雑巾でスッと拭いたような雲が広がる日だった。夏らしい蝉の泣き声も聞こえた。たいした都会でもない平日の街は静かだった。
その街の端にある高校、進学校とは言えないレベルの普通科高校がある。その校門の前に、この暑さの中黒い学生服を着た男がひとり立っていた。男はふぅとため息を吐き、学校に背を向けて歩き始めた。2、3歩進んだところで校舎の窓から元気な声が聞こえた。
「健治!お前マジで学校辞めるんだってなぁー!」
「その選択正解だと思うぞー!お前の頭じゃ学校なんて来てても無駄だよ!」
「今日から家事手伝いかぁー?」
窓からのぞく顔達は口々に好き放題叫んだ。健治はそれを背中で受け取ってまた歩きだした。蒸し暑い日だな。そんなことを考えていた。
健治はたった今、学校を辞めた。家庭の事情でもなく、問題を起こしたわけでもない。自分の意思で辞めた。
「大丈夫よ、あんたにはもう期待してないから。」
昨日、親から言われた言葉を思い出した。涙をこらえて、怒りと悲しみをつま先に託して、足元の石を蹴飛ばした。
小学生の頃までは、健治は親や親戚に将来を期待され、大切に育てられた。しかし、中学校に入り、急激に成績が悪くなり、2年後に有名私立中学に入学した弟がぐんぐん成長して、家族内で株を上げた。すると次第に家族の中で健治ははじかれていった。
健治自身は諦めたわけではない。夏休みの絵画コンクールで銀賞をとった。生徒会長にもなった。その他にも親に褒めてもらうためにたくさんの事をした。しかし、成績が伸びない健治を相手にしてくれる人は家には居なかった。レベルは低いが、親の望む普通科高校に何とか進学したが、成績を見るたびに、
「もういいわ、健治は。」
とため息をつかれた。そんな高校生活が続いて1年と3ヶ月、遂に健治は逃げ出すことにした。
一度息継ぎをした蝉が、またうるさく鳴き始めた。駅前の街路樹の影をつたって陽射しからよけるように歩いていた。やや強い風がふわっと吹いた。
「うわっ。」
という少年の声とほぼ同時に、健治の目の前は真っ暗になった。
「うわ、何だよこれ。」
健治は視界を遮る何かを手に取った。それは見覚えのある、どこか懐かしい帽子だった。
「返せよ。」
下の方から少年の声が聞こえた。視線を少し下にやると、純粋そうで、でもどこか陰のある少年が立っていた。
「なんだお前、謝罪の一言もねえのかよ。こっちはいきなり顔面にキャップぶつけられてんだよ。」
わざとらしい先輩面した声で文句を言うと。少年は俯いて小さくうるせえと言った。健治は帽子を返そうとした時、ハッと気付いた。
「お前、西中のサッカー部か?」
その帽子は、健治が昔通っていた中学校の健治が所属していたサッカー部の健治も持っていた帽子だった。
「は?あんたに関係ないだろ。」
少年は帽子を健治から奪い、立ち去ろうとした。
「お前中学生だろ。学校行けよ。さぼり。」
健治は吐き捨てるようにそう言ってその場から立ち去ろうとした。すると、後ろから少年の声が聞こえてきた。
「あんたみたいにただダルいからサボってるのとはわけが違うんだよ。」
すごく憎しみのこもった小さな声だったが、健治には聞こえすぎるくらいに聞こえていた。今の健治には無視できない台詞だった。
「ふざけんなよ!勝手なこと言いやがって。俺はなあ、今学校辞めてきたんだよ!親からも学校からもはじかれて、苦しい思いいっぱいしてきたんだよ!頭悪いけどなあ、一生懸命自分で考えて出した結論なんだよ!高校なんか行かなくても、ちゃんと大学行って、ちゃんとした会社に就職して、幸せな家庭を築けるんだよ!中学生のくせに粋がってサボってるようなお前に何がわかるんだよ!」
それは、少年に向けてというよりは、家族や学校、友達に向けて言っているような台詞だった。健治は、目頭に熱いものを感じた。少年には見せまいと、振り向いてまた立ち去ろうとした。
「あんたはいいよな!高校生なんだから!」
今度は少年の叫び声が聞こえた。
「俺はまだ中学生なんだよ!義務教育なんだよ!辞めたくても、どんなに苦しくても、辞めるなんてできないんだよ!親からも親戚からも、一流一流って物心つく前から散々言われて、やりたいこともできない、サッカー部に入りたくても入らせてくれない。だから体育の授業サボって教室から帽子盗んだんだよ!帽子だけでも欲しかったんだよ!そんなことがばれたら俺親に殺されるかもしれないんだよ!もう学校になんか戻れないよ!」
少年は一息で言い切った。健治はそれを背中で聞いていた。こいつを放っておいたらいけないのではないか。そんな気がした。このまま一人にしてしまうと、明日にはこいつはこの世には居ないのではないか。そんな気さえした。そして気がつくと、健治は少年に歩み寄っていた。
「お前、ちょっと頭休めろ。俺が一緒にどこか行ってやるよ。」
苦し紛れの提案だった。
2人は駅に着いた。
「あのな、俺の経験上、頭を休めるにはどこか遠くへ行くのが一番だ。お前、今いくら持ってる?持ってる金で行ける一番遠くへ行こうぜ。」
健治は得意気に言った。しかし、ずっと俯いていた少年は更に俯いて首を横に振った。
「あ、財布持ってないの?これだから中学生は。」
ますます得意気になって財布をお尻のポケットから取り出し、中身を確認した。その瞬間、健治は息を呑んだ。
「・・・1280円しかない・・・。」
泣きそうになる健治を見て、少年はフッと笑顔を見せた。初めての笑顔だった。
「お前、こういうときだけ笑うなよ。」
拗ねた涙目で少年を睨み、ぶつぶつと計算を始めた。
「えっと、2人分だから1人640円で、往復だから、片道320円・・・。30分くらいか・・・。」
そのくらいの電車は通学で使ってる人がたくさん居るな。と寂しく笑って少年を見ると、これ以上にないくらいに目をきらきらと輝かせていた。
「どうした?」
「・・・俺、電車乗るの初めて。」
少年は初めて少年らしい顔になった。散歩を待つ犬のようだった。
「あ、そう。これだから子供は。よし、俺が電車の乗り方教えてやるよ。」
健治はさっきの挽回をするように張り切りはじめた。手を高く挙げて、ついてこいと言った。少年ははずかしがりながらひょこひょこと付いて行った。
電車の中で2人は、笑って話をした。
決して悲しい過去の話はしなかった。
数少ない、けれどとても輝いている思い出を記憶の中から一生懸命探して話した。
探すことは困難ではあったが、2人にとって苦にはならなかった。自分が自分という存在を認めることができる出来事を話すことが楽しくてしかたがなかった。 30分程話した頃、320円先の駅に着いた。無人駅だった。駅の雰囲気とは正反対の真新しい自動改札には大きな文字で通り方が書いてあった。
駅を出るとすぐに小さな公園が見えた。2人の足は自然と公園に向かっていた。ベンチに座り、電車の中での会話の続きをした。一息ついた頃、健治の足元に小さめのサッカーボールが転がってきた。無言で見つめていると、向こうの方から小学生が叫んだ。
「すいませーん!取ってくださーい!」
そう言って健治に向かって走り始めた。健治は立ち上がりボールを軽やかにリフティングし、最後に強くポンと蹴り上げた。ボールは高く綺麗な放物線を描き、ちょうど小学生の足元に落ちた。
「ありがとうございまーす!」
小学生は軽く会釈をしてサッカーを再開した。
「お前、学校に戻れ。」
健治のいきなりの発言に、少年はえっと目を見開いた。
「帰ってちゃんと先生と帽子の持ち主にあやまれ。そんで親にはサッカーがしたいってはっきり言え。でもな、勉強はちゃんとしろ。サッカー始めて、勉強できなくなったら格好悪いだろ。サッカーにも悪いだろ。」
健治は優しい顔で少年に語りかけた。少年はうつむいて何も言わなかった。
「俺はお前にサッカーしてほしい。お前に好きなことをしてほしい。そしたらお前、電車乗るときみたいに目をキラキラさせてるんだろうなあ。その顔、見てる方がすげえ幸せになるよ。親にも見せてやれよ。お前、親のこと好きだろ。だから言われた通りに生活できたんだよ。」
少年の肩が少し震えていた。健治はそれを見てみぬふりをした。
「帰れ。もう電車乗れるだろ。」
そう言って320円を差し出すと、少年は俯いたまま受け取り、俯いたまま駅に向かって歩き始めた。
「ありがとう。」
小さくそう言った。それは殆ど風に流されてしまった。
少年が居なくなった公園で健治はサッカー少年達をじっと見つめていた。
今日の出来事は何だったんだろう。神様の悪戯だろうか。はたして自分は少年の中で今後どんな存在として扱われるのだろうか。そんなことはどうだっていい。ただ今日は天気が良くて、暑くて、乾いていて、少年が泣いて、ひとつ大きくなった。それだけだ。
健治はそんなことを考えていた。
「帰るか。」
少年の足跡を辿るように公園を後にし、駅へ向かった。
「1時間後かよ。」
昼間の田舎は電車の本数が少なかった。少年が乗った電車が出たばかりだった。
最後の320円で切符を買い、自動改札を通ってホームに出た。5つ並んだ椅子の一番奥に見覚えのある少年が居た。健治は一番手前に座った。
「640円。いつ返せばいいか聞くの忘れてたと思って。」
少年は空を見上げた。
「出世払いでいいよ。」
健治もそう言って空を見上げた。
2人は少しだけ声を出して笑った。 |