その19
見知らぬ少年から唐突に手を握られた胡桃は、
――もしかして、これがナンパというものかしら?
ドキドキしながら考えた。
ナンパとは、通りすがりの美少女――「美」という所が大切だ、と胡桃は主張する――を、ひと時のアバンチュールの相手とするためにお誘いする行為である。少女の恋に関してあらゆる知識が書かれている「賢者の書」によると、典型的な誘い方は、
「キミ、可愛いね。ちょっとそこでお茶しな〜い?」
的な軽薄極まりないものであるそうだが、目前の少年の雰囲気は厳粛なものだった。胡桃の片手を取ったまま真剣な目を向けてくる。何かを訴えかけてくるような目だったが、あいにく彼には見覚えが無い。初対面である。
「あ、あの……?」
たっぷり五秒ほどしたのち、胡桃は口を開いた。さすがにこのまま手を取られて見つめられていることが気まずくなったのである。胡桃はカレシを持つ身である。喫茶店やアミューズメントパークや、ダンスパーティに誘われても、のこのこついて行くことなどできない立場なのだ。
――あなたとは出会うのが少し遅かったのよ、ごめんなさい。
心中で頭を下げた胡桃が、すっと少年の手から自分の手を離すと、ふう、というため息が聞こえてきた。失望の吐息である。何にガックリきているのかは言うまでもない。他の美少女を探してね、と内心でエールを送り、少年の立ち去る姿を見送ってやろうと思った胡桃だったが、意に反して彼はその場を動かなかった。
「ごめんなさい。兄を待ってるんです」
人と待ち合わせている最中だとアピールして、胡桃は彼の執着を断ち切ってやろうと思った。いくら恋い焦がれられても、こればかりは仕方無い。カレシを待っていると言った方がより彼のためになっただろうか、と胡桃が考えていると、
「まさか本当に気がつかないとはな」
少年が初めて口を開いた。
落ち着いた綺麗な声である。
そう思った瞬間に、胡桃の血の気が引いた。
聞き覚えのある声だった。記憶に間違いがなければ、それは実に十三年の間聞き続けて、いささか聞き飽きた声である。
「お兄ちゃん……なの?」
少年はどこかしぶしぶといった調子でうなずいた。
胡桃が唖然としていると、背後からガサゴソという音がした。振り向くと、植え込みから草を割って少女がひとり姿を現した。
「びっくりした、クルミちゃん?」
ニコニコマークも顔負けの泉の腕を取ると、キャッと声が上がるのも無視して、彼女をぐいぐい引っ張っていく胡桃。兄らしき少年から十分に距離を取ると、一体アレは何なのかと、鋭い声をかけた。
「何って、春樹だよ。あなたのお兄さんじゃないの」
「あれが?」
全くの別人である。つい昨日、いや今朝見たときまでは、無造作にカットした中途半端な長さの髪と冷ややかな目を持ち、精神の未熟さを表すような青々としたダサいジーンズと、低い知性を象徴する訳の分からない英語が書き込まれたTシャツを身につけていたのに。
「クルミちゃんをびっくりさせる為に朝一でカットしてもらったの」
現在着ている華やかなギンガムチェックのパーカーとカーゴパンツは、昨日量販店に一緒に買いに行って泉が選んでやったものらしい。
「眼鏡も似合うでしょ?」
兄は目は悪くない。レンズは度なしのようである。
幸せそうな顔をしている泉を、胡桃は恐ろしげに見つめた。「魔法」と称しても大げさでない手際である。その魔法にかけられて、兄は変身を遂げ、そして胡桃は変心した。まさか、兄のことをカッコいいと思ってしまうとは。一生の不覚!
「さ、デート開始だよ、クルミちゃん。ハルキの所に戻って」
今度は逆に自分の手を引くようにする泉に、嫌な予感を覚えた胡桃が、
「イズミちゃんも一緒に来てくれるんでしょ?」
懇願口調で確認してみたところ、
「兄妹水入らずを邪魔できないよ。それにわたしがいたら甘えられないだろうし。今日はカッコいいお兄ちゃんに甘えてください」
キラッと星がまたたきそうなウインクが返ってきた。
兄は道行く女子中高生の視線を集めているようである。それにも納得できてしまうのだから、いよいよ病膏肓に入る。まさに胡桃は死の淵に立っていたというべきである。
「さ、二人とも手をつないでみよう!」
泉の突き抜けるような明るい声が、哀れな少女の背を無情にもドンと押しやった。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。