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005-008
『イーダス。イーダス・レムノスク』
「う……なに、なんだ、ノエル?」

 夢うつつの中で、おれは返事をした。
 が、ただちに、水をかけられたかのように目を覚ました。
 ノエルはおれのフルネームを知らないはずだ!

 おれは飛び起きた。
「ノエル……!」
 となりで眠るノエル。安らかな寝顔。横たわる彼女の頭上に。

『久しぶりだな、イーダス・レムノスク』
 まぼろしのノエルタリア。
 青白い炎の衣装。翻る銀糸のアラベスク。
 まさしく、ノエルタリア!

『待っていたのだ、この日が巡り来たるのを』
 次にノエルタリアは、おそろしいことを口にした。
 平然と、いかにも彼女らしく。

『この娘を絞め殺せ、イーダス。ああ、指を使ってはいけないぞ、紐も駄目だ、あとがつくからな。こう、腕を巻きつけて、ゆっくり静かに窒息させるのだ。あやまって首をへし折らぬよう、気をつけてな』

「ノエルタリア! どうして、そんな……」
『この身体をわたしが乗っ取ってしまうために決まっているだろう! 二百年の時を経て、わたしは再びこの世に生まれ変わってきた。この娘の内に潜み、じっと機会をうかがっていた。わたしは賭けたのだ、おまえとわたしの運命に! わたしたちの絆の強さに! 同じ世界に同じ時期、二人が存在していさえすれば、わたしたちは必ず出会い、惹かれあうに違いないと確信していた。そして、それが今まさに現実と化したというわけだ』

 歓喜に燃え輝く、紅玉の瞳。
「……ノエルタリア。この身体を乗っ取って、どうするつもりなんだ?」
 できる限り、冷静な声を絞り出す。
 ノエルタリアは楽しげに答えた。

『知れたこと。南方民族どもに、とどめを刺すのだ。全滅させてやろうと思ったのに、この前は達成できなかったからな。無論、手伝ってくれるのだろう? わが運命の半身よ。わたしのこと、破壊神としての魔力は、すべておまえと分かち合おう。二人でこの世を支配するのだ。そうして、世界に報復してやろう。わたしたちを異端者として迫害した、この世のすべてのものに』

 おれの胸は、悲しみに塞がれた。
 かわいそうなノエルタリア。尊大で哀れな、おれの姫君よ。
 あなたは、なにも変わっていない。
 二百年の時を経ても、なにも。

 仕方がない。だってあなたは、死んでいた。二百年間、ずっと。
 ところがおれは、生き続けている。生きているということは、変わり続けるということだ、刻一刻と。成長し、ある時点からは、老い始め。

 生きている人間は、死者のようには、いつまでも、ひとつの感情、たとえば憎しみなどに凝り固まっては、いられないんだ。
 様々な経験をして、狭かった視点、幼かった自分を振り返ったりして。

『さあ、手始めにこの娘からだ。この娘の精神を、身体から追放するのだ。この娘の魂を、永劫の闇に葬れ!』
「……できないよ、ノエルタリア」
 赤い瞳が、驚愕に見開かれる。
『何だと?』
「あなたはそんなこと、ちっとも望んではいないから」

 彼女の目つきが、凄みを増した。
 二百年余の怨念が炎上する暗黒の王女の両眼。圧倒されぬ者が、いるだろうか?
 けれどおれは、怯まずに続けた。
「ぼくは今でも憶えているよ。忘れられるものか」

 おれの口調は、昔に戻っていた。
「あの夜。兄の返り血に染まりながら、あなたの唇から漏れたつぶやき……『おまえには、できなかった、おまえでさえも……』ぼくはずっと考えてた。あなたのために、考えてきた。あなたは……止めてほしかったんだ。ぼくに止めてほしかったんだ。本当はあんなこと、したくなかったんだ!」

 彼女の白い顔に、同様の色がよぎった。そして、次の瞬間、無表情に。
 紙のように、蝋のように、無表情に。

「ノエルタリア! あの頃ぼくはあまりにも無知だった、子供だった。あなたは全身で叫んでいたのに。止めてくれ、だれかわたしを止めてくれ、イーダス!
 ……だのに、ぼくは。

 あなたが必要としていたのは、あなたの意のままに動き、頷くばかりの、人形のような少年ではなかった。あなたの過ちに異を唱え、叱責し、正しい方向へ導いてゆける強さを持った男だったのに、なのに……あの頃のぼくは、まぎれもなく前者で、あなたに嫌われることこそが、他のなによりおそろしかった。
 ぼくのこの弱さが、自信のなさが、あなたとあなたの祖国、そしてぼくの国をも滅ぼしてしまったのだ! この結論に達したときの、ぼくの苦悩が想像できるかい?

 ……だから。
 こうしていつかまた、あなたと奇跡的に出会うことができたなら、二度と同じ失敗だけは繰り返すまいと心に誓った。
 ノエルタリア。今のぼくは……今のおれは、昔の『ぼく』ではない。ぼくが言ってあげられなかったことを、おれが言うよ。

 ノエルタリア。
 自由になってくれ。
 その妄執から、憎しみから、自分自身を解き放ってくれ。
 あなたを縛る、内なる地獄から抜け出してほしい。

 世界の王になんか、ならなくてもいいんだ。
 あなたの魂の平安だけを、おれはいつも、願っているから。
 あなたがそうであるならば、それだけでおれは、充分幸福でいられるのだから……」

 ノエルタリアは無表情を崩さなかった。
 崩さずに、おれに近づき、そして、おれの唇に、みずからの唇を重ねた。
『……それでこそ、おまえだ。わが半身、イーダス・レムノスク』
 おれの耳元に、こうささやきを残し、まぼろしのノエルタリアは、まぼろしの邦に去った。

 おれの両目から、大粒の涙がこぼれた。あとから、あとから、とめどなく。
 ノエルタリアは素直な物言いを決してしない。
『それでこそ、おまえだ』これは言い換えると『ありがとう』という意味だ。

「ノエル……おれは……」
 おれは、まちがっていなかったのだ。これでよかったのだ。
 ノエルタリアの一言は、おれを強くした。
 おれを、生まれ変わらせた。
 生きながらにして。


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