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真夜中のプレイボール

作者:足軽三郎
「おいおい、またかよ」


 俺の隣で嶋がぼやく。口調は軽いが、顔つきは真剣だ。キャッチャーミットをはめた左手に、怒りに任せた右手の拳が叩きこまれる。


「これで四度目......悪戯というには多すぎるよね。というか、単純に怖いわ」


 マネージャーの椎名も落ち着かない様子だった。縁なし眼鏡の奥の瞳は冷静さを保とうとはしているが、やはり動揺を隠しきれていない。


 そして、俺もだ。想像してみてくれ、中学最後の夏の大会を控えて練習に励まなくてはならない時期に、朝練に来てみれば部室が――それもキチンと鍵が掛けられている部室が、物の見事に荒らされているという事態を。それもちょっとロッカーが開けられてるとかじゃないぜ。部員全員の野球用具が床にぶちまけられている。おまけに部室の奥の壁には、ご丁寧に赤いカラースプレーで罵詈雑言が書きまくられている有り様だ。


「っ、ふざけんじゃねえ、どこの誰だか知らねえけどさ。絶対許さねえからな」


 朝練しようと上がっていたテンションはだだ下がり、代わりに目の前の光景に激しい怒りがこみ上げてくる。誰だよ、俺達の練習の邪魔しようって奴はさ。今が一番追い込みが必要な時期だってのによ。


 ガチガチと歯を鳴らしつつ、俺は壁に目をやった。"死ね"だの"クズ"だの"天誅"だの頭の悪そうな単語が、汚染めいた赤いカラースプレーで書き殴られている。すぐに消そうと思いつつ、部室に踏み込んだ俺の動きが一瞬止まる。ガチャガチャと書き連ねられた文字の中、その文章だけは何となく意味が通っているような気がした。


「嶋、椎名。あれさあ、何て書いてあるように見える?」


「ん、どれどれ。野球部全員――」


「――呪ってやる、って書いてあるみたいね。やだ、気持ち悪いよ」


 なるほど、どうやら俺の目がおかしくなったって訳じゃ無かったようだ。うちの野球部によっぽどの恨みでもあるのか、この妨害行為を働いた犯人は。


 腹立ちまぎれに、床に転がっていたボールを拾う。その怨念こもった文字目掛けて、思いきりぶん投げた。エースピッチャーの肩書きに恥じない剛球が文字を叩き、そして虚しく跳ね返る。


「絶対見つけ出してやる」


 強いワンバウンドで返ってきたボールをあっさりグラブに収めた。荒れ果てた部室の様子は、ただひたすらに惨めで悲しかった。



******



「いきり立っても仕方ないわ。まず状況整理しましょう」


 椎名にそう提案され、俺達三人は昼休みに屋上に集まった。弁当持参での作戦会議だ。やれやれ、どうせ集まるならもっと前向きな目的で集まりたいもんだけどな。


 七月になったばかりの風が心地よい。屋上の給水搭の日陰に移動し、そこで弁当を広げる。まず口火を切ったのは椎名だった。


「事件回数は通算四回。被害対象はいずれも我が県立洛静東中学校の野球部部室。被害内容、部室の中が荒らされて暴言が壁に書きなぐられていた。ここまではOK?」


 肩まで届く黒髪を払いながら、椎名が俺と嶋を見る。


「俺は異論は無いな。付け加えるとしたら、事件が発生した時間帯かな。前日の部活が終わってから翌日の朝練が始まるまでだから、全部その日の夜中だ」


「嶋に賛成。あと最初の事件が発生したのが約三週間前ってことと、部室の鍵はかかっていたってことくらい。発見者は四回ともばらばらだったよな」


 事件の概要はこんなもんだろう。改めて考えると、手間暇かけてやった割には被害は少ないと思う。だってさ、鍵のかかった部室なんだぜ? どうやって入って、出る時に施錠したんだよ。それに部員全員で確認しているけど、お金は取られていなかった。ま、部室に小遣い置いとくような奴もいないけどね。


 最大の被害は、どっちかというと練習に身が入らないことなんだよな。「むー」と唸りつつ、俺は嶋と椎名を見る。二人ともどこか浮かない顔だ。そりゃそうか、中学最後の試合が近いってのにな。三人雁首揃えて話すのが、謎の部室荒らされ事件だもん。


「山沖、そろそろ限界かもしれないぜ?」


「う......けど、もし部員の誰かの仕業だって分かったらどうするよ。絶対対外試合禁止だぞ」


「そうなるな。そして俺達は中学最後の試合に出場禁止、後を任せた後輩達もしばらく試合も組めなくなるよな」


 嶋が一つ一つ確認する。180センチはある長身を壁にもたせかけ、腕組みをした姿は高校生と言っても通用しそうだ。昔は俺と同じくらいだったのに、今では10センチ近く引き離されちまった。


「ああ、だから三人で話して先生には黙っておこうってことにしたよな。嶋、一応聞くけどさ。お前の言う限界って、この件を秘密にし続けるのがってこと?」


「そうだ。俺も対外試合の禁止とか嫌だから黙っていたけどさ、これ以上こんなことが続くのはもっとまずい。練習に集中出来ない連中も出ている」


「分かる、それは分かるんだけど」


 嶋は主将だ。部員が安心して練習に取り組めない状況は、俺より嶋の方が痛切に感じているだろう。でも、それでも俺はやっぱり。黙りこんだ俺を見かねてか、嶋が椎名の方を向く。


「マネージャーとして最近の皆見ていてどう思う?」


「率直に言っていいよね。いつ怪我してもおかしくないと思うよ。ちょっとしたところで雑になってる気がする。ノックの時のエラーの回数も、最近増え気味」


「やっぱそうか」


 椎名は悪意をもって言っている訳じゃない。マネージャーとして中立の立場から意見しているだけだ。だけど、だからこそ堪えた。反論のしようが無かった。


「先生に言うしかないかなあ」


 はあ、とため息が自然と出た。中学生には似合わないと言われそうだけど、仕方ないじゃないか。残念そうな顔は嶋も椎名も同じだけど、もうこれ以上部室が荒らされるような光景もたくさんだろう。


「部員の誰かが犯人なのかしら」


「わかんねー。鍵のかかった部室にわざわざ忍び込んで荒らしまくるなんて、うちの部員にそんな奴いるなんて信じたくないけどさ」


「外部から人がきてこんなことする方がもっとあり得ないだろ......」


 椎名の呟きに、俺と嶋は顔を見合わせた。皆目見当はつかない。でも、それも仕方がない。俺達はただの中学生だ。少年探偵でも何でもないんだから。 


 天を仰ぐ。まだ内部犯の仕業と決まった訳じゃない。先生に告げたとしても、即対外試合の禁止になるわけじゃあない――そう自分を納得させようとした。だけど気持ちは正直で、やっぱり嫌だやっぱり投げたいと言う。理性でそれをねじ伏せようとするのは、とてもしんどい。


「東がいたら何とかなったのかなあ」


 無意識に呟き、自分で自分の言葉に慌てた。嶋も椎名も気まずそうに目を逸らす。当然だろう。まだあいつの死から一年も経過(たって)いないんだから。そんなに簡単に振り払えない。


「あいつが主将やってたら、こんな部室荒らしなんか出なかったかもな」


 嶋は自嘲気味に笑う。いつものあいつらしくなく、寂しそうなほの暗い笑みだ。


「どうにもならなかったと思うよ。だって、東君だって中学生だもの」


 椎名の方が冷静な反応だった、と思ったのは一瞬で。縁なし眼鏡越しの眼は、動揺したように瞬きを繰り返す。


 結局、俺達の間で決まったのは"三日待って何も進展が無ければ、先生に正直に言う"、これだけだった。対外試合の禁止という部活の意義を問われかねない事態を考えると、やっぱりすぐに全てを打ち明けるのは躊躇われた結果だ。



******



 "先輩達でも予選三回戦止まりかあ"


 "やっぱ私立つえーなー。俺らじゃ歯が立たないなー"


 "でもさ、山沖、嶋。お前らがバッテリー組んで抑えるんだろ、来年は"


 "え、まあそのつもりだけど。俺が今練習してる変化球さえ完成したら、そう簡単には打たせないぜ"


 "だろ? そしたら後は俺が打てばいい。それで勝てる"


 "おーい、東! 俺も一応打つのは自信あるんだけど"


 "いや、嶋は黙って俺の球取っててくれたらいいからよ。キャッチャーやりつつ打つのは大変だろ。


 "いやいや、山沖の球取ってるだけじゃ暇だしさ。心配すんな、東が三番、俺が四番で完璧な打線なんだし"


 "待ったー! サードはやっぱり四番だろー! 新チームの四番は渡さないからな?"


 ――夢だと分かる夢がある。


 ――この日、俺が見た夢がちょうどそんな夢だった。
 俺と嶋、そしてもう一人。東がいる。夏休みの部活帰りに、三人で笑いながら新チームについて話している。そんな夢だ。


 忘れもしない。去年、俺達、洛静東中は地区予選三回戦で負けた。相手は県のベスト4常連の私立中だ。悔しくはあったけど、全力を尽くした結果という受け入れは出来た。三年の先輩達はこれを機に部活から引退した。そして二年生主体の新チームが発足したんだ。新エースに俺、山沖潤。キャッチャーで主将に嶋。そしてサードに強打者(スラッガー)の東。間違いなく、新チームの主力は俺達三人だった。


 特筆すべきほど強くもない中学の野球部、けれどもそれなりに一生懸命に打ち込んで。先輩らが最後に挨拶した時には、柄にも無く泣きそうにもなったなあ。そして感傷に浸る暇もなく、すぐに新チームに体制が移行したんだ。


 "来年はさ、もう一個くらい勝てたらいいよな。四回戦進出"


 "それって一回はシード校倒さねえと無理じゃね? 厳しいねー"


 嶋の掲げた目標に、俺は肩を竦める。全国なんてまるで現実味が無くて、精々一回か二回、勝利の実感を増やせたらなというのが細やかな目標。というか願いだな。


 "いや、もしかしたら行けるかもしれないぞ。俺、実力ついてきたし"


 東が自信ありげに頷く。確かに先輩達に混じっても、東はほとんど技術的には劣っていなかった。二年生からはただ一人ベンチ入りしたくらいだ。俺らの中では野球センスは頭一つ抜けている。


 "ばーか、お前一人で勝てるかよ。それに野球は何たってバッテリーだって!"


 "それに華添えるのが俺のバッティングだって。最近打率四割近いしな、俺天才かもしれん"


 "ふふん、じゃあ明日フリーバッティングでやろうぜ? 俺が投げて、嶋が受けるからさ。それでも打てるか、東"


 東にお灸を据えてやろうと、俺が提案する。チーム内の競争が激しいのはいいことだと思うんだよ。それに俺も東のバッティングがどんなもんか知りたかったし。


 けど、俺達の他愛もない約束は果たされることは無かった。
 その日、自転車で帰る東がトラックの横転に巻き込まれたと――俺と嶋は翌朝、練習に出た時に聞かされた。


 その日の練習は中止になり、俺や嶋らチームの何人かは葬儀に参列した。人の死という物に身近に触れたのは初めてだった。納棺前に見た東の顔は、生前の日焼けが嘘みたいに無くなり青白くなっていた。昨日まではバットを握り、白球を追っていた姿の欠片も思い浮かばなかった。


 だからだ。


 俺は試合をしたかった。あいつが掲げていた地区予選三回戦の突破までは――何とか成し遂げたかった。東が目標にしていたから、というのもある。東がいなくなったから出来なかった、という言い訳をしたくなかったというのもある。無論、俺自身これで引退なら一試合でも長く投げたかったというのもある。




 "こんちくしょう......"


 夢が遠ざかる。あの夏の俺達の姿と共に。気がついた時には夜は明けていた。カーテンの隙間から射し込む朝日は既に暑い。その朝日に透かすように、俺は右手をかざした。駄目だ。やっぱり俺は投げたい。全ての為に俺は投げたい。あんな訳のわかんねえ妨害なんかで、引退試合すら無いなんてことにはなりたくなかった。


 シーツを蹴散らし跳ね起きる。嶋や椎名がなんと言おうと構うものか。要は犯人が見つかればいいんだろ。



******



 覚悟を決めて忍び込みはしたものの、夜中の学校は想像以上に不気味だった。校門から続くだだっ広いグラウンドは、持参した懐中電灯の光を吸い込むような深い闇の塊だ。左手には校舎があるけど、いつもは見慣れた学舎なのに夜中に見るとまるで雰囲気が違う。外壁が黒く染まった城みたいだ。


「不気味だな」


「覚悟はしてたけど、想像以上にくるわね、これは」


 ぼそりと嶋が呟くと、椎名が反応する。怖々といった様子で腰が引けているのは、やはり女の子ということなんだろう。尻を叩いて喝いれてやろうかと思ったが、痴漢扱いされたくないから止めた。


「怖いなら帰ってもいいんだぜ。俺が無理に誘った訳じゃないし」


 後ろも振り返らずに声をかける。懐中電灯の光を絞ったのは、もし人がいたら見つかるからだ。グラウンドに植わった木の陰から陰へ、学校から漏れる僅かな明かりを頼りに移動する。用務員さんが見回りでもしているのだろうか、仄かに廊下が明るい。


 何でこんな夜中の学校に俺達三人がいるのか?
 理由は単純、俺が「犯人捕まえてしめてやる」と決めたからだ。部室を荒らされるのももううんざり、けれど内部犯ということが公になって対外試合が禁止されるのも嫌だとくれば――やることは一つ。秘密裏に犯人を取っ捕まえて、二度とこんなことが起きないようにしてやればいい。勿論先生には言わずに済ませる。他に方法があるのかもしれないけれど、俺の頭じゃこんな方法しか思い浮かばなかったんだ。


 勿論一人でやるつもりだったが、黙っていたらいたで顔に何やら出ていたらしい。勘の鋭い椎名に「山沖君さー、何か企んでるよね」と睨まれ、それを見ていた嶋に肩を掴まれた挙げ句がこれだ。二人からはたっぷり説教を食らい、更には一緒についていくという宣言まで食らってしまったわけ。


「あのなあ、今日出るとも限らないんだぞ? ぶっちゃけ時間の無駄になるだけかもだぞ」


 俺はそう止めたんだけどさ。


 嶋は「エースピッチャーに何かあったらまずいよな?」といい笑顔を見せやがるし。椎名は椎名で「マネージャーの管轄なのよね、部室の管理って」と眼鏡を拭きつつ冷静に告げる。
 全く、こんな馬鹿な真似するのは俺だけでいいのにな......二人の気持ちは分かったからさ、だからこそ素直に「ありがとう」とは言えなかったんだ。


 しかしだ。勢いこんでこっそりと家を出てきたものの、部室荒らしと出くわすかどうかは全くの不確実だ。仮に夜通し見張っていても、空振りに終わる可能性だってある。昨日を最後にもう来ないということだってあり得るわけで。


 けれど、もし首尾よく犯人を見つけられて、それが同じ野球部の部員だったら――俺は平静でいられるかどうか自信が無かった。最後の夏に向けてのこの時期がどんなに大事か、それは分かっているはずだからだ。嶋や椎名がついてきたのは、怒りに任せた俺の暴走を止める意味もあったと思う。


 そうこうしている内に、グラウンドを回り込む。プレハブ作りの野球部の部室が目に入る。植木に隠れるようにしゃがんだ時、ぽつりと椎名が呟いた。


「ねえ、山沖君。嶋君。鍵はさ、かかったままだったんだよね」


 一瞬何のことかと思ったが、すぐに部室荒らし発見時の鍵のことかと気がついた。俺が頷くと椎名は軽く眉をひそめる。


「犯人は何らかの手段、例えば合鍵を使って部室の扉を開けて。中を荒らしてから施錠した」


「そうなるけど、部室の合鍵なんて持ってる奴いるかな」


 嶋が考え込む。そう、俺も敢えて考えずにスルーしていたけど、部室の鍵を持っているのは先生だけだ。教頭先生がマスターキーを持っているらしいが、ほとんど生徒が目にすることはない。つまり、誰かが合鍵を入手するなら、先生の持っている鍵を借りる。そして合鍵屋さんで作ってもらい、先生に借りた鍵を返す。この手順を踏まなくてはいけない。


「......先生が部室の鍵を長時間貸してくれると思う? あり得ないよ、特定の生徒にさ。部活の最初と最後にだけ貸して、施錠したらすぐ返すってルールなんだし」


「その論理で行けば、犯人は先生か教頭先生になるけど」


 まさか、という思いつつも考えを口に出す。だが椎名は首を横に振った。


「あのね、馬鹿馬鹿しいと思うだろうけど言ってみるね。もし犯人が鍵がかかっていても、部室に入ることが出来る存在だったら......話は早いよね」


「おいおい待てよ。いくら夜中の学校が不気味だからってさ」


 嶋が声を潜めた。俺も少々ぞっとしつつ、椎名に答える。


「幽霊か何かの仕業だってか。ホラー小説の読みすぎだろ、そりゃ」


「だよね、それは自分でも分かっているんだけど。合鍵を何とか作ってまでして、部員の誰かが部室荒らしをするっていうのも同じくらい現実味が無くて」


 椎名が言いたいことは分かる気がした。俺や嶋の沈黙を肯定と受け止めたのか、椎名はジーンズのポケットから何やら取り出した。小さな丸い球が紐で連なっている。「数珠か?」と嶋が問うと、彼女は「うん」と頷いた。


「気休めだけどね。何も無ければ笑い話ってことで」



******



 どれくらい待っただろうか。腕時計はしていたけど、夜の学校では時間の流れがよく分からない。部室が見える物陰に座ってから一時間か少しは経過したらしい、と時計の針が語っても、現実味が無かった。ただ、夜が濃くなったような――理由もなくそう思った。


 あれ?


 あれ、何か変だな。


 目を擦る。見張っていた部室の方をもう一度見直す。俺達が見張るここからは、部室全体がよく見える。ドアだけじゃなく、後ろを除けばほぼ全ての角度から見張っているような形だ。その部室がおかしい。灰色のプレハブの壁の周りに、何か白いもやみたいな物がかかっている。


 霧? 違う、山間部でも無いし、それに雨だって降っていないし。よく見ると、もやというよりは煙みたいだ。煙草の煙のような白い気体が部室を包み、しかも緩やかに流れている。


「誰かの罠かもな。俺、向こうに回るから」


「気をつけろよ、嶋」


 嶋がこっそりと移動する。椎名は後方待機、俺はそのまま見張りだ。十秒......二十秒......三十秒......そんな僅かな時間の間に煙が形を取り始めた。それまでまんべんなく散っていた煙が一ヶ所に集まり始めたんだ。ちょうど部室のドアの前辺りに。


 ボウ、とそれは光って見える。半透明の煙が集積し、急速に形を成していく。それは――人に見えた。少なくとも人形(ひとがた)の何かに。身長はそんなでもない。170センチ少々か。体つきはごく普通としか言えないが、煙だからか輪郭がはっきりしない。顔にあたる部分は部室の方を向いているからなのか、よく見えなかった。


 あれが何なのかは分からない。だが一つだけ言えるのは、人間ではあり得ないってことだ。


 "こりゃちょっとやばいか?"


 弱気が首をもたげた。俺の背後で椎名も体を強張らせているのが分かる。幽霊の存在を仄めかせていたとはいえ、本当に出るとは思っていなかっただろう。
 黙って見守るしか出来なかった。白い人影は部室のドアに近づき、右手と思われる部位でノブに触れた。俺と椎名は物音一つ立てずに、それを凝視していた。相手が人間ならどうにかなるとは思うけど、どう見てもあそこにいるのは霊っぽい何かだ。出ていってもどうにも出来ないだろう。


 このままじっとしていようか、と考えていた時だった。その白い人影が動きを止めた。くるりと顔らしき場所を回して、俺達とは反対側の方を向く。あれ、待てよ。そっちは―嶋がいる方じゃないのか。


 白い人影が部室のドアから離れた。ゆるりと気体が蠢き、俺達から遠ざかる。速い歩みじゃない。だけど明らかに目的を持って動いているのが分かる。やばい。嶋が気がついているのかどうか分からないが、これはやばい事態だ。嶋が幽霊に取り付かれてしまったらどうなるのか。霊能オタクじゃないから分からないが、血を抜かれたり性格が変わったりする気がする。


 くそ、もしそんなことになったら――悔やんでも悔やみきれないだろ。俺がこんなこと言い出したせいだ。何かあれを追っ払えるような物は、幽霊が苦手な物は。


「あるじゃん! 椎名、その数珠貸せ!」


「え!? ちょ、ちょっと!」


 椎名の手から数珠をもぎ取る。俺らがあげた声のせいか、白い人影は立ち止まった。いいぞ、こっちを向きやがれ。野球部エースの豪速球見せてやるよ!


「うらあああ!」


 恐怖を振り払うための大声と共に、数珠を投じる。オーバースローから放たれた数珠は見事にストライク、つまりは人影の胸にヒット!


「おっしゃ! おい、嶋、聞こえるか、逃げるぞ!」


 "......カヨ"


 俺の声が打ち消される。背筋が凍てついた。数珠が命中しダウンしたかと思ったのに、白い人影はもう動き出している。というか、今のこいつが喋ったのか。


 "逃がすカヨ、ようやっと見つけたノニナア。いい球投げるじゃナイカ"


 今度ははっきりと聴こえた。


 地を這うような低音の声だ。恨み、妬み、怒りという暗い感情が溶け込んだような声。それを聞いただけで膝が笑いそうになる。喋る幽霊なんているのか。いや、でも何かこの声――聞き覚えあるぞ。


 "山沖ィ、冷たいじゃナイカ。久しぶりに会ったってノニサ。逃げるナヨ。椎名もサア、まさか忘れたワケじゃないダロウ?"


「う、う、嘘でしょ」


 がくがくと椎名が震える。俺も膝が今にも笑いそうだが、それを必死で抑えた。人影が数歩こちらに近づく。顔が......見えた。


「――東?」


 "ハハ、ようやく気がついたカイ"


 虚ろな声でその白い人影は笑った。どんよりとミルクが気体化したような体、そこに浮かぶのは忘れるはずもない顔だった。


 去年、事故で亡くなった東が――幽霊になって俺達の前にいた。



******



 あまりにも変わり果てた姿であるため、こちらもどう接していいか分からない。だが"嶋は向こうに倒れテル"という東の言葉に従い、まずは嶋を起こす。ちょっと心配ではあったが、軽く頬を張ると意識を取り戻してくれた。


「や、山沖!? おい、俺はどうしたんだ、さっき何か冷たい空気が襲ってきたかと思ったらさ」


「気絶してたんだよ。お前霊感強いんじゃね? 俺も椎名も失神はしなかったぜ」


 身を起こした嶋はゆっくりと立ち上がった。そして身を固くする。当然だよな、何歩も離れていないところによく見知った顔が浮いてるんだから。


「嘘、だろ」


 "幽霊くらい信じろヨ。頭固いナ"


 東らしき幽霊はそう言うが、嶋が固まったのは無理ないと思う。とりあえず命に別状は無くてよかったけど、むしろ問題はここからだ。


「なあ、東さあ」


 何で俺、幽霊に普通に話しかけてるんだよ。けど、ちゃんと言葉は通じるらしく、東は俺の方を向いた。眼球が真っ黒に塗りつぶされ、赤い光点がぽつりと灯った目で。


 "聞きたいことは大体ワカル。部室を荒らしたのはオレダ"


「って、何でそんな普通な顔してんだよ......!」


「よせ、山沖、突っかかるな!」


 嶋が止めてくれなかったら、俺は東に拳を振り上げていただろう。幽霊相手に拳骨が効くわけないのに、頭に血がのぼっていた。


 "怒るのは当然だけどサア、俺もイライラすんだヨ。なあ、山沖、嶋。何でお前らだけが野球できるンダ。なあ、椎名、何でお前は野球部の近くにいられるンダ?"


 東の右手がすっと持ち上げられた。白い指が俺に、嶋に、椎名に一人ずつ向けられる。まるで断罪するかのようだった。


 "なあ、何で俺があんな下らない事故で死んでサ。お前らが生きてるんダ? 教えてくれないカ、何が違ウ。何故俺は――野球が出来ないノカヲ"


 答えられるような問いじゃない。ただ単に運が悪かったから、と言ったところで東は納得しないだろう。運の一言で片付けるには、あまりに重い問いだった。


「すまん、東」


 嶋がそれでも答えようとする。主将としての責任感と友情という名の想い出が、口を開かせてるのかな。


「俺もお前と一緒に野球したかったよ。山沖が投げて、俺が受けて、お前が打って。あの日約束したみたいに、皆で野球したかったよ。あれから――お前が死んでから新チームでやってきて、お前の為にも一つでも勝とうって練習してきたんだ。だからさ、もう部室を荒らすのは止めてくれ。俺らがお前の分まで」


 "嫌だネ"


「な――」


 "俺の分まデ? 止めろヨ、そんな嘘。こっちは試合どころか、練習すらデキナイノニサ。普通に野球出来るお前らにどうこう綺麗事イワレたくナイナ。どうせなら、お前らが二度と野球出来ないヨウニしてやるヨ"


 東の目が光った。血のような赤い目が俺達を値踏みするように睨む。


 "山沖。嶋。あの約束、覚えてイルカ? フリーバッティングで対戦しようってヤツ"


「ああ。時々夢に見るくらいにはな」


 嶋を抑えて俺が答える。幽霊となった東の放つプレッシャーに負けそうだけど、それを堪えた。"よシ。なら今からやろうゼ、ソレ"と東が答えるのを、もしかしたら俺は――


「――いいぜ」


 心のどこかで期待していたのかもしれない。


 "山沖、お前が投げて嶋が受ケロ。四打席勝負、その内一回でも俺が外野にヒット性の当たりを飛ばしたら俺の勝チ。死球や四球は無効ダ"


「構わねえよ。俺達が勝ったら、二度と部室荒らすのを止めてくれるか?」


 "アア。だが俺が勝ったら、野球部の部室を二度と使えなくしてヤル。足を踏み込む気も起こさないクライ、徹底的に呪いを刻みつけてナ"


 東の言う呪いがどんなものなのかは分からない。だけど、現役幽霊が言うんだからきっと酷い物なんだろう。命までは取らないようだから、それだけでも良しとすべきなのかな。


「こうなったらもう、やるしかないよね。審判はあたしがやるわ。いいよね?」


 若干顔をひきつらせながらも、はっきりと椎名が宣言した。


「腹括るか。山沖、思いきり投げろ。俺が全部受けてやるから」


 覚悟を決めた声が嶋の口から漏れる。


 "バット借りるゾ"


「持てるのか?」


 "短時間ならナ"


 短く俺に答えながら、東は部室の裏手に回った。バットケースがそこにあるのをしっかり覚えているらしい。何だか妙なことになったけど、こうなったらやるしかないよな。



******



 俺にとって、マウンドに上がるのはスイッチみたいな物だ。野球部の一員からピッチャーというちょい特殊な立場になった、という感覚の切り替えを持たせてくれる。そんなスイッチというか動作だ。周りには誰もいない。丁寧に盛り上げられた土のマウンドからは、打者とキャッチャーと主審だけが見える。逃げ場もなく、3アウトを取るまでは戦い続けるしかない戦場へと踏み込む。


 そう、これがピッチャーだ。小五から肩の強さを見込まれて、俺がついているポジションだ。


「けど、今日の相手はまさかの幽霊ときたもんだ」


 ポンポンとロージンバックを右手に馴染ませる。一応対戦となるので、ユニフォームには着替えている。それは嶋も同じだ。キャッチャー用のマスクからレガースまで一式全部身につけている。その後ろの椎名も審判用の装備をつけてはいるけれど、大きすぎるのか全体的にブカブカだ。ま、四打席くらい我慢してもらうか。


「準備出来たか、東」


 "――アア。待たせたナ"


 短く東が嶋に答える。生きていた時と同じく、右打席らしい。幽霊なのに金属バットをちゃんと構えているのは、正直ちょっと驚いた。肩に担ぐようにしたバットをゆるりと揺らす。死後の世界で練習など出来ないだろうに、生前と同じく深いトップが特徴的な構え。


 東を抑えるしか、それしかないんだ。部室が使えなくなったら、実質的に俺達の夏は終わる。まともな練習準備も出来ないまま、試合を迎えることになる。部員のモチベーションだって下がるだろう。そんな事態、まっぴらごめんだ。


 顔を上げる。どういう理屈かは分からないが、マウンドからバッターまでの18.44メートルの空間は白い燐光に照らし出されていた。東がどうにかしたらしい。とりあえず、嶋に向かって投げる程度は十分だ。


 "おい、どうしタ。俺に打たれるのがそんなに怖いカ。さっさと投げてこいヨ"


 挑発的な言葉と共に、東がバットの先端をこちらに向ける。予告ホームラン――舐められたもんだ。


「はっ......言ってろ、東。俺と嶋のバッテリーで完封してやるよ」


 闘志に火が点いた。俺がセットポジションに構えると同時に、嶋もキャッチャーミットを構える。一球でも外野に運ばれたら終わる、だからまずは慎重に外角低めへ。


「打てるもんなら」


 腕、足、腰が連動する。ボールを握った右手がしなる。やってやるさ。見せてやるさ。これがこの一年の練習の成果だ。


「打ってみろよ!」


 投じた。東も反応はしている。鋭く繰り出されたバットの軌道は、しかし、ボールの下だ。外角低めへのストレートが嶋のミットに収まる。


「ストライク!」


 "......やるナア、山沖"


 椎名が力強く判定を下し、東が一度間合いを取った。それまでの余裕めいた顔が変わる。いい顔だよな、東。けど俺もそうそう負けてやる気はないんだよ。





 第一打席、二球続けてファールされたけど、何とか三振。決め球は緩いカーブ。


 第二打席、球を見極め始めた東にフルカウントまで粘られたが、そこから嶋のリードが冴えた。俺の主力の変化球、スライダーで勝負と見せかけたが、それはおとり。最後はインハイへのストレートで三振に切って取った。


 第三打席、東のスイングが鋭さを増す。感覚が馴染み始め、俺の球にも慣れてきたらしい。内角攻めを二球、次は外へスライダー。これが踏み込んだ東のバットに捉えられた時は、やられたと息を飲んだけど――かろうじて右に切れた。体にぶつかりそうな位置からのスライダーで、何とかピッチャーフライで片付けたが......やばいな。




 帽子を一度取り、額の汗を拭う。疲労こそしていないけど緊張はしていた。ここまでの三打席は何とか抑えたけど、最終打席はどうか。


 タイムを取った東が一度バッターボックスから外れた。ヒュオン、ヒュオンとあいつの素振りが風切り音を生む。鋭い音だ。この辺の地区くらいなら、間違いなく頭一つ、いや二つは抜けている。全く、バッティングセンス抜群だっただけあるよな。


 嶋を見る。東の方を横目で見つつも、あいつも俺の方を見ていた。視線が合うと、堅い顔で一つ頷いた。そうだよな、完全にタイミングが合わせられてきてるよな。
 ここまで追い詰めたようで、実は追い詰められているのはこっちらしい。余裕がまるで無かった。それでもだ、気持ちで負けたらやられる。


「おい、東。もういいか? あと一打席で終わりだぞ」


 "そっちこそいいのカ、山沖? もう見えてきてるんだゼ、お前の球はナ。ストレートも、カーブも、スライダーもゼンブ"


 俺と東の視線がぶつかる。思わぬ形の真剣勝負だけど、それも残すところ後一打席だ。プライドとプライドのぶつかり合い、あるいは意地と意地の張り合いだ。「ゲーム再開、バッター、戻って!」という椎名の指示に、東が素直に従う。ぞわりと総毛立ちそうな気迫が、あいつの赤い目から立ち上った。


 怖かった。出来れば逃げ出したい程に。


 だけどそれ以上に、別の感情が心を埋めていく。それは胸の内から溢れ、恐怖に打ち勝つ熱となる。


 ドクン......心臓が高鳴る。


 ドクン......胸の奥から、投げきるという欲求が溢れ出す。


 なあ、東。お前は今、どう考えてるんだ。やっぱり俺達が憎いのか。野球部を壊したいくらい、野球をやれる奴が憎たらしいってのは嘘じゃないと思う。同じ立場なら、俺だってそう思うだろう。


 けどさ。


 お前はさ、野球は好きなんだろ。死んでもこうやって幽霊になってさ。あの日の他愛ない約束まで覚えているくらい、野球が好きなままなんだろ。分かるよ、お前のスイング見ていたら。


 無論、勝負には勝ちたい。俺は、嶋や他の部員と一緒に試合に出たいし、勝ちたいよ。だけど、それとは別に......俺はこの勝負が楽しいと感じている。


 これほど真剣に一球一球を大切に投げたことなど、今までに無かった。一年前に永遠に失ったはずの約束を――俺達は今、真夜中のグラウンドで果たしているんだ。これが楽しくなくて何なんだ。


 セットポジションに構える。嶋のサインは......ここでそれ、か。堅実一辺倒じゃ抑えきれないと踏んでらしい。仕方ねえ、乗ってやるぜ。


 右手を後ろに引いた瞬間、球の握りを変えた。中指と人差し指で挟むように握る。踏み込んだ左足、そして腕は縦に切るように――


 腕の振りの鋭さの割には遅いボールに、東のタイミングが狂わされかけたのが分かった。だが、それを体をつっこませずに待てたのは流石だ。スローカーブだと読んだのか、一拍振り出しを遅らせたところまでは正解だけどな。


 "――フォークボールだト"


「見よう見まねだよ」


 幸運なことに、東のバットは空振りだ。スローカーブと読んだか、タメをきちんと作った上でのスイングだったけどな。ここまで一度も投げていないフォークの落ちる軌道には対応出来なかったらしい。


「ナイスフォーク」


「全くこの土壇場でよく要求するぜ」


 嶋からの返球をグラブに収める。二球目、内角高めへのストレートは微妙なコースだったがボール。三球目、外へ逃げるスライダーも上手く見極められた。ボール。カウント1―2か。勝負しなきゃいけないカウントだ。





 "ばーか、お前一人で勝てるかよ。それに野球は何たってバッテリーだって!"


 "それに華添えるのが俺のバッティングだって。最近打率四割近いしな、俺天才かもしれん"


 "ふふん、じゃあ明日フリーバッティングでやろうぜ? 俺が投げて、嶋が受けるからさ。それでも打てるか、東"





 なあ、東。俺さ、時々夢に見るんだよ。俺が投げて、嶋が受けて、お前が打って――俺ら洛静東中が四回戦に進む夢を。何で、何で、俺達は......俺達はこんな形でしか一緒に野球やれてないんだろうな。




 構えた。東と視線が合った。何故だか少し微笑んでいるように見えた。ああ、分かるよ。お前もさ、ほんとは楽しいんだろう。こんな形でも久しぶりに野球出来てさ、楽しいんだろう。分かるよ――俺もそうだ。だから、だからこそ俺は全神経を注いで投げる。これがお前とやる最後の野球だろうから。


 "来いヨ、山沖"


 そう聞こえた気がした。体をおもいきりしならせ、強く踏み込んだ。指先まで力を伝え、小細工無しのストレートを投げ込む。コースはやや外へ、空振り狙いの速球――だが捉えられた!?
 まるでバットが火を噴いたように見えた。東の執念がこもった会心の一振りに、俺のストレートが完璧に捉えられる。


 ピッチャー返し。俺の左側を痛烈に打球が抜け――させるかああああ!


 崩れかけた体勢を反射神経で無理矢理もっていく。無我夢中で差し出したグラブは、奇跡的にボールをその中に収めていた。その瞬間だけ、時間が止まったようだった。捕れたのか、俺は。外野に抜けていれば確実に二塁打コースの打球だったけど、それでも何とか捕れたらしい。


「ゲームセット! 外野までのヒット性の当たり無し、勝者、山沖君!」


「っしゃ、山沖、よく捕ったああ!」


 椎名と嶋の声が聞こえる。二人の姿を認めつつ、俺は視線を東に移した。バットを下ろし、東は右手をまじまじと見ている。最後の一振りの感触がきっとそこにあるのだろう。


 "負けたナ"


「いや、捕れたのは奇跡だったよ」


 東が薄く笑ったように見えた。さっきまでの禍々しい気迫は消え、ただ精魂使い果たしたようなそんな感じだ。


 "約束は約束ダ。山沖、嶋、椎名......試合、頑張れヨ。俺は見に行けないケド"


 その一言を境に、東の体が変わる。白い煙の凝縮が、結び目がほどけるように色を薄くしていく。それはまるで夜の闇にあいつの白い体が侵食されていくようで。多分、幽霊ってそんなに体を保てないんだろう。やばい、何か――何か言わなきゃ。


「東! 俺さ、お前と野球出来て」


 楽しかった。それだけは伝えないと。


 なのに。


 なのに、喉が詰まって。


 なのに、視界がぼやけて。


 俺は――俺は言わなきゃいけないことを、口にすら出来ない。感情の塊が胸を塞いで、言葉を押し潰す。


 東が俺の方を向いた。もうその目には赤い光点は無い。ただ真っ直ぐな視線は、生前にグラウンドを駆け回っていたあの時のあいつと何の違いも無かった。


 "悔いはナイ。あの世から応援しているヨ"


 嶋と椎名が弾かれたように立ち上がった時には、もう遅く。東の姿は夜のグラウンドから消えていた。転がった一本のバットが妙に物悲しかった。


 俺はグローブを開く。白球をまじまじと見ていると、あの最後の一振りにかけた東の気迫が、技術が伝わってくる気がした。



******



「なあ、嶋」


「どした? 柄にも無く緊張してるのかよ?」


「東に比べたらさ、どんなバッターだって大したことねえよな?」


 俺がそう言うと、嶋は「おう」と頷いた。地区予選三回戦の開始直前、アップを終えた俺達は最後に短く言葉を交わす。試合に挑む前の儀式みたいなもんだ。


「思いっきり投げこんでこい」


「ああ」


 ボールが俺に渡される。ユラリ、と夏の熱気に混じり、俺の中の闘志も温度を上げていく。やるぞ、俺は。自分の為に。チームの為に。それに加えて――あの世から応援してくれているだろう、あいつの為に。


 審判のプレーボールの声がグラウンドに響く。俺はバッターに対峙する。相手はこの辺りの地区では一、二を争う強豪だ。普通に考えたら、俺達が不利だけど野球に絶対は無い。俺が投げて、嶋が取って、そしてお前の分まで打てばきっと勝てる。


 あの夜の続きは、まだ終わらせない。

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