チャンプ
「殺しかねないような目つきだったな」
慎吾は顔をしかめる。
「よくあんな殴り合いできるよ。見ず知らずの相手と」
試合会場を出た二人は駅を通り抜け南口へと向かい、ファストフードショップを見つけて簡単な食事をとることにした。
二人はそれぞれの商品を注文し、窓際に適当な席を見つけて向かい合う。
海沿いの町並みの奥には、夏を目前にした空が晴れ渡り、潮をたっぷりと含んだ風が木立を揺らす。
「相手を壊すことと引き換えに、自分が壊されることを受け入れた人間だけがリングに上がることができるの」
慎吾の言葉に、まるで冤罪を告発する弁護士かのように沙弥は代弁した。
リングに立つボクサーが相手を“傷つける”正当性を。
「リングの上で、お互いの意地と、背負っているものをぶつけ合っているの。憎しみとか、怒りじゃなくてね。それって、この世の中で最もフェアなことだとあたしは思う」
しかし、その言葉は慎吾のこころには響かなかったようだ。
「そんなもんかねぇ」
リングに立つボクサーの気持ち、そしてその正当性を主張する沙弥の気持ちはやはり理解しがたかった。
「ま、俺には一生関係ない世界かな。あんなに殴られたら脳細胞死んじまうし」
自分自身の顔面に、多いグローブに包まれた人間の全体重がのしかかる、その事を想像するだけで背筋が凍りつくような思いがする。
慎吾は頭を振った。
沙弥は二つ目のチョコパイに手を伸ばす。
「そうかもしれないね。たぶん、慎吾は一生ボクシングのリングにたつことはないだろうしね」
その言葉の意味を受け入れられるはずはない、と、どこか冷めた感情を抱いていた沙弥の口からは、甘い吐息と苦い現実が漏れた。。
「まぁ、大体、慎吾とちゅーちゃんとは住む世界が違うんだとおもうよ。慎吾と違って、ちゅーちゃん頭悪いし。一生慎吾とは関係のない人生だろうしね」
「明日が決勝だよね? あいつ絶対優勝できるよ。あいつが強いのもそうだけど、一回勝てばインターハイ出場で、二回勝てば即優勝なんだろ?」
地区予選から全国大会まで何試合もしなければならないサッカーや野球に比べ、数回勝利すれば出場できるボクシングは慎吾にとってイージーに写ったようだ。
「ボクシングなら割と簡単にインターハイに行けちゃうじゃん」
特に悪意のない、何気ない言葉ではあったが、慎吾のその言いようは、沙弥にはやや不遜に響いた。
「じゃあさ慎吾、慎吾もボクシング始めてみたら?」
その苛立ちをぶつけるようにして、少々意地の悪い言葉を口に出してしまう。
「アマチュアの規定で一年間は試合に出られないけど、今からやれば来年のインターハイ予選出られるんじゃない? そうだね、慎吾は痩せてるから、フライ級位かな?」
「いやいや、冗談じゃないよ!」
慎吾は大袈裟に両手を振ってその言葉を否定した。
顔色を変えてぶるぶると首を振る。
「俺絶対ボクシングなんかやらないよ。俺顔殴られるとか絶対嫌だもん」
その慎吾の様子に我に帰る沙弥。
ちょっと意地悪だったかな、と沙弥は考えた。
しかし同時に少々情けなさと不満を感じた。
慎吾は確かに頭がいいしスタイルもいい、顔も綺麗な造形をしている。
しかしリングの上で戦う男たちを見て、心を揺り動かされないのだろうか、熱いものを感じることはないのだろうか。
「それよりさ、沙弥はなんでそんなにボクシング好きなんだよ」
フレンチフライを一口つまみながら、慎吾は沙弥にそれをぶつける。
そして最後にこの言葉、沙弥にとっては様々な意味で耳馴染み深い言葉を付け加えた。
「女のくせに」
またか、沙弥は小さくため息をつく。
沙弥はジェンダーの問題にいちいち反応するようなフェミニストではない。
自分自身が一般的に見れば変わった存在であることを素直に受け入れている。
“女のくせに”という言葉にやはり少々引っかかるが、慎吾がそのような言葉を口にするのも当然のことだ。
そして、慎吾はそういう言葉を悪気なく口にする人なんだ、そして今後はいちいち気にしないようにしよう、と心に決めた。
心を落ち着かせ、できるだけペースを乱されないように、極めて冷静に答えた。
「昔知り合いにプロボクサーがいたの。子どものころ何回か試合を見に行ったりしたことがあって、子どものころの私にとって、ボクシングってすごく身近な存在だったの。それが理由かな」
熱っぽくなりすぎないように、しっかりと自分自身の言葉に耳を傾け、わきまえながら言葉を選んで説明した。
「それで、自然とルールとか覚えるようになっちゃったの。今でもたまに古いボクシングの動画とか見るんだよね。アマチュアのルールに関してはそんなに詳しくはないんだけど、国体の放送とか見たりルールブックとかダウンロードして調べたり、まあ、勉強中って所かな」
「……ボクシングのルールの勉強って……まあ、いいんだけどさ……」
沙弥の言葉に少々あきれながらも、“知り合いのプロボクサー”、その言葉に慎吾は何かを察した。
「その……沙弥の幼馴染、ちゅーちゃんって、もしかしてその――」
「うん」
さくり、沙弥は胸のざわつきを忘れようと、軽快なパイの触感をできうるかぎり楽しもうとしていた。
絹のように滑らかなチョコレートは、染み渡るような甘みの後にわずかな苦味を残す。
「ちゅーちゃんのお父さん、プロボクサーだったの」
つるり、赤々とした唇に絡む蜜のようなチョコレートを沙弥はその艶やかな舌で舐め取った。
「やっぱり只者じゃなかったか。貫禄やばかったしさ」
慎吾は先ほどの試合を思い浮かべて身震いした。
「何度も聞くけどあいつ本当に俺らと同級生? 俺から見てすら普通じゃないんだけど」
そして再びフレンチフライを口にした。
「それでさ、その人有名だったの?」
「うーん……」
沙弥は小首を傾げる。
「日本チャンプまで行ったくらいだから、それなりに有名だったんじゃないかとは思うけど。まあ、マニアックな世界では、って所かな」
そういうと再び唇の上に鈍く光るチョコレートを舌でなめ取る。
その舌はまるで水生の軟体動物のようになまめかしくは行した。
一方の慎吾は、もはや唸るしかない。
「あの貫禄は親譲りってわけか」
リング上の沖也の姿を思い出す。
鋭い眼光、鍛え上げられた肉体、そして淡々と対象物に負傷を与え続ける、完成されたプログラムを持つ機械のような技術、そのすべてが、ボクシング観戦初心者の慎吾をすら戦慄させていた。
「そういえばあいつ柏高通ってるんだよね」
慎吾はコーラのストローの端を噛んだ。
「あいつ、中学校時代、どんな奴だったの? やっぱりヤンキーっぽかった?」
「……中学校時代は、あまり交流はなかったからなんともいえないけど……」
バターを溶かしたような濃厚なミルクティーを一口含む沙弥。
「そのときは野球部に所属しててね。体も大きかったし。ちゅーちゃん自身もあまり人としゃべるタイプの人じゃなかったから、結構恐がられてたと思う」
「やっぱあの不良の巣窟に通えるだけのことはあるわ。俺の周りにあんないかつい奴いないもんな」
慎吾は隣町の第一高校に通っている。
明治政府が公布した学制にルーツを持つ、日本有数の伝統校である一高は、沙弥の通っている八重女以上の進学校だ。
その言葉に、沙弥の頭の中に一高の爪入りの制服に身を包む沖也の姿が浮かぶ。
どうにもおかしくなった沙弥は不意に吹き出した
「一高にちゅーちゃんみたいな人いたら、それこそ怖いよ。」
その笑い、今日ようやく目の当たりにした恋人の笑顔は、自分以外の男に関するもの。
沙弥のその屈託のない微笑が慎吾のこころをかき乱す。
「まあ確かに俺は一生ボクシングに関係ない人生送るだろうけど、きっとちゅーちゃんより出世できると思うけどねぇ」
自分の力を誇示するかのような、嫌味な言葉が口をつく。
「沙弥が言ったように、柏高の生徒と俺たちとじゃ、まあ、一生交わることはないだろうしね」
当然沙弥は反発を覚えたが、それも一瞬のこと。
「そうだね。ちゅーちゃん昔っから頭悪いし」
沙弥は絵にかいたように空々しい、愛想笑いを返した。
「でもさ、女の子なのにボクシング好きだって親が知ったら、親はあまりい顔しないんじゃない?」
慎吾は訊ねる。
「男の俺だって、昔ボクシングとかプロレス見てたら、母親に“そんなもの見るんじゃありません!” って怒られたことあるし」
「まあ……ね」
図星だ。
子どものころ、沙弥がテレビでボクシングの試合にチャンネルを合わせたとき、母親は慌てて無言のままチャンネルを変更したことがあった。
まるでボクシングをポルノ映像か何かと見做しているかのように。
「まあ、ボクシングの話なんかできないよね」
沙弥は口角を上げ、いかにも、といった愛想笑いを浮かべ、二つ目のチョコパイを片付けた。
当時は少々の疑問と反感を覚えたが、今ではそれも納得できる。
ボクシングとポルノグラフィー、両者には通呈するところがある。
あられもなく肉体を披露し、その肉体で自分自身を表現するのだから。
だからこそ沙弥は、親はおろか親しい人間に対しても、できうる限りボクシングの話題を持ち出すことを避けてきた。
「まあ別に何でもいけどさ」
興奮して話す沙弥を見て、慎吾は少々揶揄するように言った。
「やっぱり女の子がボクシング好きだってのはよくわかんないな」
その言葉に、沙弥はより大きな反感を覚える。
その反感は、もはや抑えきれないほどのものだった。
「別に理解してくれなんて頼んだ覚えはないけど」
と小さな声で呟いた。
「ん? なんか言った?」
慎吾の問いかけに対し
「なんでもない」
沙弥は完全に意思の疎通を放棄した。