雨が頬を打ちつけ、雷が私の逃げ場を奪っていた。
目の前の惨状を目にしたショックからだろうか。それとも立ち上がる気力も尽きてしまったのだろうか。とにかく私は半分崩れた馬車の傍らで、力なく座り込んでいた。
父と母、それに兄弟は少しだけ離れたところに横たわっている。ただ、すでに私の知る姿では無くなっている。
そしてその横には、真っ黒な外套を羽織った5・6人の人達が立っていた。
「…バ……し」
何か言い争っているようだ。言葉は聞こえないが、ピリピリした空気が伝わってくる。
もっと聞こうと身を乗り出したときだった。何とか原型を保っていた馬車が、私の出した僅かな振動で崩壊してしまった。
なんとか潰されることはなかったが、力の入らない足で飛び出したせいだろう、前につんのめり、大きな水溜りに顔面から突っ込んでしまった。とたんに、今まで聞こえていた声が消える。
辺りは静まり返った。木々にぶつかる数百もの雫の音が、やけに大きく聞こえた。
ただそれも一瞬だった。
突然太い腕が、私の首を捉えそのまま持ち上げたのだ。すごい力だ。私の父もここまでは強く私を殴ることは出来なかった。
その時まじかで彼の顔を見た。醜悪で、ごつごつとした青白い顔。悪魔だ。
死ぬのかな。そう思った。それもいい、と霞んでいく意識の中で考えた時、突然その力から私は解放されてしまった。四つんばいになり激しく咳き込む私の前に、誰かが立った。
「何で助けるんだ」
「まだ子供でしょ」
「関係ない……姿を見られたんだぞ」
唸るように言った周りの人に、私の前にいる人物は口調を荒げた。
「彼女は対象になってないでしょ」
「うるさい! 俺は腹が減ったんだ。その娘を喰わせろ!」
「5人も食べたんだ。減ってる訳ないでしょう」
言い放った人物に、威勢のよかった方は小さく舌打ちして、恨めしそうに呟く。
「姿を見られた」
「だから連れて行く……責任は私が取るから」
クッと言うと私を殺そうとした悪魔は、仲間のところに歩み寄ると二、三言何か話すと、瞬きする間に地面に溶けて消えた。
「大丈夫?」
そう言って外套を私に被せたその人物の顔を見た。さっきの悪魔とは全く違う、美しい顔に微笑みを浮かべた悪魔を、私は目を細める。辺りが暗いせいか、やけにそれがまぶしく感じたのだ。
気力の限界だろうか、遠のく意識の中で私は呟いた。
「なんで私を助けたの?」
目を丸くする悪魔の顔が、見えた気がした。
頭に強い衝撃を受け、目を覚ますとやけに鋭い岩が突き出している天井がぼんやりと形を崩しながらも、視界に入った。
体の節々に鈍い痛みを感じながら、上半身を起こした。体の上にあった申し訳程度の薄い布が滑り落ちるが、大して気にしない。こんなものあってもなくても肌を突き刺すような寒さに変わりはない。
目を二三回擦っていびつな形をした部屋を見回した。
天井、床、壁のところどころに飛び出た岩があり、窓らしきものは遙か上にある。おそらく牢獄の類だろう。光らしきものはないのに、牢獄の中が青白いのが不思議だ。
その場で膝を抱え、私は寒さに対抗する。
しばらくその格好で俯いていたが、不意に声を掛けられ顔を上げた。
「体、痛まない?」
そこにはあの悪魔が、私と同じ目線に腰を下ろし、にこりと顔に笑みを浮かべていた。
「ここは……わかるよね。貴方が住んでたところの地下にあるの」
何も話さない私の代わりに、悪魔がすべて説明してくれた。
予想どうり、ここが牢獄だということも、自分が悪魔ということも。
何も話さない私を気遣ったのだろうか。不意に悪魔が強い口調で言った。
「大丈夫。私がきっとあなたを帰してあげるから」
「時間だ!」
どこからともなく木霊する野太い声急かされるように悪魔は立ち上がり、小さく手を振って壁の中に消えていった。
その悪魔の背中を私はにらみ続けていた。
一体誰が、助けて欲しいなんて頼んだのだ。私は間違いなく、あの雨の日に、誰よりもあの世界から消えること望んでいたのに。
うるさい。きたない。気に食わない。
そう言って家族に疎まれ始めたのはいつごろだろうか。
二番目に古い記憶からは、もう殴られていた。それからずっと、母からも父からも兄達からも口を開けば、うるさい。触れようとすれば、汚い。生まれてきた16年間、幸せと隣り合わせの空間なんてなかった。
そんなセカイに愛想なんて感じたことなんてない。そんな自分に嫌気がさした。
だからあの時、朦朧とする意識の中でも死を望んだ。そこにいても、望むものなんて何もないから。
「おはよう」
そんな声で私はうとうとしていた状態から、回帰する。声を聞けばわかったあの悪魔だ。
「どう? 元気になった?」
「答え」
ボソリと呟いた私に悪魔は首を傾げた。
「なんで私を助けたのって聞いてるの」
とても悪魔に尋ねる口調ではない。でもいい、こっちには取られて困るものはないのだ。大切なものも、命も、なにもない。そんな私の顔を見て、悪魔は笑った。
「そんなの考えなかった」
予想外の返事に、私は目を丸くした。可哀相とか、まだ幼いからとか、同情と偽善のような答えだと思っていたのだ。
「勝手に体が動いたというか……うん、そんな感じかな」
悪魔が無意識に人間を助ける? ありえない。一体何をたくらんでいるのだろうか。
「それにね、あなたの瞳が言ってたのよ。生きたいって」
なんともなしに言った悪魔に、激しい怒りがわいた。私は死を望んでいたのに。
握り締めた拳に気づかないのか、悪魔は続けて口を開く。
「でも、姿を見られたら、ここに連れてくるしかなかったの。でも安心して、ここにいる間はだれも貴方を襲ったりしないから」
だったら私はここから出て行く。
そう言いたかったが、ぐっとこらえた。口を開くと、何か別の言葉が出そうになるから。
「じゃあ、またね」
そう言って前回と同様に去っていく悪魔に、私は返事はしなかった。
その後も、悪魔は何度もここを訪れた。
ずっと話すのではなく、なにも話さないまま帰るときもある。
私は一言も話さなかった。でも彼女の姿を見るたび、安心するような、泣きたくなるようなそんな感覚に襲われるのだ。
多分、理由はわかっている。「またね」の言葉どおり、彼女が来ることが堪らなくうれしいのだ。
一度、皆で家から遠い草原に行ったことがある。
かくれんぼをしよう。そんな小さな弟の提案にのって、何もない草原でかくれんぼをした。鬼は私になった。
30数えて、後ろを振り返ると誰もいない。広い広い草原に、私はたった一人で立ち尽くしていたのだ。
暗くなっても一向に姿を現さない家族に、不安になり泣き始めた私を見つけたのは、家に雇われている家政婦だった。
「みんながいない」
そう言った私に家政婦は、帰りましょう。と手を握って答えた。
「だめ。お母さんが、鬼のままじゃ家に入れないって……」
「お嬢様は私を見つけたじゃありませんか。私が鬼ですから……帰りましょう」
私は安堵し、また少し泣いた。その時家政婦と見た、涙で滲む星は目を瞑っても見えてくる。
その帰り道、家政婦と約束したのだ。
「また、続きをしようよ」
「ええ、私が鬼ですから、きっとお嬢様を見つけ出しますから」
その「また」は叶わなかった。家政婦が解雇されたからだ。おそらく、私を迎えにいったのが原因なのだろう。
悪魔の「またね」は現実になる。だから、安心するのだろう。
その悪魔は、今も目の前にいる。
「それは?」
私が短く尋ねると、悪魔は独特の柔らかい微笑みを浮かべた。
「ここは寒いから、地上だったらこんなので温まるんでしょ」
そう言って彼女の手にあるカップを私の前に置いた。立ち上る湯気が、私の頭まで上っていきては、拡散し消えている。
「地上で作ってきたの」
「どうやって……」
「地上の人は親切だから」
と含み笑いした悪魔に、私は半ば呆れる。この悪魔は本当に悪魔なのだろうか。
彼女の容姿、性格などどれをとっても、不幸を振りまく悪魔のそれとは相容れない。むしろ人間からも、彼女の微笑みは眩しかった。
スープを一口飲む。胸を溶かすような温もりが、私を弱くしていく。
そう、彼女の人間らしさに私はいつの間にか惹かれていた。人間が人間を羨望し、尊敬するのと同じ感情を、この独房で二人で話すことで感じていたのだ。
「私は、人間が好き」
唐突に、悪魔が言った。
「綺麗なところだけじゃなくて、醜いところだけでもない。たまに愚かで、たまに何よりも優しい」
そんな感情を抱くことが、何よりも彼女を苦しめていることを私はその時初めて知った。
「そんな人間になりたいと思ってた……でも、私は悪魔だから」
そう、あなたは悪魔だから、人しか食べられないんだよね。
だからそんなに、やせているんでしょ。自分が大好きなものを食べたくないから。でも、食べてしまうんだよね。生きたいから。
「あの時、あなたの瞳は言っていたの。もうしんどいって。終わりにしたいって」
「じゃあなんで……」
そこまで言って、私は口を閉ざした。彼女は、見ていられなかったのだろうか。自分がなりたくてもなれない人間が、人間を辞めようとしているのが。
もしそうだとしたら、それは何よりも相手のことを想っている泣きたくなるほど純粋なおせっかいだ。
スープをもう一口飲むと、一番古い記憶の鍵が南京錠にささる。もう一口飲むと、それがはずれ、扉が開いた。
母がいた。静に私を見下ろしていた。私は母の胸に抱かれたまま、目を開く。母の頬に手をぶつけ、必死に何かを伝えようとしていた。
そんな私を見て、母は微笑む。小さく口が開く。その動きを見つめながら、赤ちゃんの私は光に包まれた。
涙が零れた。それは頬を伝い、数滴がスープの中に入る。
「……出来るかな。もう一回だけやり直せるかな」
16年間の涙の向こう側を、もう一度覗いてみたい。母の言葉も、今までの痛みも全部抱きしめながら、生きてみたい。
悪魔は頷いて、手を伸ばした。私はそれを掴んだ。
悪魔は羽根を広げ、壁を拳に叩きつけた。壁に穴が開き、そこから飛び出すと大きく飛翔する。
目指す場所はわかっている。真っ暗な闇の中、一点だけ、光が漏れていた。
周りからは恐ろしいうめき声や叫び声が聞こえている。
そしてそれは徐々に近づいていた。
光が近くなる。その時、悪魔のスピードががくんと下がった。
後ろを見て、固まった。何百もの腕が、悪魔の片方の羽根を掴んでいるのだ。
「あぁぁぁぁぁ!」
悪魔は叫び、力の限り体を右に捻る。
ブチッと鈍い音がし、光の中にそのまま突っ込み悪魔と私は光に飲み込まれた。
そこは道の上だった。左には小さな村が見える。右にはどこまでも続く緑の絨毯があった。
鈍いうめき声に、私ははっとして振り返った。そこには力なく弱りきっている悪魔の姿はない。私は慌てて太陽を遮った。
悪魔にとって、日差しは毒以外の何もものでもないのだ。
「怪我、ない?」
小さく手を伸ばして、悪魔はかすれる声で言った。
グッと歯を食いしばって、私は搾り出すように返事する。
「ない、よ」
「よかった」
ふっと微笑む悪魔を見て、溢れ出す感情をせき止められなくなってくる。
なんでそこまでするの? そう言いかけて、口を閉じた。今言わなければならないことはそんなことではないはずだ。
「ありが、とう」
「どういたしまして」
彼女の言葉はしばらく宙をさまよい、私の耳に届いた。
彼女はそうすることで人間に近づけると思っているのだろうか。悪魔から離れたら、人間になれると思うのだろうか。
ちがう。心の中で、首を横に振る。
きっとその理由は今の私にはわからない。だったら、これからわかればいい。生きていればふとしたきっかけで、わかる瞬間が来るかもしれない。
ふらふらと立ち上がり、悪魔は私に背を向けた。私が思わず付いていこうとすると、悪魔は微笑んだまま首を横に振り、彼女が行こうとする反対を指差した。
あなたの生きる道はあっちでしょう? 言わなくとも、わかった。
だったら私に何が出来るのか。もらばかりの私に、何が返せるか。
「ありがとう」
私は笑った。悪魔に見せる初めての笑顔。久しぶりの笑顔。少しぎこちないそれを見て悪魔は何を思っただろうか。
ゆっくりと遠ざかる悪魔に背を向け、歩き出した。涙が溢れ、乾いた地面を濡らす。
――お嬢様、やっと見つけました。
草原を駆け抜ける風が、そう耳元で囁いた。
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