その9
友人の話によると、小学校の低学年、彼女がいとうつくしき少女だったとき、よくお兄さんのあとを引っ付いて回って嫌がられていたそうである。
「どこに行くにもお兄ちゃんの後についてってね。なつかしいな。『将来、お兄ちゃんと結婚するんだっ』なんて言って。ああ、なんてカワユイわたし」
遠い目をして過去に浸る友人の腕をぐいと引いて、胡桃は現在に引きずり出してやった。問題は、過ぎ去りし日々ではない。今なのだ。ただ今この瞬間に我々は生きているのである。百歩譲るとしても、過去を懐かしむのはお肌が曲がる年になってからで良い。
「今ねえ……うーん、今はどうかな。別に嫌いじゃないけど、好きとまでは」
もちろん結婚はしたくない、と真面目な顔で厳かに宣言する友人。
胡桃は彼女の片頬をつねった。片方ではバランスが悪いのでもう片方もつねってみる。
「はにふんのよ〜」
「このままあんたのほっぺたを膨らみきった餅みたいにしてやりたい」
友人の瞳に恐怖の色が浮かんだ。
「真剣に答えてくれるよね、ミカ?」
頬をどちらもつねられたまま、友人は小さくうなずいた。
胡桃は手を放した。
「でもさあ、何が問題なのよ、クルミ? 春樹先輩に似てたからコタロウくんのこと好きになったって、別に悪いことじゃないと思うけど」
頬をさすりさすりそんなことを言う友人。春樹とは兄の名である。
「ハルキ先輩、美形だし。あんたと違ってね」
後半部は先ほどつねられたお返しだろう。胡桃はあえて聞こえない振りをした。しかし、前半部は聞き捨てにできない。胡桃は友人に眼鏡をかけることを勧めた。目も良くなるし、魅惑の眼鏡っ子になって思うまま男子を翻弄することだってできる。
「ハルキ先輩、二年生の間でも人気あるよ。この前もクラスの子から、先輩にカノジョいるのか聞かれたし。『カノジョもいるけど可愛くない小姑もいるよ』って答えといた」
再び胡桃の腕が動いたが、目標を捉えることはなかった。身を翻して攻撃をかわす実夏。そうそうやすやすとつねらせる気はないらしい。
「さすが我が親友。腕を上げたわね、ミカ」
「フ、二度も同じ攻撃を食らうわたしではないわ」
アホらしいやり取りに当初の悩みを忘れてしまいそうになる所にこそ真のアホらしさがある。
胡桃はぶんぶんと頭を振って正気を取り戻そうとした。
兄の人気があろうがなかろうが、そんなことはどうでも構わない。問題は、意識下で兄を慕う気持ちがカレシ選びの決定打となった、というそのことである。それの何が問題なのか、と友は言う。彼女には事の重大さがよく分かっていないようなので、胡桃は分かりやすくレクチャーしてやることにした。
「ミカ、あんたの前に今一人の男の子がいるとするでしょ」
「カッコイイ子?」
黙れ、という意を込めて瞳からビームを発する胡桃。
「ご、ごめん。続けて、クルミ」
「その子が告白する、『ずっとミカちゃんのことが好きだったんだ』って。あんたはOKする。でも、不思議に思う、『どうして、わたしに告白してくれたんだろう。わたしなんて何の取り柄もないのに』って」
ムッとした顔を作る実夏を、胡桃は無視した。
「そうして気になって仕方がないあんたはついに訊いてみることにする。その時の彼の答えはこうよ、『ミカちゃんって僕のお姉ちゃんに似てるんだよね』って」
ようやく事の深刻さが分かったのだろう、実夏は青ざめた顔をしていた。
「さあ、そんなことになったら、あんただったらどうする?」
「ごめんなさい」
実夏はぺこりと頭を下げた。告白してくれた架空の少年に対して、お付き合いを継続できないことを謝っているのだ。そりゃそうだ。何も好き好んでシスコン男と付き合わなくても、男子は星の数ほど、少なくともこの学校にだって全学年合わせて三百人はいるのである。他のノーマルな男子を探した方が良い。
さて、「実夏―仮想シスコン男子」の間に働く力学を、「小太郎―胡桃」間にパラレルに適用すれば、どうなるか。答えは明々白々である。カレシは去り、少女はひとり。
「別れたら、わたしの胸を貸してあげるからね、クルミ」
実夏は、悲劇的な結末が予想される親友の肩を、ぽんぽんと慰めるように叩いた。
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