上杉弾正少弼政虎之場合
永禄四年、八月十六日。信濃・川中島の妻女山に八千の越後兵が布陣した。
率いるは上杉弾正小弼政虎。後に軍神、聖人とも呼ばれる上杉謙信である。
前年(永禄三年)には、関東管領である、上杉 憲政を伴い北条攻めの為に関東に出兵し、十万を越える大軍を率い小田原城を包囲して見せた。
永禄四年の正月を上野・厩橋城で迎えた政虎は、昨年の秋に海津城を完成させ再び川中島を占拠し、北進の気配を見せ始めた武田徳栄軒信玄に対する警戒を強めていた。
事実、武田軍は四年六月には野尻湖付近の割ヶ嶽城を占領し、政虎の居城である春日山城へと迫った。
信玄とは川中島をめぐり已に三度争っていたが、どちらも確実な勝利を得たとは言い難い状況であった。 妻女山・上杉軍中では、
「今度こそは」
と、いう思いを胸の内に秘めた精強な越後兵達が、政虎の攻撃開始の下知を待っていた。眼下に臨む、海津城には武田軍の重臣・高坂弾正昌信が信玄到着を待っている。政虎が春日山を発ったという知らせはその日の内に甲斐のつつじヶ崎館へと、届けられた。多くても海津城に詰めている兵は五百ほどであるはず。今攻めかかれば確実に落とせる。
しかし、政虎は布陣後数日経っても動かなかった。 「お屋形様は何故動かん。儂に八千の兵の内三千も預けてくだされば、たちどころに海津城を落とし、信玄の首までとってみせるというに。」
海津城を見下ろす高台でそういい放ったのは、柿崎和泉守景家である。越後軍屈指の猛将で、政虎をして
「柿崎に分別があれば越後七郡は柿崎の物ぞ」
と、言わしめるほどであった。
「お屋形様には何か思うところあるのであろう。今までも我らの考えを飛び越して勝利をおさめてきたではないか。」
隣で諭すように言うのは荒河川伊豆守。彼もまた越後にその名を轟かす勇士であった。
「しかし、荒川殿。今度のお屋形様には何か、こう戦意と言うものが感じられん。決戦だと騒いでおるのは末端の兵ばかりではないか。」
それは伊豆守も感じていたことだった。本隊到着前に海津城を叩くは道理である。しかし、今まで政虎の側で神がかり的な戦を経験してきた事が伊豆守に政虎擁護の姿勢をとらせるのだった。和泉守にもそれは分かっていた。 武将たちの心配をよそに政虎は書をしたためたり、琵琶を弾くなどして、日々過ごしていた。本陣に漂う空気はまるで戦の前とは程遠い空気が流れていた。 動かぬまま向かえた八月十八日の夜更け。陣幕の中に
「信玄、甲府を発す。」
の報せが届いた。
「長男、太郎義信、実弟、典厩信繁などを筆頭にその数一万七千程であるということです。」
陣内にその報を届けたのは、政虎の馬廻り衆の一人、小島彌太郎である。政虎がまだ、少年の頃から側に控え、常に戦場に於いてその身を呈して政虎を守ってきた兵である。その勇猛さから、
「鬼小島」
と恐れられ、越後国内外にその名を轟かせている。
「御屋形様、今動かねば海津城の高坂弾正と信玄坊主めに挟み打ちされる形となります。何卒海津を攻める命を。」
そんな彌太郎の言葉など聞こえぬかのように、政虎の目は八幡原を見つめていた。
「御屋形様。」
耐えかねたように、語気も荒く彌太郎が呼び掛ける 。
「彌太郎。お主、俺に仕えて、何年になる。」
「御屋形様が幼少の頃よりお側に控えて参りました。最早時間など意味をなさない程、御屋形様の御心は理解しているつもりでございます。」
「ならば、俺の心が解らぬか。戦をすれば、数えきれぬ命が消える。夫が死ねば妻は愛しみ、子が死ねば母は哀しむ。父が死ねば息子は仇を憎む。そんな悲しみと憎しみの連鎖に俺は虚しさを覚えるのだ 。俺はもう戦に懲りたのだ。」
その告白にも動じず彌太郎が返す。
「御屋形様の御心、薄々気付いておりました。しかし、今度の戦は越後国を、ひいては越後の民を守る為にも勝たねばならぬのです 。」
「信玄は越後まで攻めては来ぬ。」
その意外な言葉に彌太郎は驚いた。
「雪深い越後を獲っても、同じ雪深い山国の甲斐にはなんの易にもならぬ。信玄の欲する海は厳寒の越後の海ではなく、相模や駿河の海よ。」
「しかし、信玄は現に北侵を続けております。」
「一度戦いに身を委ねた者に後戻りは出来ぬ。俺も信玄も、既に戻ることの出来ぬ修羅のの道に入ってしまったのだ。」
彌太郎は政虎の言葉を黙って聞いていた。それ以上に何も言えず、何も出来ないと悟ったからだ。そして政虎の口から次いで出た独り言を背中に聞きつつ、陣幕の外へ出た。憐れな青年武将を死なせてはならないという決意を更に固めながら。
「これも因果な血を継いだ故か。父上。」
政虎の目は未だ八幡原を見つめていた。まるで、避けられぬ運命を予見するかの様に。既に深夜から早朝と呼べる時間に移ってから、政虎は眠りについた。 |