そのさいご
薄明の中で胡桃は幸せな夢を見ていた。恋人と手をつないで街角を歩く夢である。きらめく初夏の光の下、爽やかなそよ風に吹かれ、煉瓦が敷き詰められた街路を軽やかなステップで叩く。隣には愛しい人。手から伝わる確かな温もり。それはもう体が浮き上がるほどの喜びで。ふと隣を見上げて恋人の顔を見ようとしたとき――
胡桃は目を覚ました。自分の部屋である。窓外から雀のさえずりが聞こえて朝を告げていた。胡桃はふう、と息をつくと体を起こした。もう一度寝れば夢の続きを見られるかもしれないが、夢は所詮夢に過ぎない。齢十三を数えれば、夢見る少女ではいられない。胡桃はムンと気合を入れると現実に立ち向かうため立ち上がった。日曜日だというのに既に活動しているのか同室の妹の姿はない。勤勉なことである。感心した胡桃が時計を確認すると九時だった。どうやら、妹がイソイソしているというわけではなく、胡桃が起きるのが遅かっただけらしい。
胡桃は洗面を済ませると、ダイニングに入りながら母に挨拶した。
決闘の日からちょうど一週間が経っている。
その日、胡桃は恋人を失った。
「さよなら、クルミちゃん」
それが小太郎の別れの言葉だった。試合が終わった直後、カードを片づけて座を払った小太郎は、立ち上がった胡桃の目前に来て静かに言った。声にも胡桃を見る目にもいささかの震えもなく、それはいかにも小太郎に似つかわしかった。
「今日までありがとう、コタロウくん」
瞳の縁が小刻みに震えた。泣かないように耐えられたのは小太郎が部屋を出るまでのこと。
「はい、紳士の皆さまはご遠慮ください」
泉はすばやく兄と弟を追い払ってくれた。胡桃は、泉にしがみついてさめざめと泣いた。何に対して泣いたのかということは分からなかった。何の為の涙なのか。それが分からないから人は泣くのだろうと後で胡桃は思った。
「クルミちゃんはよくがんばったよ。立派だった」
優しく撫でられた頭を胡桃は乱暴に振った。
「立派じゃなくていいからカレシ欲しい!」
「誰か紹介しようか?」
「やだ。コタロウくんがいい」
その夜は泉の家に泊まった。彼女が自分の家を決闘場にしたのも、夕方に時刻を設定したのも、もしものことがあったときスムーズに胡桃を宿泊させて慰めの宴を開くためだったというのだから恐れ入る。その日はジャグジーバスで身を清め、豪華なディナーをやけ食いし、天蓋を備えたお姫様ベッドの上で、男というものがいかにくだらない生き物かというテーマで泉と一晩語り合った。その場になぜだか、敵方でしかも初対面の早瀬もいたのは、胡桃のイライラ受け止め役という栄誉ある役目は自分ひとりでは荷が勝っているかもしれないと思った泉の機転である。
「あの、事情は良く分かりませんけど、いい戦いでしたよ、お姉さん」
「何が『いい戦い』よ? 負けちゃ意味ないでしょ、女王様。大体さ、あなたはコタロウくんの何なの?」
「町のフットサルクラブの――」
「あ、やっぱどうでもいい。だってあたしフラれたんだから聞いても意味ないし。そんなことよりさ、お兄さんとかいる?」
「え、いえ、姉しかいません」
「使えない! あんた何でここにいんの?」
ひいっと軽くのけぞるようにした早瀬を更にイジイジ胡桃はいじったのであった。
それから一週間が経って、幾分胡桃は落ち着いてきた。もう話しかけられたときにシカトしたりもしないし、壁を蹴ったりもしない。家の手伝いもしなければ、宿題もしない。全てが元通りになりつつある。元カレの小太郎とはクラスメートとしての付き合いを続けている。朝会ったらあいさつするし、必要があれば話もする。どうやら振られたカレシに会いたくなくて学校に行けなくなるようなロマンチックな体質ではなかったらしい。
胡桃と小太郎が別れたという情報は「裏生徒会」によって早速流されて、この機を千載一遇ととらえた女子たちが獲物を狩る肉食獣よろしく、さっそく小太郎に襲いかかった。しかし、小太郎は彼女たちの告白を全て断ったそうである。
――わたしに未練があるのかな?
という考えを一笑に付すくらいには胡桃は成長した。では、どうしてか。それは胡桃の知ったことではない。自分を振った男のことなどそれほど興味が無い。と言えば、それはウソになるけれど、というか、クラス内で小太郎の名が出るたび心臓が跳ねあがる胡桃ではあるが、それは、おそらく時間が解決してくれることだろう。解決してくれなければ困る。
「あれ? おれの抹茶豆乳は?」
ダイニングに現れた弟が冷蔵庫を探りつつ不思議そうな声を出した。昨日まで確かにあったはずの抹茶味の豆乳が消えているという。胡桃は身近に起こったミステリーに軽い驚きを示しながら、今しがた母に給仕してもらった朝食をほおばってもぐもぐすると飲み込んだ。弟の視線が、緑色の液体が入った姉のグラスに張り付いている。それを無視して、胡桃はごきゅごきゅとグラスの中身を干した。
「どっか行くの、テルヤ?」
「う、うん。カードの研究会を友だちの家でやるんだけど」
「がんばりたまえ」
「あの、それよりさ、一つ聞きたいことがあるんだけど、昨日冷蔵庫にあったおれの抹茶豆乳ってさ、姉ちゃんがおれに買ってくれたヤツだよね。お礼だって言って」
「そう、その通り。本当にお世話になりました的な」
「だよね。まさかお礼としてあげたものを、あげたその人が飲むわけないよね」
「そりゃそうよ」
胡桃は自信たっぷりに請け合った。なにやら疲れたように肩を落とした弟が玄関に向かうのを見て、胡桃は仕方ないのでイチゴ豆乳を買ってきてやることにした。抹茶味がどんなもんかは分かったことでもあるし。
例の勝負の翌日、学校から帰った胡桃は、弟から散々なじられた。
子曰く、
「いかなる事情があるにせよ、勝負を諦めるような人間はサモナー失格である。二度とカードを手にすることなかれ」と。
胡桃は粛粛と師の言葉に従い、デッキを返還した。そうして二度とカードに触れないことを厳かに誓った。弟はちょっと寂しそうな顔をした。
「ま、まあ反省もしていることだし、二度とあんなことをしないって誓うなら……」
「反省はしてません。あのときはああするしかなかったのです、マスター」
胡桃は強硬に言い張った。
勝負の最後のとき、確かに小太郎の気持ちが分かった気がして、分かった気になれる自分であったことがちょっと誇らしかった。その誇りを守るための行動であれば、それは試合の勝ち負けよりも大事なことだろう。勝負には負けたが、同時に大事なものを手に入れたハズである。そうとでも考えなければヤッテランナイ!
朝食を取り終えた胡桃は、シャワーを浴びて衣服を改めた。いつかの折に兄に買ってもらった花柄フリルのワンピースを身につけてみる。玄関にある姿見には、世にも美しい少女が映っていて、街ゆく彼女に声をかけないとしたら世の男どもの目はビー玉かなんかに違いないぞ、と胡桃は確信した。
外に出た胡桃は眩しい光に目を細めた。今日はこれからデートなのである。
「カレシと別れて一週間しか経ってないのにもう別の男の子と?」
そういう非難をする者がいたらおしりを蹴っ飛ばしてやりたいと胡桃は思う。そんなわけがない。見損なってもらっては困る。兄のカノジョであり、また胡桃自身も姉と慕っている少女が、傷心の胡桃を気遣って、知り合いを紹介してくれるという運びになったということであり、彼女の熱意に押し切られた形であってけっして胡桃の本意ではない。
「福田胡桃です。今日はよろしくお願いします、えへ」
胡桃は待ち合わせ場所に着くまでのあいだ、可愛く見られそうな挨拶の練習をして、道行く小学生をおびえさせたり、
「趣味はケーキ作り……うーん、ていってもうまく作れるわけじゃなし。カードゲームとかって言ってウケ狙った方がいいかな。いやいや、わたしにカードゲームってギャップありすぎだし。あ! でも、そのギャップがいいかもしんない」
ぶつぶつとひとり言を言って、若いカップルから白い目で見られたりした。
駅前広場で新しいカレシ候補を待つ間、胡桃は自分を可愛く見せる方法についてなおアレコレと考えていた。そうして、そんなことはどうでもいい、という結論に達した。方法など必要ない。このありのままの自分を見せれば十分でそれ以上は要らない。自分を偽ることによって小太郎との仲が変なことになってしまったのだから、同じ轍を踏んではいけない。これに関しては、単に考えるのが面倒くさくなっただけではないかという有力説もある。
待ち合わせ時刻から五分を過ぎたとき、
「お一人ですか?」
という声が後ろからして、胡桃の背筋が立った。
泉から、「知り合いにカッコイイ子がいるから紹介してあげる」と言われたときから、うすうす感じていたことが、やはり事実その通りだったということを胡桃は認めた。
ため息をついて振り返った胡桃の目に眼鏡をかけた少年が映る。
美少年と言ってやってもよい。
兄である。
「ま、そういうことになるよね」
一週間前にカレシと別れたばかりの女の子に、ぞろ別の男の子を紹介するような心性の子を姉と慕うハズが無い。
胡桃は自ら兄の手を取った。
「期待を裏切ったみたいだな」
「まさか」
一方的に騒動に巻き込んでおいて、しかも勝手なことをした胡桃に対して兄はついに一言も批難の言葉を発しなかった。胡桃の行動の理由を訊くことさえしなかった。それは胡桃への絶大な信頼の現れだった。そんな兄のことを前より好きになった。恥ずかしげもなく言うと、まあかなり好きな部類に入った。ことここに至れば、もう誰からブラコンと言われても仕方ない。甘んじて受け入れる覚悟である。
胡桃は兄の手を取ったまま街の中心部を離れた。さすがに今日は服を買ってもらう気はないし、バカ高いアイスコーヒーを飲む気もない。兄の人生設計をむやみに狂わせる気は今の胡桃には無くなっていた。
胡桃はぐいぐい兄の手を引いた。いくら何でも短期間で二度も兄に慰められるつもりはない。そんなことをされては女がすたる。今日は兄妹デートをする気はなかった。
――このまま、お兄ちゃんを持ち主に返しに行こう。
あるべきものをあるべき場所へ。ついでにお茶でも飲ませてもらおうと厚かましいことを考えていた胡桃の足を兄が止めた。二人の前に和装の喫茶店がある。胡桃の気持ちに反して、妹の頭をよしよしする気分で満ち満ちた兄に手を引かれる格好で、胡桃はのれんをくぐった。
「イズミちゃんとこでもいいんじゃない?」
という意見はあっさりと却下された。
よくよく考えてみれば兄妹揃って遊びに行くというのもなんだか間が抜けていることでもあるし、この店は大好きな和菓子を食べさせてくれるところでもあるしで、胡桃は大人しく席につくことにした。
さして広くない店内は客で埋まっている。
胡桃はロイヤルミルクティで、ういろうを食べながら、弟のことなど話題に出してヒマをつぶした。
「わたしの見るところ、ハヤセちゃんって照也のこと好きだと思う。やたらわたしのこと、『お姉さん』って呼ぶし。テルヤにつっかかっていくのも好きだからじゃないかな。かーわいいよね。今度デートのセッティングとかしてあげてからかってやろうかな。ハヤセちゃんと一緒に遊ぶ約束して、その場にテルヤも連れて行き、途中からわたしがなぜだかいなくなるのよ。どう思う?」
兄は悪趣味なことはやめるように注意すると、「化粧を直してくる」とらしくもない冗談を言って、テーブルを立った。
一人になった胡桃は携帯を取り出してメールチェックをしながら、考えるのはやはり小太郎のことだった。胡桃は苦笑した。我ながら未練がましい。あのカードバトル最終戦の最後の瞬間、小太郎の目を見た胡桃は、許されたことを感じた。小太郎の瞳に宿るものは優しくて、胡桃に対するわだかまりが消えているのが分かった。しかし、まさにそれゆえに、胡桃は負けを選んだのだった。
許されてはいけないような気がしたのだ。いや、むしろ許させてはいけないような気がした、といった方がいいかもしれない。許した者、許された者といういびつな関係を小太郎に結ばせたくなかったのである。
「人と人との間の関係は対等じゃなくちゃいけません」
とは泉の言葉。その言葉は人の下に立った者にも、また上に立った者にも当てはまるのである。下になった者も不幸だが、同様に上になった者も不幸なのだ。そういう不幸を小太郎に及ぼすのに忍びなかったと言えばいい子ぶった言い方になって、単に自分が許されて彼の下に立ちたくなかったと言ってもいい。どちらにしても、胡桃はカレシをつなぎとめることよりも大切なことを学んだのである。
――でも、カレシも欲しい……。
胡桃は、夏休み中に開催される近所の夏祭りに一人で参加するハメにならないよう、考えをめぐらせ始めた。そうして考えてみたが、これはどうやらムリらしいぞ、という結論に至った。夏祭りまであと、二カ月。いくら何でも別れてから次に行くまでのインターバルが短すぎる。そんなことをしていったん純心を疑われたら、とても中学校では生きていけない。それに、誰でもいいというわけにはいかない。やっぱり――
詮無いことを考えた頭をふるふる振って、カップのミルクティをずずっと飲み干すと、胡桃は椅子の上で体を回した。兄の姿を探したのである。レディを待たせて随分ゆっくりしている。店内に視線をめぐらせようとしたその時、胡桃は目を見張った。
胡桃の視線の先に、それはまるで奇跡のように、別れてもなお心を占める、そして締め付ける人の姿があった。
小太郎は胡桃の視界の中をすたすた歩いてくると、兄が座っていた席についた。
少しの間、放心していた胡桃だったが、むろんこれが奇跡でもなければ偶然でもないことはすぐに分かった。兄が席を立って、小太郎が現れた。それが意味するところは一つしかない。
「どうしても訊きたいことがあるんだ」
小太郎は挨拶もせずにいきなり切り出した。
胡桃はちょっとがっかりしたものを覚えた。小太郎が訊きたいことと言えば、例の勝負で胡桃が降参した理由くらいしか思いつかない。生真面目な彼は勝負が終わったあとずっと考えていたのだろう。それでも分からず、とうとう何かしらの方法で兄とコンタクトを取って――当然裏には泉がいる――今日、ここにやって来たに違いない。学校で訊けば良さそうなものだが、クラスメートの目を憚ったのである。そうして、降参の理由を訊くということは、胡桃の気持ちは小太郎には通じていなかったということであり、それは当り前のことかもしれないが、一方でやはり悲しいことでもあった。
「別れた二人がさ、もう一回付き合い始めるためにはどのくらい期間を空ける必要があると思う?」
全く警戒してなかった方向からの問いに、胡桃は面食らった。
小太郎はそれだけ言ったきり口を閉ざした。いつも平静な顔をしている彼のその頬が少し上気している。その様子からよっぽどの気持ちで言ったのだということは分かったが、とはいえ、どう答えればいいのか分からず、胡桃はすぐには答えを返すことができなかった。
「……夏祭り」
やがて胡桃の口から漏れ出たのはそんな言葉だった。
およそ問いの答えにはなっていなかったが、小太郎の明晰な頭脳にはそれで十分だったらしい。二カ月後だね、とつぶやいたあと、すっくと席を立って、しかし立ったまま席を去らず、口を開きかけては閉じてまた開いた。
「あのさ、クルミちゃん……」
「……はい」
「好きだから」
「え?」
「ちゃんと好きだから……だから、またね」
それだけ言うと、小太郎は椅子に足を引っかけながら、テーブルを後にした。
何が何やらさっぱり訳の分からない胡桃。いまだかつて聞いたことのない言葉を耳にして、どう解釈すれば良いのか皆目見当がつかない。好きって……。誰が誰を?
――ていうか「好き」ってなんだっけ?
胡桃はお冷やのグラスを手に取ると頬に当てた。ひんやりとした感覚が心地よい。グラスを頬に当てたまま徐々に頬の熱が取れ、逆に冷気でちょっとヒリヒリしてきたとき、ようやく胡桃は言葉の意味を解読して再び頬が熱くなるのを覚えた。
「大丈夫か?」
心配そうな声をかけてきたのは兄である。
胡桃はうわごとのような声を出した。
「……お兄ちゃん」
「どうした?」
「コタロウくんがわたしのこと『好き』だって」
「そうか、良かったな」
「それだけじゃない! 『ちゃんと』って言ったのよ!」
胡桃は目を見開いて立った。
「『ちゃんと』好きなんだって。分かる、この意味?」
大きな声を出して興奮する少女の耳に周囲のクスクス笑いは聞こえない。胡桃は優しく手を引かれて、そのまま店の外に導かれた。既に会計は済ませてあったらしい。
胡桃は歩きながら小太郎との会話をじっくりと兄に聞かせた。そうして、小太郎の意図するところについての解釈を示した。兄はいちいちうなずいてくれた。
「ありがとう、お兄ちゃん」
街路樹の下で立ち止まると、胡桃は頭を下げた。今のことも含めて、これまでのもろもろのことに対する謝意が胡桃の胸を一杯にしていた。一杯にならないと感謝の言葉を言えないという点についての批難もあるかもしれないが、そこはそれ、乙女心ということで許してもらいたい。
――それにしても……。
ここまで妹に尽くしてくれるということは、と考えながら胡桃は頭を上げた。
何やら怪しげな色を見て取ったのか、兄は警戒するような目をしている。
「ねえ、お兄ちゃん」
「何だよ?」
「わたしのこと好き?」
てっきり呆れられるかと思っていたが、胡桃の意に反して兄はおそろしく真面目な顔で答えた。
「当たり前だろ」
ちょっと怒っているかのような声である。
「え、当たり前ってことはないんじゃないの?」
「いや、当たり前だ」
あまりにはっきりと言い切るので、それ以上は何も言えなかった。
当たり前なのだそうである。
胡桃の胸に暖かな灯がともって、その明かりは胡桃の世界を優しく照らし出した。
胡桃は自分から兄の手を引いて光り輝く街路を歩き出した。
未来はあるものの、とりあえず今回の騒動で確かにカレシを失った。しかし、代わりに兄を得たこともまた確かである。
それがプラスなのかマイナスなのか――
差し引きは考えないことにした。
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