挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

ブックマークする場合はログインしてください。

ディセンバー・ノート

作者:俊衛門
 ことここに至るよりもずっと前から、何度も見返していたものがある。A4用紙に印字された楷書体の三文字、筆の走りと払いの妙を差し引けばそれはそこかしこに存在するものであったが、少なくともそれを記すことが多くの人間にとっては意味のあるものの一つである。分けて見ればどこにでもある字でしかありえないものが、ひとつ意味を持たせれば少なくとも世間と切り離すだけの力はあるものだった。
 事実、それほどの効果はあった。それまでの、いくら振り払っても付きまとう視線の多くをそぎ落とし、不必要にかけられる声の数々を途絶えさせるだけの威力はあった。その文字列のせいで重苦しい空気を抜け出し、今はせいぜい解放感だとか清々しさだとかをしばしの間だけでも、味わうこともできる。
 字体そのものは簡単なものだ――「退職届」と自ら綴った封筒をコピーした用紙。自分と社会とを切り離す存在であり、求めたものは簡単に手に入る。コンビニで百円程度で買える筆ペンで書き表したものは、それこそ人が見れば手本にぐらいにはなる書体ではあるだろう。部首「之繞しんにょう」の走りは人から見れば巧い方だとは思うが、書を覚え、書をたしなみつつも結局はその道を行くことがなかった、今では「特技その1」でしかない字の巧さを誇示するわけでもない。人に言われればその過去を披露する程度のものであるものを、わざわざひけらかすの馬鹿馬鹿しく、そもそもが捨てたものだ。筆致は染みついたものであり、これはもうどうしようもないものである。
 とはいえ、字が巧いということはそれだけで賞賛されるもので、結婚のきっかけとなったのもそれだった。両親に無理やりつれて行かれた見合いの席で相手の女性が言ったのだったが、正直言って字の巧さなど気にも留めたことがなく、そのとき初めて、自分の文字が一般のそれに比べて巧い方に位置するのだと知ったものだ。
 それを聞いて、どんな反応を示したか。どう受け止めたのかを今更思い出してやるまでもない。褒められているというのは確かだった。あるべき書体に似せて、完全にあるべきものに帰着させてやれば、たいていの人は喜ぶものだ。初めてなじみの教室以外の場所で筆を執った時、教師が好んだのはあるべき手本に従ったものであって、少しでもそこからはみだす線は懲罰の対象だった。自分の常識が、必ずしも世間の常識ではないことを知った最初の瞬間である。

 用紙を握り締めて、それを放り投げたところで、懐にしまいこんだままの折りたたみ式の携帯電話が震える。ずいぶん古い型だから換えろといわれ続けて、換えてみようかと思ったこともあったがとうとう換えることはなかった。
 画面には、もう何十回目になるのか分からない着信、メール、留守番電話――やはりというかそこにある名は予想通りだった。結婚して今は妻としているその女の名が画面上に並び、留守番電話に切り替わる間も文字列は無機質そのものである。もっとも、デジタル表示に過大な期待をかけるのは酷な話ではあるし、生きた文字をそこで目にすればそれはそれで不気味ではある。
 けれども最近は――少なくとも書の道が途絶えたと幼心に悟ったあの時から、画面の文字も半紙の文字も同じ感覚だった。生きた文字などない、ただの記号として在る。誰かが描くまでもなくそこにある書体は完璧な統一で、まるで最初からそこに存在していたかのような完璧さを持っている。癖のない綺麗な字、もっといえば何か脱臭されつくされたものを見せつけられている。それをさも当たり前かのように提示し、むしろそうでなければ少しおかしい……とそこまで踏み込んで来るような小奇麗さであるのだ。
 ずっと長いこと、字と言えば墨のにおいがするものだと信じ込んできた。まっさらな紙、ざらついた面をめくった瞬間にはもう、文字はそこにある。ただ目にすることができないだけで、あとはそこにあるイメージをつかみ、そのときに得た気分のままぶつけてやればいい。少なくともそういう心であったし、小学校にあがるまではそうあるものだと感じていた。書くべきものは決まっていて、あとはそこにあるとおりに墨をのせる、そういう作業が書なのだと感じていた。
 今はもちろん、においなど得られない。安物の墨汁をしみこませたペン先でさえ、無臭のものである。
 そうこうしているうちに、目的の場所までたどり着く。ここまでは何のブレーキにもならないものばかりだった。ここから先も期待できそうにない。
 風雨にさらされてすっかり色あせたフェンスは、表面のプラスチックがはがれて錆びた地金がのぞいている。潮を含んだ冷たい風の前にかたかたと震えて、壊れた錠前をぶら下げた扉が甲高く鳴き声をあげている。そこから先、中に足を踏み入れれば、伸び放題の雑草の庭、その中にひっそりとたたずむアンバランスでいかにも頼りない風体の、朽ちた構造物。建造物としての役目を終えて取り壊されるのを待つだけというこの雑居ビルが、ことを成すには一番丁度良いと思われた。市街から外れ、港湾にも近すぎず、人と人との狭間に位置するここが、旅立つには良いと。こういう場合は華々しく大げさなぐらいに目立ってやろうというのが人の心だろうが、あえて誰もが思いもしない場所で行いたいと思った。結果が同じことであろうと、衆目のある場所とない場所では大分違う気がしたのだ。人目につくところでことを成せば、善意の人々はきっとそれを悲劇の文脈で事の顛末を語ることだろう。それだけは御免こうむりたい、たとえ自分がいないのだとしても、その後のことを悲劇的に語られることは。これは悲劇ではない、少なくともそのつもりでここまで来ている。
 何度となくこの場所に足を運んで下見を繰り返して、屋上まで閉ざされている道もすべてが閉鎖されているわけではないということは、折り込み済みだった。雑草を分けいって敷地内に侵入し、そうして非常階段の一つを前にしたときに、右ポケットの携帯が振動を発する。画面をみれば見慣れた文字、メール画面の一つ一つがおよそ五分から十分おきに受信されている。

 FROM:三春

 心配しています。会社の人から聞きました。今後のことを話したい、連絡ください。

 最初のメールがそんな調子ならば、ほかも似たようなものだろうと、メール画面を閉じると、日が落ち群青に染まった闇が暗さを増してゆく中、十二月の景色にふさわしい雪空が広がっているのを見る。
「立ち入り禁止」とある看板を文字通り足蹴にして最初の段に足を乗せると、金属がこすれる音がした。体重のかけかたで、音の調子が高くなったり低くなったり、人一人支えるくらいは問題ないが出方次第ではひどいことになるぞと暗に警告を発しているような軋み方をする。
 それそのものは、悪くはない。だけどもできるならばそうなるのは一番上にたどり着いてからが良かった。そうでなければ十二月、この時期を選んだ意味がない。一番ちょうど良い具合に墨が乗る紙、それはいつかと考えた末の十二月だったのだ。まばらにしか雪が降らない十一月は論外、しかし多すぎる一、二月も問題だ。筆にたっぷり染込ませて、ぱっと目の前に瞬く閃光の中に印象が浮かび、その印象が文字となる瞬間に筆を走らせる。そんなときに半紙に筆が引っかかったり墨を吸い込みすぎてしまってはせっかくの文字も消えてしまう。そうならないために、文字を乗せる紙は重要なのだ。心行くまで紙を選び、筆を吟味し、墨を擦り、そうして万端整えてから文字に向かう。最後は、せめて思い通りにことを運ばせたい。
 この人間じんかんでは、叶わぬことなのだから。

 階段を半ばまで上りきってしまえば、吹き上げてくる風に足下をさらし、体がふらつく感じを覚える。おぼつかない足取りは一歩先の不安定さ――たとえば暗くて見えないことや、積もりはじめの雪で足を滑らせるやもしれないという懸念そのものだ。もしそうした恐怖があれば、その瞬間に腰をついて無様におののき、そろそろと這うように後退して地上に降り立つことも出来る。
 ただ恐怖とはいっても、うまくいかなくなるかもしれないという恐れであって、そこから風にあおられて落ちるという類のものではない。おそるおそる足を抜き差ししつつも周りをみるぐらいの余裕はあった。階段の踊り場に、どういう好事家が通っていたのかわからないスナックの入り口が唐突に現れ、上から生えているようにせり出すガスメータの指針値を見ればそんなに流行ってはいなかったのだろうと推測出来、窓の下に簡素な板をはめ込んでその上にただ乗せただけにしか見えない室外機がどのメーカーであるか、よく見れば元いた会社の取引先の一つであるななどと、余計な情報を読み取るぐらいには平静である。
 最後まで出来れば良いし、最後まで思い通りにゆけばそれで良いのだ。不自由だらけだった人間じんかんで、誰かが抱くおそれとは違う。墨をのせ、文字を走らせることが出来なくなったことが不満で、それを飲み込むしかないと悟ったあのときとは。
 人、という文字が課題だった。文字というものはそれまで、勝手に目の前に現れてくるものだと思っていたので、最初に提示されるものを写すという作業はそれはそれで新鮮だった。なぜ人なのか、と子供にあるまじき疑問を吐いた時に、当時まだ大学を出たばかりの女教師は、大事な文字だからよ、と優しく言った。人という文字は、人と人が支えあって出来ていると、いかにも道徳然とした口調で説明するその教師は、それを諭すことに至上の喜びを得ていた。
 もちろん後で、それは俗説にすぎず、まやかしであることを知るのだが、あまりに自然にその俗説は受け入れられている。事実として人とはそのように振舞っているのだ、左のものを右に書き写すのと同様、そう在らねばならないというように、人間とは出来ている。書に夢中で同世代の子らが声をかけてくるのをことごとく無視し、そのことを教師に見咎められ、それも無視していたら両親が呼び出されるということにまで発展し、コミュニケーション能力に欠けると教師に評されたのが中学の頃。言われている本人は至って普通のつもりだったので、その評価には面食らった。書に向かうのはごく自然のことで、周りからの声を遮断して紙面に向かうことは、呼吸するように当たり前のことだと。
 文字は生まれるものだった。生まれてからすぐに右手を走らせて、最初の印象に近づけることが書だと、それまでずっと思っていたのだから。少なくとも幼少の頃連れてゆかれた書道教室で、最初に筆を執ったときからそうだった。まだ小学校にもあがらない時分に書いた文字など酷い出来映えだったが、その後知識の量と比例して生まれる文字の複雑さも増してくる。ぱっと瞬いたそれを掴まえるために筆を走らせ、より印象に近づけるために早く書き、それがうまいことゆけば心地よい疲れを感じていることに気づく。
 ただそれ故乱雑になりがちで、小学校の夏休みの宿題などで習字の提出物があれば決まって教師による「丁寧に」というコメントがついてくる。そこにあるものとそっくり同じものを書くことを求める教師という生き物は、生まれてくる文字など邪魔だと説いた。
「少し違うかもしれない」と、中学の終わりに母親に言われた。書を描くことに夢中で、他に友人と呼べるものがいないという、教師からの苦言がきっかけだった。人と交わることがどれほど大事なのかと、そのとき両親は説き、書を捨てるべきではとすら言った。
 その翌月に、書道教室を強制的に辞めさせられた。理由は学費のためだったが、他の理由の方が大きかったのだろう。今となっては、確かめる術はない。

 心配しています、今どこにいますか、と。気まぐれに耳に当てた受話口から、留守番電話のメッセージが発せられていた。子供の時に耳にした、「人という文字は……」のくだりと再会させ、そうした生き方を地で行く妻の声音。「人と人が支えあって生きている」という、ある意味では完成された主題のために利用され続ける漢字。字の成り立ちそのものは人が詰立する姿を表したものであり、支えあうという考えは間違いであることを指摘したときに妻はあからさまに不機嫌になった。概念こそが大切なのだとし、事実そのように振る舞っていた。誰から見ても慈愛に溢れ、完璧だったその女性と結婚したのが二年前だった。
 それまで誰かと添い遂げようなどと考えもしなかった自分に、両親はしつこく見合いを迫った。重い腰を上げて、話だけでも聞いてやろうかという気分で出た席で、字の巧さを褒められた。その女性と、何故か結婚するということになり、その結婚までの過程も本人のあずかり知らぬところで行われていたように思われる。両親はひどく喜んだ。それまで女と付き合うどころか、友人さえまともに作ろうともしなかった息子がようやく一人前になった、などと本人の目の前で言うのだから何ともいたたまれない気持ちにさせてくれたものだ。その間も、それ以前も、「支えあう」人の群に居続けてきたことが、奇跡じみているというのに。ただでさえ、そこにいることは拷問じみていることだというのに。世の中は体裁はともかく、確かに「支えあう」ことで人間じんかんというものは成り立っている。単純な二つの払いを組み合わせる、その組み方と画数、線の入りについてもあるべきように設え、それらをなぞることで完成される。
 それが支えあうということで、そうやって人は生きているのだろう。ぴったりとはまり込んだ手本の内側で、はみ出すことなく同じ方を向き、抱いた印象は切り捨て、生み出されたものを殺して蓋をすること。それが人としての幸福で、その通りに振舞うことが愛でなければならない。幸福でない存在は、あるべき方に導き、手本通りの線に当て込むことが何よりの善だった。妻としたその人は、自分が書に向かうことを良しとせず、すぐに筆を取ろうとすれば不快感をあらわにする、それはまさしく自分の書に難色を示した教師、書を捨てよと説いた両親の姿そのもので、たとえそれが不自然に写っても、その不自然さに導くのが人の定めだと彼らは信じているようだった。あるべき形通りになぞることが幸福であるのだと。
 それが疑問だと感じていて、誰もが疑問だと感じているはずだと思っても、実際は誰もそのことを疑問に思っていない。だから間違っているのは自分の方なのだろうと、無理にでも納得しなければならない。そう感じたときには既に、書は生み出されるものではなかった。就職して、結婚して、人間じんかんにまみれて、「支えあう」人の群であっても、半紙に向くことはあったが、すでにそれは吐き出す作業となっていた。目の前に閃いて、目映い光彩を放つものは何処にも存在せず、その一瞬を掴まえるどころか永遠に垣間見ることすら出来ず、それでも書こうとするならば自然それは吐き出すだけの作業となる。白い原野に黒々とした稜線を刻みつけ、穢れを知らぬ表面に墨を落として滅茶苦茶にかき回し、もはや文字の体もなさぬそれを目一杯に広げてやることで何か自分がとてつもないことをやってのけた、あるいは取り返しのつかないことをしてやったという昏い達成感に満たされる。瞬間に同じだけの空しさが襲う。その行為を、妻は醜悪なものと断じる目で見、日毎増えて行く書の数々を汚物めいたものを扱うようにそれらを処分した。抵抗する暇も与えず、間もなくして筆も紙も遺棄され、それらとは無縁の振る舞いをと求められる。
 人間じんかんはどこにでもある、人が人を支えあう限り。たっぷりの慈愛とぬくもりを押し付けるがために、あり続ける。そこから抜け出ることなどは許されないと、誰もが信じているものの集大成だった。

 階段を登り終えたときには、はっきりと空を漂う白いものを知覚出来た。屋上に薄く積もったそれを靴底で二度三度とこすりつけてやると、年月が経ってひび割れたアスファルトの表面がかいま見えた。
 少しだけ、高揚を覚えた。上質な半紙を目の前にしたときと同じものだ。紙のにおいと手触りを堪能しながらぴんと張った表面に文鎮を落とし、そこから座して文字が生まれる瞬間を待つ感覚が、少しだけ蘇ってくる。
 その片鱗が現れるのがひと月前。営業途中に何気なく立ち寄り、目に入った建物がそれに相応しいと思った。茶と灰、ひび割れた構造体が誰の目にも触らずそこにあることが、まさしく決め手だった。それそのものが主張のようなものだった――誰の目にも映らないが、在るものは確かに在るのだという主張。家庭というものを持ち、それまでよりも人づきあいが増えて、それに反比例するように書に向かうことがなくなった今となっては、それは新鮮な気分だった。自分ではない者が優しさやら思いやりやらをかさにことあるごとに口を挟み、自分を理解するように振舞う人間じんかんにはまりきることがなく、しかしそれを思うことが間違いであると諭されてもなお、在り続けた。その自分とその場所とが、奇妙な符合を見せたような気がして、そこから先は早かった。入り口から屋上に至るまでの道筋を確認し、あとは路上の落ち葉が全てなくなり、相応しい色に染まる季節まで待った。赤茶けた十月から、真白い十二月まで。全てが消え失せ、新たに刻み込むに足るその日まで。
 そしてそのときだった。ここに至るまでに、実行を思いとどまる何かが存在するかもしれないと思ったが、ついぞ現れず。それを表すときが雪空の下に描き出される。
 ことを成すのに時間はかからない。フェンスをよじ登り、屋上の縁に足をかけ、吹き上げてくる風を全身に浴びる。冷えた潮風だった。ひりついた、凍える空気は、じっとしていれば肌がささくれて、ビル壁よろしくぴしりぴしりと割れてゆく感覚になる。おう、おうと唸るような風音が、段々と遠ざかるようだった。そうして文字が浮かぶ瞬間をひたすらに待った。
 ただそれもポケットの振動によって遮られる。せっかく生まれかけたイメージも消えてしまった。興をそがれた気分で携帯電話を耳に当てると、震える声音が耳朶を打つ。
「どこにいるの、応えて」
 その声は、これ以上ないほどに枯れている。泣き濡らし、いかにも悲しみを表す風である。
「応えてよ、あなたは今、何をしようとしているの」
 言葉の端々でしゃくりあげる声がした。心底悲痛であると訴えるがための声音だった。
「お願いよ、あなたが思うこととあなたが不満なこととか、全部聞かせて。だめなところは直すから、戻ってきて」
 ああ、と思わずため息が漏れそうになった。人という字を支えあうものだと説いていた、あの頃と同じだった。人と人の間で、人と人が支えあうことで、人は人たらしめるという前提でもって話す。何の面白味もない手本をなぞるのと同じく、誰かの道程をなぞる。そんな人間じんかんをこそ、素晴らしいのだと説き、素晴らしかるべきと強いるのだ。
 文字が生まれる瞬間を、再び待とうとした。それでも逼迫した声は響いた。
「あなたが苦しいなら、それを話してよ。それを軽くしてあげるようにするから、あなたのこと全部……」
 どうして分からないのだろう。
 どうして分かちあおうとするのだろう。
 どうして構おうとするのだろう。
 どうして支えようとするのか――それこそが枷だと、どうして分からないのか。
 携帯電話を投げ捨てた。輝きを放つ四角形が落下して、ビルの狭間の闇に吸い込まれたときに、文字は生まれた。その下にある雪の上に広げる、最後の書のイメージを掴んだ。
 足を踏み入れる。右足。冷たい空気が裾から入り込む。瞼に浮かぶ、最後の書とともに。それまで抱き続けた、くすぶり続けた思いのすべてがあった。
 僕は一人でいいんだよ。
 最初から、訴え続けていたものだった。最初から終わりまで、一人で十分だと。手本の通りになぞり、これら先もそうやって生きる、そのように生きることが幸福だというならば幸福である必要などない。そこに導くことが愛情ならば喜んでそれを打ち捨てる。誰も彼もが疑問と思わないそれを、たった一人ででも違うのだと声を上げれば忌避される、それが世の倣いならば。 
 もう君は構わないで。僕のことなど忘れて。僕は君が居心地良いと言った檻から抜け出して、もう誰の手にも届かない場所に行くから。ようやく、そこを抜けることができる。

 僕は自由だ。自由になれる。この狭苦しい人間じんかんを、誰よりも先に抜け出すんだ。

 そうして新雪の紙面に踏み出す――。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
感想を書く場合はログインしてください。
お薦めレビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ