武田徳栄軒信玄之場合
「越軍、春日山城を発す」
の一報はその日の内に、信玄の本城、甲斐のつつじヶ崎舘に届けられた。八月十四日の夜も更けた頃、信玄の元には武田家中の怱々たる重臣たちが集まっていた。その場の合議では、
「上杉弾正少弼撃つべし。」
と、言う意見が満場を占めた。その軍議の場で信玄は沈黙を保っていた。その心中を推しはかる事が出来る者は、武田家の数多の重臣の中でも数える程しか居なかった。下手に発言して、信玄の機嫌を損ねれば命が無いことを皆知っていたからだ。
軍議が終わり、それぞれが退散した後、信玄の周りに控えて居るのは、長男・太郎義信、実弟・典厩信繁、飯富虎昌ら、信玄の寵臣たちであった。
「父上、直ぐにでも甲斐を発ちませぬと、間に合いませぬ。海津に詰めている兵数は五百程。一万三千の越軍に今攻めこまれてはひとたまりもありませぬ。」
義信の声には若く凛とした、気力に満ち溢れていた。
そんな義信の提言を茶化すように、飯富虎昌が口を挟む。
「御曹司の言われることもっともなり。この調子ならば武田の行く末は安泰にございますなぁ、御屋形殿。」
周りから笑い声が洩れだし、義信が赤面しながら周囲をにらみつける。
そんな様子に信玄も苦笑する。
「御屋形様は政虎の出方を待って御られるのですよ、御曹司。それに海津を取り仕切るは高坂弾正殿。如何に政虎と云えどもそう簡単には落とせますまい。」
唐突に室内に響いた声にその場の全員が後ろに目をやる。
「来たか、勘助。」
突然の訪問者に動ずる様子もなく、信玄が声を掛ける。訪問者の名は山本勘助。後世では名軍師として、名高い。現在は出家し、山本道鬼斎勘助と号している。隻眼で、片足を引きずりながら歩く姿には、無言の迫力があった。しかし、その場の重臣たちの瞳には明らかな侮蔑の色が浮かんでいた。勘助はさも当然であるかの様に信玄の隣に控えた。
「政虎はどう出てくるか、勘助。」
「恐らく今度の行軍の目的は全面対決ではありますまい。ここでいたずらに兵力を消耗しても政虎には得るものはございませぬ。」
「しかし、政虎は義に厚く情けを知る将と聞く。村上や高梨らの訴えに応じての出陣ではないのか。道鬼斎殿。」
半噛みつくように反論したのは穴山信君である。
「それに川中島は政虎が居城、春日山の目と鼻の先。海津の存在は政虎にとって目障りであろう。」
穴山の言葉に便乗したのは内藤昌豊。武田四名臣に数えられる程の名将である。
「かっかっかっ。まあ、皆そう道鬼殿をいじめるな。ここは一つ御屋形殿の意見も交えて考えてみようではないか。」
空気の悪くなった場を和ませるような笑い声をたてて発言したのは馬場美濃守信春である。生涯六十余度の合戦に参戦しながら、かすり傷一つ負わず、
「不死身の鬼美濃」
と讃えられた名将であった。
「某も是非とも兄上の考えをお聞きしたい。今度の政虎の出陣の狙いとは。」
信玄の実弟・典厩信繁も美濃守の言葉を継ぐ。
「政虎は儂と本気で事を構えるつもりはあるまい。政虎の狙いは川中島を一定期間占拠し、その領有権を主張すると共に我等に対して警告を発する事よ。」
重臣たちのやりとりを黙って見ていた信玄が重い口を開いた。
「警告とは。」
信玄の言葉の意味を理解しかねるかの様に義信が問う。
「これ以上北に進めば容赦せぬ、という事じゃ。村上や高梨からの要請に応じたかのように見せるは建前よ。」
飯富、馬場、内藤、山本、信繁らはその答えに満足したかのように頷く。
「しかし、父上。依然、海津が危うい事に変わりはありませぬ。」
「太郎。いつも教えているだろう。戦などせぬ方がよいのじゃ。どうしても避けられぬ時には戦の前に勝利を決めよ。槍を合わせる、弓矢を射合うなどということは事後処理に過ぎぬのだ。」
その答えに返事はするものの、不満の残る表情の義信であった。
「信繁、政虎との戦今度で何度目かの。」
「以前に三度。今度で四度目になります。」
「思えば最初、あれに粉をかけたのが間違いだったのかも知れぬ。将来目障りにならぬように、越後に押し込めようとしたことが裏目に出た。あの頃はまだまだ儂も若かったという事か。」
自嘲的な信玄の言葉に皆聞きいっていた。
「十八日には舘を出る。飯富、馬場。兵たちに戦の支度をさせよ。内藤は海津の高坂に案ずるなと伝えよ。他の諸将も今夜より支度を整えよ。」
「承った」
というような旨をそれぞれ口にして、信玄の前から下がった。
室内には信玄、信繁、義信、勘助だけが残った。
「一度戦に身を委ねれば抜けられぬか。因果な血よな。」
信玄の独白にそれぞれ思いを廻らせながら、義信たちも、信玄の前から下がった。
二日後、
「上杉軍川中島に到着、妻女山を占拠」
の知らせが届けられたが、信玄は別段急ぐ事もなく、近隣の神社に戦勝祈願を行うなどして、時を過ごした。
来る八月十八日。予定通り行軍の支度を整えた兵たちが信玄の元に集結した。目指す川中島から吹いてくる風に、風林火山の旗がたなびく。戦国最強と恐れられた、武田軍団が今甲斐を発した。 |