1頁 神門練磨の書1 ――『恐怖の大王』――
……ちちち、と鳥の囀りが聴こえる。前の道をトラックが通ったのか、ぶぉーん……と排気ガスを撒き散らす音も聴こえて来て、ようやくオレはベッドの中にいる事を自覚した。
変な夢を見た……今日の夢は意外と憶えていて、頭の隅ではなく中心付近をうろついている。細部までは思い出せないが、短かったとは言え聖堂の中にいた少女の顔くらいは思い出せる。可愛かったなあ……とベッドに座り込んだままにやけていると、――ちょうど目覚まし時計が鳴り出した。ベルがうるさいから、鳴り出した瞬間、オレはリセットボタンを叩きつけ、一瞬だけ機能した時計を黙らせた。よし、今日も早起き成功、と。
んー……と体を伸ばし、ベッドから出てカーテンを開ける。……まだ高くも無い太陽が眩しく輝いて、部屋を明るく染め上げる。時刻は六時半。まだまだ朝は早い。
夏休みだからって生活のサイクルを狂わせる訳にはいかない。オレはまだ完全には醒めていないだろう頭を叩き起こすべく、部屋を出て階段を下り、洗面台へと向かった。居間を通る時に母さんを見たから、一応挨拶。
「おはよーっす」
「あら、今日は早いわね、練磨くん」
「父さんは?」
「まだ寝てるわ」
おいおい……学生より遅く起きるってどうだろう……。まあ、きっと今日は休みなんだろう。そうじゃなければ、今頃「ちち、遅刻だぁー!」とか言って階段を駆け下りて来るだろうし。
思っていると、階段の方からドタドタと壮大な騒音を踏み鳴らして親父様が駆け込んで来た。
「おはよーっす」
「ちち、遅刻だぁー! ――おう? お、早いな練磨!」
……思ったとおり遅刻かい。それにしても……誰もオレに挨拶を返してくれないって……オレは少し悲しいぞ……。
まあ父さんは慌てまくってて、それどころじゃないみたいだけど。居間に飛び込んでいくのを見届けて、オレは洗面台の前に立って蛇口を捻る。冷たい水が流れ出し、それを顔面に叩きつける。――うし、気合が入ったな!
「母さん、どうして起こしてくれなかったんだっ!?」
居間から父さんの喚き声が聴こえて来て、オレはタオルで顔面を拭きながら居間へと戻って来た。父さんがパンを三口で口の中に納めていた。……器用な親父様だ。ってか、どんな親だよ、こんな子供みたいな事言うなんて。
「あら〜? 私はちゃんと起こしてあげたはずよ〜?」
母さんは母さんで、のんび〜りと台所でまな板と包丁で遊んでいる。何を料理しているのか分からないけれど、できれば食べ物であってほしいとオレは切に願う。
「ちゃんと起こしてないじゃないかっ!? 今日も遅刻寸前だよっ?」
「あらあら。私はちゃ〜んと目覚めのキッスで起こしたはずなのに♪」
「母さん……もうそんな歳じゃないだろ……お願いだから止めてくれよ、朝からそんな気が遠くなりそうな会話はさ……」
オレがゲンナリしたまま席に着くと、父さんが妙に満足気に頬を緩ませていた。
「なんだぁ〜、母さん、それを先に言ってくれないと♪ お父さん、もう元気一杯、胸一杯さ♪」
「……」
親父殿……オレはあと十秒もここにいたら灰になりそうだよ……
元気一杯ならとっとと会社に行けよ、と突っ込もうかとも思ったけど、何だかそんな気力さえなくなったので、静かに料理が出て来るのを待つ事にした。
「母さーん。今日の朝飯は何?」
「今日はお米にしようかしら」
「お米って……ご飯だけ? 今日の朝飯は米だけなのッ?」
さっきから何を作っているのかと期待していたのに……米だけってどうだろう。そんなの、料理じゃない……せめてレンジで冷凍のものでもいいから作ってくれよ……
「そんな訳無いでしょう? ちゃんとお箸も用意しとくから♪」
「お箸は料理じゃありませんっ! それともお箸を食べさせる気っ!?」
「あらいやだ。お箸が切れちゃった」
「どういう状況だ、それはッ!?」
「落ち着け練磨」
父さんが遅刻寸前の割には落ち着いて新聞を広げてる。皿の上に載っているトースト二枚は、イチゴジャムでベトベトになっている。……いや、もうベトベトって状態じゃないな。トースト1に対してイチゴジャム3の割合だ。……どこを掴んで食べるのか見物ではあるな。
「父さんは早く会社に行けよ。遅刻寸前じゃなかったのかよ?」
「父さんに出て行けと、そう言うのか練磨ッ!?」
「いや……何もそこまで言ってな……」
「父さんはそんな子に育てた覚えはありませんっ」
……どうしよう。父さんに殺意を覚えたよ……
無視して捨て置くべきか悩んだけれど、まあそんな事すると何言われるか分からないし、オレは母さんが持って来たマグカップを掴んで、ブラックコーヒーを一口、口に運んだ。カフェインが頭をスッキリさせる。
「てか、本気でそんなに落ち着いてていいのか、父さん?」
「うむ。男とは常に冷静沈着でいる事が大事なのだぞ、練磨」
……さっきまで慌てふためいていたのは、どこのどいつだ。
「はい、練磨も早く食べなさい。崇華ちゃんが遊びに来るんじゃない?」
と言いつつ母さんが持って来たのは、ご飯茶碗一杯に盛られた白米と、その上に載せられた海苔が一枚。……母さん、オレは思うんだ。コーヒーを出して来て、ご飯を食べるという感覚が、オレにはイマイチ掴めないよ……これで味噌汁なんか出て来たら、リアクションに困る事、間違いなしだ。
思いつつ、口の中にコーヒーの味が残っていたけれど、渋々ご飯に手を付けようとして――箸が無い事に気づく。手が宙で止まり、そのまま所在無くフラフラと母さんの方へ向かう。
「母さーん? オレの箸が無いんだけど」
「あら、さっき言ったじゃない。お箸切れちゃったって」
「だからどんな状況だよそれはッ!? てか、その『切れた』ってのはどっちの意味? ぶった切れちゃったの、無くなっちゃったの?」
「怒ってるのよ」
「血管の方なの!?」
もうあり得ない世界だよ、ここ……母さんの頭には恐らく、春が来たんだろう。もう過ぎ去ったのに、まだ頭だけは春満開なんだろうな……
とか思いつつ、仕方なく立ち上がって、戸棚から割り箸を取り出すと、それを使って飯をかっ食らう事にした。
「いただきまーす」
「待ちなさい練磨っ」
父さんが何故かイチゴジャムを手に、オレを見て制止する。オレはご飯に手も付けず、茶碗を握り締めて、怪訝そうに父さんを見つめ返す。
「……何? てか父さん、早く仕事行けよ、もう……」
「ご飯を食べる前に、する事が在るだろう?」
何? ご飯を食べる前にする事? ……て言われても、ちゃんとご飯と百姓様に礼を言ったしな。他に何を忘れていると言うのだろう?
「手は洗ったよ、さっき」
「違う違う。ジャムを掛け忘れてる」
「ご飯にジャムは掛けませんッ!」
どんな味覚音痴だ、おまえはァァァァ! と心の中で突っ込みつつ、少し父さんから距離を取る。何せ、父さんの手にはスプーンにありったけ載せたイチゴジャムが装備されているのだから。
「ジャムは健康にいいんだぞ? このドロドロしてるのを見ろ! まるで泥水のようじゃないか!」
「例えが悪過ぎだ! 余計に食う気無くすよ! 何で泥水みたいなものをご飯にぶっ掛けて食べなきゃいけないんだ!」
「何おう!? 父さんのジャムが食えないって言うのかァァァァ!」
「テメエはさっさと会社に行けェェェェ!」
「あらあら、朝からはしゃぎ過ぎよ、皆♪」
……母さん、止める気、無いだろ。
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