その29
日和見主義。
それは、有利な方につこうとして、事態のなりゆきに対し傍観者的態度を取ることを指す。簡単に言えば、様子を見て勝てそうな方につく、という一面でまことに卑怯な、しかし見方によっては世間一般で通用するごくごく普通の考え方である。
今ここに一人の日和見主義者が誕生した。
彼女は友と別れたのち、予鈴とともに教室に滑り込んだ。授業開始間近にも関わらず、ザワザワしている空気の中、椅子についてグッと拳を握る。状況がどう変化するか、注意深く見守らねばならぬ。一瞬たりとも油断できまいぞ!
五時限目の国語の授業を右から左に聞き流しながら、胡桃はちらちらと小太郎の方を窺っていた。傍から見ている分には、恋する少女が、その乙女チックハートを抑え切れず、カレシに熱っぽい視線を送っているようにも見えよう。しかし、実態はそんな生易しいものではないのである。小太郎の一挙手一投足から彼の心理を読み、対応を決めなければならないのだ。昨日の兄とのデートの一件を話した方が良いのか、話さない方が良いのか。
――これは心理戦である!
戦いはすぐに終結を見た。
三十代のまだ若い男性教師の視線を巧みに避けながら、じろじろと少し離れた席を見ていると、不意に小太郎の顔が胡桃の方を向いたのである。目が合った彼は、ちょっとびっくりしたような顔をしたあと、ちらっと先生の動向を確認してから、小さく笑って手を振ってきた。
小太郎の笑顔は凶器に等しい。
胡桃の心は四分五裂した。心のカケラを拾い集めた胡桃はリボンに包んで、全てを小太郎に差し出した。完全降伏の証である。そもそも勝算の無い戦いだった。というか、別に戦ってない。
胡桃が手を振り返そうとした所で、男性教師が黒板から生徒の方へ向き直った。危ういところである。授業を聞かず教師の隙をついて手を振り合うことばかり考えているバカップル。そんな汚名を職員室に響かせるところだった。胡桃はひやっとしたが、一瞬後、
――それも良いかもなあ……。
と翻意した。広く教師一同にまで二人の仲が知られれば、よりオフィシャルなカップルとなる。二年生のカップルと言えば胡桃と小太郎、という感じで二人はどこに行っても注目の的となるだろう。一方で、だからこそ返って教師から注意されるようなことにもなる。不純な交際を疑われた二人の家に学校から連絡が行く。事態を重く見た双方の親が、愛する二人の仲を引き裂こうとする。
――ボクたち、ちょっと距離を置いた方がいいみたいだね、クルミちゃん。
――え……どうして?
――仕方ないよ。これ以上、周りを心配させるわけにいかないから。
――いや! なんでそんなこと言うの! コタロウくんはわたしと会えなくて平気なの?
――平気なんかじゃないよ。でも、どうしようもないよ。
――うそ! コタロウくんはわたしのことなんか何とも思ってないんでしょ。そうよ! この前のあの、何て言ったっけ、そうそう、麗華さんって人の所にでも行けばいいわ!
――麗華は関係ないだろ。
――関係あるでしょ、コタロウくんのいいなずけなんだから。
――そんなの親が勝手に決めただけだってこの前も言っただろ。ボクが好きなのはクルミちゃんだけだよ。
――え、今、何て……?
――ボクが好きなのはクルミちゃんだけだって、そう言ったんだよ。
――もう一回言って、コタロウくん。
――何度でも言うよ、クルミちゃん。ボクが好きなのは――
「福田!」
一番いい所で空想は終わりを告げた。ハッとした胡桃が前を見ると、教壇に立つ男性教諭の呆れたような顔が見えた。
「聞いてなかったのか? 教科書の53ページを読んでくれって言ったんだが。それともアレか、大人の言うことを聞きたくない年頃か。よく聞けよ、福田。『人』っていう字はな、人間が立っている姿を横から見た形だ。人と人が支え合っているわけじゃない。オレが何が言いたいか分かるな。人は他人の支えなしで自分の力で立たなければいけないってことだ。大人に文句があるならな、自分で立ってからにしろ。親に食わせてもらっているくせに反抗心なんて百年早い!」
実に感動的な説教を聞きながら、胡桃は教科書を手にし慌てて席を立った。
「待て、福田。教科書読む前に、何か言うことがあるだろ」
現実世界に着地したばかりで動揺していた胡桃は、一言謝ることに思い至らず、
「え、えーと、その不精髭剃った方がいいですよ、先生」
思わず、いつも思っていたことをついぽろりと言ってしまった。教室中からクスクスという失笑が漏れた。そのあと、男性教師のハハハという爽やかな笑い声が胡桃の耳に聞こえて来た。笑いが収まってから残りの授業時間の間、小太郎を見ていられる幸福な時は二度と胡桃に訪れなかった。その時間中、ずっと指され続けることになったからである。
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