飛ぶ
左腕の肘のあたりにちくりと鋭い痛みがはしった。
僕は瞬間的に、日頃、母に受けている痛みを思い、今日もそうなのだと心が暗くなった。
目の前には鬼の形相をした女性が体全体をもうれつに暴れさせて、僕のほうに迫ってきた。
そして、すでに傷だらけの僕の体にさらなる責め苦を与えてきた。
視界に入る物、皆、暗い色調を帯び、外の天気は良好なのに日の光さえ感じられない。
海底に沈んだかのように息が苦しく、体中に圧迫感があり、己や他の物から重量が抜け落ちている。
いまにもどこかに飛び立っていきそうな実体のなさと、どこにもいけないという錘のついた気持ちが混じる。
明日はどこにあるのだろう、昨日はどこにいったろう、今はなにをしているだろう。
なにもかもわからなくて、ただ、いまは、刑罰のように際限なく繰り返される痛みに舟が揺すられるだけだ。
嵐の終わらない闇の海域で、灯台の光さえ届かない、僕は船底にしゃがみこんでジッと固まるしかない。
「なんとか言いなさい! ショウタ!」
母が僕の名前を呼んだその時、突然、僕に光明がさした。
そう、僕の名前はカイドウ・ショウタ。どうして忘れていたのだろう?
僕が自分を取り戻したと同時に、目の前の光景に大きな変化が生じた。
窓を突き破り、羽を生やした人間が乗り込んできて、母に打ちかかっていった。
壊れた窓からまばゆい光がさしこみ、きれいなほれぼれする歌声が聞こえてきた。
「もう大丈夫だからね、ショウタ君」
羽の人はそう言って優しそうな笑顔を向けてきた。
彼の足元には母が意識を失って倒れていた。
「死んでしまったの?」
「いや、生きているよ。心配いらない」
「お兄さん、誰?」
「私はラクセル。君を連れて行くために来た」
僕は気づくとラクセルの隣に並んで大空を飛行していた。
僕たちは高く、高く飛んでいった。
雲を突き抜け、飛行機さえも下に見た。
「このまま空の膜を突き破ろう」
ラクセルの言葉の通り、上昇力を加速して、まわりから青みがなくなり黒と光の粒となった。
すると、体が発火したみたいに熱くなり、視界が橙色に染まって、見るとラクセルも同じだった。
耐えがたい熱さに耐え、火の玉ふたつはなおも速度を失わなかった。
すると、こんどは見えていた星達が、下に垂れるスライムみたいにぐにゃりとひん曲がった。
「関数の四つある象限をふみこえ、第五の象限領域に行くんだ」
弧を描いて引き伸ばされた視界はこんどはマス目みたいに正方形に区切られ、枠線じたいがギラギラ輝いた。
線のほかは深い川底の色をしていて、舌が刺激される澄み具合であった。
僕らは無限に広い方眼紙を見据え、その一つのマスを目指して進むロケットになった。
近づくにつれてマスの本来の大きさがわかり始め、上の線を見上げるくらいになり、ついに正方形を通過した。
その途端、頭上から巨大な物体が直滑降に落下してくる気配がした。
物体は山の何倍もある体躯のクモであり、マス目はクモの巣であったことがわかった。
「ハコグモという。正方形の巣をつくるからだ」
ラクセルはそう説明してくれた。
クモは僕らを取り逃がしたことをしきりに悔しがり、奇怪な叫びを上げた。
「ギギギイイイイ!」
その声が消えるか消えないうちに、こんどは左側の遠くから女の子の声が聞こえてきた。
左側のほうをみると、髪の毛がはるか上にまで伸ばされた女の子の首が、口をぽっかり開けて飛んできた。
「ああああああああ」
女の子の顔面の直径は僕の小学校よりも大きくて、僕らのすぐ前を通り過ぎたとき、眼球に僕の全身が映った。
「ふり子だ。時計のために吊るされている」
そのまま、ふり子の首は右側の方角に離れていって、ついに薄もやで見えなくなった。
僕らは速度を落とさず、どんどん進んでいった。
見ると僕とラクセルの前方には、白い衣服をまとった若い女の人が待っていた。
白い女の人は僕らに止まるように合図をすると、背後から後光がさしたため、彼女の容貌は影に隠れた。
「そこまでですよ、ラクセル。こちらにおいでなさい」
ラクセルはきれいに滑空して飼われた鷹のように女性の肩にとまった。
すると突然、どこからともなく二匹のカラスがやってきて、耳元で、
「言いなさい。君は虐待されていたのだろう?」
「話しなさい。お母さんからひどい目にあわされたのだろう?」
という文言をしきりにささやきかけてきた。
僕は頭が痛くなって耳をふさごうとしたが、カラス達は手をくちばしでつついてきて、また語りかけてきた。
「おやめなさい。力ずくはいけません」
白い女性にたしなめられるとカラス達はそれまでの行為を即座にやめて引き下がった。
僕は女性を見上げて、感謝の意を伝えようと頭を下げた。
「いいのですよ。ショウタ君、話す気にはなれませんか?」
僕には女性の問いかけの意味がわからなかった。
「お母さんと過ごした日々のことですよ。私に打ち明けてくれませんか?」
お母さんのこと。それを聞くと僕の体の半分が切り離される感じがした。
「私といっしょに乗り越えていきましょう? いつでも力になります」
僕の腰からしたを凶悪なワニがくわえ込んでいた。ぐぐぐ、と圧力が強くなり、牙が食い込んできた。
「ワニに食べられてしまいます!」
「ワニなどいませんよ」
「ここにいるじゃないですか! ほら、僕の足が食べられちゃいますよ!」
「ショウタ君。あなたがここに来てはや十年が過ぎました。このままではいつになっても同じですよ
女性の言葉を聞いている暇などなく、ワニは回転して僕の足を根こそぎ持っていってしまった。
血がドバッと吹き出し、空中に拡散した血液は赤い石に結晶して逃げていった。
「ああ、真っ赤な宝石が星になっていきます」
「ショウタ君!」
「お空の星は僕のせいで出来ました。心が生まれて産声をあげます。木がベッドになるのは6と6の望みです」
心臓が最後の脈を打ったと同時に止まり、それでも僕の意識はあった。
僕はそろそろと胸の皮膚を開くと、肋骨が自動的に持ち上がり、停止した心肺をあらわにした。
首がぐうん、と伸びて自分の胸の方に行くと、僕は縮んだ心臓を口に含み、おしゃぶりにした。
僕はもう、なにひとつ考えられなくなり、自分が何者かという認識も喪失した。
心臓をなめることだけに夢中になった。
その様子を白い女性とラクセルは冷静に観察していた。
「先生、どうやら今回もダメでしたね」
「はい。仕方がありません。もう一度やってくれますか?」
「何度でも。それが仕事ですからね」
白い女性は手元に注射器を用意した。
シリンダーの中にラクセルが入り込んだ。
「次こそショウタ君が統合失調症を克服できますように」
女性は僕の腕をとり、注射器を近づけた。
左腕の肘のあたりにちくりと鋭い痛みがはしった。