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スルースキル

 チャイムが鳴った。途端に静かだった教室は喧騒に包まれる。

「ゆい、また明日ね!」

「うん。部活がんばって。」

 友人の木下きのした沙希さきは二年生に上がる時のクラス替えで一人ぼっちになってしまった私が唯一心を許せる人だ。

 クラスの皆と仲良く、というのに憧れたこともあった。

 だがしかし、相性というものは確かにあって、合わない人と一緒にいると自分も相手も疲れてしまう。

 それならばいっその事と、他の人とはほどほどの距離を保ってしまっている。

 部活にも入らず、放課後は塾か家というのが私の日常だ。

 そういう生き方なら日常に変化がない。

 面白い生き方とは云えなくても、人様に迷惑をそんなにかけていないと思える。

 そんな私だが、迷惑をかけているな、申し訳ないと思う人がいた。

 私は塾のある日は暗い夜道を一人で歩く、皆も同じように帰っている。だから、私も大して危機感を持っていなかった。


 そんなある時、近辺で不審者が目撃されて学校で注意が促されたのだが、誰もが「気持ち悪いね」と口にはしても、どこか他人事のように受け止めていた。私も物騒になったな、と思うだけだった。

 そんな風に思っていたから、隣のクラスの女子生徒が何者かに物陰へと連れ込まれそうになったと聞いたとき、学校中が騒然となった。幸いにもその女子生徒は、通りかかった会社員のおかげで助かったらしいが、犯人は捕まっていない。

 そんなことがあった為、学校外ではできる限り一人にならないようにと先生から伝えられた。

 私も沙希の部活が終わるのを待って一緒に帰っていた。

 しかし、塾の日はそうもいかない。人通りの多い道を選んで帰るのだが、私の家付近は人通りの少ない道ばかりで、薄暗くて怖い。もともと怖いと思っていた道なのに、事件の話を聞いてからというもの走って早く家の中へ入りたい気持ちになっていた。

「はぁ。」

 自分の足音だけが静かな住宅街に響く。

 今にも建物の影から人の手が伸びてきそうだ、そんな想像をして私はぶるりと身体を震わせた。こんな想像をしたところで意味がない。自分が怖くなってしまうだけだ。

 あまり考えないようにしようと決めた私の耳にかつかつと他の人の足音が聞こえてきた。

(良かった。他にも人がいて。)

 ほっとしたのも束の間、私は気付かなくていいことに気付いてしまう。

 試しに、いつもは曲がらない道を右に曲がってみる。

 変わらない距離から足音が聞こえてくる。

(なんで、付いて来るの? いや、まだそうと決まったわけじゃないし……。)

 気のせいだったらその人に申し訳ない。私は念のため、もう一回右に曲がってみた。

 まだ一定の距離を保った足音は付いて来る。

 もう一回、右に曲がってみる。最初に歩いていた道に戻った。

 すると、足音が聞こえなくなった。後ろを振り返ると何の姿もない。

 やっぱり気のせいだったと胸を撫で下ろして、私は歩き出した。その時、

 急に目の前に影が差した。ばっと顔を上げれば知らない男の人。

「あの?」

「…………。」

 困惑する私に無表情の男の人は無言で手を伸ばしてきた。

 そこで、私もいい加減気付いた。この人がさっきの足音の主だと。

 掴まれてしまった腕を引いてみるがびくともしない。

(に、逃げないと)

 そうは思っても足は動かない。声を上げようと思っても呼吸もままならない。

「あ、やめてくださ……。」

 小さな声で抵抗してみるが、男の人の目は暗く澱んでいる。よく見れば片手には小型のナイフが握られていた。

「静かに、しとけよ。」

 ちくり、と頬に当てられたナイフが肌に食い込む。

 強い力で手を引っ張られて、私はせめてもの抵抗で足を踏ん張ってみた。

 だが、小柄な私を男は簡単に抱えてしまって、暗い方へと連れ去られていく。肩に荷物のように乗せられて、お腹が圧迫され息が苦しい。

(お母さん! お姉ちゃん、お父さん! 助けて……。)

 公園の入口が見えたとき、もう駄目だなと思った。これから犯されるのか、あのナイフで刺されるのか、どっちがましなんだろう。

 涙で歪んだ視界で地面を見ていた。

(やだ。まだ死にたくない。)

「離して! 下ろして!」

 無茶苦茶に腕を振り回して暴れる。まだ死にたくない。痛いことも嫌なこともされるなんて嫌だ。

 喉が潰れそうなほど叫べば、男は苛立ったような声を上げて、

「黙れよ!」

「いっ……た。」

 太ももが熱い。液体が足を伝って下に流れていく感覚がする。

(刺された……? 痛い、痛い!)

 これ以上暴れたら殺される。私は男を怒らせてしまった。

 どこかで隙を見て逃げれば良かったのかもしれない。

(殺される? のかな。)

 もう、殺される前に自分で。そう思うが自分で自分を殺す覚悟はまだない。なにかされたら覚悟が固まるのだろうか。

 人気もなく電灯の光も届かない茂みに男は迷いない足取りで入り込んでいく。慣れているなと思った。多分、届け出ていないだけで被害者はたくさんいるだろう。

 とさっと荷物のように地面に転がされて、男が私に覆い被さった。そして、私のYシャツを乱暴に引き裂いた。

(殺すんじゃなくて、やっぱりそれが目的だったんだ。)

 どこか他人事のように世界を見てから、私は目を閉じた。

 その時、

「おい!何してる!」

 他の誰かの声が聞こえた。

 その誰かは、スマートフォンか何かを懐中電灯の代わりにして、私たちの方へと迷いなく進んでくる。

 男は舌打ちをして私の上から退いた。

 そして、じっと私をギラギラとした目で見ながらも背を向けて、声が聞こえたのとは逆方向に逃げていった。

 ああ、良かった。私も隣のクラスの女子生徒のように誰かが助けてくれた。

 身体から力が抜けてしまって、私はひっくひっくと子供のように泣いてしまう。

 その内に私を助けてくれた人が茂みの中から飛び出してきた。

花染はなぞめさん!」

 自分の名前を呼ばれたことに驚いて、涙で歪んだ視界を必死に凝らしてみる。

「み、ずかわくん?」

 明瞭になった視界に映ったのが同級生だということに気付いて、私は泣きたくなった。

 こんなところを『知っている人』に見られてしまった。もう今まで通り学校になんて行けない。

 明日には根も葉もないウワサ話が流れてしまうかもしれない。

 水川みずかわれんという人物を私はよく知らないから。

 いつも色んな人に囲まれている人で、それなりにモテているということしか知らない。

 私の世界には関わりのない人だった。今この時までは。

「もう大丈夫だから。警察呼んでる。もう大丈夫だよ。」

 水川は、のろのろと起き上がった私の肩に自分が着ていただろう制服のブレザーをかけてくれた。

「ありがとう。」

「とりあえず、明るいとこに行こうか。」

「……はい。」

 私は立ち上がろうと足に力を入れた。が、先ほど暴れたときに傷つけられた足のことを忘れていた。

「痛っ!」

 つんのめるように倒れてしまう。足が痛くて倒れたのか、恐怖で足が固まっていたのか。

 地面に倒れ込んだ私を水川は起してくれる。

「怪我したのか!?」

 そう言って、固まり始めた血を傷を負わされた私より痛そうな顔をして見ている。

 もしかしたら、良い人なのかもしれない。いや、絶対に良い人だろう。

 だって、普通の人なら巻き込まれたくないから、何かを察したとしても警察に通報するだけでまず助けに来ない。確かにその方が犯人もすぐに捕まるだろうが、警察官が駆けつける前に取り返しのつかないことになっていたはずだ。

「ごめん。もっと早く来れば……。」

「ううん。助かりました。」

 公園のベンチに腰掛けて二人で警察を待った。

 警察が来てからも、警察署に両親が来るまで彼はずっと私に付き添ってくれた。そう、よく知りもしない私なんかに時間を割いてくれた。

 その後、私や隣のクラスの女子生徒を襲ったあの男は捕まり、私も被害にあったということは学校に広まることはなかった。水川も学校側も黙ってくれていたというのもあるし、あの近辺に住んでいる同じ学校の人間が少なかったということもある。

 何はともあれ、いつも通りの日常が帰ってきた。



 ――ひとつのことを除いて。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



「花染さん! 途中まで一緒に帰っても大丈夫?」

 校門を出たところで、端正な顔立ちをした男子に呼び止められる。

「あ、うん。大丈夫だよ。」

 あれから、何故か水川と一緒に帰るようになったのだ。この日常に慣れてきた自分が怖い。

 怪我は治っているし、犯人も捕まっているから心配しなくても大丈夫だと私は訴えているのだが、帰る道の途中に私の家があるからついでだと言って笑っていた

 私としては水川のファンの睨みもなかなかに脅威だったものだから、気持ちはありがたいけども……。の状態だった。「迷惑」とまで言うのもどうかと思い何も言えなかった。水川は厚意でやっていることだろう。

 しかし、クラスだって違うのにどうしてこんなに構われるのか分からない。

 まぁ、好青年と一緒にいられる機会なんて滅多にない。ラッキーくらいに思えれば良いのだが。

 私が未だに暗いところを怖がっているから、水川は気遣って一緒に帰ってくれるのだろう。

 たまたま、塾も近くて部活にも入っていなかったからこそ出来たことだ。

 でも、水川が悪いわけでもないのにこんな事をしてもらうのは申し訳ない。

 男性に対して苦手意識が芽生えたのは事実だが、そこまで重度ではないと思う。

(もう、大丈夫って言わないと。)

 いつまでもこうしてもらうのは申し訳ない。水川の大事な時間を奪い続けるのは駄目だ。

 私の歩く速度に合わせてくれるから、本当ならもっと早く家に着いて勉強なり好きなことなり出来るはずなのに、本当に申し訳ない。

 それに、水川に遊びの誘いをかけたり、告白をしようと思っても放課後は先約があるからと断られてしまう。と私に聞こえるように可愛い女の子たちが言っているのを聞いた。

 そして、本来なら水川は『あちら側』にいる人だというのを思い出した。

 今日で離れようと決めて水川の顔を見上げる。これ以上手の届く範囲にいたら、叶わない願いを抱いてしまいそうで。私に彼のような人は似合わないのに。

「あのね、水川くん。もう大丈夫だよ?」

「え……?」

「その、水川くんも大事な時期だから。」

 私たちは来年受験生なのだ。私はそんなに上の大学を目指すわけではないからまだ良いのだが、噂によれば水川は国内で屈指の名門大学を目指していると聞いた。私なんかに時間を割く暇があれば勉強をしたいだろう。

 という私の言葉に、水川は悲しそうに顔を歪めた。

「迷惑だった?」

 初めて聞いた水川の沈んだ声に私の心は嫌な音を立てる。そんなに悲しまれると思っていなかったから。

 お互いの趣味とかは違っていても、水川との会話は退屈しなかった。何と言えばいいのか分からないが、波長や価値観といったものが合っていたからだろう。

 例えば、横断歩道を車の邪魔にならないように早足で渡ったり、購入した商品を受け取るときにお礼を言ったり、当たり前のことを当たり前にこなしている姿に惹かれた。

 すごく居心地が良かったのだ。水川の隣は穏やかで落ち着く。

「全然迷惑じゃないよ! た、楽しかった。」

「じゃあ俺のこと嫌い、とか。」

「嫌いじゃない。好きだよ……っ。」

 そこまで言って、私が自身の失言に気付くのと同じタイミングで水川の目が見開かれた。

(く、口が滑った!)

 思わず本音が口から飛び出してしまった。水川のことを『嫌い』なんて思ったことなかったから、彼に勘違いされたくなくて、慌てて口にしてしまった本音。恥ずかしくて水川の顔を見られない。全身から汗が吹き出ているのを感じる。

「好き? 花染さんが俺のこと?」

「や、そういう意味じゃなくてっ!」

 首を傾げて私を見つめる水川に、心臓がきゅんとなる。さすがは学年一のイケメンと呼ばれるだけのことはあるなと私は水川から視線をそらして呼吸をする。この人の前で息なんてできない。

「すごく真面目だから、尊敬してるの。人としてすっ……好きなタイプだよ。」

 言い訳で口にするにしたって、『好き』というのはものすごく恥ずかしい。

 真っ赤になって言い募る私に、水川は楽しそうに笑ってほんのすこしだけ距離を詰めてきた。

「そうなんだ。じゃあ俺も花染さんのこと好きだよ。」

 悪戯っ子のような顔でそんなことを言うものだから、私の頭の中は真っ白になる。

 芸能人のように手慣れたリップサービスだった。

(明日、私死ぬんじゃないかな……。)

「あ、じゃあまた明日!」

 家が見えた瞬間に私は水川から逃げるようにして玄関に走った。

 もうこれ以上この場に居られない。せっかく勇気を振り絞って「もう大丈夫」と言ったのに。今日で終わらせられなかった。


 でも、心のどこかで水川とまた一緒に帰れるということにほっとしていた。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 家の玄関に向かって走り去るゆいを水川蓮はじっと見つめていた。

(ほんとにもう、花染さんは可愛いな。あんなに真っ赤になって……。)

 あの顔は誰であろうと惹かれてしまうものだろう。誰かに見せたいとは思わないが。



 蓮がゆいの存在をはっきりと認識したのは高校一年生の体育祭のことだ。

 その日、蓮は午前の部で熱中症気味になってしまい、心配そうな友人たちに見送られ保健室に向かった。

 ようやくたどり着いた保健室には先客が居て、その女子が付けているハチマキの色から同級生だと分かる。

「あ……。」

 蓮の姿をみとめた一年女子は全身に緊張をにじませ、ぺこりと会釈をした。その様子でなんとなく、この子は人見知りなのだろうと察して、蓮もそっけなく返した。あまり構われるのも彼女の負担になるだろう。

「お疲れ。」

 そして、蓮はさっさとベッドに横になり、女子の方も少しの間がさごそと物音を立てていたが、しばらくして用事が済んだのか保健室から出て行った。扉が閉まる音を最後に蓮は意識を飛ばした。

 次に目が覚めたのは、一時間ほど経った頃だった。体調は本調子ではないが寝る前よりは大分ましになっていたので、体育祭の目玉である学年対抗リレーに出る友人の応援でもするかと校庭へ戻ることにした。

「蓮! お前、大丈夫なのか?」

宏樹ひろきの応援くらいできるって。二人三脚見れなかったし、せめてリレーくらい見たい。」

「体調悪くなったら言えよ?」

「ありがとな。」

 戻った時にはちょうどリレーが始まる時間だった。友人、小倉おぐら宏樹ひろきはアンカーという大役だ。

 男女混合ということもあり、抜いたり抜かれたりと白熱した戦いが繰り広げられる。

 だが、バトンが渡されていくごとに一位との距離が広がっていく。

「うわ二位か……。」

 アンカーの前の女子にバトンが渡った時点で、それなりに距離が開いてしまっていた。とはいえ、一年生で二位なら十分だろう。そう思って、蓮は一年の女子を見つめた。

(あれ。保健室にいた女子?)

 随分大人しそうに見えたが、リレーに出ているくらいだ。足は速かったらしい。だが、暫定一位の三年女子は陸上部だ。真っ白で全く日焼けしていなかったあの一年女子に勝ち目はないだろう。と考えていたのも束の間。

「うわっ、あの子むっちゃ速くね!?」

「…………。」

 一年女子は三年陸上部女子をあっという間に追い抜かしていった。そして、三年とかなりの差を広げた状態でアンカーにバトンが渡った。

 結果は勿論一年生が一位という結果だった。勝利の立役者である一年女子はその他一年女子にもみくちゃにされていた。小柄なため女子の壁に埋もれてしまっている。

「すげぇな。花染さんがそんなに足速いなんて知らなかったよ!」

 いつの間にか壁から脱出していた女子に宏樹が話しかけていた。

 見せ場を持っていかれた感のある宏樹アンカーのおかげで、蓮は一年女子の名前を知った。『はなぞめ』と口の中で名前を転がす。

「あ、りがとう。小倉くんもすごかったよ。三年のアンカーの人追いつけてなかった。」

 照れたように俯いて話す彼女に、宏樹もつられて顔を赤くしていた。それを見た外野が、彼女のもとから戻ってきた宏樹をからかう。

「なに顔赤くしてんだよ!」

「ちげぇし!そういうのじゃないって。」

 褒められて嬉しかっただけだという宏樹を「そうじゃないだろ?」と問い詰める空気が、蓮はなんだか面白くなかった。

 一目ぼれではなかったが、蓮は見事にギャップにやられてしまっていたのだ。

 それからというもの。登下校の時に見かけていた同じ学校の生徒が彼女であることに気付く。学校内で姿を探してしまう。などお約束の反応を示す自分に想いを自覚した。

 しかし、自分から話しかける勇気を持てず。同じクラスになれたら、と思って日々を過ごしていたが、二年生になっても同じクラスになることはなく、三年生になったら、と蓮が思いを新たにした頃に不審者の出没に関する注意喚起。しばらくして、その不審者による被害が出た。狙いが女性だと分かった時点で、彼女の顔が頭に浮かんだ。

 大人しい彼女は絶対に狙われると蓮は気が気でなかった。だから、こっそりと彼女の後をつけるようにして見守っていた。傍から見たら蓮も不審者に近いところはあるのだが、何よりも彼女を傷つけられることが嫌だった。

 それなのに、ある時尾行が彼女にばれてしまったようで通学路とは全く違う道へ曲がってしまった。慌てて後を追ったはいいが、彼女は本物の不審者に遭遇してしまっていた。

 ひとまず、刃物を持っているようだったので警察に連絡をしたのだが、次は彼女たちを見失ってしまった。話し声が聞こえないように距離を開けていたのが失敗だった。

 ああいった輩が目指すのは人気のないところだろう。と考えたところで近くに公園があるのを思い出して駆け出した。なにかをされる前に絶対に見つけ出すとそれだけを考えて。

 公園の近くまで来たとき、女性の悲痛な叫び声が蓮の耳に届いた。

「――――――――! っ助けて!」

 その後なんとか彼女を見つけ出し、最悪は免れることが出来た。だが、最悪ではなかったとはいえ彼女の心には深い傷が残ってしまう。もっと早く動いていたら、恋人にはなれなかったとしても友人になれていたかもしれない。友人なら、こそこそ尾行をしなくても一緒に帰るくらいはできたかもしれないと思うと、後悔に押し潰されそうだった。

 あの不審者が捕まるまでは一緒に帰ろうと彼女に持ち掛けた。でも、あの野郎が捕まるまでなんて蓮は考えていない。ずるずると習慣にして、この状況を利用してしまおうと考えた。

 蓮の目論見は上手くいって、毎日一緒に帰っている。しかも、意識されているかもしれないと感じるときが多くなった。

 だが、想いを隠そうとする彼女の態度のせいでいまいち感情をつかめず、あと一歩を踏み込めないでいた。

 だから、試すように「嫌いか?」と聞いたのだ。おかげで思っていたよりもっと良い言葉を聞くことができた。あの鈴が鳴るような可愛らしい声で。

(もう少し時間いるかと思ってたけど、大丈夫そうか?)

 何しろ彼女は男に襲われかけたことがある。慎重にことを運ばないと蓮の前から消えてしまいそうだ。

(遊びに誘ってみようか。)

 学校の帰りに少し食べて帰るというのはあったが、休日に出かけたことはない。

 よしそうしよう。と蓮はゆいの興味を持ちそうなプランを考えながら歩き出した。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



「花染さんいる?」

 その一言で教室が水を打ったように静かになった。学校中で有名な彼がお昼の休憩時間に現れたのだ。一緒に帰ることはあってもこうして学校の中で関わりを持つことがなかったから、私は自分に向けられる視線の多さにびくつきながら水川の元へ歩いて行った。

「水川くん、どうしたの?」

「一緒にご飯食べたいなって思って。駄目かな?」

 水川がいつも一緒に食べている人たちは良いのだろうか? ここに彼がいるということは良いのだろうが、どういうつもりで来たのだろう。昨日の会話が切っ掛けなのだろうか。よく分からない。

「沙希ちゃんがいいなら私は大丈夫だよ。」

「相談事なんだけど。」

 出来たら木下さんには聞かれたくないかな、と水川は困った顔をしていた。

「わ、私に!? それなら他の人もいた方が良いと思うんだけど。」

「俺は花染さんに聞きたいな。」

「そ、うなんだ……。」

 どうやって断ろうと私が必死に頭を捻っていると、沙希がトイレからようやく戻ってきた。

 戻って来るなり嫌そうな顔をして、さっと水川と私の間に入り込む。

「水川。ゆいに何の用?」

「木下さん、花染さんを貸してくれないか? 相談があって。」

「アンタなら相談相手、そこら中にいるでしょ? 何でゆいのとこにわざわざ来るのよ。」

 沙希は嫌悪感を隠そうともしないで、刺々しい口調で水川に突っかかる。

 どうしてこんなに水川のことを嫌っているのだろう。二人が必要以上の話をしているのを見たことがないのに。波長が合わないのだろうか?

「花染さんにしか相談できないことなんだ。」

「はっ。笑わせてくれるじゃん。ゆい今日は中庭で食べよ! ここにいたら落ち着いて食べれないよ。」

「えっ? でも……水川くん困ってるみたいだよ。」

 落ち着かないというのは私も思う。水川の存在でクラスの女の子たちは色めき立っている。

 だが、私にしか相談出来ないということなら力になりたいと思った。いつも貰ってばかりだから少しでも恩返しがしたい。

「いいの、いいの! 放っときなあんなの。」

 水川を『あんなの』呼ばわりするくらいに沙希は彼のことを嫌っているようだ。

 今の私には水川より沙希の方が大事だ。それにいつも沙希と一緒に食べているのだから、沙希の方を優先するのが筋だろう。

「う、水川くん。今度で良いかな?」

「今日の帰りに相談するから。木下さんが嫌なら仕方ないよ。邪魔してごめん。」

「ううん、こちらこそごめんね。」

 その後、中庭でご飯を食べながら沙希に「水川のことが嫌いなのか?」と聞いてみると、『気に入らん』とすっぱり簡潔に述べてくれた。



「このお店に行ってみたくて、だけど男一人っていうのがちょっとね……。」

 その日の帰り。水川に見せられたスマホの画面を見て私は納得した。

「可愛らしいお店だね。」

 薄ピンクの壁紙に、アンティーク調の机と椅子。いたるところにレースの柄があって本当に可愛いお店だ。実に私好みの雰囲気だった。

「ここのカレー食べてみたいんだけど、ケーキが有名なお店だから内装が。」

(ケーキが有名……。行ってみたいな。)

 ここしばらく甘いものを食べていない。勉強に打ち込んでばかりで息抜きをしていなかった。

「こんなケーキがあるんだって。」

「わぁ! おいしそう!」

 彩りが美しいお菓子たちに私の心は囚われてしまった。行きたい。ものすごく行きたい。

「どこにあるの? 私も今度行ってみたい!」

「南区。花染さんも行きたいんだったら、その……俺と行かない?」

「え、あ。そうだったね。」

 すっかり水川から相談を受けているということを忘れていた。

 可愛い店に男一人でというのはキツいからという話だった。

 なるほど、それで一応女である私に付いて来てほしいという話か。他にも頼めそうな異性の友人が居そうなものだが、私もこのお店のケーキを食べたい。この話に乗ってしまおう。

「私で良ければぜひ。いつがいいかな?」

「今週の土曜日とかは?」

「うーん。確か大丈夫だった気がする。」

「じゃあ決まり! ありがとう花染さん。」

「こちらこそ、教えてくれてありがとう!」

 ちょうど家の前に差し掛かったところで話が終わった。じゃあ、と言いかけたところで「待って」と言われた。

「連絡先教えてもらっても良い? 連絡取れないと不便だから。」

「あ、そうだね。」

 そういえば、毎日のように一緒に帰っていたのにお互いの連絡先を知らない。いや、毎日会っていたからこそ必要がなかったのか。

 自分の携帯の画面に『水川蓮』という文字があるのが不思議だ。

 去年までは自分とは関わりのないタイプだと思っていたのに、今こんなに近くに感じる。

 その事実に嬉しくなって私は頬を緩めた。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 家まで迎えに行くと水川は言ってくれたが、家族に冷やかされたくなくて駅前で待ち合わせにしてもらった。彼氏とかではなく友人なのだが、家族は私の想いに気付いてしまいそうで、嫌だったのだ。

 待ち合わせ場所に到着すると、まだ十五分前だというのに水川は来ていた。

 私服の彼を見るのは初めてかもしれない。だが、制服の時と印象は変わらないようだ。

 顔立ちの整っている人はどんな服装だって着こなしてしまう。それに比べて私の服装なんて。

 昨日の夜散々悩んだ。寝不足にならないぎりぎりまで悩んだ。

 気合いを入れすぎても引かれるし、かといって適当に選ぶのも駄目だ。私の何かが許さない。

 友達と出かける、といったことが少ないため私のタンスやクローゼットの中には『楽』を追求したものばかりで、おしゃれ着といえるものは、以前沙希と出かけた時に見繕ってもらった女の子らしさと大人っぽさが混在した紺色のワンピースだけだった。沙希にはよく似合っているというありがたいお言葉をいただいた。

 かなり悩んでその服に決めたはいいが、待ち合わせ場所に到達した現時点で、今すぐ着替えに帰りたい。という思いに支配された。だが、待ち合わせ時間に遅れてしまうのはいけない。いや、でもこの姿をさらすくらいなら遅刻の汚名を着る方がましなのでは。いやでもなぁ、と余計なことばかり考えている私の視界が突如翳った。

「花染さん。おはよう。」

 見つかってしまった。私には眩しすぎる笑顔で挨拶してくれた水川に、ぎこちない顔で返した。

「み、水川くん……。おはよう。良い天気だね。」

「え、曇ってるけど。そっか、晴れたら暑いか。」

 確かにちょうどいい天気だね。と返されて罪悪感が芽生えた。私が適当に言った話を否定せずに繋げてくれた。やっぱり優しいな、とまた一つ想いが積み重なった。

「そのワンピース、良く似合ってる。」

「あ、ありがとう……。前に沙希ちゃんが選んでくれたの。」

「木下さんが? やっぱり魅力を知ってるんだね。」

「多分……。」

「じゃ、そろそろ行こうか。」

「うん。」

 バスに乗ってすぐに眠気がやって来た。こうなるのが分かりきっていたから昨日早く寝たのに。いつもの水川ならもっと話しかけてくるのに、今日はあんまり話しかけてこない。あ、だから眠いのか。と責任転嫁したところで、水川にじいっと見つめられているのに気が付いた。

「もしかして、眠い?」

 なんと、ばれていたか。そんなに眠そうな顔をしていただろう。自分の頬に手をあててみる。

「ちょ、ちょっとだけだよ。」

「今日が楽しみすぎて、とか?」

「……小学生みたいだよね。」

「そんなことないよ。俺もすごい楽しみだった。」

 気持ちのこもっているその言葉にドキッとした。なんて自意識過剰になってしまっているのだろう私は。水川が私と同じ気持ちだなんてありえないのに。

 水川が私なんかを誘ったのは、カレーのためだ。私がその話に乗ったのはケーキのためだ。そうしないと自分が最低な人間になった気分になる。好きな人と一緒に居たかったから。他の人を誘うところを見たくなかったから。そんな我が儘な自分が在るなんて知らなかった。

「水川くん、本当にカレー好きなんだね。」

「カレーだけじゃないよ?」

「うん? ああ!ケーキも楽しみだよね! ベリーがいっぱいのケーキが食べたいな。それかキャラメルのケーキ! や、でもカレーも食べたいからなぁ……。食べきれるといいんだけど。」

「花染さんが食べきれなかったら俺が食べるから、好きなものいっぱい食べてね。」

「そんな、残飯処理みたいな真似させられないよ!」

「ざ、残飯処理って! その例え面白いね。」

 肩をぷるぷると震わせる水川をじとりと見つめる。

「笑いすぎじゃないかな?」

「ごめん。ツボに入った。」

 ようやく水川の笑いがおさまった頃に最寄りのバス停に着く。

 少しだけ歩いて到着した目的のお店は昼前だったこともあり、ぎりぎり並ばずに店内に入ることができた。

「おいしいね!」

 辛くて、それでいて旨みのあるカレーに私の頬は緩みっぱなしだ。

「うん。来て良かったよ。」

 締まりのない私の顔を微笑ましそうに見つめる水川にどうしても顔が赤くなってしまう。子供っぽく思われてしまったかもしれない。

「沙希ちゃんと絶対また来るね。」

「俺とは行ってくれないの?」

「え、水川くんと? でも意外に男性のお客さん多いみたいだし、私とじゃなくても大丈夫だと思うけど……。ほら、彼女さんとかできた時とか。ここなら絶対に喜んでもらえると思う、よ?」

 私は馬鹿だ。自分で自分の言葉に傷付いている。でも、なぜ水川も複雑な顔をしているのだろう。

 空気に堪えられなくなって私は目の前のカレーに集中した。

 しばらく二人とも無言で食べ進めていた。そして私が食べ終わると、先に食べ終わっていた水川がそれを待っていたかのように口を開いた。

「俺は花染さんに喜んでもらいたくて、ここに誘ったんだけど? さすがにこの意味は分かるよね。」

 いくら鈍い花染さんでも、と続けられた言葉に頭が真っ白になる。

 私に喜んでもらいたくて? よく、意味が分からない。

「ケーキで釣れば花染さんとデート出来るんじゃないかと思って、お店探して誘ったんだけどな。」

「……あり、がとう。」

 でーと、とはどういうつもりで口にしたのだろう。男女で出かけるからデートという意味だろうか。分からない。いや何となく分かってはいるが、異性に慣れていない私をからかっているのかもしれない。

 そう思うと、怖くてなにも聞けなかった。

「あ、そうだ。水川くんはケーキ何にする? 私はやっぱりキャラメルのケーキかな。」

 あの会話から逃げたくて、私は話題を変えた。違和感はあるだろうが、優しい水川なら追求してこないはずだ。もし、私をからかう目的の悪い水川でも追及はしてこないはずだ。偽りに気付かれたくないのなら。

「俺は桃のケーキにする。」

 ああ、良かった。なにも聞かれなかった。ほっと息を吐く。

 運ばれてきたケーキは、先ほどの会話がどうでもよくなるくらいおいしかった。気まずい空気になってしまったが、来て良かったと心底思えた。絶対また来よう。甘さがしつこくなかったから沙希におすすめできる。

 お会計の段階になって水川が私の分まで払いそうだと察して、先に伝票を持って行った。それで「別でお願いします」と先回りしておごられることを回避した。水川は不満そうだったが、私にだって矜持はある。人におごられるのは特別な時だけだ。今日、私は何もしていない。



「今日はありがとう! じゃあ、また学校で。」

 家の前に着いて、私はそう言って振り返った。それから手を振って家の中に入ろうとすると、水川に呼び止められた。

「待って花染さん。」

「どうしたの?」

「俺、」

 水川がそこまで言ったところで、一番聞きたくなかった声が響いた。

「ゆい? 帰ったの?」

「お母さん! あ、うん。今帰って来た。」

 母は私と一緒にいる水川を見て、なるほどといった顔をした。多分、母の想像と現実は違うと思う。

「あらあら、水川君じゃない。いつもゆいがお世話になっております。」

「俺の方こそ、いつも花染さんに仲良くしてもらってます。」

 世間話が始まりそうな雰囲気に、慌てて声を上げた。

「お、お母さん! ご飯の準備あるでしょ!」

「ああ、はいはい。あんまり遅くまで引き止めちゃダメよ。」

「分かってるって!」

 にやにやしながら家の中に消えて行った母は勘違いをしている。後で必ず訂正しないと。

 呆然と母の大きな背中を見つめる私に、水川が今思いついたという声を上げた。他に約束があったのだろうか、と水川を見つめる私の耳に想像もできなかった話が飛び込んだ。

「ゆい、って良い名前だよね。俺もゆいって呼んで良い?」

「へっ? あ、えと別に良いよ?」

「ありがとう。じゃあ、ゆいも俺のこと蓮って呼んで?」

 夢を見ているのかもしれない。『今日』は全部夢で、本当は食事に誘われていなかったのではないかと。

「れ、蓮……?」

 噛みしめるように発音した私を、ものすごく嬉しそうに見つめる水川の瞳から目が離せなくなった。

「うん。」

「蓮くん。」

「なに? ゆい。」

「なんだか、仲の良い友達って感じがするね! 嬉しい。」

「うん?」

 今まで、下の名前で呼び合う友人なんて片手で数える程しかいなかった。

 それに『友人』とはいえ、好きな人に下の名前を呼ぶ許可をもらった。それが嬉しくてたまらない。

「…………。」

 嬉しさを噛みしめる私は、水川の何かを諦めたような表情に気が付かなかった。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 それから三年生に上がっても、蓮とは同じクラスになることはなかった。でも、毎日一緒に帰っていたし、たまに休日に出かけたりするようになった。かなり仲の良い友人だと私は思う。

 受験も蓮のおかげで志望校に合格することができた。教え方の上手い友人が居るというのは素晴らしいと神様に感謝した。

 私は沙希と同じ地元の大学に進学し、蓮は他県の大学に進学した。大体の場合、距離が開いてしまうと疎遠になってしまうものなのだが、蓮は長めの休みのたびに遠く離れた実家まで帰って来ていた。向こうの交友関係は大丈夫なのだろうかと私は思う。上手くいっていないのかもしれない。

 大学二年生の夏、八月の上旬には帰るという連絡が来た。で、私はその内容にとんでもなく驚いてしまう。

『泊まりって大丈夫? 木下さんにも聞いてみてもらえるかな。』

 いやいや、今まで泊まりでどこかへなんて家族くらいしか覚えがない。

 蓮の提案は嫌ではないし興味はある。でも、父が許してくれるかどうか。しかも、

『泳いだりするかもだから、水着とか持ってる? なければ、わざわざ買わなくていいから。』

 ―――父はなんて言うだろう。

 遠い目になりかけて頭を振った。どうして旅行を考えたのかは何となく分かる。

 去年は花火大会に一緒に行って(二人きりではなく沙希と小倉がいた)私は人ごみに酔ってしまい、来年は落ち着ける場所で夏を楽しみたいね、と蓮に言われて頷いた。

 多分、それを配慮しての計画なのだろう。人ごみが苦手な私に合わせての。

 そう思うと。なんだろう、すごく胸がドキドキする。

 蓮にとっては、仲のいい友人という括りだろう。でも、好きな人が自分に合わせてくれるというのは、少し優越感を感じてしまう。彼のことだから誰に対しても優しいのかもしれない。でも、嬉しい。

 何が何でも行ってやる。と意気込んだ私は二週間かけて父を説き伏せた。最後は優しい父が折れてくれたのだが、姉もサークルの合宿などで泊まりがあるのにゆいは駄目だというのはおかしいだろうと言ってくれた母の言葉が止めだったと思う。

 かくして、ついに出発日を迎えた。初日は移動ばかりになると聞いていたからTシャツとジーンズでシンプルにまとめて、帽子は花のコサージュのついた少し可愛らしいものにしておいた。少しでも女の子らしさは入れておきたい。

「おはよう。ゆい。こんな早い時間でごめんね。」

「おはよう。私は大丈夫だよ。気になってたところだからすごく楽しみ!」

 日本一綺麗だと云われれている川はテレビで特集されていて気になっていた。あと、幕末の志士の記念館。紙すき体験、道の駅にも連れて行ってくれるそうだ。ゆいはとても楽しみだが、普通の大学生からしたら地味だと感じるかもしれない。

 あちこちを動き回るのでレンタカーを借りる予定なのだが、四人のうち免許を持っているのが私と蓮しかいない。沙希はバイトの隙間で通っていて仮免許までしか取得していなくて、小倉は本試験場にて三回ほど落ちたそうだ。二人ともこの旅行に間に合わせるつもりだったらしい。

 でも、初心者にいきなり運転させるのは怖いから助かったと蓮が言っていた。

 私も蓮も自由登校になってから同じ自動車学校に通い、同じ日に免許を取得して、それから休みの日とかで親の車を運転していたので特に問題はない、はずだ。初心者の運転はジェットコースターよりもスリル満点になる。最初の頃の母の悲鳴が忘れられない。


「ごめん!寝坊しちゃって。」

 ぼさぼさの髪の沙希が来たことでようやく四人そろった。

「うん。分かってたから沙希ちゃんには少し早い時間を伝えといたよ。」

「流石ゆい!あたしのこと分かってる!」

 ぎゅうぎゅうと抱きしめられて沙希の胸の大きさを再認識する。

 蓮には無理に買わなくていいといわれたが、せっかくだからと沙希と共に水着を買いに行った。

 私は恥ずかしいからとセット水着にしておいた。体のラインに自信がないから。

 でも、沙希の試着を見ていると女の私でもドキドキしてしまうくらいの抜群のプロポーションであった。ビキニ水着がよく似合う。

 それに比べて、と私は自分の胸に手を当ててみた。

(神様って、残酷。)

「ゆい? 早くしないと、飛行機だから手荷物検査とかあるし。」

「蓮くん。ごめん。ぼーっとしてた。」

「眠かったら俺の肩使ってね。」

「う、うん。ありがとう。」

 飛行機ではなぜか蓮の隣だった。沙希がものすごい形相で蓮を睨んでいたのに、そちらには一切顔を向けずに私の方を向いていた。

 途中少し眠くなりはしたが、一時間程度で着いてしまったので眠らずに済んだ。蓮は不満そうにしていたが、小っちゃい子供ではないのでそんなに甘やかさないでもらえるとありがたい。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 一日目――。


 疲れる前に川遊びだろう、ということで旅の初っ端から私の前に大きな壁が立ちはだかった。

 ラッシュガードを着ているからそこまでの恥ずかしさはないものの、堂々とビキニで川にダイブしている沙希を見ると、隠している自分が恥ずかしくなってくる。

 大抵の少女漫画では、ラッシュガードを脱ぐのを躊躇している主人公は、『気になる彼』に催促されて恥ずかしそうに脱ぐ。そしてその場合はビキニ水着というのが多い。というかその展開しか見たことがない。

 でも、私が着ているのはセット水着だ。一応可愛い系の水着ではある。

 しかし、言うなれば『ちょっと短めの短パンと半袖』という状態だ。

 さっき沙希に「ラッシュガード脱がないの?」と聞かれ全力で嫌がってしまったから、他の人にはビキニ水着と思われていることだろう。

 もう、脱ぐのが恥ずかしくて脱げない、ではなく。

『ちょっと短めの短パンと半袖』なのに恥ずかしがった、と思われたくなくて脱げない。

 ゴーグルを着けて水の中に顔を浸ける。

(ほんとに綺麗な水。遠くで見ても綺麗だし。)

 これが見られただけでも来た価値はあったなあ、と私は幸せな気持ちになった。

「あれ、花染さん脱がないの?」

 小倉は未だ脱いでいない私を不思議そうに見ていた。よいせとゴーグルを外す。

「うん。なんか恥ずかしくて……。」

「蓮、喜ぶんじゃね?」

「いやいや、私の水着じゃ喜ばないよ。しかもビキニじゃないし、それなのに恥ずかしがってる……。」

「あー。確かに、花染さんが太もも出してんの見たことないかも。」

 それなら仕方ないよ、と慰めてくれた。小倉は本当に良い人だ。

「ありがとう。小倉くん。」

「気にすんなって。腹冷えねえ方が良いし。ほら、浮き輪やるから遊ぼうぜ。」

 すぽっと頭から浮き輪を通される。そして小倉は浮き輪に付いているロープを手に持って私を少し深いところまで連れて行ってくれた。

「ぷかぷか浮かぶだけでも結構楽しいだろ?」

「うん! けど、ごめんロープ……。」

「流れて行ったらやばいしな。花染さん流したって二人にばれたら殺される。」

 青い顔をしている小倉には悪いが私は思い切り吹き出してしまった。

 浮き輪があれば大抵のことは大丈夫だと思う。それに、私一人だけで水深の深いところへ行こうとは思わないので流される心配はない。

「面白いね小倉くん。」

「はは。笑ってもらえて良かったよ。笑い話じゃないけど……。」

「ゆい?宏樹と何してるの?」

 じゃばじゃばと水音を立てて蓮がやって来た。そういえば、今までどこにいたのだろう。トイレだろうか。

「宏樹。」

「……ああ、はいはい。ったく。目は口ほどにものを言うって本当だよな。へーへー邪魔者は退散しますよ。馬に蹴られたくはないんでね。」

 そう言って、とぼとぼと小倉は河原へ向かって歩いて行った。何故だろう。一緒に遊べばいいのに。もしかして蓮と喧嘩でもしたとか。それか体調が悪いのかもしれない。

 ぐだぐだと考えていると、自分が水面に浮かんでいることを思い出す。そういえば小倉から浮き輪を借りっぱなしだった。

「小倉くん!浮き輪……。」

「あ、それ蓮のやつ!」

「え! そ、そうなの?」

 勝手に拝借してきたのか。それは蓮も怒るはずだ。じとっと小倉を見つめる。

「ゆい。こっち向いて?」

 蓮に呼ばれて彼の方を向くと、何となく不機嫌そうな顔をしているように見えた。

「なんかごめんね? 勝手に使っちゃって……。」

「ううん。元々、ゆいのために持ってきたようなもんだから、ゆいが使うのは良いんだけど。」

 ……浮き輪を私のために持ってきたとはどういうことだ。

 まさか、いつもの思わせぶりにしてくるあれだろうか。勘違いして顔を赤くした私をすごく嬉しそうに見てくるあれ。私をおちょくりたいのか? 蓮は自分の発言、一挙手一投足がどんな影響を与えるのかよく理解していると思う。

 それともあれだろうか。

「私カナヅチじゃないよ?」

「……そうくるか。」

「? どういうこと?」

「いや、なんでもない。そういえば、ゆいは脱がないの?」

 急に話の流れを変えられた。なんで私の水着を突っ込むのだろう、放っておけばいいのに。

「へっ! あ、いや。今さら脱いでもだし……。」

「ゆいの見てみたい。」

 …………そんなにすっぱり言われても。

 沙希や他の女の子には勝てない。主に露出度と身体の凸凹で。目の保養目的ならそこら中にあるというのに、何故に私なのだ。

「ただのセット水着だよ。」

「ゆいならそうだと思った。恥ずかしがり屋さんだしね。でも、ゆいのも見てみたいなって。だめ?」

 これ以上拒否すると、とんでもない自意識過剰な女になってしまう。

「……暑いから脱ぐ。」

 いやいや脱いだ。水色と白色が基調となった水着は涼し気だと思って選んだものだ。

 じろじろと見られている。舐めるようにとは云わないが、なんだろう居心地が悪い。恥ずかしい。

「やっぱり細いね。いや想像より細いかも。」

「蓮くんは何をしたかったの?」

「あさって話すね。」

「え、あさって? 今じゃ駄目なの?」

「うん。あ、木下さん呼んでる。行こっか」

 なんだか、ものすごく有耶無耶にされてしまった感がある。

 でも、あさって話す、ということは何かサプライズを企画しているのかもしれない。

(私、最近なにかあったかな? 祝ってもらえるようなこと……。)

 全く思いつかない。なんだろう。



 二日目――。


 前日は川遊びだけで疲れてしまい、早々に宿へ引き上げたこともあり、体力は回復していた。

 今日は前日に行く予定だった道の駅に行ってから記念館へ行くこととなった。

 まだ、知らない道でドライブを楽しめる領域ではないので運転はかなり緊張してしまう。

 恐怖の中(私だけ)ようやく辿り着いた道の駅で、まず少し早めではあるがご当地ならではの昼食を食べた。

 次に紙すき体験をしたのだが、私だけ酷い仕上がりになってしまった。どうして皆はあんなに巧いのだろう。職員の人も三人を褒めていた。そして私を「大抵の人はそんなもの」と慰めてくれた。

 その後、お土産を軽く買って幕末の志士の記念館へと向かう。

 記念館では、やっぱりというか男二人はじっくりと見ているようだった。私も幕末という動乱の時代に生きた志士に興味はあったので、じっくり見るために四人ばらばらになって見ようということになった。

 すべて見終わった私が待ち合わせた場所に行くとそこには沙希だけで、他の男二人はいない。

「え、ゆい一人?」

 沙希に駆け寄ると、驚いた顔でそう言われた。

「そうだよ? どうかしたの?」

「てっきり水川と一緒かと思った。」

「私と蓮くんセットじゃないよ。」

「あいつ、忌々しいくらいゆいにくっついてるから、一緒かと。」

 沙希の顔は、嫌いなものを食べた時のような表情になってしまっている。

「相変わらずだね。」

「今までゆいの隣はあたしだったのに。あいつ許さん。」

「あはは。どうして私と一緒にいるんだろうね。」

「……ふ、そうだね。ざまぁ水川。」


 四人が合流して、私たちは記念館を後にした。

 明日はもう帰るだけだ。



 三日目――。


 旅を共にしたレンタカーに別れを告げ、空港でお土産を物色する皆を私は座って待っていた。

 やはり、座ってしまうと眠くなってしまうもので、こっくりこっくりと船を漕いでいた。

 あと少しで寝てしまうというところで、隣に人が座った気配がする。私の意識がほんの少し浮上する。

(隣、さっきまで沙希ちゃんが座ってたけど……。しょうがないよね。)

 後で皆で移動すればいい。と思ってまた意識を沈めようとしたがその前に不快な感覚がして目が覚めた。ぱちりと目を開けた私の右隣には如何にも『普通のサラリーマン』といった風体の男性。

 しかし、『普通のサラリーマン』は、私の太ももを触っていた。

 あまりにも突然のことで反応が出来ない。今、私は短いスカートを身に着けているわけでもなく、膝下丈のスカートを着ている。柔らかめの素材とはいえ、服の上から触るというのは何か意味があるのだろうか。

 私が痴漢なら、生足が触れそうな相手を選ぶと思うのだが。

 だが、私と男性が座っているところは死角といえば死角になっている。そこは選んでいるのかと思った。

「あの……。やめてください。」

 私が声をかけると男性はびくっと肩を跳ねさせて私を見た。

「い、今なら何もなかった事にするので、もうすぐ友人たちも来ますし……。」

「…………。」

 被害届というのは時間がどうしてもかかる。痴漢にあった人のほとんどが被害届を出さない意味が、以前の件で理解できてしまった。

 そして何より早く家に帰りたいという思いで私はそう言った。被害届を出していて飛行機に間に合わないなんて、沙希たちに迷惑をかけてしまう。それは嫌だった。

「……はぁ。」

 男性は溜息を一つ吐いて、どこかへと歩いて行ってくれた。

(こんなところで痴漢する人なんているんだ。大人しそうに見えるのかな私。)

 今まで電車を使ってもされたことはない。基本、沙希と一緒に利用することが多く、混雑していたら沙希が庇ってくれていた。本当に彼女は格好いい。人に守ってもらえていたから被害に遭わなくて済んでいたようだ。

「ゆい?」

 ぼーっと、男性の消えた方向を見ていたから、蓮が帰って来ていたのに気が付かなかった。

「蓮くん。沙希ちゃんと小倉くんは?」

「まだ決めかねてるみたい。二人があんなに悩むって知ってたら、もっと早く出たのに。」

「そうだね。」

 そろそろ保安検査場に向かいたい時間だ。時間やばくなったら置いて行こう、と言う蓮の言葉にくすりと笑う。

 しかし、次に発した一言に私は固まってしまった。

「さっき、誰かと話してたけど知り合い?」

「うっ、えっと。トイレ探してたみたいだよ。」

 そうだ。蓮が私に声をかけたタイミング的にも男性に気付かないのはおかしい。いくら死角とはいえ、触られていることは見えなくても、存在に気付くのは当たり前だろう。

 とっさにでた言い訳は、小学生が考えた方がましというものだった。

「ゆい。こういう施設でトイレを探すなら看板探せばいいだけだから。……何かあった?」

「何も……ないよ?」

「嘘、何かされたなら教えて。」

「ほんとに何もないから。」

 痴漢に遭遇したら恐怖を感じてしまうと思っていたが、想像より平気だった。怖くはあったが、蓮にしろ沙希にしろ誰かが必ず帰ってくるということが分かっていたから。

 もし、男性にどこかへ連れ出そうとされても、土産を物色する皆とたまに目が合っていたから、私に何かあればすぐに気付いてくれると信じられた。だから、高校時代のあの時より怖くなかったのだ。声をだしても逆上されなかったから、というのもあるだろう。

「そっか。でも少し震えてるね。」

「え? ほんとだ。」

 指摘されて、ほんの少しだけ自分が震えていることに気付いた。私は少し怖いくらいだったのに、身体は素直に反応している。ちょっと心が鈍くなっているのかもしれない。

「なんかね。うとうとしてたら隣に人が座って、その人が私の足を触ってたの。それだけ。」

 事実を淡々と、を心がけて言った。感情を挟むと震えが酷くなりそうな気がして。

「それだけって。……誰?」

「普通の人だったよ。でも早く帰りたいから探さなくていいよ。」

 私はとにかく早く家に帰りたかった。親しい人との旅とはいえ、やはり疲れる。

「……でも。」

「危害を加えられたわけでもないから。大丈夫。」

 本当ならきちんと警察に突き出すのが一番だろう。あの男性のためにも。だが、私は早く帰りたい。

 気持ちが伝わったのか、蓮は渋々頷いてくれた。

「……分かった。でも、ゆいの震えが止まるまでは、手握らせて? 俺が怖くなければだけど。」

 未だ小刻みに震えている私を見かねて提案してくれた。蓮にとっては子供を宥めるようなものだろう。この数年で私は『ズルさ』を手に入れた。だから、恐る恐る蓮が差しだした手の平に自分の手を重ねる。

「あ、ありがとう。その……お言葉に甘えて。皆が来るまで、お願いします。」

「うん。」

 ぎゅっと握られた手に力を込めてみると、震えが少し収まった気がした。


 ――一体、いつまで蓮の近くに居られるのだろうか。彼がこうして手を差し伸べてくれるのはいつまでなのだろう。こんなにどっぷり浸かってしまう前に離れないといけなかったのに。



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 空港に着いて、疲れがどっと襲ってきた。帰りもまた蓮の隣だったが、察しの良い沙希には私の様子がおかしいことに気付いてしまいそうだったから、蓮が隣で良かったと心底思った。

「じゃあ、ここで解散ってことで。」

 空港のロビーで小倉が言った。皆かなり疲れた顔をしている。

「写真のデータ、後で送って。あたしのも送るから。」

「へーい。じゃあな!」

 まず、昼から友人と約束があるらしい小倉が帰って行った。それを三人で見送ってから、沙希が私を見た。

「ゆいはお母さん?」

「ううん。自力で帰るよ。」

「まっすぐ帰るなら弟が迎えに来てるから一緒に帰る?」

「いいの?」

「もちろん! ゆいならいくらでも! そっちの奴は自力で帰れよ。」

 そっちのやつ、と言われた蓮は口元こそ笑みの形になっているが、目は笑っていない。

「沙希ちゃん……。」

「木下さん、俺ゆいに話があるから。ゆいは置いてってくれるかな?」

 なんだろう。沙希と蓮に挟まれている私は呼吸がしづらい。どうしてこんなに空気が張りつめているのだろう。

「はあ? ゆいは疲れてんの。あんたと違って繊細なの。話なら今度にしな。」

「沙希ちゃん、私は大丈夫だから。そんなに繊細じゃないよ。」

 沙希の中の私のイメージはどうなっているのだろうか。

 ちらと蓮の様子を窺うと、余裕のなさそうな、焦っているような顔をしていた。深刻な相談事かもしれない。

「今日は蓮くんと一緒に帰るよ。なんだか深刻そうだし。ごめんね。誘ってくれたのに。」

「ゆいがそう言うなら……。」

 沙希は不安そうに、私たちが見えなくなるまで何度も振り返りながら歩いて行った。

「とりあえず、移動しよっか。ここ人が多いし。」

「うん。」

 蓮に促されて私は空港を出た。珍しく蓮は無言で駅に向かうバスへと乗り込んで、私も静かに後を追う。

 ここまで蓮が苦悩している事を私に解決できるとは思えない。

 駅に着いて、しばらく歩いて蓮は喫茶店に入っていった。古き良きといった感じの喫茶店だ。店内に入るとちょうど空いている時間なのか、私たちの他に二組くらいしかお客さんがいなかった。

 それぞれ蓮はコーヒー私はオレンジジュースを頼む。注文した飲み物がくると、蓮はようやく口を開いた。

「ごめん。疲れてるところを連れまわして。」

「私は大丈夫。それより蓮くんがそんな顔してる方が心配になっちゃうよ。なにかあったの?」

「うーん。何かはないんだけど、いい加減ヘタレを卒業したくて。」

「え、あ、そうなんだ。」


「俺、高校の時からゆいのことが好きなんだ。」


「そうな……えっ?」

 いつものように相槌を打とうとして、蓮の言葉の意味を理解する。

 なんだろう。気のせいだろうか。こんな夢が現実になったかのような現実いまは。

「本当は……初めてゆいとデートした日に言いたかったけど、その時ゆいが俺のこと異性として意識してないことに気付いて……。もっと仲良くなったらって、今日まで引きずってた。旅行中に告白しようとも思ったんだけど、逃げ場のないところでったら、ゆいが怖がるかと思って今日告白しようと決めたんだ。」

 蓮の言った『初めてのデート』が高校二年生の時のことを指すなら、私はその頃とっくに蓮のことを好きだった。どうして意識されてないと蓮は思ったのだろう。私は自分が思っている以上にポーカーフェイスらしい。

 からかわれている、と私が感じたことは勘違いではなくて、本当のことだった。ひねくれた私が「私なんて」と自分を卑下しすぎて、防御してしまったせいで蓮は一歩を踏み出せなかったのだろう。彼は優しいから私が困ってしまうようなことをできない。

 旅行中に告白をしたかったのが本音だろうが、私が逃げられるように帰ってから言ってくれた。

 どうしてもっと早く気が付かなかったのだろう。私が考えている以上に蓮は私のことを思ってくれていたのに。

「高一の体育祭でゆいのこと知って、通学の時によく見かけてた子がゆいだって知って。そのころからずっと好きで、あの事件からゆいと一緒に帰れるようになって嬉しかった。ゆいが傷ついた事件を利用して強引に近付いた最低野郎だけど、他の誰にも負けないくらいゆいのことが好きなんだ。だから、俺と付き合ってください。」

 告白している間、蓮は私から視線を逸らさなかった。真剣に私だけを見つめていた。

 こんな告白をされて、「いいえ」と云える人がいるのだろうか。

 しかも、高校一年生から私のことが好きということは、私よりも片想いが一年多い。

 私は自分の手の甲を抓ってみた。今が本当に現実なのか確かめるために。


「私も、あなたのことが……ずっと好きでした。」



 ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇



 長いと思っていた夏休みはあっという間に終わりが近付いて、蓮はもうすぐ大学に帰ってしまう。

 蓮の想いは私以外の皆知っていたらしくて、ものすごく申し訳ない気分になった。

 夏休みの間、蓮と色んな所に遊びに行った。ショッピングモールだったり、植物公園だったり、定番の海や花火大会(混雑していない所から見た)、水族館も二人で行った。

 そういえば海に行った時に、旅行のときのことを思い出して蓮に聞いてみた。

『あの時、結局なにがしたかったの?』

『ゆいの水着姿を見るために計画立てた感もあるから、見ないと帰れないよ。』

『……えっと。私ビキニじゃなかったよね?』

『ビキニじゃなくても問題ない。『ゆいの水着姿』に価値がある。それに、ゆいの身体を他の男が見るとか我慢ならないし、俺はセットの水着を選ぶゆいの恥ずかしがり屋なところが可愛くて、たまらないんだ。勝負ごとになると強気になるところも好きだけど。それに、』

『もう! いいから! もう何も言わないで恥ずかしい……。』

 最終的に、他人ひとが大勢いるビーチであんなことを言ってくれたおかげで、恥ずかしい思いをした。イケメンが私レベルの女に甘い言葉を吐いてくれると、あんなにも好奇の視線を集めるらしい。

 旅行でも思ったが、蓮は顔だけでなく身体つきも良い。こんな良い男と歩くと、道行く人の『釣り合ってない』という視線が痛い今日この頃だ。

 本日は蓮に誘われて、彼の家にお邪魔することになった。しかも『今日は親の帰りが遅くなる』の一言も付いていた。

 交際を始めておよそ一か月。そろそろかと、耳年増な私は少しずつ覚悟は決めていた。だが、しかし残念なことにヤツがきてしまった。これでは戦いに挑めない。ということで固めた覚悟はその辺に放り投げてから、私は蓮の家のインターフォンを押した。


「適当に寛いでて、飲み物持ってくるね。」

 そう言って、蓮は部屋を出て行った。一人残された私は、通された蓮の部屋を見回す。

 思っていたより物がない。勉強机とベットがある以外はあまり物がない。あっちに持って行っているのだろうか。

(ベット……。いつかは、だよね。)

 今日はどうやっても不可能だからとゆいには余裕が生まれている。

「ゆい。寛いでてって言ったのに。ほら座って。」

 戻って来た蓮に座布団を指されて私はその上に座った。目の前に飲み物の乗ったお盆が置かれる。

「いただきま……蓮くん何してるの?」

 お茶を飲もうとした私は、背中に重みを感じて後ろを見た。

「嫌?」

 答える代わりに、私はお腹に回された蓮の手に自分の手を重ねる。すると、蓮が嬉しそうな顔をして首筋にキスをした。それがくすぐったくて私は首を竦める。

 最初の頃こそ恥ずかしくて堪らなかった触れ合いも、今では蓮にすっかり慣らされてしまった。だから今日はぺろりと食べられてしまうのかと思っていた。諸事情により不可だが。

 何気ない会話をして、たまにキスをして恋人らしい時間を過ごした。とはいえ、愛し合っている男女が同じ部屋にいてそんな空気にならないのはおかしいというもので――。

 まあ、今日は不可だと私が先に言っていれば良かったのだろう。言い忘れたと思ったのは、キスがどんどん深くなって胸元に手を滑らされた時だった。

「あっ、ねぇ! ちょっ…んっ待って!」

「……なんで?」

 若干、蓮が泣きそうな顔をしている。いじめるつもりはないのだが、やっぱり先に言っておくべきだったと反省する。上げて落とすような真似をしてしまった。

「ごめんね。今日は無理だよ。あの……あれだから。また今度、ね?」

 嫌なわけではないと、視線に込めて訴える。長年想った相手が嫌なわけがない。

「ぎりぎり間に合わなかったか……。」

 ……なんだろう。気のせいか? 聞き捨てならない一言のような気がした。

 まさか――。蓮は私の周期を把握しているのだろうか。

「どういうこと……?」

「なんでもないよ。それなら、いっぱいキスしよう。ゆいの可愛い顔見せて?」

「んっ、ふぁ……ん……。」

 なんでもないわけない。多分、蓮は把握していたのだろう。前に私が『付き合ってすぐにそういうことする人は嫌だ』と話の流れで漏らしたことがあるから、一か月を少し過ぎた今日なら私が拒絶しないと。でも、私のあれが近いから一か八かくらいの気持ちだったのだろう。そんなに大きなショックは受けていないように見える。

 とりあえず、今は気付かなかったことにしよう。

 ここ一か月で何となく分かっていた事ではないか、蓮が変態っぽいなんて。

(私、早まったかな……。)

 でも、優しい蓮も変態な蓮も私が好きな『彼』であることに変わりはない。

 こんなに私に溺れてくれているのなら、安心して愛していられる。

 蓮は私のことが大好きだから。

 弱気な私がこんなに強気に想えるのは蓮が惜しみなく愛情を流してくれるからだろう。

 まだ少し、男性に苦手意識はある。蓮と家族以外の男の人が近くに来るとかなり緊張してしまう。家族はともかくとして、蓮が私の中で最初から特別だったということだ。

 彼は、私を『怖いこと』から守ってくれる。だから、私は蓮が飽きないように自分の見た目も中身も磨いていくだけだ。私が今一番怖いのは蓮が私の前から去っていくことだ。


「蓮くん、好き。」

「うん。俺もゆいのこと大好きだよ。」


 私はキスの合間に羞恥を抑えて愛を囁く――。

 告げるつもりがなかった私だが、無意識に蓮への好意がにじみ出ていたはずだ。しかし、蓮は私の感情にいまいち確信が持てなくて踏み込んでこなかった。だから、私は素直な言葉で自分の愛を伝える。

 私の言葉で蓮が喜んでくれるのが、嬉しくてたまらないから。

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