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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.10 ~中二戦国覇王、五爪龍の女、新たな戦い
118/585

絶家風水の悪夢!蛟竜の不吉な影、真人、遭遇思わぬ珍客…!?

全員が集まったのは、十五分ほどした後だ。

「ようやく気が落ち着いて話す気になったか」

虎千代はそこに座る魏玲をうかがうように、ちらりと見た。

「虎千代先生たちに、改めて感謝します。本当、助かりました。ワタシ、もしかしたらあの晩、あそこで殺されるところでした」

魏玲の顔はいぜん蒼白だったが、その態度はもう、平静に戻っていた。

「薄々はお察しかと存じますが、ワタシはじめワタシの夫を名乗った魯蛟竜とその一味は、王蝉たちのような倭寇ではありません。みな、明王朝の人間です」

「大明国だと」

虎千代は訝しげに眉をひそめた。

「ご存知のように、ワタシたちの国では属国以外との交易を禁じられています。それ以外のいかなる他国人との接触も赦してはおりません。本来は許可なく外洋出たもの、死刑、とても厳しい掟なのです」

魏玲が言うのは、いわゆる海禁政策(かいきんせいさく)と言われるものだ。後年、江戸幕府を開いた徳川家康が鎖国政策の手本としたこの国禁は、許可された地域での交易以外では民間人が外国人とのいかなる接触も赦さない、と言う厳しい法律だったようだ。

日本ではすでに室町初期、足利義満(あしかがよしみつ)が時の建文帝(けんぶんてい)に願い出て、いわゆる勘合貿易(かんごうぼうえき)を博多・瀬戸内海沿岸の商人たちを潤したが、明王朝の海禁は特に日本に厳しかったとされる。理由は言うまでもなく、倭寇たちの暗躍のお蔭だ。それだけ日本と言う市場が魅力的だったのである。

明王朝はそのために沿岸施設まで強化して、民間人の交易を取り締まったのだが、国禁を犯して日本に向かう密貿易の船は毎年七十隻近くにも及んだと言う。

「いっやあ、日本お仕事いっぱい、がっちり、儲かりますにぇ!頭目、日本大好きですにぇ!」

誰も何も聞いてないのに、王蝉が言った。いや、密貿易って犯罪だよ?褒めてないから。

「明の国禁が厳しい話は、宗易殿にも聞いている。来日の目的は限られ、正式に日本に滞在を許されるは、禅坊主くらいのものであるともな」

虎千代の言う通り、日本の各大名家に招聘(しょうへい)を受け、滞在するのはほとんどが禅宗の僧侶たちだった。

つまり魏玲のような人は本来は国を出てはいけない人間なのだ。

「察するに、来日の目的はやむにやまれぬ事情あってのこと、しかもそれはよほどに重大なこと、とは思ってはいたがその、国禁をも超えることとは」

魏玲は苦痛に顔を歪め、小さく頷いた。

「虎千代先生、言う通り、そもそも、蛟竜を含めたワタシたち、太祖洪武帝(たいそこうぶてい)以来、代々選ばれ後宮にお仕えする一族です。ワタシの(はく)一族、蛟竜の魯一族はある目的のために集められた、本来は決して帝都北京(ペキン)より表に出ない一族なのです」

「なるほど、要は皇帝お抱えの秘蔵の道士たちってわけですねえ」

「正確にはそうとは言えませんが、似たようなものです」

「やっと分かりましたか皆さん。魏玲さま、それだけでも、ワタシたちには雲の上、お顔だけでも知る、もったいない人なのですにぇ。ワタシ、その魏玲さまに運命決めてもらった、これ生涯、人に自慢できるですにぇ!」

なるほど。確かに倭寇の王蝉がその命を懸けるわけだ。

倭寇たちに限らず明王朝に住まう一般庶民にしてみれば、皇帝専用に組織された人たちは、貴人とそう変わらないと言うのだ。

明時代、皇帝たちは後宮に籠り、実質政務をとったのは厳しい科挙試験を突破した宦官(かんがん)と言う高級官僚たちだった。極論を言うと皇帝は実務をしないのが尊いとされ、生涯後宮に引きこもり、なに不自由のない生活を続けたのだ。

今なお、その宮廷生活は細部まで知られていないが、皇帝の日常生活にしてもあらゆる事柄に専門の機構があり、膨大な数の人間が働いていたと言うことからですらも、その一端はうかがえる。ただ一人の人間のために、皇后、妃賓、宦官、女官、それ以外にもあらゆる夥しい人数が尽くしたのだ。

「当然、その中には表にそれと知られぬものたちも多くいます。ワタシと魯の一族は元は確かに宮廷お抱えの道家の一族でした。風水(フォンシュイ)、用いて城の造営に携わる、吉凶を占う、皇帝のお食事の支度をする、宮廷の儀礼に連なる」

「しかし、実際は違うのか」

大きく息をつくと、魏玲は何度か細かく頷いた。

「白と魯の一族、普段はそうして後宮にお仕えしています。でも、本当違う。ワタシたち、与えられた本当の役割は」

絶家(ジィエジア)

再び魏玲からその、口にするのも憚るような声音が出た。虎千代は魏玲の口にしたその二字をしたためた紙を見て雰囲気だけで不吉なものを感じたか、みるみる表情を渋くした。

「絶家は本来、道教の教えにある不吉の根源です。例えば先祖の墓陵、菩提寺、日本の方もそれぞれお持ちでしょうが、先祖の霊粗末にする、その家、運が衰えます。ワタシたち見てそれ、すぐ気づきます。墓相(ぼそう)悪い、これすごく不吉なのです」

「確かにその話、幼き頃、どこかで聞いた憶えがある」

虎千代も言ったが、これ、現代日本でも伝わっていることだ。今でも葬儀屋さんのホームページなどに行くとよく見かける墓相と言う言葉、これ道教のものだったのだ。

「風水でも、地脈途絶えた場所、絶家と言います。人の血の管と同じ。脈滞る、その場所、息が詰まって死んでしまう」

いわば土地や運の動脈硬化(どうみゃくこうか)である。風水の考えに基づけば、この世のあらゆる場所には僕たちの身体のように、大地の精気を通わせる地脈があると言うのだ。魏玲によれば、風水を司る道士たちはこの地脈の滞りを見つけ、血流を解消するようにこれを正常に戻してやるのが本来の在り方なのだと言う。

「でも逆のこと、太祖洪武帝、考えました。この絶家、利用すれば気にいらない一族、簡単に根絶やしに出来ると」

絶家を悪用する。

そうすれば暗殺、粛清を行わずに自分の意に染まないものを根絶やしに出来る。

気に入らない誰かひとりだけでなく、その一族すべてを。

なんと凄まじい考えだ。だが、大陸の皇帝の権力の途方もなさを考えれば、頷ける話ではある。


「そもそも太祖洪武帝は、紅巾(こうきん)の乱に立ち、漢の高祖(こうそ)劉邦(りゅうほう)と並び称されるお方です」

魏玲は言葉を濁したが、前漢の始祖である劉邦と並び称されるのは、この洪武帝、劉邦と同じくほとんど最下層の人間から皇帝に上り詰めたと言う、その出自にある。まさに中国下剋上の覇者なのだ。

名は朱元璋(しゅげんしょう)と言う。なんと、元々はお坊さんだった。時は十四世紀、日本で言えば鎌倉時代。この時期、世界最大の版図を誇っていたモンゴル帝国、(げん)によって漢民族をはじめとする旧来の王朝は虐げられ、その圧政に無理が生じ各地で反乱が頻発した。朱元璋はその反乱軍の一味だったのだ。

「洪武帝は南京に都を構え、蒙古から中原を取り戻した偉大なお方なのですが、帝位についてより後は、高祖に倣い、創業の功臣を誅殺することに情熱を傾けました」

いわば狡兎(こうと)死して走狗(そうく)煮らる、の言葉通り、朱元璋は権力の座に就くと、その地位を脅かされるのを嫌い、今まで頼りにしていた有力な部下に濡れ衣を着せて皆殺しにしたのである。この辺りは日本の幕府も似たようなものがあるが、朱元璋のそれは規模が違う。

「もっとも悪名高いのは、胡藍(こらん)の獄と称する二度の疑獄ですが、これによって開国以来の功臣はすべて葬られたと言われます」

しかしそれ以外にも、朱元璋は数千人規模の人間を殺し、一族を根絶やしにしている。そのうちには、自分を「坊主上がりだと陰口をきいた」と言うほとんど言いがかりなものから、お坊さんを連想する「禿(はげ)」「光」などの名字を持つ一族、または中国音でそれに近い音を持つ一族まで問答無用で粛清したと言うものまであり、あらゆるスケールで桁違いさを感じさせる。

「処刑、暗殺、毒殺…あらゆる手段を太祖は駆使したとされます。ワタシたち、白と魯の一族は太祖に命じられるまま、道家の教えを逆手にとり、ついには絶家の術を完成させたと聞いています。我らはこれを称して絶家風水ジィエジアフォンシュイとしました」

絶家風水。

なんて危険な言葉が出て来たのだ。魏玲が持つ道家の術法はなんと明の皇帝が家を滅ぼすだけじゃなく、一族を根絶やしにするべく考えられた、最も恐るべき術だったのだ。

「その白と魯家、つまりはその絶家風水なる技を競う間柄か」

(ドェ)(はい)。白と魯は競い合い、技を磨き、お互いの血を深めていきました」

「そうなのですにぇ!白一族の中でも、魏玲さまはすごいのですにぇ!白では千人近い道士になる子息令嬢がいるのですが、魏玲さまはその中からただ一人、しかも若くしてぶっちぎりで選ばれたお方なのですにぇ!マジ神なのですにぇ!」

外野うるさい。

だが驚いた。僕の目の前にいる魏玲は確かに、国一国に値する選びに選び抜かれた人なのだ。さすが信長、またとんでもない人を見つけてしまったものだ。

「途方もない話だが、理解はした。では、あの魯、と言うのがお前の伴侶と言うのも、本当のことなのか?」

魏玲は悲しそうに、頷いた。

「白と魯、確かに婚姻して血を絶やさぬよう、間柄を深めてきました。特に次の当主となる、ワタシと蛟竜は夫婦になる、そのはずでした」

要は、許嫁(いいなずけ)か。蛟竜と言う男の話していたことも、あながち間違いではなかったのである。

「つまりだ。あやつは魏玲の夫でも何でもにゃあのだわ。そうであろう、真人」

信長が僕を肘で突っつく。いやそうだけどさ。お前、あんま変な期待しない方がいいんじゃないの?

「蛟竜はワタシの八歳年上、魯家の当主に抜擢されましたが、悲しいことに、今は一族の間であまり評判がよくありません。幼い頃はよく、遊んでもらったのですが」

「さしずめ、その男のせいで、贄姫の首を持って来ねばならぬ羽目になったのであろうからな」

魏玲は黙って頷いた。そのとき期するものがあったのか、こくり、とその白い咽喉が強く動いた。

「虎千代先生からすれば勝手な事情、分かっています。しかし、ワタシも命が懸っています。ワタシだけではありません。疑獄によって、拘禁された白一族、ワタシが戻らなければ皆、殺されます」


白一族が呪いによって、皇帝暗殺を企てている。

その疑いが浮上し、魏玲の一族が逮捕されたのはまさに、寝耳に水の事件だったと言う。

「見ろ」

それは、後宮に飾られる無数の官窯の甕の中に潜んでいた。

皇帝の病死を願う、呪紋の書かれた陶片である。

魏玲の目の前で、それは割り砕かれ、白日の下に晒された。

「それを見つけたと言ったのは、蛟竜でした」

しかも蛟竜はそのときすでに、呪いをかけた犯人も逮捕して、王朝に引き渡していたらしい。

「それは、用意周到な話だな」

即座に陰謀の腐臭を嗅ぎつけた虎千代に、魏玲も苦しげ顔で頷く。

「その男はかなり以前に白家を追い出された人間で、蛟竜に金でそそのかされたようなのです」

獄に投じられたその男は、そこでようやく蛟竜に騙されたことを知り、魏玲に悪謀の真相を白状したのだが、それこそ後の祭りだ。

「明では一族は連罪、まして帝の暗殺を企てたとなればワタシの家族も含め、一族の極刑は免れません」

魏玲も死を覚悟したと言う。

しかしある日のことだ。

「話がある」

突然、魏玲だけが一人、獄舎から出された。

そしてなんと。

縄を打たれ引き立てられた魏玲の前に現れたのは、不気味な笑みを浮かべた蛟竜だった。


「不老不死の薬を作れば、一族ともども特赦を与える」

蛟竜は皇帝の命を魏玲に伝えた。

「不老不死の薬?」

訝る魏玲に畳みかけるように、蛟竜は言った。

「お前は、日本へ行くんだ。聞いたことがあるはずだ。日本国には古来、不死の薬があるはずだと」

日本には不死の薬がある、と古来、大陸では信じられてきたらしい。

例えば中国で初めて統一国家を打ち立てた秦の始皇帝は、徐福と言う道士に、日本でその霊薬を探せと命じている。また『竹取物語』では、『不死(ふじ)』すなわち富士の山で、かぐや姫の不死の霊薬を焼き捨てた、と言う言い伝えがある。

もちろん、蛟竜が言うのは上古のお伽噺である。

「それでも蛟竜は日本で不死の薬、探せと言うんです」

こんな話以外には、魏玲にはなんの手がかりも与えられなかった。どれほど無謀すぎる話なんだ。

「ワタシは途方に暮れました。しかし、行かなければ一族はワタシのために殺されてしまいます」

そこで仕方なく、魏玲は日本行きを決心したと言う。

「逃げられると思うなよ」

蛟竜は言った。それは許嫁とは思えないような冷たい口調だった。

「お前はどこまで行っても帝のものだ。しばらくしたら俺も行く。まずはそれまでに、不死の薬を探せ。状況次第では、お前をその場で殺して持ち帰ることになるから覚悟しておけ」


魏玲はそこまで話すと、本当に苦しげに息をついた。そして華奢な手のひらで、汗の浮いたその首筋の龍を撫でた。

「その刺青は、まさかそのときに入れられたものか?」

虎千代の問いに、魏玲は目を伏せて頷いた。

「この刺青ある限り、ワタシ、逃げられません。たとえ蛟竜から離れても、中原の皇帝の目が届く限り」

皇帝の所持品を現す、五爪の龍の刺青。

今そこに込められた残酷すぎる意図が分かった。

それは途方もない権力を持った明帝がつけた、魏玲自身の生殺与奪の自由を示す、不滅の奴隷印なのだ。もはや人間の扱いとは到底、言えない。

魏玲の絶望の深さ。恐ろしい運命を、その細い身体に背負わされた悲しみ。

それは僕たちには、想像もつかないほどに大きいものだったのだ。


「ふん、何かと思えば、性懲りもなく不老不死を狙うものどもか」

話を聞いた虎千代は、腹立たしげに吐き捨てた。

「言っておくが、贄姫の首にかような霊験はないぞ。さらに言えば不死の薬、そのようなものも、もはやこの世には存在しない。すでに過去のものだ」

「その通りですよ。あのようなものはもはや口にするだけでも、ただおぞましいものなのですからねえ」

ビダルの事件後、黒姫たち軒猿衆はラウラの助けを得て、絶息丸が存在した証をあらゆる面で根絶したと言う。それは文献資料は当然として、製造に関わった施設まで完膚無きまでに破棄・破壊すると言った徹底ぶりで、この期に及んでは唯一、絶息丸の全貌を知る黒姫ですら、再現は不可能、と断じることが出来るほどに、抹消が完了しているのだ。

「皆さんばかりでなく、贄姫様と言うお方の御霊、辱めるような真似をして、本当に申し訳ありませんでした。贄姫様の首は、虎千代先生にお返しします。ご迷惑をおかけしました」

「こちらはそれで落着だが魏玲、お前はどうするのだ。不死の薬がなければ、お前もお前の一族も一巻の終わりではないか」

「いえ、実はそうではないのです」

魏玲は瞳を閉じて何かを噛みしめるような表情をすると、かすかにかぶりを振った。

「不老不死など、本当の蛟竜の目的ではありません。あの悪鬼の目的はもっと別な、口にするも憚る、ただおぞましいもの」

不吉。

その言葉のさらに向こう側にあるものに、僕たちはすぐに遭遇することになる。


「みっ、皆さん!大変ですわっ」

青息吐息で宗易さんが僕たちのいる場所に駆け込んできたのは、その日のうちのことだった。

「どうしたのだ、宗易殿、貴殿がそれほど血相を変えるとは」

「いっ、いっ、いやあっはあっ、何と、と言うかどっからお話申し上げたがいいかっ!こっ、これがとんでもない事態なんですわ」


事件はすぐに、五星屋で起きた。僕たちがラウラが用意してくれた隠れ家に駆け込んだ、その日の朝だ。五星屋は誰の目にも真っ先につく大店だ。唐物商人たちがひしめく目貫通りにあり、隣接するその屋敷の生垣には花見月の並木や見事な蘇鉄が植えられているのが、界隈を通る人の評判になっているほどだったそうだ。

もちろん唐物屋としてもその品揃えは、恐ろしく高価だが、金さえ積めば四海の畔の砂まで手に入らないものはないとも謳われるほどだった。当然、その店先には無数の使用人が朝から立ち働き、いつでも賑わっていると言うのだが。

異変に気づいたのは、港から引き揚げてきた買付担当の男だ。博多での取引を終えてほぼ半年ぶりに到着したその男は当然、荷卸しの指示が本店から来ると思って船着き場で待っていた。しかし店からは、いつになっても使いが来ない。業を煮やして使いを何度か寄越したのだがそれも、一人も帰ってこないのだ。

「何かあったのか」

五星屋の店先に立った男は、ついにその異様な光景を目の当たりにした。

なんと、店のすべての戸が開け放たれている。正式な開店時間はまだはるか先だ。その店先に雲霞のごとく、人だかりがしているのだ。その人だかりの裾を見てみると、朝から界隈にうずくまって食を乞うていた路上民たちである。

「何やお前ら、お救い小屋なら他を当たらんかい」

人波を掻き分け追い散らした男は、さらに異常な事態に気づいた。

中からやたらと胸のすくような、いい匂いがしたのだ。

(これは外海(そとうみ)の料理や)

油で上げた香ばしい肉の匂い。香辛料を使った餡やソースの堪らない匂い。

海外経験豊富な男は、すぐに気づいた。これこそは、強力な火力と油を使ってこそ醸し出せる、中華の料理の匂いだと。

(なんや朝から、ご馳走並べて酒池肉林かい)

五星屋の主人は派手好きの濫費家だが、朝から中華料理のフルコースを食べるような酔狂はさすがにしたことがない。

怪しみながらもふらふらと中へ入っていくと、男は圧倒された。

店の中の高価な皿が片っ端から引き出されている。それが片づけられた大広間にずらりと並べられ、そこに見たこともないようなご馳走が、無造作に並べられていたのだ。

(まるで話に訊く中原の皇帝の料理や)

当時皇帝の料理と言われたものは、後宮からは門外不出だ。いくら金を積んでも、これほどの豪華料理は庶民には目にすることも出来ないのだ。海外経験に聡い五星屋の買付商人ですら、見たことがない料理に思わず正気を失ったに違いない。

その量、質、そして何より大胆にして艶やか、華の極地とも言うべき盛り付け。

それはこの世の風景とは到底思えなかったと言う。

花鳥風月を自在に描いた大ぶりの白磁の甕に蓋をして、冬瓜とじっくり煮込まれたスープ。鉄鉤にかけたまま炙り焼きにし、こんがりと焦げた皮の照りまで美しい丸焼き料理。大皿にたっぷりと琥珀色に煮込まれた餡をかけた揚げ物料理。さらには香味野菜と香辛料をふんだんに効かせ、ぐらぐらと煮込んだ人が入れるほどの鉄鍋。

それらが味覚ばかりでない、あらゆる五感を鷲掴みに刺激してきた。

これは夢か。

男は使いにやった部下たちが一人として帰ってこなかった理由を身を以て知った。まるで桃源郷さながらの光景にもはや正気すら奪われ、後は理性を失った食の化け物に堕してしまったからだ。


「五星屋の主人どもは、その場にいなかったか」

「いやその、主人だけではありませぬのや。主人の家族は子供に至るまで、番頭、手代の小僧、小間使いの女子まで」

綺麗さっぱり、どこかへ消えてしまったのだと言う。

買付商の男が、そのことに気づいたときには、屋敷の大広間いっぱいに用意された料理のほとんどが、食べ尽くされてしまった後だった。

「異変を受けて、会合衆手分けして五星屋の姿を探しましたのですが、やはり消息は掴めないとのことで」

突然、もぬけの殻になってしまった五星屋に、人々は唖然とするばかりであったと言うのだ。

「不思議なのは、誰も食うあてもないご馳走が、もう山のように設けられていたことですわ」

宗易さんが手を大振りに振って、まくしてるのも無理はない。

無人になった部屋の戸締りはすべて開け放たれ、どこからでも用意された料理の山が見えるようになっていたと言う。まるで誰でも、食べたい人間は歓迎する、とでも言うかのように。

「駄目!それ、アナタ駄目!」

魏玲が突然、魂切るような悲鳴を上げた。

「なっ、なっ、なんのことです?」

「まさか!アナタそれ、食べましたか!?」

僕たちの話を立ち聞きして、魏玲は一気に顔色を喪った。すごい剣幕だった。宗易さんに思わず問いただした、その顔は恐怖に引き攣って強張っていた。

「いや、私が聞いたのは、喰うた奴の話ばかりですわ。その男が言うようにそんな有様ですから、我らが来た時には我先にと人が群がってしまい空っぽの皿や鍋しかなくて」

「おっ、おいっ」

へなへなと、魏玲が腰砕けに倒れこみそうになったのはそのときだ。僕と虎千代で、思わず気が遠くなりかけた魏玲をあわてて支えて、介抱しなくてはならなかった。

「食べてはいけません。それ、絶対口をつけたら駄目」

魏玲は息も絶え絶えになりながら、僕たちに訴えたのだ。

「蛟竜たちの仕業です」


魏玲の訴えで現場調査を終えた黒姫が、虎千代の元に帰ってきたのは、それから一刻ほど後のことだ。

「魏玲さんの言う通りですよ。消えた人数分の五星屋の骨、屋敷の内に掘られた穴の中から、見つかりましたです」

かなりのむごいことにも慣れた黒姫もまた、魏玲と同じ、汚わいを被ったような顔つきになっていた。

驚くことに五星屋の一家は、一夜にして魯蛟竜に皆殺しにされたのだ。

「骨は続々と出てきましたが、人数が揃ったのは頭蓋骨ばかりで。頭以外はほとんど、揃いませんでしたですよ」

人骨を発見すると、黒姫は宗易さんをはじめとした会合衆の私警団に後を託すと、その足で急ぎ戻ってきたのだった。

「食べてはならぬ、と言ったな。その蛟竜が作った料理を」

虎千代が、魏玲に問いかける目はすでに無惨なものになっている。

想肉(シャンロー)

こみ上げるえづきに涙目になりながらも魏玲は、それを言った。

「中原では、人の肉のことを指します」

人肉食。

どこかで聞いたことはあった。いつか歴史に詳しい相談役からも、その手の話を聞いたことがある。

例えば唐代、だから日本で言う上古の時代は、人肉は、両脚羊、二本足の羊と称して、市場に普通に売られていることもあったのだと言う。しばしば『西遊記』などには、人を喰う妖怪の話が出てくるが、玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)のように旅する人たちを殺して、食用に加工することを生業にしていた人もいたらしい。

おぞましい話だが、中国史に限ったことではない。慢性的な飢饉難に見舞われた世界にはしばしば、その習慣の横行した記録が登場する。いわば最後の救難食である。

人相食(ひとあいは)むか。確かに、本邦でも飢饉の折にはよく聞く話ではあるが」

「中原では、それとは別の意味合いもあります。古来から王朝では憎い敵、食べる、殺した相手に与える最大の屈辱なのです」

確かに王朝の歴史には、憎い相手を殺して(あつもの)(煮物)や肉醤(にくびしお)(塩辛のようなもの)にして食べた、と言うとんでもない記録が存在したりする。

「だがこの一晩で五星屋一家全員、残らず料理してしまうなんて信じられないですよ」

人骨発見の現場に立ち会った黒姫は、蒼い顔をしていた。さすがの黒姫もそのすさまじさに圧倒され、毒気を抜かれたのだろう。

「魯家は、絶家風水を料理でものにしてきた一族でした。普段は厨房に入らず、帝が暗に望まれた特別なときにのみ、腕を奮います」

魯一族の料理はまさに、人間の運命を変える料理だと言う。

絶家菜(ジィエジアツァイ)

この世で最も不吉なご馳走を、魏玲は母国の言葉で表現した。


魯家の料理は、人間を丸ごとこの世から消してしまう。

遺るのはただ、頭蓋骨一つばかりだと言う。

「魯家は絶家行う家の主人、招待するときその家の子供を(さら)います」

そうして主人が客と歓談しているそのうちに、跡形もなく料理にしてしまうのだ。

食事の後、盆に捧げられた頭蓋骨を見せられて客は、自分が知らぬ間にどれほど恐ろしいことをしてしまったかを悟ると言う。

「絶家菜の招待を受けたもの、その場で息が絶える、と言います。そしてそのまま呪いで一族も絶えることになります」

無理もない。知らないうちに、自分で自分の子を喰わされたのだ。それは自ら自分の一族の未来を断つ、と言うことそのものだけでは済まされない。

「蛟竜は当主に就くため、この料理、魯家の長老たちの目の前で作ってみせたと言います。あの男はそのときの材料に、あろうことか自分の身内を使ったのです」

魏玲は白い咽喉を引き攣らせると、そこにいない蛟竜を糾弾するように言った。

「自分の妹を」

そこまで話すと魏玲は、そこで限界が来たのか、喘ぐようにして気が絶えた。


魏玲はそのまま体調を崩し、王蝉に介抱されながら部屋に戻るともう出てこなかった。後にはかつてないおぞましい相手に、顔色を喪った僕たちが残された。

「まさに猖獗(しょうけつ)きわまる相手よ」

最初にやっと口を開いたのは、虎千代だった。

「魏玲がああなるのも無理はあるまい。自分の命と一族の命運を、そんな男に握られているのだからな」

僕たちはそれ以上、言葉も出なかった。


に、してもそこまで話しつくした魏玲がまだ言い残したことがある。

「不老不死など、蛟竜の本当の目的ではありません」

魏玲は確かに言った。話しぶりでは、蛟竜の本当の目的は贄姫の首などではないようだ。黒姫の話では現場には完璧に整えられた料理以外には、蛟竜側からのメッセージを思わせる痕跡は見られなかった、と言う。蛟竜はあれを僕たちへの脅迫を目的にしてみせたのかも知れないが、それにしても向こうから僕たちへ明確な要求や脅迫がなかったことが、かえって不気味だ。

いや、こう言い換えるのが適切か。

蛟竜は、魏玲に何をさせたいのか。

国禁を犯させてまで、日本で不老不死の薬を探させたのにそれが本当の理由ではないのだ。魏玲はそれを僕たちにまだ隠している。恐らくそれがあれほどまでに魏玲を恐怖で打ちのめしている本当の理由なのだ。


こんなことがあったのに、大坂湾(ちぬのうみ)は、今日も穏やかに暮れていく。春になりたての淡い光が夕暮れの切迫感を帯びて海の色を変えていくまで、僕は縁側に出てそれを眺めていた。

まだ冷たい海風がしきりに渡って僕の髪を嬲っていた。

魏玲があの様子で、僕の目には、虎千代自身も今は方途を喪っているように思えた。まだ魏玲からは全貌を聴けていない気がするが、彼女を守って戦う、と言う目的を達するとするならば相手は明王朝と言う、想像もつかない巨大な存在になる。

「話を聞くに、では蛟竜を斬ればよい、と言う話ではなさそうだからな」

僕は虎千代の、どこか浮かない顔を思い出す。信長にいたっては、

「ふっ、ふん!そのような呪い師が作るへぼ料理など、怖くにゃあわ!くっ、くそだわけだぎゃ!わ、我を見くびるでない」

と叫ぶと、気分が悪くなったのか、しばらくどこかに行ってしまった。ラウラについていってもらったのだが、一心不乱に鉄砲を撃ってたみたいだ。あいつも子供だ。大人になって、まさか自分が人の頭蓋骨で盃を造るような人間に育つとは、夢にも思うまい。


夕方黒姫が、現場の後片付けを終えて宗易さんと話していた。あのとき五星屋にいた被害者の中に一人、いないと思われる人間が確かにいる、と言うのだ。

明星行だ。

あの陰陽師が助かったのは言うまでもなく、一晩中僕たちと行動を供にしていたお蔭だろうが、以降の消息は誰にも掴めないと言う。

まあ、あれほど凄腕の陰陽師だ。あの後、蛟竜の襲撃を受けたとしても、それを難なくかわしてどこかで息を潜めていると思うが。

と、僕の目の前を、白無垢の犬が通った。たぶん、野良犬だと思うが、毛並みも綺麗にした、逞しい和犬でそれがぴんと尻尾を立ててこちらを見返していたのだ。

「なんだ、やっと気づいてくれたなあ」

いっ、犬が喋ったっ?

「そう驚くな。私とお前の仲ではないか。忘れてはおるまい。私だよ。判るだろう」

「う、うん」

声は、明星行だ。信じられない。この男は毎回、どうしても僕を驚かしたいみたいだ。実際、本当に驚いたし、怖くもあったがその現実を、僕は受け入れるしかなかった。

「蛟竜の襲撃から、上手く逃げれたみたいだね」

「ああ、五星屋のことか。ざんない(無残な)ことをしたなあ。あの男も、欲を掻いてないで私の言うことに耳を貸せば、油で揚げられ食われずに済んだのに」

「…どう言うこと?」

「あやつは蛟竜に、魏玲と生ける姫の首、まとめて売ったのだ。大きな密貿易の案件を条件にな。あの蛟竜と言う男が応じるような男に見えまい。あやつの目は、曇りきっておった。もはや私が憑いたときとまるで違うなまくらよ。まあ、そう言う意味でも、ここらで潮時ではあったのだなあ」

明星行は、喋り続けた。白い犬のままだ。

「しかしお前たちも、途方もない女を抱え込んだものだ。あの蛟竜と言う男はともかく、中原の皇帝の力は、お前たちが想像も出来ないくらい巨大だぞ。お前たちごときであの女の運命を救ってやれるのか?」

「…分からないよ」

僕は思わず、反射的に答えていた。分からない。でも、やるしかない。だってあんな過酷な運命をただ一人で背負った女の人を、放っておけるわけがない。これから何が起こるか分からなくても、彼女を少しでも恐ろしい運命を回避できる方向へ援けてやりたいと考えているのは、虎千代も変わらないはずだ。僕が心情を話すと、意外にも陰陽師はあっけないほど素直に同意した。

「そうか。そうだな。あの女、かわいそうだな。助けてやりたい、か。そうか、されば私の思った通りだ」

「どう言うこと?」

「お前は今、いいことを言ったのだぞ。恐ろしい運命を、凶兆を避けられないか、と。それも出来る限り無理なく、な。それが陰陽道の何よりの極意なのだよ」

意味が分からない。僕はもう一度、犬に問うた。しかし相手は当然ぱたぱた尻尾をそよがせるだけだ。

「後ろを向け」

すると声がなぜか真後ろから立った。びっくりして振り向くと、本当にすぐ背後に、手鈴を持った明星行が立っていたかと思うと。

「世話になるぞ」

真人(まこと)

「わあっ」

僕は自分の名前を呼ばれて、これほどに気が遠くなるほど胸を鷲掴みにされたように感じたことはない。その一瞬、確かに何かが、入ってきた。まるで藪を走り出てきた小動物に胸から飛び込まれるみたいに。

そしてそこからは何か形容できない大きなものを受け入れた感じが、身体中に(みなぎ)っていた。心臓の鼓動が増している。しかも血管が心臓に血を送り込むその音さえ、それは如実に感じられるほどだった。

「憑かせてもらったぞ」

まるでテレビのナレーションを聴いているみたいに。

はっきりと僕の中でその声がしたのは、その瞬間だった。くっきりとした声音で明星行が喋った瞬間、胸がざわついて僕は、叫び出しそうになった。

「落ち着け、落ち着け」

これが落ち着いていられるか。

「なっ、何したのこれっ!?」

僕は、どうなったのだ。外からは見たところ変わった様子はないが、今、完全に自分の中から自分のものと違う声がしたし、胸がざわついた。認めたくないが、誰かが確かに僕の中にいるのだ。

「かつての五星屋と同じよ。取り憑かせてもらったのさ。安心しろ、私は死神でも疫病神でもない。ただの陰陽師さ。生まれたままの肉体は滅び、もはや影も形もないがな」

だが、この世界のどこにでも、いる。

陰陽師の声は平然とうそぶくのだ。

「あ、あんた人間の陰陽師じゃないのか?」

ふふん、と僕の中で明星行が含み笑いを漏らす。

「今、この時代の人間で本当の陰陽師がいるか?」

確かに、黒姫が言うには今の陰陽道を知る人間には、かつて全盛期の陰陽道の伝説的な術を体現することは、ほぼ不可能だとのことなのだから。しかし明星行は誰の目にも明らかに、この時代にも存在しないはずの凄まじい陰陽術を惜しげもなく使って見せたのだ。

「分かるぞ。お前もこの時代のものではあるまい。こいつは面白い宿主よ」

しかも、ばれてしまった。自分がタイムスリップしてきた人間だと言うことも。

「借りを忘るな。そう言っただろう、真人」

「わっ、わああああ」

なんて約束をしてしまったのだ。陰陽師に名を知られるのは本当に危険なことなのに、僕はその禁をうかつに破ったせいでこんなとんでもない奴に身体を乗っ取られてしまったのだ。

「待て待て、乗っ取ったのではない。落ち着けと言っただろう。ただ、間借りさせてもらうだけだ。悪いようにはせぬから。少しぐらい良いだろう」

「い、いやその…僕のこと、みんな分かっちゃうんでしょ?」

「まあな。それは仕方あるまい」

訊くんじゃなかった。プライバシーなんて概念、この時代にはないが、得体の知れない奴に僕のすべてが筒抜けなんて堪えられない。僕は思わず悲鳴を上げていた。

「なんなんだよあんた!?」

「分かった分かった、改めて自己紹介してやるから。怪しいものではない。私はかつて唐の伯道(はくどう)と言う神仙(仙人)のもとで修行し、秘伝として『ホキ内伝』を受けた。極めれば一たび命を喪っても蘇生が出来、永劫を生きることの出来ると言う道教の秘伝さ。私は『金烏玉兎伝(きんうぎょくとでん)』と言う書にまとめた。もう五百年近くも昔のことよ」

「つまりさ、日本人じゃないの?」

「馬鹿もの」

声はぴしゃりと言った。

「私は安倍野に生まれた。母は、お前たちがあの晩さ迷った、信太の森の妖狐(ようこ)よ」

僕は息が停まりそうになった。

「まっ、まさかあんた…あっ、ああっ、あの陰陽師の…」

安倍晴明(あべのせいめい)

嘘だ。あの明星行が平安時代、陰陽道のすべてを極めた安倍晴明だなんて。

「よく知っておるではないか。だがそう安易に有識(うしき)読みされるは、あまり芳しくないなあ」

伝説的な天才陰陽師は歌うように言った。

安倍晴明(あべのはるあきら)だ。こちらも憶えておけ」


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