ギュウギュウ詰めの通勤電車の窓から眺める風景に、ピンク色が目立つようになると、4月。
さくらが咲き誇るこの時期、人はみな幾度となく、別れと出会いを経験する。
そしてぼくもまたこの季節、さくらを見るたびに忘れえぬ思いに胸が重くなるのだった。
あれはぼくが25歳の春だから、もう14年も前のことだ−−。
当時、ぼくは大学を出て就職し、3年が経っていた。
彼女は2つ年上のナースだった。
彼女が勤務する大学病院の敷地には、さくらの木が無数にあり、春ともなれば病室の窓をピンク色に染め、患者たちの目を楽しませていた。
ぼくがその病院に担ぎ込まれたのは、ちょうどそんな季節だった。
会社の車を運転してお得意さんまわりをしている最中、追突されてしまったのだ。
幸い、大事には至らなかったが、ハンドルで胸を強打したため1週間ほど入院することになった。
そしてぼくの担当になったのが彼女だった。
いつも笑顔でテキパキと仕事をこなす彼女にぼくはひと目惚れした。
病院の中庭の小道には両脇さくらの花が咲き乱れ、ピンク一色のさくらのトンネルが出来あがっていた。
そこをピンク色のナース服で歩く彼女は、さながらさくらの花の妖精のようだった。
それはどう見ても、ぼくなんかには不似合いな高嶺の花でしかなかったが、ぼくのどこにそんな勇気があったのか、退院の日、ぼくは彼女を映画に誘い、彼女はとびきりの笑顔で「はい」と返事をしてくれた。
そして、さくらの妖精はぼくの彼女となった。
もうずいぶん昔の半年だけの恋だったけど、彼女とのことは些細な会話まですべて覚えている。
そして、そのすべての会話の、ぼくの口にしたすべての言葉を、いまでも後悔している。
あの時、ああ言えばよかったのに。
あの時、なんであんなことを言ってしまったんだろうか。
恋愛に慣れていなかったぼくは、彼女が好きなあまり、たくさんの言葉で彼女を縛り、そして傷つけてしまった。
ぼくは明らかに浮かれていた。
そして自分のことばかり考えていた。
当時のぼくと来たら、毎日、彼女のアパートに入り浸っていた。
好きだから毎日会いたい。
一緒にいることがなによりの幸せ。
実際、ぼくの気持ちはそうだったし、彼女もそうだとぼくは思い込んでいた。
「ごめん。遅くなっちゃった。待った?」
と笑顔で話し掛けてくるのをただひたすら待ちわびるようになった。
そんな独りよがりの恋愛が長続きするはずもなく、過酷な勤務で疲れきっていた彼女は、まとわりつくぼくをいつしか避けはじめた。
休日、ぼくと過ごすことよりも休息を求めた。
「眠たい」、
「疲れているから」、
「ひとりになりたい」。
それは彼女のSOSだったといまでは分かるが、その頃のぼくは
「ぼくといることが休息のはずなのになぜ?」
と彼女を責めた。
そして、彼女から別れを告げられた。
それから彼女のことを忘れるまで何年かかったろう。
ぼくの人生で間違いなく一番辛い時間は、そうたやすく過ぎ去ってはくれなかった。
なにをしていても彼女を思い出し、散ってしまったさくらに身もだえした。
いや、正直に言うとまだ彼女のことを忘れた日などなかった。
いまでも毎日1回は彼女のことを思い出す。
このさくらの季節はなおさらだ。
おそらく一生、忘れることなどできないのだろう。
あの頃、彼女が
「ひとりになりたい」
って言った気持ち、いまのぼくには痛いほどよく分かる。
仕事で疲れ、家に帰ると子供が騒ぎ、妻があれこれ話し掛けてくる毎日。
もし、いま彼女と再会したら……。
そんなドラマのようなこと、ありえないけど、ぼくは、ぼくと彼女が禁断の恋に堕ちて行くストーリーを妄想するのが、密かな楽しみになっている。
そして今日も、ライトアップされた駅前のさくら並木を歩き、どっぷりと彼女を思い出したぼくは、妄想の世界で彼女と手を握り歩いていた。
と、突然、ぼくの右手を、きゃしゃな手が握ってきた。
両手でがっしりと。
ま、まさか……
ぼくの右横には今年、中学生になったばかりの娘が立っていた。
一瞬、ドキッとしたぼくの心臓は安心したのか、がっかりしたのか、とにかく正常に戻り、ぼくは父親の顔に戻った。
娘は塾帰りだった。
ライトアップされたさくら並木の駅前通りを中学生の娘と2人、並んで歩くのも悪くはなかった。
見慣れた娘の顔がさくら色に輝き、無性にかわいく思えた。
「ね、パパ。カラオケ行きたいよぉ」
腕を組んで甘える娘と2人で、ぼくはカラオケ店に入った。
こんなことは初めてだ。
「ね、ね、ママも呼ぼうよ」
最近の歌はさっぱり分からないが、フリ付きではしゃぎながら歌う娘を笑いながら見ていたら、いつしかそこに妻もやってきて、2人でマイクの奪い合いがはじまった。
「あんたはもう散々歌ったんでしょ。今度はママよ」
「もう。ママなんか呼ばなきゃよかったね。パパ」
「ほら、あなたを必要としているお2人さんを大切にしなくちゃ」
さくらの妖精が、
ささやいたような、
ささやかなかったような……。
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