩を書かせたのかと思うと、知識や経験が、心に及ぼす影響というものに、今更ながらに驚かされる。
 事故で右手が使えない障害者だったからこそ、あたしは日下部に惹かれて付き合い始めたのに、いつの間にか、その右手を憎んでいた。いや日下部自身を憎んでも、その右手があたしの心を掴んで放さないから、あたしはあたしを惑わせるその右手を、魅惑的な悪魔の手だと感じておびえていた。
 後半、あの詩は何故、「あたしの右手を切り取ってしまってよ」と転じたんだろう? いやその前触れとしてあたしは、「あたしの右手から、血潮の最後の一滴がほとばしった時」と書いている。つまりあたしはその時点で、切り取る対象を、日下部の右手から自分の右手に転じていた訳だ。それはなぜだろう? そしてペンを置いた後左手に剃刀を持ち、実際に自分の右手に、宛がったのはなぜだろう?
 あなたと別れたい。だからあたしの心を掴んで放さないその右手を切り落としてと願いながら、結局その右手も日下部自身も、心から追い出せなかったあたしは、少しでも日下部に近付きたくて、右手を傷付けたんだと記憶している。でも今考えると、発想が飛び過ぎている気がする。
 ただ…、飛び過ぎているとはいっても、結局表面をちょっと傷付けただけだから、「切り取ってしまって」と威勢のいいこと書きながら、実際の行動は緩い。
 それとももしかしたらあたしは、他者に対して、暴力的な感情を持ってしまった自分に、その暴力の意味を教えるために、敢えて自分を傷付けたんだろうか。だってやっぱ手を切り取るなんて怖いよ。そんな怖い行為を、例え詩の上とはいえ他者に望んでしまった自分に、あたしは罰を与えたのかも知れない。
 ただ……、右手を傷付けたいんなら、右手のどこを切っても良かったはずなのに、当然のように手首を狙った点が気にかかる。だって君江さんを彷彿とさせるもん。
 あの当時はまだ、林野さんたちは結婚してなかったどころか、どういう訳だか一度別れていた。しかもその間に林野さんには、二人もカノジョが出来た。だから君江さんの自殺未遂は、あたしとは全く無関係だ。でも君江さんの自殺未遂の方法も、やっぱ右手のリストカットだった。それを考えると、いくら本気の人間は、利き手をカットする傾向があるとはいえ、その一致に何だか妙な気分になる。
 まあ一致とはいっても、君江さんはカット後、二度も手術をして神経を繋げたらしいから、あたしの緩いカットとは、比べ物にならないんだけど。ただ……、あたしはひょっとしたらその話を聞いていたからこそ、半年前カットを実行した部分もあったんじゃないだろうか?
 障害者である日下部を、あたしは傷を負った繊細な人だと思い込んで、付き合い始めた。それを知った友人知人全員が反対したけれど、あたしはむしろ反対されることによって得意になった。誰だって健常者とは、何の抵抗も無く付き合えるけど、こうして障害者と付き合える女は、そうザラにいやしないわと思った。
 けれどあたしは別れを決意した。日下部の障害が、ネックになった訳じゃない。右手だけでなく両足の壊死も進んでいるのだと、打ち明けられたからでもない。
 日下部は性格が悪かった。これまでの自分の浮気遍歴を、得意げに打ち明け、前カノの性的な欠点を面白おかしくあたしに語り、そして目の前にいるあたしのことも、始終馬鹿にした。
 障害ゆえのコンプレックスから、日下部がそのような言動に出ていたことは分かっていた。でもあたしは、他者を貶めることによって自分を浮上させようとするさもしい人間は、尊敬出来ない。だってうちの父親みたいだから。
 あたしは本当は、父親の女性蔑視の原因を知っている。父親は不細工な上に、学歴が無く稼ぎも悪く、そのなけなしの金も騙し取られるような愚か者だから、当然コンプレックスの塊だ。だから父親は、この時代最後のギリギリの悪あがきによって、女という存在を蔑むことによって、何とか誇りを保とうと心がけていた。
 けれどその心がけによって、あたしはどれだけ傷付いただろう? 八寿子の家庭内暴力と、それによる母親の苦悩だって、父親が発端だ。
 コンプレックスを持つこと、自分は駄目だと思うことが辛いなら、他者にだって、そんな気持ちを味あわせるべきじゃない。結局父親も日下部も身勝手だ。でも家族の縁は簡単には切れない。だからせめて他人である日下部との縁は切らなければと思いながら、あたしはズルズルと、二ヶ月も付き合ってしまった。
 そうは言っても、最初の一ヶ月は仲良くやっていた。この人、性格悪いなって気付いてから、別れるまでの期間が一ヶ月だったということだ。それはそんなに長い期間じゃないのかも知れない。でもその期間に、あたしは精神的におかしくなって、変な詩を書いたりリストカットしたりしていたんだから、やっぱりそれは、「ズルズルと付き合ってしまった」って表現が、正しいと思う。
 ただ……、あたしは半年前の自分のリストカットを、日下部なんかとズルズル付き合い続けていたせいだとばかり思っていたけど、でもひょっとしたら、そこには君江さんの存在も、関与していたのかも知れない。
 自殺未遂をきっかけにヨリを戻し、そして結婚にまで至った林野さんたちの存在を知っていたから、そして聖書の文句を記憶していたから、あたしは手首を切ることを是と捉えたのかも知れない。あるいはあれだけ日下部に惹かれていたあの時ですら、あたしは林野さんに愛されている君江さんを羨み、君江さんの行為を、真似たのかも知れない。
 でも本当に、林野さんに愛されたかったんなら、君江さんを越えたかったんなら、あたしはあの時、動脈をぶった切って死んでおくべきだった。それなのに実際のあたしは、皮膚をちょっと傷付けただけで今ものうのうと生きている。何て何て生ぬるいあたし。
 まあでも生ぬるいからこそ、こうして生きている訳だから、多分生物としては、これが正しいんだろう。ただどっちにしろあたしは、人の欠落を見て人を好きになる傾向があるということだ。そしてその恋が上手くいかなくなると、その欠落もろとも切り落としてくれと、相手に願ったり、あるいは自分の体を、傷付けたりする人間だということだ。
 ということは、今後早田係長との恋が進展して、そして駄目になった時、あたしは自分の髪を切り落としたり、引っこ抜いたりするんだろうか?
 ……んー、引っこ抜くのは何となく無さそうかな。だっていくら激情に駆られたって、髪をワシッと掴んで抜くなんて、出来ないでしょ、普通。かといって一本一本地道に抜くのは勢いに欠けるから、思い詰めた時の行為としては、ちょっと適さないし、かといって髪を切るのは普通過ぎる。
 だって髪切るなんて、ハゲ男相手とか関係無く、失恋の定番でしょ。まあでも最近は失恋で髪切ったなんて話聞かないから、現代に於いては、風変わりな行為ってことになるのかも知れないけど、でも髪は切りたくないなあ。手首切るよりはマシだろうけど、でもあたし、ショート似合わないんだもん。
 やっぱやるならせいぜいボブだよな。突然思い立って、変な髪形にしちゃったら困るから、今から雑誌とか見て、研究しとこうかしら。
 備えあれば憂い無しってゆうか、こういうのって災害の備えみたいなもんだよね。災害に遭わなければそれに越した事無いけど、でも遭っちゃうかも知れないから、そのためには、被害を最小限に食い止める準備が不可欠だわ。
 ただ……、あたしが髪を切る前の段階の係長への攻撃は、詩の内容は、どんな感じになるんだろうか。考えられるのは以下の三つだ。
⑴ 残りの髪も、引っこ抜いてしまってよ
⑵ ハゲた部分に、植毛してしまってよ
⑶ ハゲた部分を、切り取ってしまってよ
 一体どれになるかは神のみぞ知るだけど、でも⑶は猟奇的だし、かといって⑴と⑵はギャグみたいだなあ。
 日下部と付き合って、あたしは障害者に対する認識が、甘かったかも知れないなと気付かされた。あたしはどういう訳だか、障害者は皆が皆、人の痛みが分かる人たちなんだと思い込んでいたから。
 だから当たり前のことなんだけど、そうじゃない人もいることが、何だかショックだった。だからとりあえず、自分の心が落ち着くまでは当分障害者に近付くのはやめようと思った。つーか別に日下部だって、あたしから近付いた訳じゃなくて、飲みに行った先で、向こうから近付いて来たんだけど、ただとにかくあたしは、半年前の件でかなり精神的に疲れちゃったから、しばらく自分のフィールドから出たくないっていうか、だから自分の職場で、恋愛対象を見つけたって部分がある。
 ただそうは言っても、結局どこか抜けた人、どこか欠落した人が好きっていうのは変わらなくて、だから毛が欠落している係長を好きになったんだけど、でも毛が欠落した人って、こっちが真剣になればなるほど、状態がギャグになってくる気がする。
 多分そんなギャグみたいな詩、本気では書けないし、⑶だって捉えようによってはギャグだから、あたしは今回は、どんな結果になっても、危ない詩を書いたり危ない行為は取らない気がする。
 大人になるごとに、こうして保身が上手くなっていくのかなと思うと、ホッとしつつも少し寂しい。別に今、係長のこと大好きだけど、でもあたしは、あの詩を書いたイッちゃった自分を、決して嫌いじゃないから。あたしは半年前本気で、将来は半身不随になるかも知れない日下部と、生きていくつもりだったから。



12月31日(日)
 〔装うという事〕

 年越しはヨリと、ヨリの馴染みの飲み屋で過ごす予定だから、二時間後には家を出る。年明けて帰宅後お風呂に入って寝て、明日は早田係長とのデートだから、着る服も持ち物もチェック済みだ。
 11時に待ち合わせの予定だけど、それまでにどれだけ寝られるか分かんない。初デートに寝不足で出かけるのは不本意だけど、だからといって、一人家で年越しするのは、あまりに侘しいから仕方ない。一応そのために今朝はたっぷり寝坊しておいた。
 一時は、こんなに汚い自分が、係長と関わっていいのかと自問したけど、でもだからといってドタキャンしたら、係長に不快な思いさせるだけだし、別に「付き合って」とも言われてないのに
「あたしは係長に、ふさわしい女じゃありません」
 とか言い出すのはテンパリ過ぎなので、やっぱ出かけることにした。
 別にあたしがあれこれ考えなくても、明日会って、それっきりになるかも知れないしね。そうなったらなったで淋しいけど、でもそれもまたホッとする……、なんて弱気な考えだな。恋愛中はいつも弱気なことばかり考えちゃう。
 いや別に恋愛中に限らないか。あたしの弱気は、今に始まった事じゃない。何か新しいことが始まりそうになる度に、それが待ち望んでいたことであっても、何か億劫で、いっそ白紙に戻っちゃえばホッとするのになんて、後ろ向きなこと考えたりしちゃう。何ていうか新しい事柄のための準備が、出来てない気分になるっていうか。
 明日のデートにしたって、着る服は準備したけど、でも本当にその服でいいのか、よく分かんないっていうか。だって係長の好きな服装がどんな感じかとか知らないし、知らないまま用意したのは、結局は準備不足な気がするっていうか。
 でも例えば、係長の好きなファッションが分かっていれば、まんまそのファッションを用意するかっていうと、それはしないんだけど。だって好きな相手の好みに縛られて、ファッションの幅が狭まるのはつまんないし。
 ただあたしは、服装の好みが幅広いから、あたしの好きな服装の中に、係長の好きな服装も多分入っている気がする。明日は初デートなんだし、その辺の共通点を体現化した格好を、したいっていう気持ちがある。
 でも結局、係長の好みは分かんないから、独断で明日の装いを決めなきゃいけない訳で、それでまあ、木曜日に係長に送ってもらった時に着ていた服を基準に考えて、なるべくそれから、遠い服装にすることにした。
 まだ係長はあたしのことよく知らないから、なるべくあたしは、自分のイメージを固定化したくない。あたしは特に男に
「思っていたのと違った」
 と言われ易いタイプだから、相手にそもそもの思い込みというものを持たせたくない。なるべく色んなあたしを見て欲しい。
 だからとりあえず、木曜日はパンツスタイルだったから、明日はふんわり目のスカートにする事にした。ピアスも木曜日は会社使用の小さめのやつだったから、ユラユラ揺れるぶら下がりタイプにして、髪も木曜日は下ろしていたから、明日は夜会巻きをベースにもう少しカジュアルな感じに巻いてみるつもり。
 つーか初デートはやっぱ、スカートが無難な気がする。あたしはスカートもパンツもどっちも好きだから、だったら初デートは、男性である相手の、一般的な好みを尊重する意味を込めて、やっぱスカートだよな。
 あと髪をアップにするなら、ピアスを目立つタイプにするのは、バランスがいいし、それに揺れるアクセは、風水的に恋愛運をアップさせるらしいので都合がいい。それにまだ親しくない内に、そういうピアスをしておかなきゃ、後になったらするチャンスが減る。
 だって揺れるピアスって、エッチの時邪魔だしね。布団に引っ掛けて耳たぶ引っ張られても嫌だし、かといって初エッチの時に、ピアスまで外す余裕が、あるか分かんないから、そうすると揺れるピアスは、まだエッチをしないであろう内に着けておくのがベスト。
 同じ理由で髪のアップも、エッチに向かないから、今の内にしておくのがベスト。だから女がその気でデートに来たか否かは、装いを見ればある程度察しがつく訳よね。少なくともあたしの場合は、今日はヤるぞと思ったら、ヘアアクセは着けて行かないし、ピアスは小さ目にするし、服も脱ぎ易く脱がせ易いタイプにする。
 ただその逆は、必ずしも真ならざりきだけどさ。だからあたしが言える事は、少なくともヘアアクセを付けて、邪魔そうなピアスをして現れた女は、その日はその気が無いってことだ。服の脱ぎ易さは必ずしもじゃないけど。事前にシャワーを浴びる場合は、自分で脱ぐ訳だから、どんな服でもいい訳だし。
 まあだからあたしは、少なくとも明日は、係長とエッチをするつもりが無いから、アップの髪やら揺れるピアスやらで、せいぜい鎧って行こうと思う。結局初デートは、大抵の場合、相手の好みを把握してないから、こういう風に、今後のエッチを見越して装うことになる。
 一体いつ自分が、髪を下ろし揺れるピアスを外して、係長に会うことになるのかは分かんない。ひょっとしたらそんな日は来ないかも知れないし、あるいは髪型やピアスうんぬん以前に、係長にはもう誘ってもらえないかも知れない。
 ただあたしは、髪をまとめていた方が評判いいから、どっちにしろまとめ髪にした方が係長が好感持ってくれる率が高い気がする。
 でも本当は、多数の意見なんかどうでもいいんだ。ただ一人の係長が明日のあたしを見て、まっさらな年を迎えたあたしを見て、ほんのちょっとでも、綺麗だな、可愛いなと思ってくれればいいなと思う。
 だからその為に、明日は最大限の努力をする。でも絶対に遅刻はしない。だって
「必死でメークしていて、遅れちゃいました」
 と言うのも嫌だし、必死でメークしてその顔かよ? と思われるのも嫌だから。



1月 1日(月)
〔あたしは、どうかしていた〕

 初日の出を見た。輝いていた。
 あたしはキラキラ輝くハゲ頭より、くすんだ感じのハゲ頭の方が好みだからガッカリした。でもそれは、日中の屋外にいたから仕方無い。元日の太陽に照らされて、早田係長の頭は必要以上に輝いていた。
 あたしの言い方もいけなかったのかも知れない。あたしは確かに
「将来ハゲそうな人が、好み」
 と言って、決して
「ヅラを被っている人が、好み」
 とは言わなかった。
 でもそれは仕方無いことだ。あたしは係長がヅラであることを、知らない振りをしなきゃいけなかったんだから、うかつにヅラの話なんか、出来る訳が無かった。
 どうして係長は、まず口頭で、ハゲをカミンガウトしてくれなかったんだろう?
 例えば男なら誰でも、好きな女の裸は見たいだろうけど、でも初デートで女が全裸で現れたら引くじゃん、普通。あたしだっていつかは、係長のヅラの下に隠された頭皮を見たいと思っていたけど、でも初デートで、まさかヅラを脱いで来るとは思わなかったから、新年早々仰天した。
 しかもまだ欠落してない、健全な髪まで刈り取って、ボーズ頭で現れるんだもん。あたし正直言ってボーズって嫌いなんだよね。高校球児とか、本当の坊主とかなら仕方ないけど、でも別にボーズにする必要の無い人が、わざわざボーズにするのは嫌い。だってそれって偽ハゲじゃん。
 だから待ち合わせ場所に現れた係長のボーズ頭を見た時、あたしは初デートに、全裸の上、パイパンで現れた女を見た男のような気分になった。
 無毛症とかなら仕方ないかも知れないけど、でも剃り跡があるのは、無毛への意思がある訳だから頂けない。つーかパイパンだったら尚のこと、全裸で現れるべきじゃないでしょう。
 つーかやっぱあたしとしては、係長の無毛への意思が一番引っかかった。よく
「ハゲたら、潔くボーズにする」
 とか言う人いるけど、どうして潔くなきゃいけないのか、あたしにはさっぱり分かんない。
 だって髪は長―い友達なんだよ。長―い友達に去られ始めたら、ショックを受けて、当たり前じゃないの? せめて残った友達は大切にしなきゃって、残りの髪を活用しまくって、去った友達の穴埋めをしたり、あるいは人工の友達を被せたりするのが、人情ってもんじゃないの?
 それを言うに事欠いて、「潔くボーズ」だなんて。まだ残っている友達まで抹殺するなんて人でなしだよ。
 いや分かっている。これは単なる嗜好の問題だ。あたしだって別に、ボーズの人を人として嫌いな訳じゃない。ただボーズ頭の人には、恋愛感情を感じないだけの話だ。あたしは潔さに内包された鈍さの方が、鼻につくっていうだけの話だ。
 長―い友達への未練を断ち切ることが出来たら、それは随分楽な話だと思う。どうせなら楽な気分で生きた方がいい。
 でもあたしは、楽に生きられないタイプの人の方が好きなんだ。楽に生きられる強い人間は、他にも支持者がいるから、何もあたしが好きになる必要は無い。
 あたしは些細なことに傷付いたり、苦労したりする人間に、色気を感じるんだ。少々鈍い方が潔さを手に入れられるのに、感受性が邪魔して、生き辛くなっている人のことが気になるんだ。
 でも係長は、四日前まではそういう人だったと思えたのに、今日突然、潔くも鈍い人間としてあたしの目の前に現れた。ただあたしは確かに四日前、係長に
「将来ハゲそうな人が、好み」
 と言ったから、それを受けて係長がハゲを晒したんなら、あたしはガッカリしちゃいけないのかも知れない。
 でも例えそうだとしても極端過ぎない? 第一あたしは、そんなこと望んでないしさ。別に男女の間では誤解はつきものだし、そんなこといちいち気に病んでいても、仕方ないのかも知れないけど、でも係長だって実際に行動に移す前に、あたしの意思を、確認してくれても良かったんじゃない?
 何つーか、思い込みですぐ極端な行動に走っちゃう人って、先が思いやられる。今後うかつなこと口に出来ないっていうか、何か発言する度に
「今あたしが言った事を、正しく理解した?」
 と確認しなきゃいけないのかと思うとうんざりする。そうなってくると会話も億劫になるし、会話が億劫な相手となんか、恋愛どころか友達付き合いも無理じゃん。
 前の奥さんが、何で係長と別れたのか分かった気がした。係長って相手の真意を理解しない内に、相手の発言に触発されて、極端な行動に走るから、そういう人と関わるのが、嫌になったんだろうなって気がする。
 まあ実際は、他にも理由があったのかも知れないけど、でも少なくともあたしにとってはこれだけで充分だ。人との付き合いって、コミュニケーションが一番大事だもん。そのコミュニケーションが取れない相手と、どうやって関わるんだ?
 コミュニケーション不要の片想いならまだしも、こうやって少なくとも、一度でもデートに誘われちゃった以上、コミュニケーションの問題は、無視出来ない。
 ただ係長は今日、ハゲの事を
「別に今まで、隠していた訳じゃなかったんだけどね」
 と言っていた。
 そしてヅラのことを
「友達にいいカツラがあるって勧められたから、面白半分で使っていたんだけど、何だか面倒臭くなってきてね」
 と言っていた。つまり別に、あたしの発言に触発された訳じゃないって言いたかったんだろうけど本当かしら? だとしたらタイミング合い過ぎじゃない? そういうミエミエの嘘つく人って嫌い。
 だってハゲを隠したいって意思が無ければ、誰に勧められたってヅラ買ったりしないでしょ。高い買い物なんだしさ。それを言うに事欠いて「面白半分」って何それ。何でそうやって強がるんだろ?
 あたし強がる人って嫌い。人間には誰しも、弱い部分があるっていうのを、認められる度量が無いってことだから。そういうのを認められずに強がるなんて見苦しいし、そういう人は、弱さを嫌悪しているから、誰かが弱さを見せた時に、優しく出来なかったりしてタチが悪い。
 別に強い人間になろうって思うのは構わないし、人は誰しも、強さを目指すべきだとは思うけど、でも本当の強さっていうのは、自分や他者の弱さを、ちゃんと認められるものだと思うけど。
 でも本当に係長が、あたしの発言とは無関係に、たまたまヅラが面倒臭くなってボーズにして来たんだとしたら、あたしには何の責任も無い訳だから気楽ではあるけどね。だってもう係長とは、プライベートで会う気無いし。
 思っていたのと違った、なんて自分がよく言われることを、今回あたし自身が思っちゃって妙な気分。ただ別に、あたしは係長に好きとか言ってないし、あたしの方から誘った訳じゃないし、一回目のデートで分かったんだから、いいんじゃないの? と思う。
 今まであたしに、その言葉を言った男共は、何度もデートした末に言ってきたからなあ。何つーか気付くのおせえよ。見る目ねえよ。見る目が無いんなら、最初っからこういう女だとか、勝手に思い込むなよ。そっちから誘うなよ。
 結局あたしが受身に徹しているのは、自分の観察力に、自信が無いからかな。間違っているかも知れないからうかつに近付けない、自分から近付いたら引っ込みがつかない、みたいなそんな感じ。
 でも世の中には、観察力が無くても、自分からバンバン近付いてく人多いよな。まあ観察力が無ければこそ、誰かに近付いて経験値上げて観察力を養うべきなんだろうけど、でも、あ思っていたのと違ったって思った時、相手に責任感じないのかな。近付いちゃったことによる責任感じないのかな。
 まあそんなものいちいち感じていたら、身動き取れないっていうか、世の中があたしみたいな受身人間ばっかりだったら、人付き合いというものが発生しなくなっちゃうから、自分からバンバン近付いてく人間も、必要なんだけどさ。
 つーかそれはさておき、新年早々恋が消えちゃって、何だかすごくへこんだ。
 別にこんなこと、よくあることだけどさ、ちょっといいなと思っていた人に誘われてウキウキ出かけてったのに、いざ対面してみたら、ちょっと違うなって思って、冷めたことなんて、今まで何度もあるけど、でもだからといって、何も元日にそんな目に遭わなくてもいいじゃん。
 元日から洗濯すると、その年は一年中、洗濯に追われるとか言うけどさ、ということは元日に恋が終わった訳だから、今年は一年中恋が終わりまくり?
 いやそもそも始まっていた訳? 正直一回デートしただけだし、しかもそのデートも、会った瞬間にボルテージ下がったから、全然楽しくなかったし、何か今年は、こういうくだらない恋愛もどきに時間を費やして終わるのかと思うと、新年早々来年が待ち遠しいよ。
 まあ今年が、こういう年になるっていうのは、迷信かも知れないけど、でもやっぱ今日が元日だったのは大きい。元日の初詣に一緒に行っときながら、今更あたしは、係長のこと何とも思ってませんなんて、言えないっていうか。
 しかも「今年もよろしくお願いします」って、年賀状出しちゃったからなあ。ああ何であんなの出しちゃったんだろ? 全然よろしくお願いしたくない相手に、よろしくだなんて、しかも係長からは届いてないっていうのに、何であたしは、あんなもん出しちゃったんだろ?
 しかも会社の相手だよ。嫌になったからって無視出来ないのに、ああ今後のことを思うと、気が滅入る。やっぱ社内恋愛なんて面倒なものに手出すんじゃなかった。本当にあたしはどうかしていたよ。



1月 2日(火)
〔キラキラ輝くハゲ頭より、キラキラ輝くあたしの未来〕

 一晩寝たら大分気持ちが落ち着いた。年明け会社に行ったら、早田係長がどういう態度で出てくるか気がかりで、それがうっとうしくはあるけど、でも別に一回初詣に行っただけだし、大したことじゃないじゃんという態度で通せば、通せそうな気がするし、そうするしかないんだから、もうあれこれ考えていても仕方ない。
 元々社内恋愛は嫌だったし、バツイチにも抵抗あったんだから、冷めたことによって、それらを避けられるんだから、むしろラッキーだったんだと思うことにした。
 ただ、こんな汚い自分が係長と関わっていいの? と思いつつも、好きだった内は、いそいそとデートに出かけてったのに、いざ相手に冷めると関わりたくなくなるんだから、結局あたしは、自分勝手だなと思った。まあでもそもそも恋愛感情というものが、自分勝手なものな訳だけどさ。
 その自分勝手なあたしが望んでいた人は、係長ではなかったってことだ。あたしが望んでいたのは
「ハゲがコンプレックスだったので、それを克服するために、ヅラを被ってみましたが、結局ハゲているというコンプレックスが、ヅラを被っているというコンプレックスに変わっただけでした」
 という人だったのに、係長はヅラと一緒に、コンプレックスを脱ぎ捨ててしまったということ。
 一体あたしが求めている人は、どこにいるのかな。ヅラを被っている人って、傍目にはなかなか見抜けないし、一目で見抜けるタイプのヅラ男は好みじゃないから、今後また恋をするのは難しそうだな。ああ今にして思えば、係長のヅラを知ったのは奇跡みたいなものだった。
 ……なんて思っていたら、河合君から電話がかかってきた。年末年始休暇を利用して、また遊びに来ると張りきっている。
 まあ河合君と会うのは、別に構わない。ただ生理終わっっちゃったから、生理を言い訳にエッチを拒否れないし困ったな。と思っていたら、夜は友達の所に泊まると言うのでOKした。いよいよ河合君も、あたしと寝るのを諦めたらしい。
 ということは、これからは何の心配もなく、河合君と友達付き合いが出来るということだ。
 正月早々、恋が壊れたのはショックだったけど、でもその代わり河合君との仲が健全なものになったんだからそれで良しとしよう。何かを手に入れるには、何かを手放さなきゃならないものさ。
 ……なんてことを思ったら、何だか気が楽になって、あたしはふと河合君に
「ねえねえ河合君って、ハゲる家系?」
 と聞いていた。最早河合君には恋愛感情も性欲も無いから、今更どっちでもいいんだけど、でもそれでも、友達として好きな男のハゲの可能性は、やっぱり知っておきたい気がした。
 そしたら河合君は
「やだやだ、何でそんなこと聞くの?」
 と神経質な声を出したので、ちょっとびっくりした。どうやら河合君はハゲを非常に心配していて、ハゲにまつわる話題を、振られることすらも苦痛らしい。
 あたしは何だか、河合君が可愛く思えて
「そんなにハゲるの、やだ?」
 と優しく聞いてみたら、河合君は
「絶対やだよ。ハゲるくらいなら、陰毛でいいから生えていて欲しい」
 などと答えるのでぎょっとした。
 だって頭に生えたら、それって髪の毛であって、陰毛ではないのでは? まあ陰毛みたいな毛って意味合いだろうけど、でも頭から陰毛みたいな毛が生えていたら、かなりおかしい。それともストレートパーマをかければ、いいってことかしら? スーパーストレートでも厳しそうだけどな。
 ただどっちにしろ、「陰毛でいい」なんて発言は、あまりに潔くないと思う。でもそれほどまでに、たかがハゲを恐れている河合君が、何だか愛しかった。
 この時あたしはやっと気付いた。あたしが求めていたのは、ハゲとがヅラとか、そういう即物的なものじゃなかったんだってこと。あたしが求めていたのは、もっと精神的なもの、無毛への恐れの心だったんだってことに。
 でも人の心を覗くのは難しい。だからあたしは、つい外見的事実から入ってしまった。けれど外見から入る恋なんて、上手くいくはずがない。考えてみればヅラである係長を好きになったのは、一種の面食いだもんね。
 顔のいい人に、その顔ゆえに惚れた場合は、面食いの自覚が持てるのに、今回はヅラゆえの恋情だったからつい自覚せずにいたけど、結局外見的特長から入る恋愛は、面食いと同じだよね。
 あたしは係長がヅラである事実から、勝手に係長を、繊細な人だと決めつけて気に入っていた。でもそれって、あんな可愛い子がウンチなんかするはずないって妄想する小学生と、同じレベルだった訳だ。
 ううむ、ヅラ男に惚れるなんて、まさに大人の恋だとばかり思っていたのに、その実態は何て幼かったんだろう。全くそんな幼い恋が破れるのは当たり前だ。係長との恋は、破れるべくして破れたものだったんだ。そう気付いたら、あたしは心から仕方ないことだったんだと思うことができた。
 ただそれとは別に、あたしは先ほどの河合君の「陰毛」発言から、ふと河合君の局部を連想した。あたしは河合君の局部が好きだったから。でも別にそれはサイズ的な相性の問題じゃない。まあ別にサイズ的な相性も悪くはなかったけど、あたしはそもそも、サイズ的な相性には無頓着なタイプだから、問題はそういうことじゃない。
 あたしが好きだったのは睾丸の方だ。河合君の睾丸は、左右が非常にアンバランスだった。
 河合君に聞いて、初めて知ったんだけど、男の人の睾丸というものは、生まれてすぐには体の外に出ないらしい。では一体いつ頃体の外に出てくるのかは知らないけど、とにかく睾丸というものは、しばらくはお腹の辺りに収納されていて、ある程度の時期を経てから体の外に出るものらしい。
 よく男の人が局部を打って
「タマが上がる」
 と言ってピョンピョン飛び跳ねているのは、打ち付けた時に、睾丸が元の腹の中に戻りそうになるので、それを防ぐために、飛び跳ねているそうな。
 もっとも通常は睾丸が体外に出た後、睾丸の戻りを防ぐ為、弁が形成されるらしいので、そう簡単に、腹の中に戻ることは無いらしいけど、その弁が河合君には片方しか無かった。河合君はある時期になっても、睾丸が片方しか体外に出なかったので、収納されたままの睾丸の方は、弁が形成されなかったらしい。
 そうはいっても、そういうことって、母親が気付かないものなんだろうかとは思うけど、どういう訳だか河合君は、母親に気付いてもらえなかったらしい。それでそのまま放置していたら、その内、睾丸が収納されたままになっていた腹の辺りが膨れてきて、ようやく病院に連れて行かれ、睾丸を押し出してもらったらしい。
 ただそれまでの間に、先に体外に出ていた方の睾丸が、発達してしまったらしく、大人になっても河合君の睾丸は、あまりにもアンバランスだった。
 正直言って、見ていて気持ちのいいものではなかった。こう言ったら何だけど、あれは一種の奇形というものだと思う。片方の睾丸が出なかったのなら、単純に考えれば、出ていた方の睾丸は倍の大きさになる気がするけど、あれは優に、三倍から四倍の大きさがあった。しかもそれは伸びきっていて張りが無く、河合君の股間にだらしなくぶら下がっていた。
 黒ずみ変形して、力なくぶら下がる体の部位というものは、こちらに怪しい胸騒ぎをもたらす。その四年後、やはり寝室で日下部の右手を見た時、あたしは同じ胸騒ぎに囚われた。枯れ木のようにやせ細り、皮膚も死んだように黒ずんだ日下部の右手は、日下部が動く度にブラブラと物体として揺れ、時折あたしの裸の胸を打った。
 でもその無機質な感触に、あたしの心は波打った。それが日下部のコンプレックスの、体現化に思えたから。とはいえ日下部の場合は、コンプレックスの扱い方が好ましくなかったから別れた訳だけど。
 それはさておき、河合君の睾丸も、それがグロテスクであるからこそ、あたしの心を甘く切なくさせた。だってそれが河合君のコンプレックスの体現化に思えたから。
 ひょっとして河合君が童貞だったのは、睾丸にコンプレックスがあったせいかなと思ったら、あたしは童貞だった河合君に納得がいって、ますます河合君が好きになった。
 河合君は別にその話を、涙ながらに訴えた訳じゃない。ただ淡々とあたしに語って聞かせてくれた。エッチをする間柄だから、一応打ち明けておくねというノリで、まるで世間話でもするかのように、あたしに教えてくれた。だからこそあたしは、その事実に秘められた河合君の様々な葛藤を、察することに心を砕いた。
 だって嬉しかったから。あたしを初めての相手に選び、真摯に説明してくれたことが嬉しかったから。河合君はとてもシャイで繊細な人だから、睾丸問題も誰にも相談出来ずずっと悩んでいたらしい。その悩みを、あたしだけにそっと打ち明けてくれたことが、あたしはすごく誇らしかった。
 もしかしたら無毛への恐れじゃなくても、いいのかも知れない。無毛でもアンバランスな睾丸でも、あるいは別の何かでも、いいのかも知れない。
 何かに傷付き続けている人が、あたしを選び、信頼して打ち明けてくれれば、そしてその人が、自分の受けた傷によって思いやりを持っていれば、あたしはその人を愛せるのかも知れない。
 現にあたしは、ハゲ好きの自覚の無い頃、ハゲの兆候の全く無い河合君を好きになって付き合い始めた。そして河合君と関わるごとに河合君の傷の源を知り、知る度に好きになっていった。
 残念ながら遠恋に耐えられずに別れてしまったし、それによって恋愛感情と性欲は消滅してしまった。でもまだ人間としては、河合君を好きな気持ちが残っている。ということは、もしまた傷付き続けている人に巡り会えば、あたしは次こそは、末永く続く恋愛関係に、入ることが出来るのかも知れない。
 まあ遠恋だからって、何で駄目なんだ? こうなったら河合君とヨリ戻しちゃえばいいじゃんという気がしないでもないけど、でも恋愛感情は理屈じゃない。別れて四年以上の月日が経っているのに、その間こうして連絡は取り合っていたのに、一度も性欲も恋愛感情も復活しなかったんだから、後ろを振り向くことはやめよう。
 付き合ったことのない人と付き合いたがるあたしには、ヨリを戻すような真似は出来ない。それに別に河合君にこだわらなくても、世の中には傷を隠し持っている人は他にもいるはず。この広い世の中で、あたし好みの傷の持ち方をしている人を探し出し、その人と恋をすればいいんじゃないだろうか。
 そんなことを思ったら、未来にちょっぴり光が見えた気がした。あたしはキラキラ輝くハゲ頭は好きじゃないけど、でも自分の未来はキラキラ輝いていた方がいい。今見つけた一筋の光を、キラキラ輝かせられるか否かは、多分あたし次第なんだろう。
 5年前に書いた作品だったので、早田係長への気持ちが冷めることは覚えていたんですけど冷める理由を忘れていまして。
 今回再読して、係長がヅラを外してボーズになったことが理由だったのを知ってびっくりしました。
 金持ちとか地位のある人に惚れた訳じゃない、ヅラでバツイチの男に惚れた訳ですからうまくいって欲しい気がしたんですけどねえ。
 しかし恐ろしいほど理屈っぽい話でしたね。。。ここまで読んだ方はお疲れ様です。
 一時やたら理屈っぽい話を書いていた時期があったんですけど、何だったんでしょう。何かに取り付かれていたのかも知れません。
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